第63話 「馬鹿が教える、馬鹿だけができる吸血鬼の殺し方」
朝、イルミは目が覚める。
簡素なベッドでの伸びをすること少し。あたりを見渡せば、やや小さめの最低限の家具しか置かれていない自室が視界に入った。
何気に人生初の自室である。
だからこそ、彼女はそれらをどうデザインすればいいのかわからないまま、結局のところは殆どほったらかしにして数週間の時を過ごしていた。
「ふあっ」
欠伸をかみ殺し、水道場まで赴く。
手早く顔を洗い歯を磨き、身支度をとんとん拍子に進めた。
寝間着から着替える衣服も、足下を守る靴も全て聖教会からの支給品だった。
あまり物を持ちたがらない彼女の私物は本当に必要最低限で、クリスが慌てて渡したものばかりだった。
外に出てみればまだ日が暮れたばかりの、殆どの人が寝ているような時刻だ。
竜革のローブで西の空に残されている夕焼けの残滓から身を守りながら、彼女は人気のないエンディミオンを歩いて行く。
いつもならば学生で賑わっている市場町も、この時ばかりはイルミだけの世界だった。
「おいで」
彼女が訪れたのはエンディミオンの西側に位置する多目的広場だった。
主に学生の集会や、屋外での実験研究に使われるだだっ広い広場である。
そこで彼女は自身の魔の力を使って顕現させた二匹の使い魔を走り回らせていた。
「クルス、あなたは常にニアをカバーして。ちょっとだけスピードが速い。ニアはクルスに遅れないよう、もう少し急ぎなさい」
クルスとニア。
それが今更になってイルミが己の使い魔に与えた名だった。
もともとこの狼たちをイルミの影に縫い付けた姉が二匹の名前を教えてくれてはいたが、ここに来て自分で命名してみたくなったのだ。
同じ魔の力を与えても、クルスの方がやや体格が大きく、ニアは少しばかり細っこい。そういった身体的特徴と雰囲気で、彼女は二匹を区別していた。
「そう。その調子。ただ獲物に飛びかかるだけじゃ駄目。しっかりタイミングを合わせるか、フェイントも織り交ぜて」
彼女がここで行っているのは、いわば使い魔の調教のようなものだった。
これまで割と好き勝手にさせてきていた二匹の狼を、しっかりと手足のように扱うことによって少しでも自身の戦闘力を底上げしようとしているのだ。
それもこれも全て、アルテの旅の足を引っ張らないようにするための彼女なりの考えの一つだ。
「よし、そこまで。戻ってきなさい」
ぱんぱん、と手を叩き、彼女が狼たちを呼び戻したのは、そろそろ他の生徒や職員たちが起き出してこようか、という時だった。
継続的に魔の力を消耗したため、若干息の上がった彼女は持参していたタオルで汗を拭う。
狼を手早く影にしまいこんで、伸びを一つした彼女は元来た道を戻るべく、広場を後にした。
すると丁度、広場の入り口のところで一人の人物とすれ違う。
横目でその人影を追ってみれば、長い漆黒の髪をした女だった。彼女は身の丈に合わない巨大な剣を背中に吊しており、様々な人種で溢れかえっているエンディミオンにおいてもその異様さは抜きんでている。
思わず振り返ってみれば、件の女もこちらのことを見ていた。
どきり、とイルミの心臓が跳ねる。
「……君も鍛えていたのか?」
言葉は女から。
やけに世界に響き渡る、鈴のような声だった。こんな声色をした人物をイルミは初めて見た。
とくに何も考えないまま、咄嗟に頷いたイルミに対して女は続ける。
「そうか。私も鍛えるところだ。怪我をしない程度に頑張りなさい」
そのような事を告げると、女はもう話すことはないと言わんばかりに歩みを広場へ進めていった。
けれどもイルミはその場に取り残されたまま、しばらく動き出すことが出来なかった。
何故なら、姿形どころか性別全てが違っていても、
どこか自分がこの世界で一番愛している人に、それとなく雰囲気が似ていたのだから。
/
うえー、あぶねー、ほんとあぶねー。
まさかイルミちゃんも朝練ですか、そうですか。
いや、日が暮れてすぐだから夕練なのかな。まあ、どうでもいいか。
まさかの邂逅である。
エンディミオン勤務一日目からの邂逅である。
これだけ広い敷地なのだから、数キロメートル四方の島全てが学園の敷地なのだから、こちらから意識して探さないと会えないだろうな、と考えていたらいきなりの接触である。
『心配ありませんよ。主様。主様の擬態は完璧でした』
俺の動揺を少なからず察したのか、胸元からこちらを気遣ったような、フォローするような声色が聞こえた。
そこにぶら下がっているのは、黒い透明な石が埋め込まれたペンダントである。
「見ていたのか」
『はい。主様の部屋の掃除が終わりましたので、主様自身のサポートをしなければと考えました。差し出がましい真似をしてしまったことは謝罪します』
「いや、いい。あと三十分で戻る。湯浴みの準備だけ頼めるか?」
『かしこまりました』
そう。声の主はエンリカに作って貰った義体である。
さすがにアレをこの身体に装備しては一発でイルミに正体がバレてしまうので、少し違った形で連れてきたのだ。
最初はレストリアブールに置いてきて、レイチェルのサポートを頼もうとしたのだが、頑として俺についてくると主張したのだ。
まあ、少々暴走癖があっても何度も命を救って貰った頼れる相棒である。
その意思を無碍にするわけにはいかず、マクラミンと共に帯同を願い出たのだ。
「さて、と」
元の身体に比べればかなり饒舌になったこの身体は独り言が多い。
それは今まで話すことが出来なかった鬱憤を晴らすという意味を考えれば仕方の無いことだろう。
誰に言い訳をしているのかはてんでわからないが。
「よっ」
背に吊した大剣を振るってみれば、やや身体の方が引っ張られる感触が残っていた。
これはこの身体の――女の身体の体重を考えるとどうしようもないことだが、もっと安定感のある足運びをしたいと俺は考えている。
エンディミオンの試験は一発合格だった。
他の採用試験候補者を一蹴し、飛び込みでも合格できた。
けれども課題は山積みだ。
これまで戦ってきた愚者たちのことを考えれば、あれくらいのエセ吸血鬼、もう五秒は短縮して切り伏せなければならなかった。
緑の愚者相手にあんな戦い方をしてみれば、二秒でなます切りにされてしまうだろう。
そしてその五秒を短縮できなかった理由が、この身体を俺が使いこなせていないというものだから、早急に改善する必要がある。
まさかこの学園で、愚者クラスの敵を斬り合うことなどあり得ないだろうが、万が一と言うこともあるし、いざというときにイルミも守れない。
地道に訓練を続けて、身体を完璧に支配するほかないのだ。
さらにその訓練が、本体のリハビリに繋がっているのだから尚更だろう。
「うん、これ以上は身体に不調をきたすかな」
剣を振るうこと二十分弱。
両手の筋がぴりぴりと痺れだした頃に、剣を手放した。
この身体のリーチの短さと非力さを補うために、ヘルドマンが聖教会の倉庫から引っ張り出してくれた剣だが、その重量は黄金剣よりも重たく、地面にそれは深々と突き刺さる。
まだまだこの剣を使いこなすには、こちらの経験値が足りていないようだ。
「戻ろう」
形だけの宣言をして、剣を背中の鞘にしまい込む。
この鞘に戻すという動作も、黄金剣の鞘をなくしてからは久しく行っていない行為だった。
ふと空を見上げれば日が完全に暮れて、月が昇り始めていた。
イルミとすれ違ったときには夕焼けが完全に沈みかけていたから、丁度そんな時間帯なのだろう。
ここ最近はイルミやレイチェルに生活の時間帯を合わせていたものだから、夜に活動するという様式も違和感がなくなってしまっていた。
「なんというか、随分遠いところまできたな」
そんな呟きは、ささやかに吹き始めた夜の風に吸い込まれて消えていった。
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新しい講義が開講されたという噂が「魔導力学科」に届いたのは、その日の深夜の食事時だった。
自分たちがマイナーな科の、しかも爪弾きだと理解している「魔導力学科」に所属している面々は、大盛況の学生食堂に向かうことはなく、それぞれ市場や出店で調達してきた食事に齧り付いていた。
イルミも訓練帰りの市場で購入してきたサンドイッチを口にしている。
「なんでも新しい講師がやってきたんだって。ちらっと見た他の科の生徒によれば凄い美人さんだって」
ハンナがそんな風に台詞を述べれば、アズナがこう返した。
「いや。俺は凄腕の大剣使いと聞いたな。何でも採用試験で疑似吸血鬼をバラバラにしてしまったらしい」
「嘘、あれって『魔導生物科』の自信作でしょう? ロマリアーナからも軍事目的の注文が届いているらしいじゃない」
「はん、そんな噂事に惑わされるとは、貴様ら庶民はあまりにも学がなさ過ぎる」
ハンナとアズナの会話が熱を帯びてくれば、それに茶々をいれるのはヘインだった。ハンナとアズナももう手慣れたもので、そんなヘインに対して一々腹を立てたりはしない。
エリーシャとカリーシャの双子、そしてイルミは会話に加わるつもりがあんまりないのか、黙って三人のやりとりを眺めている。
「で、その講師が授業する新しい講義って何なの?」
最早定番となりつつある三人のやりとりが一段落したその時、疑問を口にしたのはハンナだった。
彼女は新しい講師がやって来たことは知ってはいたが、肝心の講義内容については知らなかったのだ。
対するアズナはこれは他科の奴からの又聞きだけれども、と前置きをした上でこう答えた。
「『対吸血鬼及び魔生物学』だってさ。吸血鬼の弱点や、それとの戦い方を主に教えてくれるらしい。いわゆる戦闘講義だな」
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エンディミオンで研究されている分野は多岐にわたるが、その中には軍事的な分野に研究する物が少なからず存在する。
魔の力を使った戦争の戦術戦略研究であったり、兵器の研究がそれにあたる。
とくに魔の力を戦闘技術に応用した講義が一定の支持を集めたりする。
生徒の間では通称「戦闘講義」と呼ばれる完全な体育会系の研究部門だ。
魔の力を戦闘に活かす術を、理論や机上の研究だけではなく、実戦レポートを通して研究、証明していくのだ。
で、女体化アルテちゃんことこのアルテミス――つまり俺が配属されたのはそんな部署だ。
エンディミオンから開講してくれ、と頼まれたのは「対吸血鬼及び魔生物学」
つまり吸血鬼との戦い方だ。
なんでそんなものがエンディミオンで研究されるんだ、と最初は疑問に感じたものだが、ヘルドマン曰くエンディミオンに多額の出資をしているロマリアーナ共和国の意向らしい。
近年、大幅な軍拡を行っているロマリアーナは聖教会の関与なしで、自分たちで吸血鬼を討伐することの出来る部隊の育成を目指しているんだとか。
だからエンディミオンで対吸血鬼の研究を行わせようとしているのだろう。
そんなロマリアーナの思惑に、聖教会のヘルドマンが乗っかってもいいのか、と問えば、
「今はここに身を寄せてはいますけれど、いざとなれば好きなところにクリスを連れてぶらぶらするので、別に構いません」
とのこと。
これだから無駄に実力と権力のある御仁はやることがダイナミックなのである。
話を戻そう。
何とかかんとか、採用試験にも合格し、エンディミオンで教鞭を執ることになった俺だが、正直言って何を教えればいいのかまったくわからない。
まさか合格したけれども授業できませんでは、エンディミオンに潜入するなんて夢のまた夢で、イルミを見守りつつ、リハビリもこなすという計画が破綻しかねない。
そのことをヘルドマンや、同伴したマクラミンに相談したりもしたのだが、「お前のやりたいようにやればいい。一度採用されたら早々辞めさせられない」という有り難いお言葉を頂戴してしまった。
いや、それって何も解決してませんやん。
講義が出来ないことはそのままでっせ。
そんなわけで、色々と吸血鬼関連の書物を読んでみたり、聖教会で見聞きした話を羊皮紙に纏めてみたりもしたが、どれもしっくりこなかった。
完全に実技だけで合格してしまったため、座学がさっぱりなのだ。
今から学ぼうにも、付け焼き刃過ぎて時間がなさ過ぎる。
で、そんなこんなに悩んでいたらとうとう講義初日の日付が来てしまった。
取りあえず前日には学園掲示板へ競技場へ受講者は集合することと連絡しておいたが、果たしてそこからどうするか。
『魔導生物科』には疑似吸血鬼のホムンクルスを七体ほど寄越すよう頼み込んでみたが、割りと高価で製造に手間が掛かるので壊すのは今回で最後にしてくれと念を押されてしまっている。
けれども初回の一回くらいは切り抜けなければ、と一人講義開始前から競技場に足を運んでいた。
命令さえなければ、死んだように動かない疑似吸血鬼を指で突っついたりすること数十分。
受講希望者がぞろぞろと競技場に足を運んできていた。
その数、凡そ十数人。
うち一人がイルミちゃんだったが、なんとなくやってくる予想はしていたのであまり動揺はしなかった。
なんせ彼女がエンディミオンに行きたいと言い出したのは、吸血鬼退治やそれに対する護身術を学ぶためだもんね。
「はい、それでは定刻なので講義を開始します。まず始めにこの講義は『対吸血鬼及び魔生物学』になります。つまりこの世界に存在する、我々に害をなす種族達から身を守ったり、あるいは殲滅したりする術を学ぶことになります」
本体ならば絶対にしゃべることの出来ないような長文でも、この身体ならばすらすらと口に出すことが出来た。
どうやら吸血鬼の呪いがここまで届いていないらしい。
「座学と実践、というか実戦の組み合わせになります。怪我ももちろんすると思います。できる限り皆さんの命は守りますがそれ相応の覚悟はしておいてください」
脅し半分、本音半分で受講者に声を掛ける。
これにびびって少しでも受講生が減ればこっちの負担が軽くなるのだけれど、何処まで効果があるのかは不明だ。
「では早速講義を開始しましょう。今日は初回ということで、吸血鬼を攻撃する刃物の取り扱いについて学びます」
言って、あらかじめ用意していた短剣や長剣を手渡していく。
正直これらの武器しか使ったことがないので、教えられる範囲は限定的だ。
もちろんそんなことは口が裂けても受験生には言えないが、全く別の意味で俺は彼らの不興を買ってしまっていた。
「おいおい、初等生のお遊戯じゃないんだ。新しくきた新人さんよ、ちょっと俺たちのことを舐めてないか」
見れば短剣を手の内で弄びながらガン垂れる受講生が一人。
そしてその取り巻きの受講生達もこちらに一切隠すことなくクスクスと笑っていた。
体格が割と良い彼らは、どうやらロマリアーナから派遣されてきている軍の士官候補生のようだ。
成る程、確かに彼らからしてみれば剣の基本的な扱い方など児戯に等しいだろう。言っていることももっともだ。
けれども俺はそれを譲るわけにはいかなかった。
何故なら他の講義プランなど何も考えておらず、彼らに合わせた講義などやりようがないからだ。
御免よお兄さん達、今日は少し我慢してくれないかな。
にこー、と前の身体では絶対に不可能だった笑みで受講生達に接する。
どうだ。
それなりに美人の微笑みだぞ。これで勘弁して大人しくしてくれ。
だが悲しいかな。
そんな俺の非暴力の説得は受講生達を説得することが出来なかった。
「……あんた、一度は痛い目に遭わねえとわからないらしいな」
あれれ? 超絶友好的な微笑みだったのに、いらん喧嘩を売ってしまったようだ。
何がそんなに気にくわないのかわからないが、ちょっと血気が盛んすぎませんかね。ていうか、取り巻き達がみな剣を抜き始めているんですけれど。
「あんた、怪我や死ぬ覚悟は持っておけって言ったよな。なら、あんたもそれが出来ているわけだ」
リーダー格と思われるその受講生まで剣を抜いた。
やばい、一触即発の空気だ。
でもどうする? ここで彼らを叩きのめすのは簡単だが、そんなことをしてしまえば初日からエンディミオンを追放されかねない。
いつの時代だって、教育現場の教師による体罰は重大な問題なのだ。
PTAやモンスターペアレントがこの世界にいるとは思えないが、それでも受講生達には絶対に手を出したくない。
あばばばばば。と決して賢くない、処理能力の低い脳みそをフル回転させてみれば、ふと視界の端に停止状態の疑似吸血鬼がいた。
本当は実技の的になって貰おうと考えていたが、こうなっては仕方がない。
疑似吸血鬼を相手に大道芸を披露して、血気盛んな受講生達には落ち着いて貰おう。
そんなこんなで、殆どパニック状態だった俺は、疑似吸血鬼起動の呪文を一目散に唱えていたのである。
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対吸血鬼の戦闘技術が学べると聞いて、ハンナは誰よりも早く受講登録を済ませていた。
続いてイルミが、ハンナのことが心配だからとアズナが。
庶民共が受講しているのだから、王族の俺も付き合ってやろうと、よくわからない持論を展開したヘインが。
最後に仲間はずれは嫌だと、コミュニケーション障害の双子が登録し、「魔導力学科」の面々はぞろぞろと連れだって講義会場の競技場へ足を運んでいた。
競技場へは既に十人ほどの受講生が到着しており、その殆どがロマリアーナから派遣されていた士官候補生達だった。
彼らは荒くれ者――いわゆる不良として周囲には知られており、ハンナなどは露骨に顔をしかめて、コミュ障の双子はアズナの影に隠れていた。
本当にこんな面子で大丈夫なのだろうか、とハンナが不安がるが、残念ながらその予想は的中してしまった。
講義開始早々、講師の女に士官候補生共が突っかかったのだ。
彼らの嫌らしい表情を見てみれば、美人の講師を困らせて遊んでやろうという魂胆が見え見えだった。
実際、講師の方も、剣の扱いという初歩中の初歩の授業内容を用意しており、それも仕方のないことかもしれないとハンナは思った。
だからこそ、どちらが相手を言いくるめるのか、という野次馬根性にも似た感情を抱いて彼女は両者のやり取りを眺めていた。
事態が動いたのは女が士官候補生達に微笑んだ時である。
まるで赤子を見守るような、それこそ母親のような慈愛に溢れた笑みで彼女は笑ったのだ。
ハンナ達「魔導力学科」の面々は思わず呆気にとられたが、士官候補生達はそうではなかった。
小馬鹿にされたと感じたのか、それぞれが剣を抜き、両者の間に一触即発の空気が流れたのだ。
無駄にプライドが高い分、彼女のそんな態度が許せなかったのだろう。
ああ、面倒なことになった。と隣に立っていたアズナが呟いた。
ハンナもそれには全くの同意見で、どうすれば初日から荒れに荒れている講義を治めることが出来るのかと考えていた。
初日から刃物沙汰になってしまえば、休講は必至で、それはハンナの望むところではなかったのである。
けれどもそんな彼女の心配はやがて杞憂に終わった。
「ホムンクルス共よ。動きなさい」
講師が、凜とした声で疑似吸血鬼の起動を命じた。
まさかあれに受講生を襲わせるのか、とハンナ達が身構えたとき、講師は再び笑った。
「剣の扱いの講義が詰まらないということで題目を変更しようと思います。思えば初回ですから、楽しい講義の方がいいですよね」
彼女は剣を抜いた。この講義のために用意したのであろう、それなりの品質の剣だ。これくらいの出来ならば、士官候補生達が腰に差している剣の方がよっぽど武器として優れている。
「配慮が足りず申し訳ありませんでした。これより剣を使った吸血鬼退治をレクチャーします」
月光を反射する剣に興奮したのだろうか。起動が終了した、延べ七体の疑似吸血鬼が一斉に女へと殺到した。
誰もが息を呑み、荒くれ者で知られている士官候補生達ですら一歩後ずさった。
例え紛い物だとしても、疑似吸血鬼の強さはそれなりに有名なのである。
とくに軍事力として評価しているロマリアーナの出身の彼らからしたら悪夢のような光景なのだろう。
「剣の扱いその一。相手のリズムに合わせれば、肉だろうが骨だろうが割と斬れます」
ひゅん、と女が剣を振るった。まるで蝿を払うかのような動作だったが、それだけで先頭の疑似吸血鬼が上半身と下半身を分離させて行動を停止する。
「その二。こんな感じで組み付かれても焦ってはいけません。気合いで押し切りましょう」
肉薄され、その鋭い爪に晒されても、女は落ち着いて剣で受け止め、それこそ互いの吐息が感じられるような距離まで敢えて誘い込んでいた。
そして膝だけで丹田を蹴り飛ばしたのち、突き一つで額を砕いた。
「その三。横一列に向かってくる敵はボーナスステージです。ぱっぱっと一網打尽にしましょう。逆に言うと、いくら自分たちが多勢だからといって、同じタイミングで斬りかかってはいけませんよ」
宣言通り、三体同時に飛びかかられればそれらの心臓部分を線で結んだ軌道で横凪ぎにした。
心臓を失った疑似吸血鬼達は多量の血を吹き出しながら、その場に崩れ落ちる。
「その四。ある程度数が絞れたらこちらから殺しに掛かりましょう。ほら、いち、に、さん。……簡単でしょう?」
六体目は、超人的な加速で女に接近され、己が縦に両断されたことに気が付かないまま絶命していた。丁度頭頂部から股関節までを斬り捨てられたのである。
「あー、最後に」
七体目に女が挑もうとしたその時、彼女の手にした剣は刃の部分がすっぽりと折れていた。恐らく強靱な骨格を持つ吸血鬼を唐竹割りにしたのが良くなかったのだろう。
だが女は焦らない。
素早く、足下に広げていた短剣をつま先で掬い上げると、それを逆手でキャッチして口で鞘から抜刀。
そのまま最後の疑似吸血鬼に立ち向かい、吸血鬼が鋭い爪を伸ばしたその瞬間に宙へ跳んだ。
そして猫がそうするかの如く、空中で体勢を一回転。細く長い足で吸血鬼の首をするりと絡め取り、短剣を丁度頸動脈の辺りに突き刺した。
仕上げと言わんばかりに、吸血鬼の顔面をひっつかんで思いっきり捻りあげる。
すると短剣を軸とした動きだったからか、吸血鬼の頭部だけが殆ど素手だけでもぎ取られた。
噴水のように鮮血をまき散らす吸血鬼から飛び降りて、女が受講生の前に立つ。
真っ赤に汚れた姿形をしながらも、彼女は美しい相貌を崩すことはなかった。
ただ鳶色の瞳で、受講生達に微笑みかける。
「とまあ諦めなければ何かしらの手は打つことが出来ます。だから簡単に皆さんは諦めないように。心を勝手に折らないように」
誰も文句は言えなかった。
余りに綺麗な戦い方に、余りにも凄惨な殺害方法に、誰もが言葉を失っていた。
喧嘩を売っていた士官候補生達など、全員が抜いた剣を取り落として、怯えたように震えている。
それから先、講義は滞りなく進んだ。
血まみれになりながらも、講師は懇切丁寧に、剣の握り方、振るい方、見限り方を全ての受講生へと伝授した。
あれだけ騒いでいた士官候補生達も、静かに彼女の言葉に耳を傾けている。
講義終了の鐘がやがて周囲に響き渡ると、その場にいた誰もが安堵の溜息を吐いた。
最後に講師の女は、思い出したかのようにこんなことを言って、その日の講義を締めた。
「ええと、そういえば自己紹介がまだでしたね。私はアルテミス。奴隷の出身なので家名はありません。ただ吸血鬼ハンターをちょこっとしていました。これからもよろしくお願いします」
 




