第71話 「いくら頑張られてもそもそもフラグがない」
「あっはっはっはっはっははっ! あははははははははははっ!」
俺、この人の笑い声初めて聞いたかもしれない。
「エンディミオンで教鞭をとっていたら男子生徒から告白されるとかなんの冗談でしょう! 本当に面白くって、お腹が捩れちゃいます!」
えっひっひっ、と淑女らしくない引き攣った声を漏らしつつ、ヘルドマンは床に蹲っていた。
あの大事件の後、一度魔導人形から意識を本体に引き戻した俺は、事の顛末をヘルドマンに語って見せたのだ。
久方ぶりの己の肉体は相変わらず動きが重く、立ち上がるにもヘルドマンの操る影の介助が必要という有様ではあったが。
「普段のあなたなら絶対にあり得ないことですけれど、あの身体には私の自意識も無意識レベルで介在していますからね。いつもよりかは人当たりも良く、理知的な側面もあるでしょうから、そこが人を惹き付けたのでしょう。何せ、あなたはその思想や思考はともかくとして、随分と真っ直ぐな、好ましい人格の持ち主ですから」
え、これって褒められてんの? けなされてんの?
それって普段は人当たり悪くて馬鹿で思想思考が嫌われてるって言われてるのと同義だと思うんですけれど。
ヘルドマンさん酷くない?
「ま、返答なんて決まってはいるでしょうけれど、斬り殺したりはやめてくださいね。どうしてもしつこいようでしたら、現地にいるマクラミンに連絡をとって、あなたに近づかないよう手配しますから。あそこで殺人事件を起こされてしまうと、のちのちのフォローが不可能になってしまいます」
いや、いくら男に告白されたのが嫌だったからって斬り殺したりはしないさ。ていうか既に丁重にお断りしているし。決まり文句としては使い古されて手垢が尽きまくっているやつでだけど。
ずばり、
他に好きな人がいるんです、ごめんなさい。
どうだ完璧だろう。
別に好きな人の名前を出さなくても、この一言を言われただけでお前にチャンスがないと遠回しに伝えることができるパーフェクトなフレーズだ。
事実、あの生徒は「そうですか。それは仕方ないですね」とすごすごと引き下がって見せた。
えっひっひっ。
諦めが良いところだけは嫌いじゃないぜ。あと、生徒の中では一番見所があるのもまた事実。
告白を受け入れるのは一切ゴメンだが、これからも組み手の相手くらいならしてやってもいいと思っている。
何だかんだ行って、先生先生と呼ばれてこちらの技を伝授していく過程は面白いものなのだ。
「さて、今日のリハビリはここまでにしましょうか。ところでアルテ、あなたに一つ確認しておきたいことがあるのですけれど、あなたは紫の愚者、一体何処まで追いかけていますか?」
ヘルドマンの影に操られて、俺はふらりと椅子に座らされた。ヘルドマンはその様子を満足げに確認すると、手元に用意していた小さなベルを鳴らす。あれは何処かに控えているクリスを呼び出すためのものだと、つい最近知った。
ところでどうしてこのタイミングで紫の愚者なのだろう、と思考を巡らせてみれば、こいつの根城がエンディミオンであることを今更ながらに思いだす。講師業に専念する余り、そのことをすっかりと忘れていた。
だから素直にさっぱりです、と答える。
「全くだ。影も形も掴んでいない」
「でしょうね。あれを見つけ出すのは然したるあなたでも難しいでしょう。逃げ、隠れることにかけては七人の愚者一ですから」
丁度そのタイミングでクリスが部屋に訪れた。
しかもその背後にお盆を持ったレイチェルを伴っている。どういう組み合わせなのか、と不思議に思っていたらヘルドマンが補足してくれた。
「彼女もクリスと一緒にくるよう手配したのですよ。紫の愚者に関する情報は皆で共有した方が良いと思いまして」
クリスの手で香りの良い紅茶と茶菓子が配られる。俺はまだ一人で口にすることができないので、レイチェルが隣に腰掛けてくれ、口元に切り分けた茶菓子を持ってきてくれた。
正直、衆人環視の中それを口にするのは中々にハードルが高いと思うんですけれど。
「……なんだ、甘い物は嫌いか?」
ただレイチェルが困ったように微笑むものだから居心地が非常に悪い。クリスなんて「そういうところだぞ」と口に出してるし、ヘルドマンだって「あらあら」と笑みを零している。
みんなで寄ってたかって責められては、観念する他なかった。
口の中に広がる甘味がほろ苦い。
「では話を始めましょうか。まず第一前提として紫の愚者がこちらと敵対することは殆どありません。あの者は非常に温厚な性格の持ち主でして、私たちが仕掛けない限り決して自ら動くことはないでしょう。彼はエンディミオンの最下部で自身の研究に没頭していますから」
成る程、ヘルドマンの口ぶりから推測するに、紫の愚者は学者肌という訳か。もし仮にその説明が正しければ、俺やイルミと敵対する可能性は低いだろう。
「戦闘力も正直言って低いです。青の愚者よりは高くても、緑の愚者よりは低い。緑の愚者を下したあなたならば、勝機は必ずやあります」
いや、それは正直言ってどうだろう。ガチンコで殴り合った青の愚者ならともかく、緑の愚者はほぼほぼ負け戦で、彼女の中に残されていた小さな優しさに救われた形だった。多分、千回闘えば九百九十九回は負けると思う。
「で、ここからが話の肝要なんですけれど、ぶっちゃけどうします? 紫の愚者を殺しますか? あなたがどうしても殺したいというのならばサポートさせて頂きますけれど、正直旨味はあまりありません。殺すくらいならアルテミスの身分を使って利用する方がいいかと思います。闘う力はなくとも、あの者の魔の力に対する造詣は目を見張るものがありますから」
案に非戦を進めてくるヘルドマンの言葉に、俺は素直に頷いていた。ていうかそこまで積極的に愚者と闘おうとは思わないし。敵対するならばまだしも、そうでないのならばこちらから喧嘩をふっかける必要はないだろう。
——まあ赤の愚者だけはヘルドマンに殺せと言われているのでどうしようもないのだが。
「ならば決まりですね。アルテにはイルミの監視以外にも、紫の愚者を探すという仕事を受け持って貰いましょうか。かの愚者はエンディミオンの最下層に引き籠もってもう数十年は姿を現していません。あなたにはアルテミスとしてその下層部に潜り込み、かの愚者を見つけ出して下さい。もし、対面することが出来れば私の名前を出すだけである程度の協力は得られるはずです」
ん? 紫の愚者を探せという話はわからないでもないが、どうしてヘルドマンの名前を出せば協力が得られるんだ? 二人は知り合いでひょっとして意外と仲が良かったり?
俺の抱いた疑問にヘルドマンは直ぐに答えてくれた。彼女も中々、俺の視線や表情だけで考えていることを理解してくれるようになった気がする。
「なに、簡単なことですよ。——私が三十年ほど前に赤の愚者と殺し合うことになったとき、協力を仰いだのが紫の愚者なのですから。あの者はそれなりに手を貸してくれたので私に対してそれほど悪い感情は抱いていないと思います。私が探していることと、会いたがっていることを伝えてくれれば多分顔くらいは見せてくれるでしょう」
おおっと、ここで意外かつ重要な情報がでてきたぞ。
ヘルドマンが赤の愚者と争ったことは以前に聞かされていたが、協力者がいたことは初耳だった。というかどうして赤の愚者と殺し合ったのかも知らない気がする。これって聞いても良いことなのだろうか。
「——あなたは赤の愚者と殺し合ったというが、何故殺し合ったんだ? くだんの紫の愚者が協力してくれていることを鑑みるに、それなりに理があったのか?」
と思えばいつのまにかレイチェルがヘルドマンに問いかけていた。ありがとうレイチェル、俺が聞きにくいな、と思っていたことを聞いてくれるの、正直とても助かるよ。
が、そんな俺の感謝の気持ちは僅か数秒しか持続しなかった。
理由は極単純。
ようするにその質問はヘルドマンに対して正しくタブーだったのだ。
「………………」
沈黙だけならばまだ良かった。
ただ、レイチェルの眼前に出現した黒い槍だけはいただけない。咄嗟に俺が掴んで止めていなければ今頃レイチェルの首から上はサヨナラしていた可能性すらある。
ていうか、必死すぎて気がつかなかったけど、久しぶりに身体が思い通りに動いた感触があった。人間追い詰められたその瞬間は、火事場の馬鹿力ってやつが発動してくれるのかもしれない。
「お、おい、アルテ。手が」
珍しくクリスが狼狽えている。彼女の視線の先では生身のままである俺の左手がずたぼろにされている光景があった。螺旋を描く黒槍はエッジが完全に刃物と化しており、掴み取った俺の左手が殆ど原型を留めていなかったのである。
今気がついたけれど、これ中指とか薬指とか取れかかっていない?
嵌めていた黒い指輪も赤い指輪も床に落ちてるんだけれど。
え、滅茶苦茶痛い。
「あ、あ、ご、ごめんなさい」
今更になって正気を取り戻したヘルドマンが謝罪を口にした。控えめに言っても彼女の顔は青ざめきっており、座っていた椅子から転げ落ちそうなほど身を引いている。
黒槍がまだ解除されないのは、それをしてしまうと槍に切り刻まれている俺の左手がいよいよ修復不可能なほど分離してしまうからだろうか。
「ち、違うんです。私そんなつもりじゃ、レイチェルも殺すつもりなんかなくて、いや、そもそも槍なんて出すつもりじゃ、アルテの手も傷つけたりなんか、」
声は途切れ途切れで息を吸いすぎていた。ほぼほぼ過呼吸みたいなテンポでヘルドマンが何とか言葉を漏らす。自身の主の異常を感じ取ったクリスが慌ててその肩を掴んでいた。
「大丈夫です、今ならまだ治せます! あなたの影を触媒にアルテの手を繋ぎあわせてください!」
例え恐慌状態に陥っていてもヘルドマンの行動は早かった。俺の左手をミンチにしていた黒槍がうぞうぞと蠢いたと思えば、それらが縫合糸のような形状となってバラバラになっていた指や手の甲を縫い止めていく。
不思議と痛みが引いているのも魔の力の作用なのだろうか。
ものの十数秒で俺の手はもとの原型を取り戻していた。ぐっぱと握り込めば動きこそ鈍いものの、確かに俺の意思で動く左手がそこにはあった。
「……アルテ、今日は一度休んだ方が良い。お前もアルテミスとの意識の同調を繰り返しているものだから間違いなく体力は消耗しているだろう。レイチェル、こいつを別室の休める場所に連れて行ってやってくれ」
ヘルドマンを庇うように抱きしめるクリスが、背中をこちらに向けたままそう言った。そこにははっきりとこちらを拒絶する意思を感じ取ることができ、これ以上の追求はやめておけと表情こそ見えなくとも雄弁に語っていた。
それに加え、懇願のような声色を漏らされたらこちらに取ることの出来る選択肢など一つだけ。
「レイチェル、頼む」
まだ足が自由を効かないものだから、レイチェルに肩を貸されて部屋を退出することになる。
アルテミスの身体に潜り込むにはヘルドマンの協力が必要不可欠ではあるが、今日はほぼ望み薄だろう。ならば方便とは言えクリスが告げたように体力の回復に努めるのが上策だ。
しかしいくらタブーに触れたとはいえ、あそこで殺意をカタチにしてしまうなどヘルドマンらしくない行動である。
もしかしたら、俺の知らないところで彼女は何か厄介事を抱え込んでしまっているのではないだろうか。
俺に出来ることなど殆どないだろうが、それでもいつかは真意を聞き出して力になりたいと思うのもまた事実である。
01/
アルテ達が退出した後、絞り出すようにヘルドマンが口を開いた。
「——緑の愚者の心臓を取り込んでから、どうやら情緒面がよくないみたいです。あなたや狂人、レイチェルにはとんだ失態を見せてしまいました」
焦燥しきったヘルドマンの声にクリスが応える。
「いえ、不意打ちとはいえあの問いを口にしてしまったのはレイチェルの落ち度です。あなたにとって赤の愚者との殺し合いは今だ消化しきれることではないでしょう」
「……下らない仇討ちを仕掛けて力及ばず負けただけですよ。そこに大した意味なんてありません」
「——父と母の仇を討とうとしたあなたの思いは至極尊いものであると考えています。そう自身を卑下なさらないで下さい。きっとお父様もお母様もヘルドマン様の事を誇りに思っておいでです」
冷めてしまった紅茶が入ったティーポットにクリスが手を翳す。魔の力を込めれば発熱する素材が中に入れられたポットは、あっという間に湯気を立たせる紅茶を再現して見せた。
それをカップに煎れなおしたクリスがヘルドマンに向き直る。
「でも私には父と母の名前は愚か、その姿形の記憶すら存在していません。赤の愚者に敗れたその時、代償として全てを持っていかれた。私が父と母と暮らしていた記憶の全てを奴に奪われた。何一つとして二人の記憶を抱いていないのに、ただ漠然と赤の愚者を殺さなければならないと考えている。何と滑稽で無様な復讐劇」
それ以上、クリスは言葉を紡げなかった。
憂いを帯び、自身の手のひらを見つめる主にかけるべき言葉が見つからなかった。
吸血鬼ハンターとして呪いを受けてからずっと付き従い続けている主の心を晴らすことは出来なかった。
「——アルテには改めて私から謝罪します。クリスはあの二人の夕食を手配して下さい。私も、少し頭を冷やしてから実務に戻ります」
「畏まりました。ただどうかご自愛ください。レストリアブールに来てからまだ休みを取られていないと思いますので、私は不遜ながら御身の体調を気にしております」
いよいよ、部屋の中にはヘルドマン一人になった。
彼女はクリスから渡された紅茶に口をつける。
ふと、視線が床に落ちているあるものを捉える。
それは赤と黒、二色の指輪だった。アルテの指に嵌められていたものが、先ほどのゴタゴタで外れたのだ。
徐にそれらを手に取る。
「これは私が念話を届けるためにアルテに渡したもの……。でもこれは一体……」
黒い指輪は確かに見覚えのあるものだった。だがもう一つの赤い指輪にはてんで心当たりがない。
いや、それどころか胸騒ぎのような、悪寒のような感情をヘルドマンは抱く。
「まさか、いや、そんな筈は」
魔の力を込めれば赤く発光する。悪寒はまさしく確信にかわり、ヘルドマンは指輪を宙に投げた。そして先ほどとは違い、間違いなく己の意思で黒槍を影から生み出し、指輪へと突進させる。
が、
「ちっ。障壁か」
凡百の指輪なら、その一撃で塵と化しただろうに、赤い指輪は愚者の一撃を受けてもなお赤く光り輝いていた。
黒槍に弾かれ、地面に再び落ちた指輪をヘルドマンは苛立ち混じりに拾い上げる。
「αかβかもしくは本丸か。いずれにしろ、あいつらの誰かがアルテに渡したのでしょうか? 効果は若干の加護のみと控えめですが、どうしてこんなものを彼に?」
疑問に答えるものは誰もいない。
だがあの性悪で気まぐれな吸血鬼ならばヘルドマンへの挑発の意味も込めて、アルテに何らかの方法で渡した可能性がある。
「危険だと取り上げるのは容易ですが、アルテに何か意図があればこちらが彼から敵視されかねない。これは少しばかり保留ですね」
悩ましい問題だ、と彼女は指輪を机の上に放り投げた。腹立たしいことに、狂人に粉を掛けているのは赤の愚者も同じ事だ。
彼の何が世界最強の怪物の琴線に触れたのかはわからないが、若干その気持ちがわからないでもないことが、さらに彼女を苛つかせる。
「力を失いおよそ三十年。しかしながら三人の愚者を食らうことで、半分まで力は取り戻した。例えこれが赤の愚者の企みだったとしても、私は必ずやあいつを食らい破って見せる」
拳を握り、魔の力を対流させる。
そこにいつかの垂れ流しの冷気はなく、美しく練り上げられた黒い螺旋が渦巻くだけだった。
「——見てて、父さん、母さん、私は何度敗れようと絶対にあなたたちの仇を取ってみせる。絶対にあなたたちの記憶を取り戻してみせる」
02/
すっぱりと諦めてくれたと思ったのに、翌週には再び花束を持って奴は俺の前に現れた。
お前のルックスならば女の子を取っ替えひっかえできるだろうに、よりにもよって男の俺に付きまとってくる。
取り敢えずむかついたから無理難題を押しつけてやった。
男からの告白とか、屈辱きわまれりだったから、八つ当たりのように課題と訓練を課してやった。
根を上げてとっとと諦めてどっかにいけと伝えたつもりだった。
でもやつは、あの糞イケメンはそんな俺の意地悪で悪意に塗れた仕返しすら嬉々として乗り越えてきたのだ。ぶっちゃけ俺はあいつが怖くなった。
03/
「こちらがアルテミス先生から課せられていた吸血鬼の文化に関するレポートです。先生の慧眼には遠く及びませんが、全力は尽くしました。ご指導ご鞭撻をお願いします。指定された図書も全て図書館にて読破してきましたので、それぞれの書の注釈と私なりの見解をこちらに纏めています。おそらく先生からすればまだまだ読み込みが足りてはいないでしょうが、お目通し頂ければ幸いです。では今から先生に教授頂いたトレーニングに行きますので、明日の授業、よろしくお願いします」
両手で抱えるのもやっとの紙束を俺に押しつけてきたヴォルフガングが足早にその場を立ち去っていく。奴から告白されて二週間、なんかそれだけの期間であいつの身体、すんげえでかくなってね? やっぱよく食べてよく鍛えたら人間ああなるのかね。
「いやー、凄いレポートですね。他分野専攻故にアルテミス先生ほど知見が深くない私でも、このレポートの完成度の高さはわかりますよ。彼、もともと才ある学徒の一人ではありましたが、変なエリート意識に邪魔されて今一歩殻を破れていなかったんですよね。アルテミス先生に教授されてから人が変わったように覚醒してますね。他の実技講座もトップを独占とか」
ふーん、へー、そうなんだ。
博識なノウレッジ先生は何でも知ってるね。
ていうかこのレポートそんなに凄いの? 字が達筆すぎて用語も難解すぎて、一つも書いてあることがわからないんだけれど。
「愛の力って凄いですよね。彼、必ずあなたを振り向かせてみせる、って意気込んでいますから。今はまだ駄目でも一年後とかにはだいぶ良い線いくんじゃないでしょうか」
そーだねー。
いやー、他に好きな人がいるから駄目って言ったら、その人を超えてみせるって宣言しちゃって、ここまで化けるとは思わないよねー。
まだまだ俺には適わないけれど、それでも油断が出来ないくらいには組み手も上達してるし。
「では僕はこれで。次は魔導力学科で講義なんですよ。アルテミス先生も、ヴォルフガング君の教授に熱心なのもいいですが、身体を壊さないで下さいね」
心配せんでも、これ全部読むことはできませんよー。だって何書いてあるか本当にわからないんだもん。
あ、イルミちゃんのことよろしくね。
はい、というわけで厄介な奴に絡まれ出したアルテことアルテミスです。
マジで彼がここまで俺に付きまとってくるのは誤算なんですけれど。
ヘルドマンに左手をバラバラにされたことよりも誤算なんですけれど!
「はあ、紫の愚者捜しもせにゃならんのに、どうしてこうも面倒事が増えていくんだ。折角の空きコマもあいつに押しつけるそれっぽい課題を考えることに消費しているとか、マジで時間の無駄きわまれりじゃんか」
講師として与えられた執務室に、ヴォルフガングから受け取った紙束を投げ出す。
部屋では俺の帰りを待っていたのか、義手——ヘンリエッタが軽食を用意してくれていた。
「ロマリアーナの人間とパイプができることは好ましいはずなのですが、あの人物はいささか扱い辛すぎますね。始末いたしましょうか?」
ナチュラルに過激な発言しかしない義手ちゃんをなだめつつ、用意されたサンドイッチを頬張る。最近やみつきになってきたキュウリのバターサンドだ。ていうかこの世界にもキュウリってあるのね。異世界だけれども割と植生が現実世界よりなところは有り難い。
あ、でも先週のようにバラの花束を野郎から贈られてしまう原因でもあるので、一概に良いとはいえないか。
「いや、そこまでしなくていい。脈なしであることを伝え続ければいつか諦めるだろう。幸い、俺の授業は真面目に聞いてくれているから、上からの俺に対する査定も悪くはならないだろうし、暫くは放置する」
押しつけられた紙束からレポートを一冊抜き出す。相変わらず何を書いているのかちんぷんかんぷんなそれだが、彼なりに労力を掛けて用意してくれたものなのだろう。読んで理解することは能わないが、目を通すくらいならやっておくべきか。
「ま、紫の愚者捜しはのんびり進めるさ。今はイルミが彼女自身の力を伸ばすことができるようにサポートに徹するよ。——中身が俺だって絶対にバレないように」
ヘルドマンに伝えられた新たな目標を口にしつつ、レポートの文字列を目で追う。
「折角の落ち着いた日々が手に入りそうなんだ。もう少しくらい、浸っていても罰は当たるまい」
04/
紅茶の香りに満たされた一室、いつのまにかアルテの寝息の音以外が消失した空間。
そこで義手——ヘンリエッタは文字通りの無音でティーカップを片し始めていた。
ソファーに座り込んだアルテは読みかけのレポートに埋もれたまま身動き一つしない。
クッションに広がった黒髪と、周囲に散らばった羊皮紙の白のコントラストがヘンリエッタの視界に映える。
「……今この時だけが主様にとって安息のときなのでしょうか」
本来のアルテの身体は傷だらけで右腕がない。全身隙間なく切り傷に犯されており、歴戦の激しさを物語っている。しかしながら今の身体——アルテミスのそれは傷一つない美しいものだった。アルテが普段から感じていたであろう全身の傷の疼きとは無縁であることは想像に難くない。
だからこそ、これほどまでに安らかな寝顔をたたえているのだろうとヘンリエッタは考える。
今の穏やかなそれこそが、アルテが本来持ち得ていた表情であることを今更ながらに知ったのである。
「主様は——」
言葉は一度途切れる。それは彼女が毛布を手にしたからであり、声の再開はその毛布がアルテに掛けられた時だ。
「主様はとても心がお優しい方だと思います。その何よりも美しいお休みの顔がそれを物語っています。だからこそ、わたくしはいつまでもあなたのお側に」
彼女がアルテに対する絶対の忠誠を捧げるのは、エンリカによってそうなるように設定されたからであるが、それ以外にも時折彼が見せてくる心の優しさが尊いものだったからである。
ただの殺人狂に付き合うほど、彼女は酔狂ではない。
「いつかあなたが、心の底から安らかに眠ることの出来る日が来ますように」
柔らかな慈愛の手のひらが、アルテの額をそっと撫でた。
遅くなりました。2、3話はちょこちょこと更新できると思います。




