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ヴァンパイア/ジェネシス(勘違い)  作者: H&K
第四章 紫の愚者編
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第62話 「馬鹿は加減がわからない in 採用試験編」

期間限定TS注意

 学校というものには、一応14年、通っていたことになる。

 二十歳の――大学2年生の時にこちらに飛ばされたから、丁度それくらいの計算だ。

 義務教育から高等教育までおよそ一通り受けてきたものだから、エンディミオンのシステムを理解するのにそう時間は掛からなかった。

 教育機関と研究機関が合わさった、いわば大学のようなところなのだろう。

 ただその規模がとんでもなく馬鹿でかいだけで。


「けれども意外でしたね。あなたがあそこに足を踏み入れたことがあるなんて。吸血鬼でも追っかけていたんですか?」


 ヘルドマンの質量を持った影に支えられながら、歩行のリハビリを繰り返していたそんな時、彼女はおもむろに問うてきた。

 四肢に纏わり付いた影が、パワードスーツのように歩行をサポートしてくれるのだ。


「まあ、そんなところだ。でもその実はあそこの何処かが研究していた実験魔導生物が正体だったが」


 たぶんあれは十年くらい前だったと思う。

 グランディアで暴れて斬首されかけるよりも前の話だ。

 駆け出しから、中堅の吸血鬼ハンターにランクアップしたとき。

 その頃に出会ったマクラミンから請け負った依頼がそれだったのだ。

 土地勘がなかった俺を、彼がエンディミオンまでエスコートしてくれたが、男二人で赴いた学園都市は俺たちには眩しすぎた。

 主に明るい未来を背負った学生たちを見て。


「はあ、なるほど。ならますますこの計画を進めるのが楽になりますね」


 そう言って、ヘルドマンは影を操作する。

 室内にこしらえてあった椅子に座らされた俺は、黙って事の成り行きを見守った。


「これはですね、聖教会がシュトラウトランドとロマリアーナと共同で研究しているものの、成果の一つなんですけど」


 言葉と同時、影がぐにゃりとゆがみ何かが迫り上がってきた。

 それはイルミが狼を召喚したときとよく似た光景だ。

 不定型な、漆黒の影が忙しなく動き、何かの影を形作っていく。


「本当は男性型を用意するべきなのでしょうけれど、稼働可能な素体がこれしか見つかりませんでした」


 影はやがて人型と成り、漆黒の色彩が変化していく。

 具体的には血の通った肌の色だ。


「人員不足の聖教会の問題を解決するために造られた魔導人形の一種なんですけれど、その動力に莫大な魔の力を必要とするんです。それこそ常人ならば一瞬で干からびるくらいには。だから私と常時パスをつなぐことでその問題を解決しました」


 そう。影から現れたのは裸体の女性だった。どことなくヘルドマンに似た雰囲気があるのは、彼女が言ったとおり彼女の持つ魔の力が流れているからだろうか。

 ただ普通の女性と違うのは呼吸の類いを一切せず、血色は良いのに生命活動が見受けられないことだけだった。

 

「聖教会の職員はブリジットという愛称で呼んでいますが、名前はあなたが決めて貰って構いません。何故なら、あなたがこれから名乗ることになる名前なんですから」


 にやり、とヘルドマンが笑った。

 どことなく嫌な予感がして、後ずさろうとしたが、椅子に座って、しかも今の状態ではそんなことは不可能だ。


「原理は魔導人形を操るのと同じです。けれどもそれよりも遙かにシンクロ率が高く、この人形の五感全てを操縦者は共有することになります。しかも操っている間は本来の肉体の意識を失います」


 えと、つまりそれはアレだ。

 女性型の魔導人形があって、それを操作する必要がある。

 さらにその操作性はラジコン操作ではなく、憑依するのが近いというもの。


 い、嫌だ……!


「確かに本来のあなた程の戦闘力はありませんから、躊躇うのもわかります。けれどもこの操作を行うことで、不具合を起こしている四肢への命令操作が改善される可能性がぐっと高まりますし、私の魔の力でブーストを駆けていますから、かなりの戦闘力を保有していますよ。限定的なら、私の能力も使えますし」


 何か盛大に理由を勘違いしているヘルドマンがじりっ、とにじり寄る。

 その赤い瞳は嗜虐心に満ちていて、初めて出会ったときのことを思い出させる悪い表情をしていた。


 たっ助けてレイチェル!


「ものは試しです。今から試運転をしてみましょうか。まあ、痛みとかはないはずですから心配はいりません。一応これ、クリスで試していますし」

 

 被害者が既に一人。

 愚者の従者とかいう、大変な仕事をしているなーとは考えていたが、まさか肉体を捨てさせられるような真似までさせられていたとは。

 こんど何か美味しいものでも奢ってあげよう。


「はい、リラックスして瞳を閉じて下さい。さん、にい、いち-」


 ついに目の前まで歩み寄ってきたヘルドマンが手のひらでこちらの視界を覆った。

 すぐに抗いがたい眠気がやってきて、底知れない恐怖を感じる。


 この愚者、こんなに遊び好きだったっけ。


 そんなどうにもならないことを考えたその時、俺の意識は完全に暗転していた。



        /



 レイチェルは街に出かけていた。

 思った以上にヘルドマン達の戦後処理が長引いていて、生活必需品を補充する必要が生じたためだ。

 そして様々な理由で外に出ることの出来ないアルテのことを気遣って、嗜好品をやや多めに買い込んでいた。


「おっと」


 時刻は深夜の0時。街が一番活気づく頃合いだからか、人通りが多く、通行人の誰かと肩が当たった。

 思わずよろけたその先、腕に抱えていた紙袋から果物が一つ転がっていく。

 拾うのが少々面倒で、こんなことならゴリアテ――赤い魔導人形を持ってくればよかったな、と考えた矢先、誰かのつま先にそれはぶつかった。

 動きの止まった果物をその人物が拾う。


 あ、ごめんなさい。

 

 と礼を述べようとした矢先、彼女と目が合った。

 鳶色の瞳を持った美しい女だった。

 漆黒の髪は腰まで伸び、彼女の身長よりも少しばかり短いだけのロングソードを背負っている。

 ただその雰囲気だけは彼女のよく知る狂人によく似ていた。


「あ、アルテ?」


 レイチェルが口走ったのは完全に無意識だった。

 余りにも雰囲気が似ていたから。その立ち姿、姿勢、そして人を見定めるときの視線が全くといって良いほど、狂人に似ていたから、そう口走っていた。

 けれどもそんな馬鹿なことがあるか、とレイチェル本人がそれを否定しようとしたとき、女は口を開いた。


「凄いなお前。なんでわかる」


 は? とレイチェルが固まった。

 そんな彼女をほったらかしにして女は続ける。


「おい、ヘルドマン。あっさりバレたぞ。これじゃあ、イルミに黙ってエンディミオン潜入は無理じゃないか」


「おかしいですね。声も見た目もまったく違うのに。やっぱり仕草がそのままなのがいけないのかもしれませんね」


 最初一目見たときには気がつかなかったが、女は一人ではなかった。

 ここ数日、もう何度も顔を合わせてきた黒の愚者を連れだって歩いていたのだ。


「なら仕草を変えれば良いだけです。幸い女性のレイチェルもいることですし、私とレイチェルの動作をこの素体に覚え込ませて誤魔化しましょう。そうと決まれば、レイチェルを連れて帰りましょうか。アルテ」


 ヘルドマンがアルテ、と女を呼んだとき、レイチェルは何となく事態を理解した。

 理解はしたけれども、その現実が余りに受け入れがたくて、自身が思いを寄せていた男が男じゃなくなったことに絶望して――、


「ん? レイチェル、おいどうした? レイチェル!」


 ふらりと視界が傾いてく。

 頭を地面にぶつけなかったのは咄嗟にアルテ? が支えてくれたからだ。

  

 ああ、やっぱりこんなところは頼りになるな。

 

 意識を失う寸前、レイチェルはそんなことを考えていた。



        /



 新しい身体、いや、仮の身体は随分と軽いものだった。

 体重そのものが軽いのもあるし、ヘルドマンの力によってブーストされた筋力も軽さをアシストしていた。

 四肢が短くなった分は、長めの武器を使うことで補う。

 実際、練兵場で聖教会の職員相手に模擬戦で大立ち回りしても、なんの問題もなかった。


「いや、さすがだな。あっさりとその身体に馴染んでいるじゃないか」


 いつかイルミも座っていた練兵場の観戦櫓に腰掛けたレイチェルが感心の声を上げた。

 実際自分でも驚くくらいに身体が動いていた。

 どうやら本来の肉体が思う通りに動かない分、無意識のまま随分と張り切ってしまったようだ。


「もともと常人離れした反応速度でしたけれど、反応が素直な魔導人形を扱わせると凄まじいですね。ただ太陽の毒を扱うことが出来ないので、そのあたりはパワーダウンでしょうか」


 同じく観戦していたヘルドマンの寸評に、レイチェルが答える。


「魔導人形越しならば、白の愚者ホワイト・レイランサーとも互角にやり合っていたんだ。もっと極めればそんなハンデくらい塗り替えられるだろ」


 さてそれはどうかな、と身体を捻る。

 けれどもレイチェルの言うとおり、もっと慣れればもっと自在に動ける自信はあった。

 筋力もそれなりにあるので、重たい武器を扱うことは問題がなかった。

 懸念していた足運びのズレも、一時間もすれば消えていた。

 ただ、どうしても違和感を感じる部分はいくつかある。


 それはあるべきものがなく、ないものがあることだ。


 端的に、誤解を恐れずに言えば、胸が邪魔で股間が寂しいのだ。

 特に跳んだり跳ねたりしたときの、胸が揺れてうざったいことと、ふとしたときに足下の視界が遮られることがめんどくさい。


「まあ、そればっかりは慣れるしかないだろう」


 どうにかできないものか、と胸を押し込んでいたらレイチェルがそんなことを言った。

 ヘルドマンも「仕方がありませんね」と脳天気な言葉を溢している。


「どうしても気になるなら、ボクがトーナメント――魔導人形の競技でつけていた胸当てを貸してやるさ。それで押さえ込めばなんとかなる」


 そういうものなのか、とその場では取りあえず納得しておいた。

 まあ、刃物でそぎ落としたりするわけにはいかないわけだし、バランス取りのための重しがついたと考えて、割り切るほかないだろう。

 

「さて、そろそろ朝日が昇るな。ボクたちはともかく、吸血鬼の黒の愚者には辛い時間帯だ。今日は戻って休もう。――ところでこの魔導人形から、アルテの意識は引き戻せるんだろうな」


「それは簡単です。私が魔導人形に供給している魔の力をカットすればいいだけですもの。ほら」


 ぱちん、とヘルドマンが指を鳴らした。

 するとテレビの電源を落としたかのように、視界が瞬時に暗転する。

 次に光を捉えたと思えば、ヘルドマンに座らされた椅子の上にいることに気が付いた。

 つまり、魔導人形の操作を行う直前に戻っていた。

 周囲を見回せば、人気は全くなく俺の推理が正しいことを証明してくれている。

 魔導人形から、意識が引き戻されたのは確かなようだ。


「おお、本当に戻っているな。こんな技術、シュトラウトランドでは見られなかったぞ」


「そりゃあ、聖教会が莫大な資金を供出してつくらせた秘物ですもの。そう易々と誰かに真似されては困ります」


 魔導人形の身体の感触について振り返ること数分ほど。

 練兵場から戻ってきた二人が部屋に入ってきた。レイチェルは俺がしっかりと意識を取り戻しているのを見て、感心したように声を上げる。

 ヘルドマンは改めて俺に向き直ると、こほん、と一つ咳払いをして次のようなことを言った。


「もうここまでくれば説明はいらないでしょう。アルテ、あなたはあの魔導人形を使ってエンディミオンに講師として潜入して下さい。魔導人形を使えばあなたの麻痺も大きく改善するでしょうし、あなたの目からイルミの動向を常に把握することも可能になります。如何でしょうか? そう悪い提案だとは思いませんが」


 彼女の言葉にレイチェルも「いいかもしれないな。リハビリもイルミの護衛も出来るのなら」と乗り気な対応を見せている。

 けれども俺はそんな二人に即答することが出来なかった。


「おや、魔導人形が気に入りませんでしたか? そりゃあ、あなたの身体能力には遠く及ばないかもしれませんけれど……」


 いや、それに関しては正直不満は存在しない。

 リーチや筋力の差はあっても、それ以外のスペックで俺の肉体を圧倒しているからだ。

 というかヘルドマンさんや、あなた俺のことを過大評価しすぎてません? ただ死ににくいだけで、別にそこまで動けるわけじゃないですぜ。

 あなたやホワイト・レイランサーに比べると全然実力も経験も足りていないのだから。

 

 では、何故即答しないというのかというと、至ってシンプルな理由だ。

 だってそうだろう。

 いきなり講師と言われても――、


「俺は誰かに何かを教えたり、教鞭を取ったりしたことがない」


 人に物事を教えることなど出来ないのだ。 



 数秒、沈黙が部屋を支配した。

 けれどもややってヘルドマンは「ああ、そんなことですか」と笑った。

 いや、笑い事じゃないんだけれども、と言葉をつなごうとすれば彼女はこちらの機制を先んじてこう告げた。


「心配ありませんよ。今エンディミオンが募集している講師は、吸血鬼を効率よく殺すことの出来る人物なんですもの」


 は? 何それ。


「だとしたら、ほら。皆がみな忌避感を露わにする吸血鬼狩りを生き甲斐とするあなたなんかぴったりでしょう?」



        /



 そんなやりとりがグランディアで成されて丁度一ヶ月。

 エンディミオンにしては珍しい、一日中雨が降りしきるその日に、彼女はやってきた。

 マクラミンという、聖教会の神父を一人伴って彼女はエンディミオンの事務を司る棟を訪ねる。


「講師採用試験の申し込みをしたいんですが」


 鈴が鳴るような美しい声だった。それまで詰まらなさそうに、眠気を隠すこともなく事務作業を繰り返していた受付嬢が思わず背筋を伸ばすくらいには。

 声の主はそれだけを告げると、静かに受付嬢の言葉を待った。


「あ、えと。ごめんなさい。受付自体は三日前に終了していて、今は採用試験を行っている最中なんです。ですから次の機会に」


 あらかじめマニュアルで定められていることでも、受付嬢は多大な緊張感を持って話す必要があった。

 何故ならそんなことはないと思いつつも、どうしても彼女が背負っている巨大な剣に目が行ったからだ。

 峰から内側に反るように打たれた片刃剣はそれだけの威圧感を放っていた。


「……グランディア領主の推薦状があってもだめか?」


 その声を聞いて初めて、受付嬢は同伴者がいることに気がついた。

 見れば聖教会の制服に包んだ無精ひげの神父だ。彼は懐から羊皮紙で出来た書状を差し出してきた。


「あ、えと、推薦状の規定がありませんので、ちょっと確認します……」


 さすがに一領主の書状を無碍にするわけにもいかず、書状に押された蝋印が本物であることを確認して、受付嬢は手元の魔導具を操作した。

 魔の力を使って余所と声のやりとりをするそれに話しかけること数分。ようやく結論が出たのか、おそるおそるといった風に、言葉を出した。


「飛び込みでの受験を許可するそうです。すぐに競技場へ来て欲しいと、上から連絡が。今、案内を呼びますから、少々お待ち下さい」


 受付嬢の返答に女と神父は顔を見合わせる。

 そして直ぐさま受付嬢に向き直って女がこう返した。


「前に来たことがあるから、場所はわかります。取り次ぎありがとう」 



        /



 競技内では五人の男たちが試験をこなしていた。

 それぞれ厳しい体力テスト、サバイバルテストを切り抜けた、それなりの猛者たちである。

 吸血鬼ハンターとして各地を放浪する者もいれば、聖教会に所属して拠点を構えながら生業を続けるもの、それぞれさまざまだ。

 彼らが行っているのは採用試験の最終テスト、本実技試験である。

 エンディミオンの研究者が作り出した、疑似吸血鬼を相手に何処まで立ち回れるのかアピールするテストだ。

 疑似吸血鬼とは、吸血鬼と同じような特性を付与されたホムンクルス(人造人間)で、その胆力、俊敏さはほぼ同等のものがある。

 頭髪を持たない、やや長身細身の色白の男性体で、エンディミオン側に完全に制御されていることを除けば、本物の吸血鬼と異色ない能力を持っていた。


「受験番号23番、時間になりました。試験を終了して下さい」


 だからだろうか。

 ここまでその疑似吸血鬼を完全に殺しきったものはいなかった。二人の受験生が、なんとか四肢を砕くか胴を切り裂くかして、戦闘不能に追い込むのがやっとだった。

 十五分という制限時間の短さもその現実に拍車を掛けているのだろう。

 試験を受けた殆ど全ての受験生が、あれは無理だと溜息を吐くばかりだった。

 それを考慮すれば、戦闘不能まで追い込んだ受験生が二人いることは彼らのレベルがそれだけ高いということかもしれない。

 実際、直前まで実技を受けていたこの受験者も、吸血鬼の両腕を欠損させるまで追い込んでいた。

 それに、彼自身には殆どダメージがないことから、採用の最有力候補と言ってもいいだろう。

 受験者の男は満足そうに頷きながら、己が手にしていた剣を収めた。


「これで全員の試験が終了しましたね。では、これから選考を行うので、皆さんは控え室に――」


 全ての実技が終了したことを確認して、試験官の男がそう纏めようとした。

 けれども、その瞬間、競技場に飛び込んできた人影があった。


「待って下さい! 一人飛び込みで受験します!」


 息を切らせて走り込んできたのはエンディミオンの講師の一人だった。茶髪の癖毛のその男性講師は、怪訝そうに首を傾げる試験官へ説明を続ける。


「学園長が許可したみたいです。通常の五倍の難易度でならば受験させてもいいと」


 五倍、という言葉を聞いて、試験官はありえない、と返した。


「つまりは疑似吸血鬼を五体と言うことか? いくら疑似とはいえ、命に関わるぞ」


「それも既に受験者に伝えましたが、構わないと」


 どんな受験者だ、と試験官が毒づいた。

 命が惜しくないのか、と。自身と蛮勇は違うと。

 が、そうこうしているうちに、新しい受験者が入ってきたのか、既存の受験者が色めきだつ声が周囲に響いた。

 一体どんな馬鹿者なんだと、試験官はその人影を目で追う。 

 そして、言葉を喪った。


 小柄な影だった。

 漆黒の、腰まで届くような綺麗な濡れ髪を持つ、女だった。

 鳶色の瞳は鋭く油断なく周囲を見渡し、背に備え付けた巨大な片刃剣だけが異様な存在感を振りまいている。

 けれどもそれだけだった。

 言ってしまえばちょっと目立つ格好をした、小綺麗な女だった。


 止めさせなければ、と試験官の身体が動いたのは完全な良心だった。

 大方どこかの貴族の娘が、己の実力を勘違いしてこんな場所へ踏み込んできてしまったのだろうと予想した。

 しかしながら、試験官の優しさは間に合わない。

 彼女が競技場の中心に立ったその週間、転移ゲートが自動で反応し、都合五体の疑似吸血鬼をその場に呼び寄せてしまったのだ。 

 試験の煩雑さを簡素化するため、そのような設定したことを彼は心底悔いた。


 疑似とはいえ、受験者に襲いかかるように命令付けを施された吸血鬼達が女に飛びかかる。

 その数は五体。

 熟練の吸血鬼ハンターでも入念な調査と装備の準備が必要とされる難敵。

 ましてや遭遇戦にでもなれば、間違いなく生きては帰れないような、そんな脅威。


 その場にいた全員が女の惨殺体を幻視し、実際数秒と立たないうちに赤い鮮血が舞う。

 だが彼らの予想を裏切ったのはその鮮血の持ち主だ。


「は?」


 誰かが声をあげた。

 疑似吸血鬼の首が二つ飛んだ。


  女はいつの間にか剣を抜いていた。巨大な銀の刀身を持つ片刃剣だ。その小さな体躯の何処にそんな力が秘められているのか、彼女は軽々とそれを横凪ぎに振るい、正面の吸血鬼の首を飛ばしたのだ。

 人間よりも遙かに強固な骨を持ち、他の受験生全てが切断することの適わなかった怪物の首を、彼女は一呼吸の間に切り裂いていた。

 さらには背後から食らいつきにかかった一体を、軽やかなステップで回避。すれ違いざまに剣を差し出し、今度は胴体の真ん中で切断。

 残りの三体は舞踊を舞っているのかと錯覚させるような、美しい円運動を描いて四肢だけを切断してみせる遊びを見せた。

 そして、胴体がまだ空中に残されている間に、三体纏めて斜めに袈裟切り。

 見事六つの部品に分割した。


 びっ、と刀身に付着した脂と血を振り払い、頬にこびりついた返り血を乱暴に拭う。

 真っ白な肌が赤く汚れているが、その立ち姿が余りにも美しくて、その場にいた全員が見惚れていた。

 女は数瞬、瞬きを繰り返し辺りを見回すが、自身に対する脅威が見受けられないことを確認すると、「これで終わりですか」と試験官に問うて見せた。


 良心を働かせようとしていた試験官は完全に思考が停止し、けれども職務を遂行しなければという本能だけは働いて、試験終了の宣誓を行っていた。

 受験者の誰かが息を呑んだ。

 誰もがこのあとの選考の事を問わなかった。彼らはそれぞれ、その場で此度の結末をはっきりと理解したからだ。


 それはつまり、誰がエンディミオンの講師として相応しいか、異論を挟む余地すら与えられず、まざまざと見せつけられたからに他ならなかった。

 

 ただ試験官一人だけが、女に恐る恐る歩み寄ってこう問うていた。


「君、名前は?」


 女は剣を納めた後に、鈴が鳴るような非常に耳通りの良い声で答えていた。


「アルテ――じゃなかった。アルテミス。アルテミスと申します。奴隷出身なので家名はありません。よろしくお願いします」




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