第76話 「暗躍」
人物相関図のご要望を頂きましたのでせこせこつくっています。もう暫くお待ち下さい。
というわけでゲリラ的に投稿です。
深夜の授業を終え、軽食でもつまもうとふらついていたヘインは廊下である人物に呼び止められていた。傲慢不遜な男ではあるが、人並みの社会常識を携えている彼は、決して快くではないもののそれなりの表情を取り繕って、自身を呼び止めた人物に向き直る。
「ヘイン殿下。お疲れのところお許しください。ロマリアーナから伝令が届いています」
ヴォルフガングは額を汗で濡らしながらヘインに向き直っていた。学内では平等な身分である彼らだが、本国に戻ってみれば王族と士官候補生という立場の違いがある。それを弁えているからこそ、ヴォルフガングは平伏こそしないものの腰をかがめヘインの前に立っていた。
「――ここでは人目がある。魔導力学科の談話室に来い。あそこならばお前のつまらん話も聞くに耐えるだろう」
ギリギリ臣下の礼を取る学友を見て、ヘインは機転をきかせて見せた。ヴォルフガングもそれを感じ取ったのか、特に何かを言うわけでもなく黙ってヘインの後についていく。
談話室ではイルミが一人で本のページをめくっていた。
「珍しいな。お前一人か。他の有象無象はどうした?」
「みんななら食堂に行った。あなたは誘われなかったの?」
「受けていた課業が違ったのだ。そんなお前こそ何故一人でここにいる」
「食事を取るより本を読みたかった。ただそれだけよ」
イルミのことを不敬だとヴォルフガングは感じなかった。これが二人の距離感であり、ヘインが努力して手に入れてきたここエンディミオンでの関係だったからだ。だが今この瞬間だけはヴォルフガングはその間柄と同じでいることが出来ない。
「殿下、できれば人払いをお願いします」
ヴォルフガングの要請は臣下としては真っ当なものだった。火急の伝令を本国から預かっている以上、それを無闇矢鱈に第三者に伝えることはありえない。だからこそヘインもそれに容易く応じるだろうと彼は踏んでいたのだが、その読みは敢え無く外れてしまった。
「いや、こいつは我々より先にここで為すべきことを為していたのだ。なら無理に追い出す必要もあるまい」
「ならば場所を変えましょう」
「いや、ここ以外にこの時間帯、人がいないところはないだろう。それに俺とお前で辺りをふらついていたらいらぬ邪推をする奴らが必ず出てくる。良い、許す。ここで話せ」
「それは出来ません。この少女がここにいる限りそれは不可能です」
苛立たしげにヘインが口を開く。
「くどいぞ。それに誰も彼でも許すわけではない。こいつはこう見えて非常に口が硬く、自分に関係のないことはとことん興味のない女だ。いたところで家具が一つ増えだだけに過ぎん」
随分な言いようではあったが、イルミは眉ひとつ動かさずに無視していた。既に二人から興味を失っているのか、視線は本のページに固定されており、聞き耳を立てている様子もない。
ヴォルフガングもイルミの普段の姿を知っているだけにヘインへの反論を咄嗟に思いつくことができなかった。
だからこそ彼は観念したように静かに口を開いていく。
「わかりました。事態は急を要するので仕方がありません。ですがイルミ殿、どうかここで聞いたことは口外しないでいただきたい」
返答はなかった。代わりにページを捲る音だけが返ってくる。
「では早速……。――本国からつい先程我々に命令が下りました。この命令はエンディミオンに在学している一定以上の階級についている兵士全てに通達されております」
命令――と耳にしたヘインの表情が険しさを増す。まず間違いなくこちらに降りかかるであろう面倒ごとのことを思えば、当然の反応だった。
「もともとエンディミオンとロマリアーナの間柄は随分と危ういものでした。この地の研究成果を独占したいエンディミオンと、その成果を少しでも享受したいロマリアーナ。軋轢があるのは当然のことです」
そのようなこと百も承知であるとヘインは続きを促した。ヴォルフガングはこれ以上の回りくどさは得策ではないと判断し、抱えていた本題を吐き出し始めた。
「ロマリアーナがある研究成果を狙って強制介入の動きを取り始めています。私たちはそれに伴うエンディミオン側の妨害の露払いを命じられました」
まさか、とヘインが言葉を零すよりも先にヴォルフガングがその理由如何を告げる。
「今までエンディミオンとの協調路線を推されていた第二王子が病に伏せられたのです。変わって強硬派の第三王子が外交体制の実権を握り始めました。恐らく此度の動きはそれが原因だと考えられます」
「――兄者は、長兄は何をしている。こういう時に楔を打ち込むのが奴の役割だろうに」
それが――とヴォルフガングは言葉を濁した。
「第一王子は黄色の愚者と何かしらを共謀されているらしく、此度の政治紛争には一切の興味を示されていないのです。第三王子は間違いなくそんな第一王子の現状を見た上で動き始めました」
ままならんな、とヘインは天を仰ぎ見た。それは絶望や諦観というよりも、呆れの感情が大きすぎて発散の仕方を見失っている仕草だった。
「――何故それを俺に伝えた? 俺のような下から数えたら早い皇位継承者など胡麻を擦ってもどうにもならんぞ。本国に帰参すれば間違いなく兄共に消されるだろうしな」
ヘインのため息交じりの言葉に、ヴォルフガングは縋るように返す。
「露払いの対象にあなた様が含まれていたからです。私は本国ロマリアーナに忠誠を誓っておりますが、だからといって自ら血生臭い政争から身を引かれたあなたを手に掛けることは矜恃に関わります。それに――」
なんだ? とヘインが問いかける。すると余りにも真っ直ぐな瞳でヴォルフガングは訴えかけた。
「アルテミス殿に迷惑を掛けることは私が耐えられません。もしもロマリアーナが強硬路線に訴えた時、間違いなくあの人も傷つけてしまうでしょうから」
いよいよ呆れたのはヘインだった。彼は「それを普通、王族たる俺に言うか?」と怒るタイミングすら見失って口にする。嫌味というよりももう殆ど純粋な疑問だった。
「私が万事を投げ出してでも幸せにしたいと感じたこの世界でただ一人の人ゆえ。もちろん万事にはロマリアーナも含まれております」
「不敬罪及び反逆罪で兄たちに突き出してやろうか」
馬鹿らしくなったのか、ヘインは「もういい」と手を横に振った。そして彼は今後のことについて単刀直入に話を続ける。
「当てになるかわからんが本国にいる数少ない臣下に連絡を取ってみる。お前は変に周囲に悟られぬよう、命令には背くな。あのいけ好かない女教師については……まあ、それなりにやりようはあるだろう。いざとなれば何かしらのツテを使ってお前たちの汚れ仕事からは遠ざけてやる。奴は情の深い女だからな。魔導力学科のバカ共をけしかけたらきちんと相手をして変に巻き込まれるような状況からは離れて行く筈だ」
「かたじけない。やはりあなたは情に厚く王道を行かれる方だ」
ヴォルフガングの素直な賛辞に、ヘインは心底嫌悪感を滲ませた表情を出す。
「よせ。俺は誰かに賞賛されるのが嫌いだ。俺には必要以上に関わるな。なにせ俺と深く関わるとロクなことにならんからな。もう下らんことに心を砕くのは疲れたのだ」
会談はそこまで。
ヘインはヴォルフガングを見送ることなく談話室から追い出した。後に残されたのは相変わらず本に視線を走らせ続けるイルミとヘインだけ。
彼はイルミに声を掛けることもないまま、談話室に置かれていた菓子類を手にとっては口に運び出していた。
「――そこの籠に食堂のサンドイッチの残りがあるわ。それを食べなさい」
しばらくしてイルミが本に視線を固定したままヘインに語りかける。ヘインは「お前は何を聞いていた?」と苛立ちを見せながら答えた。
「関わるな、と言っただろう」
ヘインの言葉にイルミは溜息をつく。
「聞いてないわよ。興味ないから。あなたがクッキーを齧る音が耳障りなだけ。空腹なら音のしないサンドイッチを食べて」
ますますつまらん女だ、とヘインはクッキーを元に戻す。そして籠を手元に手繰り寄せると、イルミに告げられた通りサンドイッチを口にし始めた。
それから少し。
アズナやハンナたちが帰ってくるまで、二人は無言のまま談話室で思い思いの時間を過ごしていた。
01/
お前は絶対に外にでるな。
そう言われてクリスに押し込められたのはとある応接室。
エンディミオンにあるアルテミスとのリンクもすっぱりと切断されており、機敏には動くことのできない自分の体だけを抱えてのお留守番だ。
なんでも聖教会のお偉いさんが来ているらしく、ヘルドマンたちはそれの対応に忙しいらしい。同じ理由でレイチェルも俺とともに応接室からの外出を止められている。
ただ彼女は彼女で俺の義手をのんびりと手入れしているあたり、時間は有効に使うことができているようだ。
「ヘルドマンとマリアの総出での出迎えだからな。おそらく聖教会のトップが来ているのだろう」
やることもないので、ぼんやりとレイチェルの作業風景を眺めていたら彼女がぽつりと口を開いた。多分側から見て、相当俺が手持ち無沙汰に見えたのだろう。彼女はそのまま話し相手を続けてくれるようだった。
「――ちなみにボクはこの部屋から外出を禁じられていないぞ。そこだけは勘違いしないでくれ。ボクは君の見張り役を仰せつかったんだ。どうせ君のことだ。聖教会のトップと鉢合わせなんてロクなことにならないよ」
なんてことだ。俺と同じ理由で閉じ込められていると思っていたのだが、それは俺の思い込みだったようだ。
ミソッカス同盟が一瞬で崩壊してしまった。でもよくよく考えたらヘルドマンの中での信頼の置ける人間を順位づけしていったらダントツ一位がクリスで、その次くらいにはイルミとレイチェルが来ているのかもしれない。
意外とレイチェルたちと話している風景をよく見かけるし、いろいろやらかしている俺よりかはまだ安パイなのだろう。
「そういえばイルミは元気にしているか? もう数ヶ月近く私はその姿を見ていないからな。少し心配だ」
素直にこの前仮初めの体を殺されかけました、と言ってやろうかと思ったが、イルミに後からバレたら怖いので大人しく首肯しておく。ついでに簡単な近況を添えて。
「彼女なりの魔の力を扱う道が見つかったようだ。あれだけの保有量があるのだから相当な戦力になるだろう」
「おいおいそれ絶対に本人に言うなよ。あの子はもっと君に人間として見てもらいたいんだから」
怒られたでござる。
でも確かに言い方が良くなかった。イルミ個人の戦闘力が上がって安心だね、と言いたかったんだけど、これじゃあ手駒が強くなったぜ、いえぃと捉えられても仕方ないか。
一応訂正しておこう。
「すまない。言い方が稚拙だった。俺は彼女がエンディミオンで自分の道を見つけられたことを喜んでいた」
おっ。
珍しく本音が話せた気がする。難儀な呪いだけれども、ごくたまに融通が利く時があるのだ。まあ、ここ一番の期待は絶対に裏切ってくれるけれども。
「そっか。ボクの方こそ許せ。昔の君のイメージで語ってしまっていた。君が彼女のことをどう考えているかなんて緑の愚者に挑んでくれた時からわかっていたのにな。やはりボクも男ぶってはいるが、根は女なのだろう。いつだって誰かさんの素直な言葉が欲しくなる」
ふふっと笑ってくれるレイチェルの表情が眩しい。彼女がいてくれたからこそ、当初はちょっと距離のあったイルミとの仲がまともになったような気もするし。
「――いつかその呪い、解けたらいいのに」
義手の整備が終わったのか、レイチェルが徐に近づいてきた。彼女は手慣れた様子でそれを俺の体に装着すると、「んっ」と伸びをしてちょっと出てくると告げていた。
「どこにいく」
「飲み物でも拝借してくるよ。暑くて喉が渇いた」
ん? 部屋はそれなりに涼しいが、義手の整備で体に熱がこもったのだろうか。確かにレイチェルの顔は赤らんでいるようにも見える。
「君はなにかいるか?」
「水でいい。あと軽食があると助かる」
そうか、とレイチェルは微笑みを一つこぼすと、軽やかな足取りで部屋を後にしていった。
くそう。いいなー。俺と違って外に出られて。
けれども今の身体ならば自由に出歩くことも出来ないし、結局は部屋に篭っても同じことか。
「……早い所動かせるようにしなければ」
握り込んだ左手はまだ薄皮一枚を隔てているような感覚が残っている。
この感覚が消失しない限り、以前のような立ち回りは不可能に近い。
だが、一歩ずつでも前に進んでいる実感はある。
イルミは進んで見せたのだから、次は俺の番だ。
「大丈夫。きっと元のようにしてみせる。そしたら君ともう一度――」
02/
相当やられているな、とレイチェルは宮殿の廊下を一人歩く。
月明かりが差し込む窓が続く回廊で彼女は赤く染まった頬に触れた。
「あーあ。見守るだけのつもりだったのに。これじゃあイルミに怒られるなー。でもあそこまで命賭けて守ってもらったら仕方がないか。うん、仕方がない。だって格好良かったし」
今でも昨日のことのように思い出されるのは、不屈の闘志で緑の愚者に挑んで見せた男の姿。絶対に勝てないとわかっていても、絶対に殺されると理解していても、何度も立ち上がっては刃を振るった思い人。
「太陽病仲間だからって、安易に近づきすぎたかな。サルエレムを追放されてから一人で生きてきたのがダメだったのかもしれない。たくっ、ここまで弱くなるなんて昔のボクが見たら殺されるな間違いなく」
でも悪くない気分だ、とレイチェルは笑う。
深い人間関係なんか生きる上での枷でしかないと考えていたのに、今となってはその枷こそが愛おしく心地よい。
「昔ではありえなかった。病持ちのボクに近づいてくる奴なんてろくな奴がいなかったからな」
ふと思い出されるのは故郷での原風景。忌み子として差別され、誰からも石を投げつけられた毎日。実の親ですら気に病んで、彼女を砂漠のど真ん中に棄てていったいつかの出来事。
魔導トーナメントだって、最初は食いつなぐために潜り込んだ競技。魔導人形に対する適性だけはあったからそれだけに縋って生きてきた。
「本当、感謝しているよ。アルテ。ボクの世界に美しい色彩を持ち込んだのは君だ」
赤の魔導人形と黒の魔導人形が絡み合い、黄金色の光の中を墜落死したのがつい昨日のように感じる。あの日受けた衝撃は物理的なものは勿論、もっと根本の彼女の精神的な何かを激しく揺さぶった。それはまさしく運命の瞬間。
「ありがとう。たとえ死してもあの日のことは忘れない――」
月明かりは半月のせいかそこまで世界中を照らしているわけではない。けれども彼女ははっきりと己の道筋を見ていた。自分の進むべき道の光を見つけていた。
だからこそ、光の外から手を伸ばす暗闇の手には気がつかなかった。
「――――――――――――っ!!」
声が出ない。何故なら不定形の黒い影が顔の下半分を完全に覆い隠していたから。
じたばたともがいてみれば万力というには生ぬるい圧倒的な力で四肢を押さえつけられ、宮殿の窓の外に引き摺り出されてしまう。
「――――――!!」
半端な月明かりがもう一度世界を照らす。レイチェルは宮殿の二階部分の屋根に押さえつけられていた。下手人は銀の髪を短く切り揃えた、赤い目をした女だった。
「おい、本当にこいつでいいのか? あのクリスという女は?」
「駄目です。彼女はユーリッヒの監視ですから下手に動かせません」
「こちら側の人手不足も深刻だな。こんな弱っちい奴を使わなければならないなんて」
頭上で交わされる会話を耳に入れながらも、レイチェルはなんとか状況打破の機会を探る。しかしながら相変わらず四肢はガッチリと女に固定されており、顔の下半分を覆い隠している影も健在だ。
「――おい、よく聞け。一度しか言わない。私たちの想定外の出来事が起きた。本来ならここにこれる筈のない奴が近づいてきている。明らかに異常だ。だからそいつと狂人が出会うことのないよう、しっかりと狂人の手綱を握っていろ。出会ったら非常に面倒なことになる」
短髪の女が早口で何かをまくし立てていた。およその意味は汲みとれるものの、事の細部は全くと言ってレイチェルは理解できない。
「β、駄目よ。それじゃあ脅しだわ。ごめんなさい、レイチェルさん。訳あって私たちはレストリアブールに来てからのあなたたちを見ていたものです。訳は今の時点では言えません。ですが、敵でないことだけは約束します」
次にレイチェルに話しかけてきたのはβと呼ばれた女と同じ顔をした、こちらは髪が長い女だった。彼女は自身を「αと覚えてください」と名乗った。
「グランディアから聖教会の頭がこちらに向かってきています。これは私たちにとって完全な想定外の事態で、色々と対策を考えたのですがあなたに狂人を押さえておいてもらうくらいしか思いつきませんでした。ですから、ヘルドマンたちにも命じられているように彼を絶対に部屋から出さないでもらいたいのです」
およそβと同じ言葉。だが二人が繰り返す「狂人と聖教会の長を出会わしてはいけない」という願いの重要さはなんとなく理解できた。ただ二人に対する信頼は一切なく、疑念と警戒心だけがどうしようもなく膨らんでいく。
多分その心持ちが瞳に現れていたのだろう。βが「反抗的な目をしやがって」と盛大に舌打ちを零した。
「ダメだα。こいつはこのままじゃ使えない。やっぱり説得じゃなくて最初からこうするべきだった。それに狂人にいらないことを吹き込まれたらたまったもんじゃない」
βの手が伸びてきてレイチェルの顎を鷲掴みにした。いつのまにか拘束していた影は消え失せていたが、如何なる原理か四肢にはまだ力が入らない。しかしながら口と喉だけは僅かばかりに言葉を紡ぐ動きができた。
「――おま、えらはなに、ものだ」
「いらぬ疑問を抱くよりも自分の身の心配をしたらどうだ?」
βの口が静かに開かれる。やはりというべきか、口内にあったのは異形の犬歯とぬらりと光る赤い舌。
レイチェルは本能からくる悪寒を感じ取って、小さな叫びをあげていた。
「ボクは太陽病だ! お前たち吸血鬼がその血を吸えば臓腑が焼けただれるぞ!」
レイチェルの抵抗の言葉にβの手が止まる。だが表情だけは何か愉快なものを見つけたかのように、賤しく歪んでいた。
「ああ、お前があれか。旧人類の生き残りの末裔なのか。欧州の領域では初めて見たな。基本的には紅海の周辺で細々と生きていた筈なんだが。――まあだからといって問題はない。マーキングを刻むだけなら支配者コードは発動しないからな」
何のことだ! と声を上げるよりも先に、βの牙がレイチェルの首に突き立てられていた。何かを吸われるというよりも、何かを流し込まれているような感触が肌の下を這いずり回り、言いようのない吐き気が全身を覆っていく。
「――簡易的な呪いだ。お前は私たちのことを決して誰にも話すことができないし、私たちが定めた簡単な命令に背くことができない。数十年しか効用はないが、今回は十分だ。レイチェル・クリムゾン、お前は狂人を決して部屋から出してはならない。これが命令だ」
βが手を離したその瞬間、レイチェルはどさりと宮殿の屋根に倒れこんだ。鉛でできた屋根瓦が熱を帯びた身体を冷やしていく。
「――ごめんなさい。でもこれくらいしないといけないんです。お詫びと言っては何ですがあなたにはこれを渡しておきます」
顔色を覗き込んでいたαが何かをレイチェルに握らせた。視線をそちらに何とか動かしてみれば、透明な液体の入った小瓶だった。
「アルテの治療薬です。彼の四肢の不備は私の刻んだ呪いの不備です。ここには不備の修復に必要な私の遺伝子情報が含まれていますから、何か飲み物に混ぜて飲ませれば数日で四肢は完全に回復するでしょう」
「絶対こいつは飲ませないぞ。大体遺伝子云々はこの時代の人間に言っても無駄だ。私が命令しといてやるよ。おい、この薬を狂人に飲ませろ」
何か自身を縛り上げる鎖のようなものが追加されたことにレイチェルは気がついた。
得体の知れない薬品など決して飲ませまいと決意していたのが、何としても飲ませなければという恐ろしい思考に誘導されていることに気がつく。
それは決して抗えない、レイチェルにはどうすることもできないギアス。
「ま、これだけ縛っておけば十分だろ。じゃあな、くれぐれも仕損じるなよ」
声はそれだけ。
気がつけば彼女は宮殿の廊下に一人立っていた。周囲に人影などなく、窓から引きずり出されるその瞬間よりも前に戻されたような錯覚を覚える。
だが首に走る鈍痛は間違いなく本物で、そこに手をやってみれば確かにそこには傷跡が刻まれていた。目には見えなくとも、身体の下に這いずり回っている不可視の鎖も感じることができた。
「――くそっ、ボクとしたことが」
ツナギを一番上まで着こなせば自然と傷跡が隠される。それはレイチェルの意図した行動ではなく無意識のうちに身体が動かされていた結果だ。これがあの吸血鬼の制約なのか、とレイチェルは空恐ろしいものを覚えた。
足取りがアルテのいる部屋に向かう。絶対に止めなければと思えば思うほど両の足が淀みなく動いてしまった。
冷や汗が吹き出しても、歩みを止めてくれるものは何もない。
言いようのない絶望と、飢餓にも似た孤独感を覚えながらレイチェルは歩を進める。
03/
にわかに外が騒がしくなっていきた。多分件の聖教会のお偉いさんが来たのかもしれない。ヘルドマンもクリスもその接待に忙しいだろうから、大変なものだ。
「……………………。」
多分、久方ぶりの一人ぼっち。
この世界に飛ばされた原初の頃に似た感覚
あの教団の牢屋で、イルミと出会うまで毎日抱いていた孤独。
だからこそ大して利口とは言えない俺の思考もそれなりの速度で回り始める。
ぼんやりと椅子に腰掛け、天井を仰ぎ見てみればここ数日の間、ノウレッジと探索している地下世界のことが思い出された。
最初は疑念だったものが確信に変わりつつある予感。俺が当たり前だと思っていた世界観が揺るがされつつある事実。
状況証拠的にどうしても認めなければならない不都合な真実。
自分がいた世界とは違うと、無邪気に楽しんでいた俺に冷や水をぶっかけてくる現実。
もう、認めてしまおう。
やはりこの世界は、俺が住んでいた世界とよく似た世界の上に成り立っている。
直接時間軸が繋がっているのかはわからない。でもいつか見た、遥か未来の地球を異星と思い込んでいた宇宙飛行士の主人公のように、俺も遥か未来の世界に迷い込んでいる可能性があるのは間違いない。
地下世界で見た遺構は、俺がテレビやインターネットで見聞きしたヨーロッパの街並みそのもので、そこにあるのはそんな街並みが滅んでしまったという証拠だけ。
「――でもだからといってどうしたらいい? 今更元の場所に帰ることができるのか」
不安や焦りにも似た感情が膨らんでいるのはわかる。
だが自分がこれからどうするべきなのか、という答えは全くもって見当がつかない。
元の世界に帰る方法など殊更不明だ。というか自分が戻りたがっているのかもわからない。向こうで二十年、こちらでおよそ三十年。気がつけばこちらで過ごした時間のほうが長くなってしまっている。
「どちらが俺の本物の人生なのかもわからないというのに」
ふと漏れていった言葉がおそらく俺の本心だ。元の世界の何でもない若者としての自分も
、この世界での吸血鬼ハンターとしての自分も間違いなく俺の人生ゆえの苦悩。
どちらが偽物だとか本物だとかそんな問題ではない。あちらに残してきたものも、こちらで積み上げてきたものも等しく愛おしいからこそ感じる葛藤。
けれども、ふと、思い起こされるのは、
「――イルミは、あの子は俺が元の世界に戻ったらどんな反応をするんだ?」
なぜか考え至ったのは彼女の顔だった。自分がβに殺されかけた時、涙ながらに名前を呼んでくれた彼女の表情。
それが酷くチラついてそれ以上思考が進まない。もともと頭が良くないことは自覚しているが、それ以上に思索の遅滞が足を引っ張る。
「――ダメだ。何も考えられない。せめて身体が動きさえすれば無心でいられるのに」
本当にタイミングが悪いと思う。四肢さえ自由ならば剣を振り続けていれば勝手に世界は進んでいってくれるのだ。俺みたいなちっぽけな存在が世界について考える必要などなくなる。
気がつけば誰かの足音が部屋に近づいていた。歩幅と体重から考えるにレイチェルが戻ってきたのかもしれない。
俺はちょうどいいと言わんばかりに全ての思考を放棄して、扉の方に身体を向けた。頼もしい旅の仲間を出迎えるためだ。彼女ともそれなりの付き合いになりつつある今、いつかはあの地下世界のことについて相談するのもありかもしれない。
扉が開かれる。
やはりと言うべきか、その向こう側から現れたのは赤毛のツナギがよく似合う彼女だった。
 




