第77話 「イレギュラーマッチ」
原初、我々の源流となる文化はこの地で多様性を見せ、やがて世界中に広がっていたのです。
ジョン・ドゥがそんなことを嘯いた時、ヘルドマンは静かにその背後で接待に勤めていた。能力的にはヘルドマンが圧倒しているものの、一応はその立場を意識しているのか大人しく彼の後をついていく。マリアも同様の動きを見せているが、いつも二人に同伴していたクリスの姿は見受けられなかった。
「――そんな蘊蓄を聞かせるためにわざわざ占領中の敵地に乗り込んできたんですか?」
表立ってことを荒立てることはないものの、明らかに詰まらなさそうにマリアが言葉を漏らす。ジョンは「いえいえ、これはとても大事なことですよ」と微笑みを貼り付けながら言葉を続けた。
「太陽の時代が滅びるきっかけになったのはここよりさらに東に向かった聖地サルエレムに造られた、神を目指した塔が原因でした。その塔の亜種がここにもあるといえばあなたたちも少しは私の薀蓄に興味を持ってくれると思います」
それは初耳だと、ヘルドマンとマリアの両名が息を飲んだ。
彼女たちの認識では、太陽の時代は度重なる戦乱で滅んでいったとされていたからだ。何かしらの直接的な要因が存在していたなど、長い人生で聞いたことがなかったのである。
「あ、いえ誤解を招く表現でした。戦乱で一つの時代が滅んだのは事実です。ただ私が言いたいのは戦乱の原因がその塔にあるということなんですよ。塔そのものが世界を滅ぼしたわけではなりません」
言って、ジョンはさらに足を進める。
彼が向かっていたのはエリムが繋がれている地下牢とはまた別の地下に向かう階段だった。聖教会で調査を行ったものの、古ぼけた遺跡が少しばかり残されていると蔑ろにされていた部分である。丁度宮殿の真下に存在するそこにジョンが向かいたいと告げた時は、ヘルドマンもマリアもいい顔はしなかった。
だが太陽の時代滅亡に繋がる何かがあると聞かされた時、両名はジョンがその事実を知っていることを不可思議に思いつつも、それでも湧いてくる感情は間違いなく好奇心だとして、大人しく後を追ったのである。
「さて、あなたたちはこのちょっとした空間を調査して取るに足らない遺跡だと判断したようですね。まあそれは仕方のないことです。ここから先はまさしく月の時代の恩寵を受けた者しか通れないようになっていますから」
たどり着いた場所はやはりと言うべきか、ヘルドマンとマリアが一度は足を踏み入れた場所だった。最初に発見された時、舐めるようにとは言わないがそれなりに労力をもって調査した場所である。
「ジョン、あなたの口ぶりなら、あなたは月の恩寵とやらを受けた存在のようですが、月の恩寵とはいったい何を指すのです?」
次に疑問を口にしたのはヘルドマンだった。彼女は黒の愚者たる自分が月の恩寵を受けていなくて、誰が恩寵を受けられるのかと、懐疑的な視線をジョンに送っている。
ジョンは疑問ももっともです、と目を細めて笑った。
「恩寵そのものは私も受けていませんよ。ただ、聖教会の本拠から持ち出してきたこれが恩寵を受けた聖遺物というだけです」
音はしなかった。
ジョンがそれを取り出したことによる世界に与えた影響など、ヘルドマンとマリアの視界に些細な変化を及ぼしたくらいだ。
しかしながら、聖教会最強たる戦力を有する二人がそれを目にした時、彼女たちの体はその場の空間に縫い付けられたかのように動かなくなっていた。
理由は明快にして単純。
ジョンが手にしていた聖遺物とやらが、手のひら大の胎児のミイラが収められた翡翠の箱だったからだ。
性別も分からない状態のそれは、手足を折りたたんだ状態で綿に包まれている。
「……趣味が悪いですよ。ジョン。倫理観どうなってるんですか?」
疑問の声を上げたのはマリアだった。彼女は露骨に表情を顰めて口を開いている。対するジョンもそれまでの飄々とした態度ではなく、至極困り果てたような声色でマリアに応えた。
「——あなたたちの反応は極まともだと思います。事実私もこれが良いものだとは決して思いません。ですがこの先へと進むには必要なものなのです」
いつからこれが聖遺物として聖教会に残されていたのかはわからない、とジョンは言葉を付け加え、さらに足を進める。彼が向かったのは特に装飾もなにもない、石組みの壁の前。
「このミイラが誰のものかは判明しておりませんが、聖遺物としての効用は本当のようです。ほら、見て下さい」
ミイラを手にしたジョンが壁に触れる。すると折り重なっていた顔ほどの大きさの石たちがまるで砂のように崩れ落ちていく。そこに来て始めて、ヘルドマンとマリアは壁が偽装であったことに気がついた。
「まさかこんなことがあるなんて」
驚嘆にくれるヘルドマンが崩れた壁の向こう側を見る。魔の力の濃度が薄いのか、内部をはっきりと見通すことはできないが、酷く無機質な白い壁と天井に覆われた通路が存在していた。
「——この世界は欺瞞だらけです。表層はそれらしいテクスチャに覆われていますが、その実、ちょっとめくってしまえばこうして裏側が顔を覗かせる。そしてこんな幼稚で稚拙な世界をつくりあげた者こそ、あなたたちのよく知る——」
ジョンの言葉はそこまでだった。
恐らくその空間で「それ」を知覚できたのはヘルドマンだけ。吸血鬼という、人よりも遙かに高次元の肉体を有している彼女だからこそ反応できた絶技。
彼女はジョンの首元を鷲づかみにすると、力の限り後方へと放り投げていた。
「——ヘルドマン! 下!」
物体を投げきった後のフォロースルーの姿勢のまま、ヘルドマンは身をよじる。遅れて知覚したマリアが警告したとおり、真下から迫ってきたのは白い手から繰り出される掌底。
ヘルドマンの髪を数本攫っていったそれは、風圧だけで遺跡の天井を抉り抜いていた。
「……邪魔をしないでください。黒の愚者。この地に足を踏み入れるだけならば見逃していましたが、『それ』を持っているというのならば話は別です。誰でもあり誰でもない、名無しの男よ。その方はお前の薄汚い野望に使われていいものではない。今すぐ返して貰う」
ヘルドマンがその場から飛び退いたのと同時、下手人は静かにジョンを睨み付けていた。白い仮面で顔を隠したそれはかろうじて声だけが女のものだと判別できた。
「マリア、こいつは肉弾戦だけでどうこうできる存在ではありません。ジョンを頼みます」
「癪ですが得物なしで相手できるレベルではありませんね。わかりました。でも今だけですよ。こんな共闘関係は」
女の狙いがジョンの持つ聖遺物であると看破したヘルドマンは直ぐさま黒い魔の力を周囲に展開した。そしてそれぞれが漆黒の螺旋の槍を形取っていく。
対する女は無手のまま、静かに腰を落とし身構えた。
巨大な鉄槌を持ってきていないマリアは投げられたジョンの襟元を掴み取って静かに後退する。
三者三様に動きを見せた中、先手を取ったのはヘルドマンだった。
「どこからここに忍び込んだのかはしりませんが、不法侵入の代償は払って頂きますよ!」
伸張した螺旋の槍が女に殺到する。一本一本が間違いなく致死の黒槍だったが、女は至極落ち着いた調子でそれらの隙間を跳躍していった。人間離れしたその身体能力に、やはり吸血鬼か、とヘルドマンは舌打ちを一つ。
「どいてください。黒の愚者。私の目的はあの男の持つ赤子だけです」
「七色の愚者相手に随分余裕ですこと!」
女の掌底がヘルドマンの眼前に繰り出される。ヘルドマンは自身の魔の力を収束させることで即席の盾とした。白い拳と黒い壁がぶつかり合い、周囲に恐るべき風圧を届ける。
「すばしっこいだけじゃ私は突破できませんよ!」
いつか対アルテ戦で見せた、二匹の蜘蛛がヘルドマンの影から生まれた。雄牛ほどもある巨大な蜘蛛が女を追い始める。軽やかに遺跡内を飛び回る女だったが、人とは違う身体構造をした黒い化け物相手ではいささか分が悪いようで、徐々にその姿を捉えられ始める。
「——獣には獣をぶつける。あの子にティンダロスの猟犬のコピーを借りておいて正解だったかもしれません」
だが女は狼狽えない。彼女もまた、自身の影からオオカミのような生き物を呼び出して、大蜘蛛にぶつけ始めたのだ。眼のない黒づくめの猟犬二匹が、大蜘蛛へと牙を剥き出しに襲いかかる。
「独学でこの使い魔の術式に辿り着いた才能に感服しますよ。ヘルドマン。ですがまだ一手足りませんね」
蜘蛛が排除されたことで、ヘルドマンへの道が開けてしまった。女はその道を最短かつ最速で通り抜けるべくひたすら前へと跳ぶ。対するヘルドマンは表情を歪めながら力の限り後方に跳んだ。接近戦では分が悪いと理解しているだけに、何とか距離を取るべく動いていたのだ。
槍の迎撃も擦り抜けられる中、ヘルドマンは再び魔の力を収束させて盾を形成した。
女の拳が三度繰り出される。
だが今度は拮抗しない。間違いなく女の拳の方が盾をヘルドマンの方へと押しやっていた。
驚愕に表情を染める中、ヘルドマンはもう一度後方へと大きく跳んだ。一度追いつかれたのならさらに離れるまでと、愚者らしからぬ安全牌を選んだのだ。
しかしながらそれがヘルドマンの強さでもあった。
「——っ!」
ヘルドマンに再び追いすがろうとした女が始めて狼狽えた。彼女はステップを踏もうとした足が全く動かない事に気がついて視線をそちらに走らせる。
見れば踏み込んだ足が床へと固定されている。
何故か、と目をこらしてみてみれば靴裏が氷によって床に磔にされていたのだ。
ヘルドマンが青の愚者の心臓を食らうことで手に入れた権能がここにきて初めて行使されていた。
「実は私、こういった不意打ちが大好きなんですよ!」
間髪入れず黒槍が撃ち出された。女の顔面に叩き込まれたそれは間一髪のところで身をよじられかわされたものの、被っていた仮面を砕き抜いていた。白い破片が飛び散る中、女の素顔が世界に晒される。
「——お前は赤の愚者? いや、違う。眷属の一匹か」
血のように赤い瞳と、翻る銀髪を見てヘルドマンが眼を細める。赤の魔の力こそ見受けられないものの、姿形が仇敵そのものであることを知って、ヘルドマンは仄暗い憎悪を滲ませて口を開いた。
「例えお前が赤の愚者でなくとも、その姿形を私の前に晒した以上、惨たらしく死ね」
冷気が足先から広がり、女の下半身を完全に固着させた。四方は黒槍に囲まれ、女の全身を貫く時を今か今かと待っている。
「……強くなられましたね。ヘルドマン。いや、ユーリッヒ。力を制限されてそれとは畏れいります」
「黙れ。お前と話すことなど何もない。私はこの世界でその声と姿が一番嫌いなんだ」
ヘルドマンの言葉を受けて、女はくしゃりと笑みを零した。泣き笑いのような微笑みを見て、二人から距離を取っていたマリアは何か嫌な予感を感じ取る。
「主人からはあなたのことは静観していろと命令されていましたが、あの聖遺物のことだけはどうしても許すことができないのです。ですからごめんなさい。少し痛くしますよ、『お嬢様』」
何を、とヘルドマンが言葉を漏らすよりも先、動いたのはマリアだった。
彼女はありったけの声量を込めて、ヘルドマンに叫んでいた。
「私が盾になりますから、この空間を全て凍らせなさい! ヘルドマン!」
そこから先は条件反射のようなものだった。相性が悪いとは言え、互いの実力をある程度は認め合っているヘルドマンとマリアだからこそ取ることのできた連携。
ヘルドマンが自身の持つ黒い魔の力を全て冷気に変換したのと同時、マリアはジョンを庇うように冷気の壁の前に立ちはだかった。マリアの身体は一瞬で冷凍され氷の像と化すが、後方のジョンだけはかろうじて生命活動を維持することができていた。
対するヘルドマンは冷気をおもいっきり上空へと跳ね上げることで、遺跡の天井をぶち抜いて地上まで到達する巨大な氷柱を生み出していた。その氷柱には自身と女を閉じ込めた上でだ。
つまるところ、強制的に己と女を遺跡から地上へと叩き出すことに成功していた。
そしてその目論見は正解だった。
「——まさか味方を巻き込んでこんなことをするなんて。ですがその判断力、正解です。あの狭い空間なら吸血鬼であるあなたと不死のシスターは殺せなくとも、人間であるあの男は殺せたのに」
氷柱の中心ではヘルドマンと女がにらみ合っていた。女は全身の至る所から血を吹き出し、荒い息を零している。対するヘルドマンも、全身に突き刺さった赤い棘を忌々しそうに視界の端で捉えていた。
ヘルドマンの身体を冒していたのは、女の体内から撃ち出された血液だった。
ただ吸血鬼たるヘルドマンからすれば、痛みこそはあるものの重症とは程遠い、見た目だけの負傷だったが。
「久しぶりですよ、私がここまでの手傷を負ったのは。認めたくないですが流石はあの女の眷属と言うべきか」
どくどくと血を流しながらも、ヘルドマンは女にとどめを刺すべく歩みを勧める。非常に短い攻防ではあったが、彼女は誰よりも眼前の女の厄介さを理解していた。ここで始末せねば面倒なことになるともう一度黒の槍を形作る。
「ですがここで終わりにしましょう。敢闘賞です。お疲れ様でした」
ヘルドマンの赤い瞳と、女の赤い瞳がぶつかり合った。同じ色の瞳だが、瞳を染める感情は対称的である。憎悪と諦観がそれぞれ相手を射貫き通そうとする。
——最初に視線を反らしたのは女だった。
彼女はふっ、と目線を下へ向けるとヘルドマンではない誰かに言葉を漏らす。
「ごめんなさいβ。格好つけて先走りましたが、思っていた以上に『お嬢様』が強くなられていて」
「だから言ったんだよ。一人で『お嬢様』の相手は厳しいって」
ぴたり、とヘルドマンの動きが止まる。
まさか、と振り返るまでもなく作り出していた黒槍を背後に撃ち出した。しかしながら手応えは有るはずもなく、いつの間にか半身を凍りづけにしていた女の背後にそいつはいた。
「時間切れだα。そろそろお前も人間になっちまう。あの子のミイラは今日はお預けだ」
新たな敵は追い詰めていた女と同じ顔をしていた。違うのは口調と髪型。血を流す女が長髪ならば、そんな女を支える人影は短髪だった。
「もう一匹いたんですね!」
「悪いが今日はさよならだ。ていうかもうしばらくは会わずにすむといいな」
新たに現れた女——βが腕を振るう。すると三人を覆っていた氷柱がいとも簡単に砕け散ってしまった。宮殿の一角に氷塊が降り注ぐ中、手負いのαを抱えたβが軽やかに地面に着地する。
咄嗟のことで判断が遅れたヘルドマンが続いて降りた立った時には、ベータは跳躍の予備動作に入っていた。
「待ちなさい!」
「待てないよ!」
αを抱えたままβが足に力をいれた。自身はもう間に合わないと判断したヘルドマンが黒槍を射出する。が、それすらもβは腕を振るうことで霧散させてしまった。
もう届かない——そんな感情がヘルドマンの脳裏にちらついたその時、氷塊が崩れていく音に混じって、何かが空気を切り裂いていく音がした。
何事か、と素早く視線を巡らせたのはヘルドマンとβ。
そして音の正体をいの一番に理解したのはβだった。
ヘルドマンの横を打ち抜いていった短剣がβの眼前に迫る。
それを首を傾けることで回避したβは怒りに顔を滲ませて、ヘルドマンの背後を睨み付けた。彼女は犬歯を剥き出しにして怒鳴りつけた。
「っこんの恩知らずが! ぶち殺してやる!」
「やめてβ! 落ち着いて!」
負傷したαが地に下ろされる。βは黒い影を自身の両腕に纏わり付かせると、ヘルドマンの背後から走り寄ってきた人影に殺意をぶつける。
「狂人アルテがあああああああああああああああ!!」
そう、βに短剣を投げつけたのは黄金剣を携えたアルテだった。
01/
レイチェルから水を貰って飲み干したと思ったら、窓の外がとんでもないことになっていたでござる。
というわけで療養中のアルテです。
本名はちょっと違うんだけどね。
まあ今はそんなことどうでも良い。
重要なのは宮殿の外に馬鹿でかい氷柱ができていたということである。急速な冷気の所為か、今にも窓に嵌められたガラスが砕けそうだし。
「——不味い。とんでもない魔の力が渦巻いている」
俺の隣に立っていたレイチェルが冷や汗を垂らしながらぽつりと言葉を零した。強大すぎる魔の力に当てられているのか、どことなく顔色が悪い。ただ知覚ができるようになった俺とは違って、魔の力そのものを生命維持に使用している月の民からすれば、あの氷柱は正気でいられない光景なのだろう。
「アルテ、逃げるぞ。ここにいたら何れ凍り付く」
レイチェルの言うとおりガラスのヒビの隙間から既に冷気が流れ込み始めている。石造りの壁が冷気に触れた側から嫌な音を立てているのを見て、俺は四の五の言わずに同意した。
だが一人で歩けない以上、レイチェルに肩を貸して貰う必要があるわけで。
誰かに支えて貰わないといけないわけで、
呪いの後遺症があるわけで
…………あれれ?
「おい、何か普通に立てたぞ」
そう。
レイチェルに向かって手を伸ばした反動からか、そのままの勢いで俺は立ち上がっていた。
いつか感じていた鈍い四肢の感覚が鋭敏になっているような気がもする。
「おい、普通に手が動いたぞ」
試しに壁に立てかけてあった黄金剣を持とうとしたら、普通に握りしめることもできたし持ち上げることもできた。何なら試しに振るってみても問題なしだ。
四肢の不自由を抱えていたことが嘘のように軽やかに動き回ることができる。
『——申し訳ありません。ただいまエンディミオンの人形から意識を引き戻してきました。主様が動かれる気配があったためこれより義手の操作に専念させて頂きます』
唯一少しだけ遅れて義手が動き始める。彼女もまた、エンディミオンのメイド人形を操作していたのでこちらの義手を動かすまでにブランクがあったようだ。
『理由はわかりませんが、主様の四肢が元に戻られたようで何よりです。ところでどうやら外が騒がしいようですね。今から出られますか?』
義手の問いかけに俺は首肯で返した。何が起こっているのかてんでさっぱりわからないが、レイチェルを連れて安全圏に逃げ出すのが得策だろう。部屋にいると窓から伝わる冷気で凍え死にしかねないので、ここに留まるという選択肢だけはありえない。
『承知いたしました。以後、主様のサポートをさせて頂きます』
じゃあ部屋からでるか、と剣を担ぎ上げたその瞬間、どんっ、と背中に衝撃を感じた。
何事かと振り返ればいつの間にかレイチェルが俺の背中側から抱きついていた。
え? レイチェルさん何してるん?
「——すまない、いくな、いかないでくれ。あそこは駄目だ、私のせいで——」
ぎゅうっ、と力が込められていく。
まったく事態を飲み込めていない俺はどんな言葉を彼女に返して良いのかわからなかった。だがレイチェルを畏れさせる何かがあることは確かなようだ。
まあ、あの氷柱に近づいたらマジのマジで数分で死に至りそうだからそちらには向かわないけれども。普通に宮殿の反対側に避難しようと考えているけれども。
ただここで黙って歩みを進めるのも間違っている気がして、俺は抱擁を静かに解いてレイチェルに向き直った。
「心配はいらない。死ぬつもりはない」
だから一緒に速く逃げよう?
俺はそう言ったつもりだった。だが久しぶりすぎて忘れていた。
この義手は大変好戦的で。
俺の思ったことと真逆のことを行動に移してしまうことがままあると。
『いきましょう。主様』
義手に引っ張られる。レイチェルの涙を溜めた瞳が呆然と俺を見ていた。
視界がぶれる。
ガラスが割れた。
足下が消失している。
いつの間にか俺は空を飛んでいた。
窓から飛び出して、氷柱の根元へとフライしていた。
——うそん。
02/
身体が軽い。
四六時中感じていた倦怠感など最早幻覚だ。
手にした黄金剣を短髪の吸血鬼——βに向けてみれば驚くほど自然と臨戦体勢を整えることができた。
「——何故あなたがここにいるのかは問いません。ですがその様子ですと手を貸して頂けると理解してもいいのですね?」
隣に立つヘルドマンの足下には少なくない量の血だまりができている。だが傷口そのものは塞がっているのか、そこにそれ以上の痛手の証が増えている様子はない。
流石は黒の愚者と言うべきか、いやこの黒の愚者に傷を負わせた時点でこの吸血鬼の双子はヤバい相手だと畏れるべきか。
「私は近接戦が得意ではありません。無差別に周囲を破壊すればあの二人を殺すことはできますが、聖教会の兵士やレストリアブールの民が周囲に点在している以上、そこまで大出力の魔の力の行使はできないと考えて下さい」
ならやはり俺が行くべきなのだろうと改めてβを見据える。
βも怒り心頭といった調子でこちらに殺意を飛ばしてきていた。
「本当にお前という奴はとことん俺たちの癪に障ることしかしないんだな。いいよ、もう殺してやる。絶対に殺してやる。こちらの慈悲を踏みにじったのはお前だ。五臓六腑を引き裂いてやるよ」
正直何をそんなに怒られているのか俺には理由がわからない。や、顔に短剣を投げつけたのは謝るけれども、あれは血まみれのヘルドマンを見て咄嗟に身体が動いたのが原因で、そもそも絶対に避けられるとある意味信頼して投げたものだし、……いやそれは全面的に俺が悪いか。
とにもかくにも、ヘルドマンが二人を追う理由もあるのだろうし、ここは彼女と協力するべきだろう。
久方ぶりの戦闘にしては歯ごたえのありすぎる相手だが、今回はヘルドマンの手助けもある。精々、黒の愚者の実力に甘えて死なない程度に頑張れば良い。
「——来い、吸血鬼」
こちとら文字通り百人力なのである。




