第75話 「目にも映らないし触れない」
羊皮紙にペンを走らせるノウレッジはふと風が前髪を揺らすのを感じていた。彼がいたのは締め切られた執務室。風の入り込む隙間など本来存在しない。
ならば可能性として考えられるのは、部屋に一つしかない窓を誰かがあけたという至極つまらない結論のみで、ノウレッジは嘆息を一つ吐き出し、やれやれと窓に視線を向けた。
彼は手にしていたペンを静かに手放すと、旧来の友人に挨拶するかのような気楽さで口を開く。
「――やあ、久方ぶりだね。まさか君がここに遊びに来るなんて。てっきりサルエレムのジッグラドを探しに行ったものだと思っていたよ」
ノウレッジの視線の先、開け放たれた窓辺に腰掛けた人物は登り始めた朝日を背負って頭を振った。
「いや、これはスペアだよ。本体はあの日に魂から切り離して地下に閉じこめているし身体能力に特化した身体は神の柱の頂上で眠っている。――というかあなたがその処置を私に施したのだから、長い月の民生活で遂にボケたのかしら? ノウレッジ」
呆れた風に声を上げたのは凄惨なまでに美しい女だ。銀色に輝く髪にはくすみの類は一切見られず、一本一本が水晶のように輝いている。肌は生まれたての雪原のように白く透き通り、瞳は何よりも赤いあか。
周囲に漂う魔の力も同色の赤みを帯びており、その濃度は血よりも濃い。
「冗談ですよ。あの日のあなたの慟哭は昨日のことのように思い出されます。――まあ、なんとなくあたりはつけていたんですよ。そろそろ来る頃だな、と。創世の英雄がこの地に仮初めの肉体とはいえ足を踏み入れている以上、あなたがそれを放置することなんてあり得ない」
おもむろに立ち上がったノウレッジは書類の山たちを切り崩して、複数のフラスコが組み合わされた魔導具を露出させた。
「? 何だこれ?」
女は――いや、赤の愚者アリアダストリスはフラスコの集合体を目にして訝しげに目を細めた。ノウレッジは悪戯が成功した子供のようにうれしげに笑った。
「人類最高の知であるあなたをもってしても見抜けないものを作れた私はどんな称号を名乗れば良いのでしょうね?
いやはやこれはただのコーヒーメーカーですよ」
「馬鹿な。かつてのコーヒーベルトには人は住んでいないぞ。かろうじてアレクサンドロスよりも東側で少量の茶が生産されているだけだろう」
「ふっふっふ。それがですね、最近このエンディミオンの地下で分子保存された豆を発見したんですよ。如何です? もう何世紀ぶりかわからない一杯は?」
言って、ノウレッジは魔導具を操作した。如何なる原理で動作しているのかはノウレッジ本人しか理解し得ない。だが抽出口から注がれる液体は琥珀色と墨色の丁度中間で、独特の香りが執務室を満たしていった。
小さなガラス製のカップが二杯、ノウレッジの手に握られる。
「――どうぞ。昔話の前にこれで気持ちを落ち着けましょう」
「莫迦、昔話ではなく今の話をしにきたんだ。私は」
憎まれ口を叩きながらも、アリアダストリスは素直にカップを受け取った。形の良い鼻で香りを楽しんだ彼女は、カップの液体を一気に飲み干した。
「うまいな。エスプレッソだっけか」
「ええ。シチリアではバルでの一杯が何よりも重要視された文化でした。その残滓があの地下空間にはいくつか残されていたのです」
アリアダストリスとは対照的に、一口一口ちびちびとノウレッジはコーヒーを味わっていた。
相変わらずの猫舌だな、とアリアダストリスはカップをノウレッジの執務机に戻す。
「で、どうしてあなたがここを訪ねてきたのか予想はついています。大方妹さんの封印についてですね?」
ノウレッジの言葉にアリアダストリスは小さく肯定の意を返していた。彼女はそれに加えて、自身の言葉で疑問を口にしていく。
「ティンダロスの猟犬はきちんと機能していた。ならあれと同時に書き込んだ式が崩壊しているとは考えにくい。しかしながら彼女の記憶に齟齬がいくつか生じている。私がパラケルススの魔剣を作成したタイミングでは彼女の記憶はまだ真っ白だったはずだ。なのになぜ、あの子はそれを覚えている? まさかあなたが教えたのか?」
ノウレッジは静かに首を横に振った。
「いえ、彼女に関しては私はあれから何も手を加えていませんよ。彼女がここにきてからと言うもの私は傍観者に徹していた。――というか記憶の件は私も初耳ですね。いつそのことが判明したんです?」
「ついさっき。直接確認してみたんだ。彼女が覚えていないはずのことを彼女はいくつか覚えていた。だがシュトラウトランドで確認したときはそんな様子は見受けられなかったんだ。もしかしたら私たちの術式に綻びが出来始めているのか?」
ふむ、とノウレッジはカップを手にしたまま思考の海へと没入していった。アリアダストリスも余計な口を挟むことなくただ黙して彼の結論を待つ。
ノウレッジが再び口を開いたのはそれからたっぷり十数分は経過したときだった。
「――ああ、そうか。狂人だ。狂人の影響だ。あの子はその出自ゆえ、感情というものがどうしても希薄だった。もとの心の器がそれほど大きくなかったんですよ。けれどもそこに狂人が入り込み器を砕いてしまった。すると器と共にあった我々の術式に罅が入り始めているんです。おそらく彼女本来が持ち得た気質が今頃になって顔をのぞかせているのかも。記憶云々も、元になった人物のそれがどこかにコピーされていたんです」
「だとしたら面倒だな、この調子で記憶を取り戻されるといらぬことまで思い出されるかも」
アリアダストリスの呟きにノウレッジは「そうですねぇ」と苦笑を漏らす。どこか他人行儀なその態度に彼女は
ここにきて初めて苛立った様子を見せていた。
「笑い事じゃないぞ。全て思い出した彼女が彼にいらんことを吹き込んでみろ。数世紀積み上げてきた仕込みが全部無駄になる」
「言葉が荒れていますよ。アリアダストリス。集合意識の性質を持つあなたが多数の人格を従えているのは存じ上げていますが、その原点はただ一人。でないと彼もあなたに再会したときあなたのことを認識できないでしょう」
「――いや再会はあり得ないよ。私とアルテは互いを見失うことで神を欺いてきたんだ。たとえ神を殺したとしても、彼の前に私は姿を現さない」
台詞を彩る寂しげな雰囲気にノウレッジは言葉を返さなかった。アリアダストリスと狂人を巡る複雑な状況をよく知るだけに、陳腐な言葉で慰めることを良しとしなかった。
だからこそ彼は次なる一手の提言をするだけにつとめた。
「今更イルミリアストリアスに接触して記憶処理をするのは難しいでしょう。ならば彼女が抱く盲愛を加速させ、自身の記憶への疑問を抱かぬよう操作するのが良いかと。残りの愚者が三人と迫った今、計画を推し進めるのが最前です」
「ならどう盲愛を進めさせる? 狂人を動かすにはどうすればいい? 私は彼に干渉することができないというのに」
アリアダストリスの疑問へノウレッジは簡単なことですよ、と頭を振っていた。
「イルミリアストリスを狂人の手によって救わせるんですよ。ピンチに颯爽と駆けつけてくれる最愛の男。まあいろいろとどうでもよくなるでしょうね。狂人に疑念を抱いたときが彼女の破滅なのだとしたら、そうならないように仕向けてやればいいだけです」
「――どんなピンチを用意するつもり?」
「紫の愚者をぶつけましょう。地下に眠るあの怪物の発掘を進めて地上に呼び出すんです。あとは適当にイルミリアストリアスを追い込んで狂人を呼び出したら完了ですね」
アリアダストリスはノウレッジに向かって特大のため息を吐き出して見せた。
そして呆れたといわんばかりに言葉を繋ぐ。
「雑だな。だがそれでころっと気をやってしまう彼女がいるのもまた事実だけに耳が痛いよ。全く誰に似たのやら」
「言わずともわかっているでしょう。彼女はあなたの理想なんですからそのことはあなたが一番わかっているはず」
カップに残されていたコーヒーをノウレッジは一気にあおって見せた。彼はそれを手近なテーブルに置くと、ふと「しまった」と声を上げた。
「なんだ?」
怪訝気にアリアダストリスが問う。ノウレッジは困りましたと答える。
「アルテミスが扉の前にきています。あと数秒でノックしてここに入ってきますよ」
「は? おいお前、それはちょっと」
「あ、だめです。入ってきます」
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「ノウレッジ教授、頼まれていた魔導具、市場で手に入れてきましたよ。一応現物確認しといてくださいね」
背負っていた背嚢を降ろして、俺はお使いの成果をノウレッジに報告していた。地下の遺跡探索に必要と言うことでいくつかの魔導具を見繕ってほしいと頼まれていたのだ。
「ああ、アルテミスさん。ありがとうございました。本当に助かります。代金はこちらを」
言って、ノウレッジが銀貨がいくつか収められた袋を手渡してきた。若干多めなのは手間賃も入っているのだろうか。
「次の探索は明日でもよろしいでしょうか。明日はいよいよ魔物たちの生息域に足を踏み入れるでしょうから、入念な準備をお願いしますね」
ノウレッジの提案に俺はただ是と返す。スケジューリングその他もろもろを丸投げしている以上、俺から提案らしい提案はなかった。
「では前回と同じ集合場所にお願いします」
これもまた是と返し、俺は銀貨の入った袋を懐に収める。別に世間話くらいしていっても良かったのだが、特に用事もないので退散しようとしたのだ。が、部屋の中のある一角に俺は違和感を抱いた。
多分、それがなければふらっと部屋を後にしていただろう。しかしながら気になってしまったものは仕方がない。俺は素直に抱いた違和感に対する疑問を口にしていた。
「――そのガラスのカップ、誰か来客がいらしていたんですか?」
万年コミュニケーション障害の俺が言うのもあれだが、ノウレッジも相当な人付き合いを制限しているタイプだ。相談に来る生徒もいるにはいるが、教授や講師間のつき合いが多いタイプでは決してない。そんな彼に歓迎の一杯を用意させるということは、それなりに親しい相手が来ていたということになる。
しかもそう今とは離れていない時間帯にだ。
ノウレッジは視線だけでカップをみやると、「ああ」と微笑んで見せた。
「これはアルテミス先生に召し上がっていただこうと、カップを暖めていたんですよ。昔ながらのカフェの作法です」
言って、彼は置かれていたカップに何かを注ぎ直した。 鼻孔をくすぐる香ばしい香りはいつかの世界では当たり前に存在していたコーヒーのそれ。
「うぇ、これ私本当に久し振りに見たんですけれど高価なものじゃないんですか?」
紅茶ならばこちらの世界でも何度も目にしてきたが、コーヒーは初めてだった。つまりそれだけ高級で希少なものなのだろう。
そんなものを俺のために用意してくれるなんて、ノウレッジはなかなかどうして良い人である。
「お構いなく。さ、冷めないうちにどうぞ」
口にした液体の味は紛れもないコーヒーだった。けれど昔から猫舌の嫌いがある俺はそれを煽ることができず、ちびちびと舐めながら楽しむほかなかった。
「アルテミス先生にはいろいろとお世話になっていますからね。そのお礼だと思ってください。では明日、よろしくお願いしますね」
何とかコーヒーを飲みきった俺は今度こそノウレッジの執務室を後にした。
ただ扉を閉めるその刹那、風が吹いたのか開け放たれた窓からの空気が俺の頬をなぜる。
「?」
「おや、どうされました?」
見送ろうとしていたノウレッジの問いに俺は首を傾げた。
「いや、なんでしょう。どこか懐かしいお日様というか、なんか安心する匂いがしたんですよね。ま、気のせいだとは思うんですけれど」
02/
「――行きましたよ。あなたの掛けた誓約、いや制約は正しく機能しているみたいですね」
ノウレッジの報告を受けて、アリアダストリスは小さくため息をついた。
「そっか。今の今まで彼はそこにいたのか。狐に包まれた気分とはこんな気分をいうのだな。初めての経験だが不思議な感じだ」
長い髪を手で梳きながらぼやきを漏らす。ノウレッジはアルテミスが残していったカップを手に取りながら口を開いた。
「あなたには見えていなかったでしょうけど、仮初めの肉体でも彼はあなたのことを認知していませんでした。相当強力な術式を刻んだんですね」
「――世界普遍の理である死は免れない、という法則をねじ曲げたんだ。それくらいの代償は必要だった」
アリアダストリスの声色はどこか投げやりなものだった。ノウレッジは困ったように次の言葉を紡ぐ。
「ちなみに彼、あなたの使ったカップでコーヒーを飲んでいきましたよ。咄嗟に誤魔化したら後に引けなくなって」
「莫迦。生娘じゃあるまいし今更それでどうこうはならないさ」
よっこいしょ、とアリアダストリスは窓枠に足を掛けた。もう用は済んだと言わんばかりに執務室を抜け出そうとしている。
「ああ、そういえば」
去り際、アリアダストリスが振り返った。
「次からは少し冷ました状態で彼に出してあげてくれ。猫舌だからな。あとこのカップ、デザインが気に入ったから貰っていくよ」
いつのまにかアリアダストリスの手にはガラスのカップが握られていた。それはアルテミスが使ったカップだ。ノウレッジはいよいよ苦笑を深めて「いいですよ」と答えた。
「しばらく私はここにはこない。紫の愚者の心臓も、お前からユーリッヒに渡しといてくれ。彼女も近いうちにここにくるだろうから。――じゃあ、さよならです。先生」
ふらっと、アリアダストリスが窓から飛び降りた。その行く末を心配する愚考をノウレッジは犯さない。
ただ一つだけ残されたカップを手にして、窓から差し込む朝日にそれをかざした。
「――いよいよ計画も大詰めですか。願わくばあなたの思い描く世界が訪れることを願います。きっとあの狂人もいつかのようにあなたの元へ馳せ参じるでしょう。そして、きっとあなたのことも殺してくれる。大丈夫、それは私が保証しますよ」
黄金色に輝くカップに、少しだけ取り残された琥珀の液体が揺れていた。
03/
振り上げた剣が毛のないイノシシのような魔物の首を切り飛ばした
物理的な刀身が無くとも、ヘルドマンから間借りしている魔の力で黒い刃を形成すればそれは万物を切り裂く魔剣となる。
――ていうかそれがなければこんな魑魅魍魎どもとやりあうのは無理ムリの無理!
魔物に対する護衛ということで、ノウレッジからは簡単な護衛と聞いていたのに地下遺跡に巣食う魔物たちは地上のそれよりも遥かに強靭で凶暴だった。
前回遭遇しなかったのは多分ノウレッジが意図的に生息域を避けてくれていたのだろう。探査二日目の今日、遠慮なく彼らのテリトリーに踏み込んだ俺たちは有難い歓待を受けている。すなわち、爪と牙でこちらを切り裂こうと躍起になっているのだ。
「――っ、ノウレッジ先生伏せて!」
ぱっと屈んで見せたノウレッジの頭上に向けてて投げナイフを投擲する。エンディミオンに隣接する橋上都市「オケアノス」で調達してきた手のひら大のナイフだ
真っ直ぐ飛んで行ったそれはノウレッジを背後から齧り付こうとしていた魔物の眼球に突き刺さる。
耳障りな雄叫びをあげながら魔物がのけぞった。あとはこの魔導人形の超人じみた脚力で肉薄し、先程と同じように首を斬りとばすだけである。
「ぜっはあ! ノウレッジ先生無事ですか。生きてますか」
魔物たちの血潮を頭から被りながら、俺はノウレッジに問いかけた。冷や汗を書きながらも何処か余裕を残しているノウレッジは「流石ですね」と嘯く。
「魔の力で構成された刃ですか。理論上、あらゆるものを切断できる狂気の武器ですね。それをあなたが使っているとなるとここまで心強い」
ノウレッジは肩で息をしている俺の元へと歩み寄ると、「失礼」と何か液体を頭から掛けてきた。どこかで嗅いだことのある臭いだと思えば、「癖の強いお酒を煮詰めてその蒸気を集めたものですよ」とノウレッジは教えてくれた。つまりはアルコール消毒である。
「気休めではありますが魔物の血の穢れを浄化することができます。本当はきっちりと術式を組んで浄化の儀式をした方がいいんですけれど仕方ありませんね」
ある程度全身に浴びていた血を落としてもらった俺は魔の力で出来た刀身を消失させ、手頃な瓦礫に腰かけた。流石に連戦に次ぐ連戦は休息が欲しかった。
「お疲れ様です。今日目指すところはもう少しですよ」
隣に腰かけたノウレッジが革でできた水筒を差し出してくる。遠慮なく受け取って喉を鳴らせば、疲れ切っていた体が少しずつ活力を取り戻していくのを感じた。恐らくこれもただの水ではなく、何かしらの特別な魔の力の作用が働いているのだろう。
本当、用意周到でできる男である。
「さて、そろそろ次に向かいましょうか。この先の小さな路地を抜ければ目的地になります。大通りだったものが遺跡の残骸で塞がれてしまっているので、危険ではありますがさっさと通ってしまいましょう」
ノウレッジの提案通り、俺たちは石造りの建物が隣接し合う狭い通りを進んでいく。何処か生活感すら感じさせるそこは、油断すれば人々の生活の残滓を強く感じる場所だった。自然では決して作られることのない、ひどく人工物を感じさせる場所だからだろうか。
どちらにしろ、遠い昔に滅んでしまったどこか知らない場所の知らない街ではあるが。
「ふう、ようやく着きましたね。では私はまたいくつかのサンプルを回収してきますので
アルテミス先生はゆっくり休息を取っていてください」
いつも通りガラスの容器と小さなナイフを手にしたノウレッジが瓦礫の山に消えていった。また何かしらの研究材料を採集しにいくのだろう。俺も前回と同じように、ぶらぶらとそれほど広くない範囲を散策する。
前回見つけてしまったもののような「爆弾」を再度目にする可能性はあったが、まだこの世界の成り立ちについて確証が持てない今、少しでも真実を知るための材料を増やすべきだと判断したのだ。
俺が咄嗟に立ててしまった安易な仮説が間違っている可能性は大いにある。そもそも俺自身がこの世界にいつのまにか迷い込んだ存在である以上、同じような運命を辿ったものが転がっていてもなんら不思議はないのだ。
でももし、馬鹿な俺の頭で立てたあの仮説が正しかったのだとしたら、その時は――。
もうとっくの昔に忘れた筈なのに、家族のことを不意に思い出していた。
04/
ヘルドマンは不意に胸を騒つかせる不快感を覚えた。ぼんやりとした不安のような、漠然とした恐れというか、寂寥にも諦念にもにた負の形のない感情――。
だが彼女はそんな感情になど気取られてはならないと、首を横に振って足を進めた。
周囲を覆う石壁の世界は幻覚ではなく現実であり、足元から這い上がってくる冷気は本物以上の冷たさを感じさせるものだ。
彼女はただ淡々とそこを目指す。
地下深くに存在する牢屋へと。
レストリアブールの宮殿跡に備え付けられている檻に。
粛々と進むヘルドマンを先導するのはやはりというべきか、彼女の優秀な秘書たるクリスで、意外なことにヘルドマンの後ろを行くのは不倶戴天の天敵であるマリアだった。三人は一列となり、クリスが魔道具の明かりを持ってひたすらに地下を目指していた。
「――着きました。こちらになります。基本的に私の信頼のおける部下以外は誰も通しておりません。お二人が今日初めてその例外となります」
クリスが手のひらに魔の力を収束させ、地下牢の入り口である鉄の扉に触れた。三人の上背よりも少しばかり大きな扉は錆びた蝶番の音を響かせて少しずつ開いていく。
外と中、内と外の境界が混ざり合っていく。
鉄扉という結界が徐々に破られていく。
そして中の空気がヘルドマンたちの立つ空気と触れた刹那、ヘルドマンとマリアはその場から消え去っていた。
どういうことか。
2人揃って背後に飛びのいていたのだ。
「お二人の行動、私は恥だとは思いません。むしろお二人がこの世界における絶対強者だからこそ取ることのできる行動だと思います。それだけここから先の呪いは深く昏い。あの狂人が全てを焼き尽くす太陽だとしたら、こちらは全てを飲み込む暗闇でしょう」
クリスは脂汗をそのままに、魔道具を翳しながら静かに鉄扉の向こう側に足を踏み入れていた。続いてヘルドマンとマリアが臨戦態勢で後を追う。
「――今日は三人か。こんな死に損ないに構うくらいには暇を持て余しているのか」
瞳は黒く赤かった。鋭い視線は彼が振るっていた槍そのものを彷彿とさせるもので、事実視線を縫い付けられたヘルドマンは、螺旋の槍を影から撃ち出さぬよう必死に堪えていた。
「……ついこの間まで廃人も同然だったのに随分な変わりようですね。ようやく敵討ちの算段が整ったのですか?」
挑発するように口を開くマリアだったが目は笑っていなかった。彼女もまた武器こそ持たないものの、いつでも動きを取れるように片足を半足引いている。
「――仇討ちか。確かに俺がお前たちにされたことを考えると、俺は仇を取るべきなのだろう。この世界で一番愛した女と、苦楽を共にした仲間たちを殺されたのだからな」
瞳のぎらつきが原因か、三人からは牢の中にいる男――エリムの表情を伺い知ることはできなかった。だが不思議と、嗤っているような気がした。
「多分俺は壊れてしまったのだろう。今となってはそんなことどうでもいい。――どうでもいいんだ。ただ俺がこうして生きている理由は一つだけ。心の臓を鼓動させ、同じ呼吸を繰り返しているのはたった一つの目的のためだ」
視線だけでヘルドマンが続きを促す。言ってみろ、と目線の動きだけで伝えていた。
エリムはふっと短く息を吐くと言葉を続ける。
それはその場にいた三人に悪寒を抱かせるには十分すぎる濃密な殺意。
牢屋の扉が開いた時に感じたのよりも、遥かに仄暗い負の感情。
「アルテと、友と決着をつけたいんだ。――何故ならあいつはあのイシュタルを殺して見せた。俺がついぞ手の届かなかった存在を屠って見せたんだぞ。ならば俺が命の限りを燃やして挑む相手にこれほど相応わしい男はいないだろう。死んでいった教団の者たちには申し訳ないが、今はそれしか考えられない」
05/
「殺しますか」
ぽつりと言葉を漏らしたのはクリスだった。ヘルドマンとマリアを含む三人で向き合いながら彼女が口を開いていた。
陰鬱な牢屋から打って変わって、屋外に敷設された陣幕の中。三人の間を流れていく夜の冷たい風はコールタールのように重い。
「――いえ、処遇はアルテに決めさせる。この方針に変更はありません。……ですが2人の面会も叶いませんね。この城一つの消滅で済めば良いのですが、下手をすればレストリアブールの街そのものの消滅に繋がりかねない。街の住人そのものには興味がありませんが、街そのものには価値がある」
言葉と同時、ヘルドマンは木組みの簡素な椅子にすとん、と腰かけた。そんな彼女を見て、マリアが反論の意を告げた。
「ですがあの時と状況は大分様変わりしていますよヘルドマン。完全な廃人だったころならいざ知らず、あれ程明確な殺意を抱くようになっていたら話もまた違うでしょうに」
マリアの言うことも最もなだけに、クリスはヘルドマンの擁護を咄嗟に行うことができない。ただ己の主人を信じて彼女の次なる言葉を待つ。
「――なら逆に聞きますけれど、エリムという好敵手を勝手にアルテから取り上げて、我々と彼の関係が無事で済むと思います? シュトラウトランドで彼と交戦した私たちが被った被害を思い出して見なさいな」
ぐっ、と言葉を飲み込んだのはマリアだった。アルテに唐竹割りにされた記憶はまだ目新しいもので、完全に消失したはずの傷口が疼く幻覚すら覚える。あの狂人のことだ。こちらが勝手な動きを取った時、その狂気が何処を向くかなど幾人にも想像し得ない。
「ちっ、ならしばらく飼い殺しにするんですか?」
マリアの噛みつくようなセリフにヘルドマンは「仕方がないでしょう」と頷いた。
「少なくともアルテが自らの足で立ち、動き回ることができるようになるまで保留です。あの槍男もまた、アルテが肢体不自由に陥っている現状を知るとどうなるかわかったもんじゃありませんし」
陣幕の隙間から、ヘルドマンが外の様子を伺う。
実力と忠誠が担保された側近たちの姿がちらほらと見えた。レストリアブールの統治は今のところ順調と言えたが、それでも不安要素はどうしても拭い去ることができない。
「――そういえばもうすぐジョン・ドゥが来るんでしたっけ。なら、彼にどうしてこうしてまで砂漠の小国を攻め落とす必要があったのか問いたださなければなりませんね」
「大方、この機会に勢力を拡大したいという下らない思いつきでしょう。もともと我々聖教会と暗殺教団は不倶戴天の敵でしたし」
ヘルドマンの声とマリアの声が交互に陣幕内に木霊する。ふとクリスは2人の声質が似通っている事に気がついて、でもそれを指摘したら血を見そうだな、と口を噤んで瞳を閉じた。
喧嘩さえしなければ2人のやりとりは基本的に放置しているのである。
「――ところで狂人のエンディミオン潜入は上手くいってるんですか? あなたの魔の力を使って人形を動かしているらしいですが、中身はあの狂人なんでしょう? 絶対にどこかでボロが出るに決まってます」
マリアの指摘にヘルドマンは「ご心配なく」と答えていた。
「言動は私のものをベースにしてありますし、細かな行動そのものも私が少しずつアルテに気がつかれないように誘導して、周囲からは浮かないように配慮していますよ。表面的な意思決定をアルテがしていても、根本的な倫理観は私がコントロールしていますから」
えへん、と胸を張るヘルドマンに対して、マリアはまごう事なく疑いの目を向ける。
「あなたが自信満々の時は大抵何かやらかしますからね。クリス、あなたがしっかり見張ってないと絶対に取り返しのつかない事になりますよ。この中で狂人との付き合いが一番長いのはあなた何ですから尻拭いは頼みます」
何だかよくわからない方向に話が流れ始めたと、クリスは溜息をつく。だが根底に流れる不安と課題は間違いなく存在しており、この平穏とも言える毎日がそう長くは続かない予感だけが確かにあった。もしかしたらヘルドマンとマリアも同じことを感じているからこそ、暇さえあれば軽口を叩き合っているのかもしれない。
陣幕から一人出たクリスは夜空を見上げる。
いつもそこにある月の恩寵が、今日だけは何か不穏の色を纏っていた。
 




