第74話 「地味に二人が殴り合ったのは初めてで」
ぼちぼち話を畳んでいきます。
「はあ? ジョン・ドゥがレストリアブールを訪問? なんですかそれ! 暇なんですか、彼!」
急設された執務室において、山のような書類を決裁していたヘルドマンが素っ頓狂な声をあげた。正面に立つマリアは小さな体躯を思い切りそらしてヘルドマンの声量を受け流す。
「ちょっと、いくら吸血鬼とはいえ声がでかすぎるんですけど。慎みのない女子は嫌われますよ」
「知りませんよそんなこと。で、何でわざわざ聖教会の長がこんなところまでやってくるんですか。もう戦後処理もあらかた終わりましたし、当の昔にこの地域は我々の勢力圏です。わざわざ慰安訪問なんて今更必要ないですし」
手にしていた書類を投げ出し、ヘルドマンが問う。対するマリアは後頭部をかりかりと掻きながら答えた。
「どうせ自分の目でここいらを見ていきたいんでしょ。あの御仁は昔から自由気ままですから。それか捕虜を殆ど惨殺した誰かさんにクビを言い渡しにくるんじゃないですか?」
「はん、それこそ何を今更。私がグランディアを根城にしたのはあの男が頼み込んできたからですよ。聖教会に正当性が欲しくて私を錦の御旗にしたんです。ま、出て行けと言われれば行く宛てもできましたし別に良いですけど」
嘯くヘルドマンにマリアが噛みついた。
「そうやってすぐに狂人を頼ろうとするところ、本当に見苦しいですね。だからそれとなく彼に距離を取られるんですよ。知ってますからね。介護と称して体を密着させていたら『暑苦しい』て彼に言われてあんたがヘコんでいたことも」
「はあ? 奴隷にしようとして拒否されて真っ二つにされて焼き殺されかけた誰かさんが何か言っていますね? あれからまともに会話だってできていないくせに」
「ヘルドマンと違って私は兵の指揮に忙しいからです。本当、個人の馬鹿力だけに特化して組織戦闘がからっきしな愚者って本当に頭も愚かなんですね」
「そんな頭空っぽ筆頭の愚者の血を引いたあんたも私の同類ですよ」
いつもの姦しい口喧嘩の応酬だったが、この時ばかりは少し空気が違っていた。あのヘルドマンが失言だったと言わんばかりに咄嗟に口を押さえてしまったからだ。
「――本当、あなたは狂人と出会って人が変わりましたね。どこまでも人間くさくなったと思います。以前のあなたはもっと超然としていて、私のことなんて歯牙にもかけていなかった。いいですよ、別に。父親のことでいらぬ業を背負っている子供なんてこの世界にごまんといるでしょう。それこそ、あなたみたいな生まれた瞬間から世界の支配者だった者には理解できない感覚だと思いますから。両親との思い出なんてあってもろくなことにならない」
吐き捨てるように口を開いたマリアはその場できびすを返した。その背中はこれ以上の会話を拒絶している。
「――ジョンの受け入れ準備だけ抜かりなきよう頼みましたよ」
さっさと部屋を出ていったマリアと入れ替わるように、クリスが気まずげに部屋に入ってきた。手には茶菓子と紅茶が丁度二人分乗せられた銀の盆がある。
「あの、マリア様も召し上がられるかと用意したのですが、どうやら無駄のようですね。一つは持って帰ります」
二人の会話がヒートアップしているものだから、部屋の前でずっと待っていたのだろう。紅茶の湯気が陰る寸前だった。
「いえ、私とあなたでいただきましょう。楽にしなさい」
言って、ヘルドマンはクリスを備え付けの応接セットに座らせた。対面に深く腰掛けた彼女は、クリスが用意した紅茶を静かに手に取る。
「――父親に対して複雑な思いがあるのはお二人に共通されたことだと思います。たぶんそこに思いの大きさは関係ありません。マリア様にはマリア様の、ヘルドマン様にはヘルドマン様のお考えがあるのですから」
クリスは話を聞いていたことを否定しなかった。
ここで馬鹿正直に話してしまうからこそ、ヘルドマンは彼女を重用するのかもしれない。
ヘルドマンは紅茶の水面に映る自身の赤い瞳を見ていた。
「まあ、彼女が羨ましいといったら嘘になりますよ。父は確かに生きていて、その記憶も持っている。仇となる存在はおらず殺さねばならない人もいない。でも父がいたらいたで、それが枷になるというのも理解できる」
紅茶で暖めた口からほうっと息を吐き、
「時々思います。私の父は、母はどんな顔をしていてどんな愛情を私に向けてくれていたのだろうと。何となく幸福だった、という感情だけを覚えていて他の全てが思い出せない。それが私を愛してくれていた両親に対する最大の不義理に感じて、私はそれが耐えられない」
クリスは何も返さない。
「――たぶんアルテに父の幻影を見ているのかもしれませんね。姿形も思い出せないくせに、何となく生きていたらこんな人かな、っていう感覚がするんです。ほら、だって髪の毛も二人とも黒いじゃないですか。この世界じゃとても珍しい色ですし。瞳の色は赤と黒で違うけれども」
たぶん、この絶対強者がこんな泣き笑いのような表情を浮かべるのは、この話題だけなのだろうとクリスは思った。
クリスはヘルドマンの復讐の全てを聞かされたことはない。ただ赤の愚者が仇であること、一度それに戦いを挑んで敗北していることだけを知らされている。
ただそれだけしか伝えられておらずとも、ヘルドマンが感じている深い慟哭がクリスの胸を締め付けていた。
「不思議な狂人です。初めて出会ったその時から得体の知れない感情を私に与えてくる。ちっぽけな人間なのに、私には越えられない大きな壁のように見えてくる。私の方が絶対に強いのに、殺そうと思えばすぐに殺せるのに」
ふと、ヘルドマンが紅茶をテーブルに戻す。彼女は外出用の外套を陰を使って手元に引き寄せていた。
「どちらに向かわれるのです?」
盆にヘルドマンが手放したカップを乗せながらクリスは問うた。
ヘルドマンは外套を羽織りつつそれに答える。
「少しアルテのところへ。もしもジョン・ドゥがここにくるのならそのことを伝えなければなりません。これは私の予感なんですけれども、あの二人の相性って実は最悪なんじゃないかと思うんです」
我が主の言葉に珍しくクリスが反論した。
「いや、それはたぶん誰が見てもそうだと思います。あの狂人と馬があうのはこの世界でも数えるほどしかいませんよ。あなたのように」
ふふ、とヘルドマンが機嫌よく笑う。なかなかどうして、やはりこの従者は私のツボを心得ているのだな、と笑顔を零していた。
01/
その狂人はレストリアブールの宮殿の廊下を歩いていた。ただしそれは赤子並の鈍重な進みではあったが。
「――リハビリですか。精がでますね」
そんな彼の行く手を遮ったのは外套を羽織ったヘルドマンだった。彼女は一瞬だけ陰を行使し、アルテを支えようとしたがすぐにいらぬ世話だと陰を霧散させる。
「何のようだ」
相変わらずの棘のある言葉。だがそれは物言いを知らぬだけで、アルテの思いが別にあることをヘルドマンは何となく感じ取っていた。
ここ最近、アルテの瞳で彼の感情を推し量ることができるようになってきていたのだ。
「近いうちに聖教会のトップがここを訪問します。率直に言ってあなたは会わない方がいいので部屋で療養していてください。ということを伝えにきましたが、ちょっと気が変わりました。少しばかりつき合っていただけますか?」
「何をだ」
「散歩ですよ。こんなにも綺麗な新月なのですから少し歩きませんか」
「魔の力が減衰しているから何も景色は見えないぞ」
「いいじゃないですか。ほら、二人で手を取り合って暗闇を楽しみましょう」
強引にヘルドマンがアルテの手をとっった。何故かふりほどかれないという確信がヘルドマンにあった。
果たしてそれは正解で、アルテは不可解さを感じ取りつつも大人しくヘルドマンに手を引かれていた。
「私ね、一応黒の愚者と言うことになっていますけれど、いつから自分が愚者になったのか覚えていないんですよ」
「奇遇だな。俺もいつから吸血鬼ハンターになったのか覚えていない」
「あら、それは驚きですね。でもよほど吸血鬼に恨みがあるんでしょう? たとえば私を殺したいと思ったことはあります?」
即答はなかった。
およそ歩数にして十数個。
それだけの距離を進んだときにアルテは答えた。
「さあな。どうだろう」
連れない返事ですね、とヘルドマンは苦笑した。「そこは嘘でもあり得ないと言えば女性は喜ぶんですよ」と少しズレたことを口にする。
今は突っ込みを入れてくるレイチェルもクリスも不在だ。二人だけの会話が続く。
「実はですね、私はあなたを殺したいと思ったことはないんですよ。何故か。今まで、あなたみたいに不遜で我が儘な輩、片手間に擦り潰していたのに。不思議ですよね。あなたの何がそうさせているんでしょうね」
アルテはもう一度「さあな」と言葉を返していた。
ちょっと素っ気なくなったなとヘルドマンは眉尻を下げる。
「ごめんなさい。気を悪くしないで。純粋な疑問ですから。ただ折角出来た私たちの縁なんです。私はこれを大事にしていきたい。吸血鬼と吸血鬼ハンターの友情を育んでいきたいと言えば可笑しいでしょうか」
いや、とアルテは口にしていた。彼はヘルドマンとの友情を否定しなかった。肯定もしなかったが、ヘルドマンにとって否定されなかったことが何よりの収穫だった。
「――ありがとう。やはりあなたを友人に選んだことは間違いないようです」
ヘルドマンによって、二人の繋がれた手に力が込められたのは嘘ではなかった。
アルテは左手のみに許された生身の感触に困惑の表情を見せる。
空に月はなく、ただ漆黒の帳が降りるのみ。
闇に溶ける黒の愚者は、小さく儚げに笑っていた。
02/
えらいぐいぐいきはりますやん。ヘルドマンの御仁。
いや、ほんとにどんな心境なのかやけにヘルドマンが絡んでくるのである。リハビリがてら廊下を歩いていたらばったり遭遇。そのまま二人して宮殿の中庭を散策することになった。
しかもかなり際どい質問を連発してくるものだから俺の緊張感もマックスハート。これって選択肢ミスったら多分殺されるよね?
いいぜ綱渡りの会話パート。
会話スキルマイナスの俺の実力を見せてやるよ。
いや、やっぱ無理。
緊張感でゲロ吐きそう。これがアルテミスの体だったら一発でマーライオンだったと思う。
だって愚者だぜ? 序列三位の怪物だぜ? 吸血鬼で世界最強の一角だぜ。それなりにフレンドリーとはいえ、やっぱ俺たち人間とは違う種族なのだ。
とても大事、異種族尊重。
「吸血鬼と吸血鬼ハンターの友情を育んでいきたいと言えば可笑しいでしょうか」
いや可笑しくないと思うよ。ていうか大歓迎。仲良くすることに越したことはないから。
でも正直言ってヘルドマンの真意がよくわからない。
どうして俺なんかをそこまで気にかけてくれているのか、どうして俺と友人になりたいのか全く持ってよくわからない。
始まりは赤の愚者を討伐するための割とビジネスライクな関係だったと思う。そこから先、情でも移してくれたのだろうか。
ただ短慮な思いこみは禁物だ。
これは会話形式のデスゲーム。選択肢を決して間違えるわけには行かない。
余計なことを行ったその刹那、黒の影が俺をずたずたに引き裂くだろう。
別にぶるった訳ではないけれども。
いや、言い訳はよそう。
心底チキンな俺はヘルドマンが怖くて明言を避けた。
「いや」と適当な相づちを返すのに精一杯だった。
「――ありがとう。やはりあなたを友人に選んだことは間違いないようです」
殆ど賭けのような返答だったが、果たして俺はそれなりの運の持ち主だったようだ。
機嫌よく笑うヘルドマンを見て、俺は肩から力が抜けていくのを感じた。
どうやら否定しなかったのがよかったらしい。
やっぱりどうとでも取れる言葉って便利だね。
そしてヘルドマンさんや、手をにぎにぎするのはやめてくれませんかね。
不思議とあなたに女を感じることはないんだけれども、なまじ凄まじいまでの美人だから緊張するのもまた事実。
二十代の頃なら間違いなく変な勘違いをしていた気がする。
「本当、ここまで一人の人間に心動かされるなんて、私ったらどうしてしまったのでしょうね」
それはこちらの台詞ですぜ、ユリ。
あれ?
今、ナチュラルに名前を間違えたような――、
03/
アルテがヘルドマンとの逢瀬を終えてから数時間。
エンディミオンに滞在しているイルミに動きがあった。ノウレッジのアドバイスを受けてから研鑽に励んでいる彼女はその日も自身の魔の力に向き合い続けていた。
――卒業は叶わなかったが、成果は得られた、とイルミはその場にへたりこんだ。
彼女がいたのは人気が一切見受けられない早朝の練兵場。月の民にとって朝焼けのその時間帯は出歩くべきでない死の時間帯だ。体表にうっすらと魔の力をまとわせながら、イルミも何とかその中で活動を続けている。
「――やっぱり私にとっての希望はあの人。ならばこうなるのは確定だったのかしら」
顔に感じる確かな熱を受け止めながら、イルミは言葉を零す。彼女の向き合う十数メートル先では高熱の柱が静かにたたずんでいた。月の光のような銀色に輝いているのは、もしかしたらイルミの魔の力の性質が現れているからかもしれない。
「この触れれば焼き尽くされそうな熱はまさしく太陽の光。アルテ、私ようやく見つけたよ。あなたの側にいても良い、あなたの為の力を」
柱は炎の固まりだった。空気中に放出された自身の魔の力を延焼させて発現させている奇跡。
イルミが考え得る「希望」を具体的なカタチにして見せた彼女だけの魔法。
あれほど恐ろしいと感じ続けていた太陽の力はいつのまにかイルミにとっての希望となっていた。彼女の退屈な世界を焼き尽くしてくれる、まさに光そのもの。
それはアルテに抱く感情の変化に等しい。
狂人と恐れ、畏怖していた頃からは考えられないほど、今となってはアルテを愛し尽くしている。
その一挙一投足全てが愛おしく、彼女の心を焼き尽くしていた。
愛が、狂おしいまでの熱と密度を帯びた愛情がイルミだけの魔法を生み出したのだ。
「――本当に暖かいのね。早くあなたに会いたいわ」
そろそろ潮時だと感じたのか、イルミはおもむろに立ち上がって腕を振った。手にはいつかアリアダストから与えられた手袋を嵌めている。
銀の炎の柱が静かに霧散した。
あれだけの熱量を誇っていた奇跡は、まるで最初から存在しなかったかのように世界から姿を消していた。
地面にも焦げ跡一つ残されていない。
――ふと。
イルミは背後に気配を感じた。
自身の奇跡を完成させた、という達成感はそのままにイルミは振り返る。
そこに立っていた人物はある意味でイルミの予想の範囲内だった。また会おう、と去っていった姉ではない。
いつもこちらの面倒をよく見てくれる同級生たちでもない。
エンディミオンというこの異国の地で、どことなく愛する男の一端を感じさせるいけ好かない女。
アルテミスが練兵場の入り口からこちらを見ていたのだ。
「――アルテミス先生、こんな夜明けになんの用でしょう?」
誰に対しても喧嘩腰だったイルミはもういない。彼女もそれなりに社会性を身につけ、分別がつくようにはなっていた。
アルテミスは登り始めた黄金色の太陽を背に負いながら、イルミに笑いかけた。
「いや、頑張ってるなーって。朝練にきたんだけれども君が随分とおもしろいことをしているみたいだったから見学させて貰ったんだ」
アルテミスの黒い髪が強すぎる朝の光を受けて金色に輝いていた。その色合いがアルテに余りにもそっくりで、それが何よりも気にくわなくて、イルミはアルテミスにこう言葉を投げかけていた。
「――なら面白さ、味わってみますか?」
多分これは無礼なのだろう。
人としてやってはいけないことなのだろう。
だがこの女ならば必ずや笑って受け流すという妙な信頼を抱いて、イルミは腕を突き出した。
彼女が一から汲み上げた術式が虚空を切り裂きアルテミスに殺到する。
「おわっと!」
果たしてイルミの読みは正しかった。足下から突如として銀の炎の柱が出現したというのに、アルテミスという脳天気でアホでむかつく女は軽やかなステップ一つで丸焼けを回避していたのだ。
やはり一流は本当に腹立たしいとイルミは次なる術式を汲み上げる。
「うかうかしていたら骨も残りませんよ!」
断続的に生み出される高熱の柱をアルテミスは鮮やかにかわしていく。彼女はその細い足のどこにそんな力が込められているのか、といわんばかりに地を抉りながらイルミへと走り寄っていた。
事実、彼女の足が踏みつけていった場所だけがイルミに知覚できる範囲である。アルテミス本体の姿は、余りにも移動速度が速すぎて捉えることができなかった。
「本当は生徒に手を出したらいけないんだけどね! 体罰だめ絶対!」
アルテミスはいつのまにか剣を手にしていた。いつも背中に背負っている大剣よりも幾分か小さい腰に結わえるタイプの剣だ。ただ抜刀はしていない。鞘に納めたままイルミに向かって振り下ろす。
イルミもイルミで姿形こそ見失っているが、はっきりとした気配を感じ取って咄嗟に防御の態勢を整えようとした。
銀に輝く炎を自身の眼前に展開したのである。
「いっ!?」
面食らったのはアルテミスだった。振り下ろそうとしていた剣を慌てて引き戻し、獣染みた挙動でその場からバックステップ。十分に距離を取ったところで、手にしていた剣をちらりと盗み見ていた。
そして、剣の鞘に結わえてあった飾り紐が焼け落ち、鞘の金属部分が溶け始めている事実を認識する。
「ふぁあー! これ私に当たったらマジで死にますよね!?」
何を当たり前のことを、とイルミはさらなる追撃を練り上げる。
お前ならば殺すつもりで挑むくらいが丁度良いだろうと、背後に大小十に満たない火球を形成した。もちろんそれぞれが銀に染められた超高熱の奇跡である。
操るイルミですら長時間側に侍らすことのできない、太陽のような火の玉。
一つ一つがアルテに対する思いの発露といっても過言ではない情愛の火球。
出会ってからというもの、常にイルミを苛立たせてきた女に向かって、イルミはそれらを無慈悲に撃ち出していった。
八つ当たりだとわかっていても、何故か術の行使を止めることができなかった。
「いやああああああああああああ! それは駄目でしょうよおおおおおおおおおおおお!」
涙目になりながらアルテミスが絶叫を響き渡らせる。何を白々しいことを、とイルミは吐き捨てて見せたが、アルテミスは至って真剣に悲鳴を上げていた。
単発での火炎ならば、跳躍を組み合わせて回避してみせる自信は抱いていたが、飽和攻撃に近い火球の雨は対処のしようがなかったのだ。
だからこそ、彼女は己の技量に対する信頼をあっさりと捨て去って次なる一手を喚き散らしながら打った。自分自身というこの世界でもっとも信用のならないものを信ずるのではなく、七色の愚者という一番信用できる戦力を当てにしたのだ。
とどのつまりそれはヨルムンガンド戦の再現。七色の愚者の一人であるヘルドマンの権能を間借りして対処したのである。最大出力の魔の力をヘルドマンから引き出し、手にしていた剣に注ぎ込む。実体としての刀身は耳障りな金属音と共に砕け飛び、光を一切反射することのない漆黒の刀身が現界していた。
「なんだかよく分からない影の一撃!」
アルテミスの巫山戯た掛け声と共に、火球達に向かって剣が振るわれる。効果は覿面で、まさしく黒の愚者の力と言うべきか、姿形どころかその熱までも影の中に飲み込んでいった。
後に残されたのは火球によって加熱された大地の水分の湯気だけだった。
沈黙が練兵場に満ちあふれる。
アルテミスの白い頬を伝って汗が流れ落ちる。呼吸も荒く胸は大きく上下していた。ただ視線だけは鋭く正面を見据えていた。
対するイルミは涼しい表情でいるものの、立ち尽くしているというのが相応しい、虚無感を抱いた表情でそこにあった。
結果だけ見れば引き分けなのだろうが、引き分けでは負けだとイルミは瞳を伏せる。
「——戯れが過ぎました。先生ならば必ずや凌ぎきって見せると思っていましたから。ですが私に罰を与えられるのでしたらどんなことでもどうぞ」
まるで首を差し出すかの如くイルミが頭を垂れる。
ちょっとした手合わせのつもりだったが、必要以上に熱くなってしまって自分を見失っていたこともまた事実だ。人が人ならば殺されてもおかしくない愚行である。
だが、
「いや罰とかはどうでもいいんで、次からはもっと安全に配慮して試し撃ちしてくださいね。あと、私以外にこんなことをしたら駄目ですよ」
この女なら不思議と許してくれるだろうという予感もあった。そんなところも何処かアルテに似ているようで、苛立ちと心地よさが共生した不可思議な感覚を覚える。
アルテと似ていることが腹立たしいのに、アルテに似ていることにどうしても甘えてしまうのだ。
一人で暮らすのもそれなりの期間になってきたから、少しばかり焼きが回ったのだろうかとイルミは考える。
「まあ、実用性という点では花丸じゃないでしょうか。でも凄いですね発火系の魔の力は初めて見ました。こう、なんというか根本的に物理法則をねじ曲げる術式はとても難度が高いらしいですけれど、流石はイルミさん。披露の仕方が荒っぽかったことを覗けば満点です」
くしゃり、といつの間にか眼前まで歩いてきていたアルテミスにイルミは髪を撫でられていた。余りにも自然な動作だったものだったから拒否するタイミングを失っていた。
「私は先に帰って先に休ませて貰います。健全な月の民ならばもう寝る時間ですからね。それではご機嫌よう」
魔の力の行使で刀身が消滅した剣を弄びながら、アルテミスが踵を返す。
イルミは朝焼けの中、そんな彼女の後ろ姿を静かに見送っていた。
朝の冷たい空気が熱を持った身体を少しずつ冷やしていく。
もう少しだけこのままで、とイルミは外套のフードを目深に被ってその場に座り込んでいた。
身体を支配する奇妙な満足感に身をゆだねながら。
 




