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ヴァンパイア/ジェネシス(勘違い)  作者: H&K
第四章 紫の愚者編
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第73話 「かつて世界を支配した者とそんな世界を滅ぼした姉妹」

よろしくお願いします。

 一週間後の夜、私の実地調査に帯同してもらえませんか?


 ノウレッジからそんな申し出を受けたのは、共同研究の話が上がってから五日くらい経ってからだった。

 二つ返事で頷いた俺は与えられた一週間という期間を準備期間にあてて、指定された期日と時刻通りノウレッジの執務室を訪れていた。

 そこには馬鹿でかい背嚢を背負い、外行きの、それも動きやすい旅装で身を固めたノウレッジがいた。彼は俺の姿を見定めると、「ではさっそく向かいましょうか」と微笑むのだった。


 というわけでエンディミオンの地下探検が始まったのである。


 講師陣や研究者しか立ち入りを許されていない、島の西部に位置する研究棟。建物そのものが円の形を取っており、外廊下はループでつながっているから、ぐるぐると無限に回り続けることができる不思議な場所がスタート地点だった。研究棟の中心部に位置する地下室が入り口となっているらしい。


「で、これがその地下への入り口ですか。想像していたよりも相当大きいですね」


 俺が見上げることになっていたのは、巨大な石造りの扉だった。これが地下にある遺跡の入り口だとしたらどのように開くのか全く想像がつかない。

 まさか人力でこじ開けるのだろうか。


「——私はアルテミス先生を信用しているので、同伴をお願いしました。ですがくれぐれもここから先のことは他言無用にお願いします。研究成果としての報告以外は口外できないと心得てください」


 隣に立つノウレッジの声は随分と強ばったものだった。

 緊張しているのかそれとも全く別の感情に支配されているのか、ともかくにも初めて聞く声色だった。


「? それはどういう——」


「こういうことです」


 言って、ノウレッジが扉に触れた。すると音もなく石造りの扉が崩れた。

 いや、崩れたというのは語弊がある。むしろこれは何の前触れもなく消失したと言ってもよかった。そして跡形もなく消滅した石造りの扉の向こう側にもう一つ扉があった。

 それはいたく無機質な、金属でできたこれまた巨大な扉だ。


「え、何これ」


「太陽の時代に作られた扉ですよ。普段は魔の力を使った技術で石の扉のように隠されていますがね。我々の持ちうるあらゆる技術でも足元に及ばない、まさに失われた、ロストテクノロジー」


 金庫扉の化け物が正直な感想だった。前の世界で何度かテレビで眼にしてきた、銀行の金庫が一番形状的に近いだろうか。ただ大きさに関してはまさに化け物級だが。あまり建築物の大きさには詳しくはないけれども、二十メートル近くないかこれ?

 いくら科学技術が発達していた太陽の時代でも、これほどとは驚かされる。ひょっとしたら、太陽の時代って俺がいた世界よりも遙かに科学が進歩した世界だったのだろうか。


「確かにこの大きさも驚嘆に値しますが、こいつの真価は扉としての性能ですよ」


 ノウレッジがもう一度扉に触れる。石造りの扉が虚像だったのだとしたら、今度はその実体に触れていた。


「動きます。少しずつ離れてください」


 扉は外開きだった。少しずつ、だが確実に扉が開いていく。徐々に見えてきた扉の断面は俺が想像していた数倍の厚みがあった。殆どバス一台分の長さはあるだろう。その質量たるや、想像することなどほぼ不可能。

 そして——。


「え、音がしない?」


「そうです。いかなる原理か、この扉は稼働する音が一切聞こえません。無音のまま開き、そして閉じる。我々の知りうる扉とは全てが違います。まるでこの場所だけ全く別の物理法則に支配されているような」


 うわ、きも、うそ、何これ。普通、これだけの大質量が稼働したら機械の動く音や、何かが擦れる音がして当たり前だと思うのに。宇宙空間の映像を見せられているみたいに、完全な無音である。


「まだまだこれは序の口です。ここから先は似たような構造物が多数埋もれています。くれぐれも私から離れないでください。大変危険ですから」


 先に踏み出したのはノウレッジだった。完全に解放された扉をくぐり、地下への道を進み始める。俺は剣の持ち手をぐっと握りしめたまま、黙ってそれの後を追った。

 彼が持つたいまつの明かりを頼りに薄暗い道を進んでいく。扉の大きさに比例するかのように、巨大な地下空間が広がっていることを、視覚からではなく反響する足音で想像することができた。


「太陽の時代がどのような時代だったのか殆どわかっていません。ですが、今よりも遙かに進んだ文明が繁栄していたことは事実でしょう。その太陽の時代と現在の月の時代の境目を私たち研究者は暗黒時代と呼んでいます」


 暗黒時代、初めて聞く単語だ。


 けれども何となく意味は分かる気がする。


「たぶん、アルテミス先生の考えていらっしゃることが正解ですよ。暗黒時代は時代と時代の境界故に、世界の均衡が狂いに狂っていた時期です。大きな災禍や戦乱があり当時の資料が殆ど残されていません。ですがここの遺跡からは、その時何が起きていたのか教えてくれる遺構が残されています」


 それはつまり戦乱の跡とかなのだろうか。


「ええ。その通り。今の私たちが持つどれとも違う形状をしていますが、あれは間違いなく兵器だと確信しています。——知っていますか? 余計なデザインを入り込ませる余地のない、人を殺す導具はとても美しいのですよ。あなたが持つその剣のようにね」


 取り留めもない雑談はそれからしばらく続いた。ノウレッジの歴史の講義に耳を傾けたり、魔導力学科の生徒たちの話をしたり、俺の対吸血鬼遍歴を語ったり、おそらく小一時間程度は足を動かし続けていたかもしれない。

 不意に彼が足を止めたのは、丁度俺がこのエンディミオンにくることになった理由を語っていたときだ。

 もちろん、ヘルドマンが用意してくれた、聖教会に紹介されたからというカバーストーリーではあったが。


「つきました。この向こうです」


 たいまつに照らされた光景を鑑みるに、ここから先足場がなくなっていた。つまりは地面が途切れて崖のようになっていたのである。

 崖の下に何かがあるのかもしれないが、光源や魔の力が少なすぎて俺の眼には何も映らなかった。

 ノウレッジは一度背嚢を地面におろすと、その中から銃のような魔導具を引っ張り出していた。


「これは一定時間、空中にとどまり続ける光源を撃ち出すことができる魔導具です。撃ち出された弾から魔の力が照射されるので、私たち月の民の明かりとなってくれます」


 そう言うや否や、彼は崖の向こう側に向かって魔導具を撃ち出した。とどのつまり、これは持続性のある照明弾である。

 白い光の点が帯を引いて空中を浮遊し、ある座標で制止する。そこになって初めて、俺は眼下に広がる光景を認識することができた。


「——うそ」


「いいえ、これは現実です。これはまさしく我々月の民が繁栄を享受する前に滅んでしまった太陽の民の世界です」



01/



 希望とは何なのだろうか。

 イルミは一人、自室でそんなことを考えていた。

 ノウレッジが示した指針に対して納得を見せたイルミだったが、その希望が実際のところ何を指しているのかはてんでわからなかった。

 おそらくイルミにとっての希望はアルテに関することではあるのだろうが、具体的にそれが何であるのかまでが掴めない。

 これは長い禅問答になりそうだと小さくため息をついた。


「イルミっちー、いるー?」


 声がする。

 視線を扉に向ければ、誰かがそれを叩いていた。声から判断するにハンナのようだ。イルミは一言だけ「いるわ」と口を開く。


「あのね、イルミっちにお客さんが来ててさー。ここまで案内しちゃったのよ。勝手に動いて申し訳ないけれど」


 客? とイルミは顔をしかめる。自分を訪ねてきそうな人物など、それこそアルテやレイチェル、クリスにヘルドマンくらいしか心当たりがないが、いずれもアポイントメントなしに訪れることなどあるのだろうか。


「私ちょっとノウレッジ先生に提出しないといけないレポートあるから先行くね」


 応対するべきかどうか考えあぐねていたら、そんなことを言い残してハンナの気配が遠ざかってしまった。責任感のある彼女にしては珍しい動きだと思ったが、それほど急ぎの用事なのだろうと自分に言い聞かせる。


「誰かしら」


 扉の前に立ちそれを開く。

 重厚そうな木製の扉はその見た目に反してあっさりと動いた。

 ここにきてイルミは警戒心というものを失ってしまっていた。エンディミオンの中においてイルミはその居心地のよさを享受していたのもあるが、なにより敵というものにしばらく遭遇していなかったから。

 何より自分を受けて入れてくれる、アルテ以外の人々に囲まれていたから。

 面倒をよく見てくれる兄貴分、姉貴分。

 研究に役立つ書をよく貸し出してくれる双子。

 嫌味を垂れつつもふとした拍子に気を掛けてくれる王族。

 そして自身に道を示そうとしてくれている、人生初の師。


 いわゆる気の緩みが発生していたのかもしれない。

 ここは安全だという思いこみがあったのかもしれない。

 だからこそ、扉の向こうにいたその人影を見定めたときイルミは咄嗟の反応を忘れてしまった。


「——久しぶりだな。元気にしていたか? ——少し身長が伸びたな。昔とは大違いだ」


 自身と同じ銀の髪。血よりも紅く輝く鋭い眼。そっくりそのまま自分が成長したかのような、この世界唯一の肉親。

 存在するだけで災禍となりうる破滅の化身。


「なんだ、その豆鉄砲を食らったような顔は? ああ、この口調が慣れないのか。すまない、この体は前回のそれとは別でな。そうなるように設定されているんだ。前回の体はアドルフに殺されてしまったからな。しかも前と同じ口調の体はサルエレムに出張中だよ」


 彼女は親愛の情を一切隠すことなくイルミに微笑みかける。彼女は一切の遠慮なしに足を室内に踏み出す。


「というわけで遊びに来たよ。愛しい妹よ」


 アリアダストリス。 

 世界最強の吸血鬼の訪問だった。



02/



 室内には香しい紅茶の空気が漂っていた。飾り気のない、ただあるだけだったテーブルの上にはクロスが引かれ、色とりどりの菓子とティーカップが並べられている。


「——あのハンナという女の子、中々優秀だね。私のチャームに幾分か反抗してきたよ。怪しい人をイルミっちのところへは連れていけません、てね。まあ最後は後遺症の残らない程度に操作させてもらったんだけど」


 桜色の唇が紅茶を含んだ。ちらりと見える白い犬歯は鋭く伸びており、人間の其れではない。


「しかし君も随分と変わったな。私と別れた時には感情の一切を見せていなかったというのに。生きる意欲すら希薄だったから、護身用の『ティンダロスの猟犬』を植え付けさせてもらったのも、今となっては良い思い出か。猟犬がなくとも今は大丈夫みたいだね」


 アリアダストリスの紅い瞳がイルミを見た。彼女が滅多に見せることのない、柔らかな視線だ。


「——その名前は嫌いだわ。虚数空間の向こう側から訪れる不躾な野良犬の名前はあの子たちには似合わない。あの子たちは意志ある私の可愛いしもべよ」


 対するイルミの視線は鋭いものだった。いつかのように過剰に畏れることなく、しっかりとアリアダストの瞳を見ている。

 常人ならば狂死にしかねない莫大な魔の力が渦巻く瞳を直視しても正気を保っていた。


「——本当に変わったな。私を畏れなくなったか。それだけあの男の影響は強いのか。ああ、姉妹ならば男の好みが同じであっても仕方ないか」


 好みが同じ。


 その言葉への嫌悪感をイルミは隠さなかった。まるでアルテを慕う気持ちが姉妹の遺伝によるものだと侮辱された気持ちになったから。

 それに——、


「私は姉さんのように彼を弄んだりしないわ。あなたのアルテへの感情は面白いおもちゃを前にした子どものそれよ。私はあの人を愛しているの。あなたのような幼稚でくだらない感情と同じにしないで」


 眼前の女と自分は違うとはっきりと口にした。例えその言葉が七色の愚者の第一階層、スカーレットナイトの機嫌を損ねると知っていても、イルミにとっては決して譲ることのできない一線でもあった。

 イルミリアストリアスはアルテに関することで決して自分を曲げたりしない。

 緑の愚者と命懸けでアルテが戦ってくれたときから、命懸けで自分を守ってくれたときから彼女は変わっていた。

 もう、スカーレットナイトに怯える彼女はいない。


「——っそうか。そこまであの人を愛するか。なら姉として私はその思慕を応援するよ」


 意外なことにアリアダストリスはあっさりと引き下がって見せた。彼女は笑みを一つ零すと、もう一度紅茶のカップを傾けた。


「今日ここを訪れたのは君の顔を見に来たのもあるが、どうしても君に渡さなければならないものがあってね、それを持ってきたんだ」


 言って、アリアダストは懐から手のひらよりも少し大きい木箱を取り出していた。

 机に置かれたそれをイルミは警戒心を解くことなく注視する。

 呪いの類はないようだが、得体の知れないことには変わりなかった。


「まあそう身構えなくてもいいさ。中身はこれだ」


 アリアダストリスが木箱から取り出したのは手袋だった。黒の、柔らかい革でできている手袋だ。


「これは?」


「魔の力の発動を補助する魔導具だよ。使用者が行使した魔の力を現実改変の事象へと昇華するものだ。正直言ってこの世界でもっとも価値のある魔導具かもしれないな。さすがにアルテが持っている『パラケルススの魔剣』には及ばないかもしれないが」


 パラケルスス——黄金剣の名を聞いたとき、イルミの紅い眼ははっきりと見開かれた。


「まさかあの魔導具を剣に打ち直してアルテに渡したの!?」


「なんだ、君が自我を持ち始めたときの話だからてっきり忘れているものだと思っていたが、覚えていたのか。丁度教団に君を引き渡すタイミングだったからな。微妙なところだったがそういうことだったのか」


 一人納得しているアリアダストリスを前にして、イルミは一筋の汗を垂らしたまま身動きが取れなくなっていた。

 すぐにでもアルテにこのことを伝えなければ、という焦りとアリアダストリスの真意が見えない事への畏れが拮抗していた。


「——心配する必要はないよ。あれはもう、太陽の毒を通しやすいよく切れて絶対に折れないただの剣さ。機能の殆どはヘルドマンと私の戦いで失われている。いや、むしろヘルドマンにその殆どを奪われたのか」


 ヘルドマン——つまりユーリッヒの名前が出たことにイルミはますます表情を強めた。


「まさかあの人の影を操る権能は——」


「影というものは太陽の光なくして存在し得ないということさ。あの子の力は殆ど全てが太陽の力由来のものだよ。ただ構築式が月の時代以降のものだから、疑似的に七色の愚者としての機能を果たしているだけにすぎない。彼女本来の愚者としての役割は私が封印したからね」


 アリアダストリスはカラフルな紋様のクッキーを音を立ててかじった。


「おっと、今の話はヘルドマンには内緒で頼むよ。——本題に戻ろう。その手袋は君にしか使えないように設定してある。もちろん呪いなんて掛けていないし、制約も存在しない。過保護な姉からの、可愛い妹へのプレゼントだと思ってくれ」


 言って、アリアダストリスが席を立った。彼女はその場で「うーん」と伸びを一つすると最後にこう締めくくる。


「——またそのうち会いに来るよ。アルテのことをよろしく頼む。君を教団に閉じ込めたのは、彼に会って貰うためだったんだから」


 瞬きしたその瞬間だった。

 まるでそこには誰もいなかったかのように、アリアダストの人影が消え去っていた。

 ただイルミは驚かない。

 あの世界最強の吸血鬼ならばそんなこと、息をするのと同じくらい容易いことだろうから。

 テーブルの上に広げられていた菓子やお茶も霞が散ったかのように、全てその姿を消失している。


「——霞でも食べて生きているのかしら」


 皮肉混じりに言葉を零したイルミは、椅子に腰掛け直してアリアダストリスの残していった手袋を手に取る。

 決して他人に全てを掴ませないアリアダストリスだが、嘘を吐くことが決してないことを知っているイルミは素直にそれを両の手に装着した。

 じんわりとした暖かさが手先から駆けめぐるのを確認して、魔導具としての効果が本物であることを理解する。

 ただ——。


「あの人、どうしてあんな顔をするのかしら」


 イルミがお前と私は違う、と高らかに宣誓したとき、アリアダストリスは笑みで返した。

 けれどもその笑みは——、


「らしくないわ」


 イルミは見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず頭を振っていた。

 何かの間違いだと言わんばかりに思考を無理矢理別のものにそらす。


 だって、あれは——。


 ——泣き笑いなんて、まるであなたもアルテを本当に愛しているかのようじゃない。



03/



 アルテミスはノウレッジに連れられるまま、太陽の時代の遺跡を歩いていた。石畳の道は月の世界のそれと同じようなものだったが、周囲に点在する遺構は全く持って別のものだ。


「——どう考えてもこれって車だよな……」


 ノウレッジから少し離れたところで、アルテミスはそう呟く。彼女(彼)の視線の先には横転したいくつもの自動車が転がっていた。それぞれアルテミスの知るそれらからすれば幾分か先鋭的なデザインをしているものの、基本的には彼女の知る自動車そのものである。


「——ええ、それは自動で動く馬車のようなものですよ。とは言っても、月の世界にも似たような魔導具はありますけどね。ここにはそれが数え切れないくらい存在しています。けれども街の中心にはもっとすごいものがありますよ」


 あら、以外と耳が良いのね、と冷や汗を流すアルテミスだったが、ノウレッジは特に何かを気にとめることもなく歩みを進めていた。

 アルテミスも護衛としての任務を全うするべく慌ててそれについて行く。


「僕はあなたにこそあれを見て貰いたかった」


 それからしばらく地下探検を続けていたらふとノウレッジがそんなことを零した。

 いつの間にか歩みを止めていたノウレッジの眼前には円形の巨大な構造物が鎮座している。

 もともと一つの円柱だったのか、少し離れたところにその土台部分も確認できた。中程から無理矢理切断されたのか、円柱部分だけが地面に倒れ伏しているのである。


「——これも中々興味を惹かれるものですが、この向こう側にあるものはもっとすごいですよ」


 ノウレッジがアルテミスの手を取る。彼は円柱の構造物に近づくと、その表面に施されていた外装の欠けた部分を足がかりに上り始める。


「高いので気をつけてください」


 魔導人形であり、常人と比べるべくもない身体能力を誇るアルテミスは殆どその高さを苦にはしなかったが、ノウレッジも特に危なげなく上部を目指すことができていた。

 インドア派に見えて、結構体力があるんだな、とアルテミスは一人感心している。


「ああ、ついた。あれを見てください」


 眼下を見下ろすのはこれでニ度目だった。

 ただ一度目に受けた衝撃が霞むほど、二度目は随分と強烈な光景がそこにはあった。


「あ、あれは人なんですか?」


「おそらくは。最初は彫刻の類かと思いましたが余りにも精巧で余りにも数が多すぎる。おそらく人が何らかの要因で石化してしまったんでしょう」


 そう。アルテミスが見たのは人の海だった。その数はざっと数千。その全てが何かに向けて押し寄せるように、一様に全ての人が同じ方向を目指して固まっている。それぞれ手を伸ばし、足をもつれさせつつも、絶望に表情を歪めて何かに追い縋っていた。


「太陽の時代の化石と私は呼んでいます。おそらくこの街で何かしらの悲劇が勃発し、住人すべてがあのような石に変えられてしまったのです。ですが問題はあの住人たちではありません。彼らが目指そうとした向こう側のものにあります」


 行きましょう、とまた手を取られた。

 アルテミスは言われるままに人の海に向かって降りていく。


「あまり人々の顔を見ない方がいいです。精神衛生上よくありません」


 アルテミスが青い顔をしているのを見て、ノウレッジがそう忠告した。視線の端々に映るそれぞれの表情がまさしく地獄の怨さにまみれたものだったからだ。一体どのような苦痛を受けたら、こんな表情をしたまま死んでいくのか想像ができなかった。

 こちらの世界にきて随分と立つが、やはり無辜の人の死というものには慣れそうもない。


「ありました。これです。ここで石化している人々は一様にこれを目指しています。ですがこれが何なのか、まだわかっていません」


 地獄の波の終点。


 そこは開けた円形の広場の階段だった。広さは少し大きな縦横100メートルほど。階段の周辺には鋼鉄のフレームを組み合わせてできた奇怪なオブジェクトが点在しており、アルテミスはそれを、いつか戦争映画で見た車両止めかもしれないと思った。そっとそれらに近づいてみれば鋭い刃が編み込まれた針金も巻き付けられており、有棘鉄線のような役割を担っているのだろうとアタリをたてた。

 そして何より。

 人々を寄せ付けぬように鎮座する障害物の中心にあったもの。ノウレッジが正体がわからないと言った物体。

 アルテミスは、いやアルテは正体を知っている。

 絶対に正解だとは言い切れないものの、彼は一定の確信を抱いたままそれを見上げた。


「投光器だ、これ」


 独り言はノウレッジに届かなかった。彼はアルテミスから少し離れたところで有棘鉄線のサンプルを採集しようと格闘していたからだ。

 アルテミスはノウレッジの意識に自分がいないことを確認すると、もう一度投光器を見上げた。円錐の反射鏡の中にあるはずのランプは消失しているが、その先は間違いなく広場に殺到していた石の群衆を指している。

 しかも投光器には数多の線が接続されており、それぞれがタンクローリーの化け物のような車両から伸びていた。


「——電気を集めたのか。たった一つの投光器に。でも何故? 何故これをこうまでして運用して、こうまでして守っているんだ?」


 投光器の周辺に石化した人々はいない。アルテミスは有棘鉄線で保護された車両止めを軽やかに飛び越えると、投光器のすぐ真下に着地する。

 何か、鉄のようなものを踏んだ。


「——あ」


 気がつけばそれに手を延ばし、気がつけばそれを懐に隠していた。何か見ては行けないものを見た気がして、これはノウレッジから隠した方がいいと思って、魔導人形の体になってから付随してきた胸の間に隠した。


「アルテミス先生! 今日はここまでにして戻りましょう! 魔獣の類はここいらにいないようですから、今回は様子見ということで十分でしょう!」


 幸い、ノウレッジにそれをちょろまかしたことはバレなかった。彼は行きのようにアルテミスを先導すると、これからの予定を口にしながら帰路を進む。

 アルテミスは横倒しにになった円柱を登る傍ら、静かに振り返りつつ広場を見下ろした。

 ここで何があったのか想像した彼は、言いようもない不安を感じて口を真一文字に閉じたまま先をいく。

 もし今抱いている予想が的中していたとしたら、それは彼自身のアイデンティティーを覆しかねなかったから。

 自身が信じていた世界の理が違っていたという事だから。

 彼の表情はそれから、自分の執務室に戻ったあとも決して優れることはなかった。



04/



 義手は、いや、ヘンリエッタは主がある魔導具を持ち帰ってきていることに気がついた。執務室で簡単な業務を終え、私室に帰ってきたアルテミスは一人シャワーを浴びている。

 そんな彼女の荷物を整理していたヘンリエッタは、脱ぎ捨てられた衣服の中に何か硬質な得体の知れない物体を見つけていた。

 触れるつもりは全くなかったが、衣服からこぼれ出てきてしまった以上、拾い上げなければならない。

 誤作動を畏れ、一切の魔の力の行使を遮断した彼女は、おそるおそるそれをつまみ上げた。

 見た目よりも遙かに重たく、黒いそれは金属の固まりからできているようだった。


「これは」


 とにかく元に戻そうと、ヘンリエッタは再びそれを衣服の中に包み込んだ。アルテミスが服と一緒くたにしていた以上、彼女から何か申しつけがあるまで触れるべきではないと判断したからだ。

 ただ——。


「——太陽の時代の文字がどうして」


 彼女はもともと太陽の時代に作られたコアを材料として制作された義手だ。だからこそヘンリエッタはその時代の文字を読むことができる。

 衣服をそのままにし、風呂上がりのアルテミスへ供する飲み物を作り始めた彼女は、ぽつりと言葉を漏らした。


「SIGSAUER P226。型番か何かでしょうか」


 ただそれから、ヘンリエッタが魔導具の正体についてアルテミスに問いかけることはなかった。ひどく疲れているのか、顔色の優れないアルテミスがすぐにベッドに横になってしまったからだ。

 主の身の保全を最優先する彼女は、甲斐甲斐しくそんなアルテミスを世話した。主が自分から話さないのなら、問いかけるべきではないと自分を律したことも大きい。

 その魔導具はすっかり存在を誰にも触れられないまま、静かにアルテミスの懐に隠され続けることになったのである。

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