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ヴァンパイア/ジェネシス(勘違い)  作者: H&K
第三章 緑の愚者編
60/121

第58話 「レストリアブールの終焉」

 実質的な第二ラウンドの口火を切ったのはアルテからだった。

 燐光を撒き散らしながら、彼はイシュタルの懐に飛び込んだ。

 対するイシュタルも落ち着き払ってアルテを迎撃する。

 さっきもそうしたように、アルテの刃を己の刃で絡み取って見せた。そして絶対的な殺し間、キルゾーンヘと誘導していく。

 ここまでははっきり言ってイシュタルの狙い通りだった。

 彼女の絶対的な技量から繰り出される、必殺の一撃。

 実際アルテはこれのさしたる攻略法を見つけることが出来ず、捨て身の戦法をとらざるをえなかった。

 僅かばかりのダメージを期待して、こちらの肉を断たすようなそんな戦い方だ。

 けれども今回ばかりは勝手が違った。

 二つの刃がアルテの首をはね飛ばそうとしたその刹那、彼はその軌道を全て無視して突っ込んできたのだ。

 刃が肉に食い込み、鮮血を噴き出そうともその歩みは止めない。

 前は紙一重でかわすために一歩踏み込んだ、無理な加速もなかった。

 完全な自分のタイミング、間合いでイシュタルに肉薄したのだ。


「!?」


 咄嗟に回避運動、その場から背後に後転したイシュタルの鼻先を銀の刃が通り抜けていく。

 もうあと一呼吸判断が遅れていたら、首を飛ばされていたのはイシュタルの方だった。

 噴き出す血が燃えさかる燐光となりながら、アルテは二撃目の構えを取った。


「……あり得ません。たとえ回復力が爆発的に向上していても、その傷はあなたを死に至らしめる」


 あの最上位の吸血鬼譲りの回復力を持っていたとしても、所詮は劣化コピー。

 完璧な自己再生能力など、アルテは有していなかった。

 ただ人より死ににくいだけ。

 ただ人より治りが早いだけ。

 肉を切り裂かれる痛みも、太陽の毒に身を焼かれる苦痛も、すべて感じているはずなのに彼は一切気にもとめない。

 イシュタルはここにきて初めて、狂人が恐ろしいと感じた。



        /


 

 数秒のやりとりで、何となくこの能力のことが理解できた。

 これは本当にそうとしか言えないのだが、魔の力を行使した瞬間、本能的に能力の本質を悟ったようなのだ。 

 取扱説明書をデバイスにインストールしたようなものか。

 α由来の呪いの能力は二つ。

 一つは爆発的な回復能力。

 戦闘を行う上で障害になり得る傷を瞬時に回復させ、いつでも最善のパフォーマンスで戦えるように調節してくれている。

 逆に言えば、それに関係の無い傷、首の裂傷などは治りが遙かに遅い。

 けれどもそれは致命的な弱点たり得ない。

 遅いと言っても、普段の数倍のスピードで傷が回復していくのを感じるからだ。

 ど派手に噴き出ている血も、太陽の力の燐光がそう見せているだけで実質的な出血はそうでもない。

 そしてこの燐光こそがこの能力の肝でもある。

 これは俺が体内で生成し続けていた太陽の力が血液を媒介にして外界を侵食している証拠だ。

 事実、燐光に触れてしまったイシュタルは俺の血を浴びるよりもさらに大きな火傷を負っている。

 ここに来てようやく、レイチェルに覚醒して貰った太陽の力をまともに行使することが出来るようになっていた。

 あくまで血を介して、という制限付きではあるが。

 

 じり、とこちらを警戒したイシュタルが後退した。

 内臓の痛みも、傷の痛みも和らいだ軽い身体が、獣のようにそれに反応した。


 吸血鬼ハンターとしての真骨頂。


 ――動く敵は取りあえず切り捨てる。


 それが俺の原点だった。



        /


 

 なんだこれは、とイシュタルは吐き捨てた。

 己の傷すら武器に変えて、鮮血を、毒を撒き散らしながら剣を振るう狂気の塊。


 こんな戦士があって良いはずはない。

 こんなこの世の不条理があって良いはずがない。

 こんな理不尽があってはならない。


 彼女が双剣を振るえば狂人の身体は確実に切り裂かれていった。

 けれども狂人の傷が増えるたび、ダメージが増えるたびに、迸る燐光の量が増えて彼女の身体を焼いていった。

 触れた皮膚は焼けただれ、吸い込んだ肺は腐っていく。

 たまらず狂人から距離を取ろうとすれば、獣染みた瞬発力で懐へ飛び込んでくる。

 例えそれをいなしても、致命傷となり得る斬撃をたたき込んでも、新しい呪いを噴き出しながら狂人は止まらない。


「つっ、いい加減に!」


 苛立ちと焦りがイシュタルを包み込んでいた。

 だからだろうか。

 致命的な隙が一つ生まれる。

 端から見れば隙と看破することも出来ないような、足運びの乱れ。

 アルテからしても、狙ったわけでもない、捉えたわけでもないリズムの狂い。

 かれども肉薄していたからこそ、本能だけで挑みかかっていたからこそ、その隙が彼の刃にかちりと嵌まり込んだ。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 絶叫をあげたのはイシュタル。

 彼女は斬り飛ばされた左腕を必死に押さえて、いや、傷口から入り込んでくる太陽の毒に気がついて、自ずから肩口に剣を差し入れた。

 そして、狂人に斬られたところよりもさらに深い場所で腕を完全に斬り捨てた。


「イシュタル様!」


 イルミたちを拘束していた戦士たちが動揺する。

 それに反応したのはレイチェルだった。彼女は身体を一つ捻ると、目の前に転がっていた義手をアルテに向かって蹴っ飛ばした。


「使え! 片腕ではそれが限界だ!」


 声に反応したアルテが義手に飛びつく。

 それを妨害するだけの体力は、その場のイシュタルにはなかった。

 アルテが義手を腕に押しつけると、彼から流れ出ていた血が硬化して義手をしっかりと固定した。


『大事の時に側にいられなかったことをお許し下さい!』


「いや、いい! 手を貸せ! 畳みかける!」


 剣を両手に持ち、アルテは突進した。

 痛みと腕を失ったショックから復帰しきれていないイシュタルに斬りかかる。

 並の吸血鬼ならばそこで決着が付いていた。

 アルテの上段斬りが彼女を袈裟懸けに斬り捨てていた。

 だがそこは愚者。

 技量をひたすら磨き続けた臆病な愚者。

 思考を瞬時に切り替えると、それまで使ってくることのなかった愚者としての力を振るった。

 すなわち緑の幾多もの霧を召喚し、さながら質量をもった槍としてアルテに飛ばしたのだ。


『わたくしで受け止めて下さい!』

 

 義手の叫びが木霊する。

 それまで義手を盾にすることを躊躇していたアルテだったが、そこは躊躇わなかった。

 何故なら信じていたから。

 エンリカの腕を、そして己との約束は決して反故にしない義手のことを信じていたからだ。


 以後そのように、と。己の破壊を厭わないサポートをしないと約束した義手のことを。


「つっ!」


 一つ目の槍が義手に衝突して火花を散らす。

 いや、正確には衝突ではなかった。

 義手はアルテの制御を離れて自立した動きをしていた。

 すなわち、飛来する槍を絶妙な角度で受け流していたのだ。

 さらに防御してみせるのは致命傷になるような、必ず避けなければならないもののみ。

 己が主ならば耐えきってみせると判断した槍は受け止めなかった。

 彼女もまた、アルテのことを信じていた。


 身体に幾多もの槍を突き立てながらアルテは斬撃を繰り出した。

 これまで、何千、何万と振るってきたこの世界の集大成。

 ただの大学生だった彼が、三十年という歳月を使って磨き上げてきた一筋の剣。

 この世界の神を殺すために生み出した、必殺の一撃だった。



        /


 

 むせ返るような血の香りはどちらのものか。

 聖堂の中は異様な雰囲気に包まれていた。

 アルテとイシュタル、両者の荒い息が周囲に木霊し、二人が撒き散らした真っ赤な血が全てを汚していた。

 篝火が燃え尽きるかのように、アルテから噴き出ていた燐光が消える。

 魔の力切れだと理解したときには、アルテは剣を支えにようやく立っているような状態だった。

 対するイシュタルも瀕死だった。

 胸元を袈裟懸けに斬られた彼女は、両断こそはされなかったものの、回復不可能なほどの深手を負っていた。

 立っているのが奇跡な程の二人。

 それぞれが両の足で地を踏みしめているのは、それぞれの譲れない大切なものを思うが故のこと。


「なんて、反則。なんて不条理」


 よろよろとイシュタルが剣を構える。

 三日月のような美しい双剣は、片方が喪われ、残された方も血でどす黒く汚れていた。

 対するアルテも、イシュタルの血で真っ赤に染まった剣を下段に構えるのがやっと。


 両者ともに、次の一合が決着だと理解していた。

 イシュタルは卓越した技量と経験から。

 アルテはこれまでの経験と本能から。


 静かに、本当に静かに、どちらかが足を踏み込んだ。

 それまでの音速の攻防からしてみれば余りにも遅すぎる動き。


 けれどもそこには一切の無駄がなく。

 一切の余裕もなく。

 一切の後悔もなかった。


 互いの剣が交差する。

 どちらかの切っ先がどちらかの胸を貫く。


 最後の鮮血が舞い、聖堂を赤く彩った。



 そして、そんな煉獄の聖堂に、エリムが足を踏み入れたのは殆ど同時のことだった。



        /


 

 イルミもレイチェルも見つからない。


 たったそれだけのことを告げるためにエリムは聖堂へ足を運んでいた。

 友から預かった黄金剣を無碍にしないために、その責任を果たすために、彼は聖堂に向かっていた。

 本来ならば武器を中へ持ち込むことは許されていないが、外から呼びかければ大丈夫だろう。

 用が終わっていなければ自分が外で剣を持ったまま待てば良いだけだ。

 そう考えて彼は聖堂に近づいた。

 

 違和感はすぐにやって来た。

 

 まず普段ならば必ずいる筈の、道中の門番が一人もいなかった。

 何処の詰め所も空っぽで人の気配がしないのだ。

 さらには余りにも濃密すぎる血の臭い。

 そこまで感じ取ったとき、エリムは神速とも称される脚力の全てを使って聖堂に踏み込んでいた。

 嫌な予感を、たまらぬ寒気を押し殺して扉を開けた。


 そして見た。


 二つの交錯する影を。

 胸から背中に掛けて突き出た一本の剣を。


 ずるり、と影の一つが崩れ落ちる。

 実際のところ、影は交錯していても、剣に貫かれていたのは片方、一人だった。


「……アルテ?」


 影か崩れ落ちたことによって剣を手放した友がいた。

 彼は全身をズタボロにして、それこそいつ死んでも可笑しくないような傷を負って立ち尽くしていた。

 彼はエリムを驚いたように見て、続いて崩れ落ちた影を見て、そのまま仰向けに倒れ込んでいった。

 

 いつもの彼ならばそこでアルテに駆け寄っていた。

 例えその血が命を侵す猛毒でも、友の危機に恐れるような男ではなかった。

 だが足は何時までたっても動かなかった。

 何故なら彼は見てしまったから。

 

 胸から剣を生やして、先に倒れ込んだイシュタルの姿を。



        /


 

 あの瞬きの一瞬にも満たないような攻防の中、速度で勝ったのはイシュタルだった。

 イルミとレイチェルから受け取った力を使い果たし、最後の気力を振り絞ったアルテに比べて、イシュタルは幾ばくかのアドバンテージを持っていた。

 彼女の剣の切っ先がアルテの左胸に食い込んだ。

 このままあと一押し。

 たったそれだけで勝利の女神はイシュタルに微笑んでいた。

 けれども、けれども。

 彼女はそこで剣を手放していた。

 胸に突き立てただけで、心の臓を串刺しにするようなことをしなかった。

 敗北を覚悟したアルテの顔が歪む。

 彼は真っ赤に彩られた瞳でイシュタルを見た。


 微笑んでいた。


 緑の愚者は、イルミとレイチェルを殺すとのたまった緑の愚者が微笑んでいたのだ。

 

 アルテの剣は止まらない。

 イシュタルの胸を貫き、背中側に貫通するまで止まることはなかった。



        /


 

「イシュタル! イシュタル! 何があった! 答えろ!」


 エリムの慟哭が聖堂に木霊する。

 イシュタルが敗れた衝撃に呆然としたのか、教団の戦士達によるイルミとレイチェルの拘束がいつのまか緩んでいた。

 自由を手に入れた二人は戦士達を振り払い、真っ先にアルテの元へと駆け寄っていた。


「アルテ! アルテ! しっかりして!」


 イルミがアルテの身体を抱き起こし、必死に呼びかける。

 彼の流した血がべっとりとイルミに付着したが、煙が上がることも、焼けることもなかった。

 太陽の毒も魔の力も全て使い果たしたのだ、とレイチェルはなんとなく理解した。

 そしてそれが余りよろしくない事態だということも。

 だから彼女の取った行動は至極単純なものだった。


「呼吸はどうだ? ゆっくり息を吸え。大丈夫だ。お前は勝ったんだよ」


 自身の身に纏っていた上着を破り、アルテの傷口にそれを巻き付けていった。

 それは酷く原始的な手当の方法。

 イルミも直ぐに目元の涙を拭って、狂人の傷を賢明に縛り上げていった。

 流した血に比べれば余りにも遅すぎる処置だったが、彼女たちに出来るのはそれだけだった。

 焦りと恐怖に手を震わせながらも、あらかたの処置を終えたとき、二人の耳にそれが届いた。


「……ああ、エリムですか。良かった。あなたは間に合った」


 ぼそり、とかすれた声をイシュタルが吐いたのだ。

 アルテに縋り付いていた二人が、警戒のまなざしでそちらを見る。そして倒れ込んだままのアルテを庇うように、二人してそちらからの視線を塞いだ。

 けれどもエリムに抱かれたイシュタルは、そちらを一瞥することなく、なんとか手を伸ばし彼の頬を撫でていた。


「あなたが間に合わなければ、私はアルテを殺していた。あなたが来てくれたから、あなたが近づいているのを感じたから、その手を止めることが出来た。あなたが私たちを救った」


「お前は何を言っている!? アルテと何があった!」


 要領を得ないイシュタルの言葉にエリムは焦った。

 そして徐々に体温を失っていく彼女に恐怖した。


「ちょっとした私の我が儘ですよ。彼には、アルテにはそれに付き合って貰っただけです」



        /



 アルテと交差するそのさなか、イシュタルが微笑んだのはアルテではなかった。

 こちらに近づいてくる、まだ何も知らない愛しい男に微笑んでいた。


 実のところ、彼女は最初からこの結末を読んでいた。

 エリムがこの場にやってきてしまうのがタイムリミットだと、最初から決めていた。

 彼がここにやってきたその時が、自分の破滅だと予見していたのだ。

 

 もちろん、アルテのことは全力で殺しにかかった。

 アルテが破れれば、イルミとレイチェルを糧にして生きながらえようとするのも本気だった。

 けれども、それが適わない願いであることも心の何処かで理解していた。


 今より少し昔。

 赤い吸血鬼に語られた自分の運命。 

 狂人が築き上げる英雄譚のために、レストリアブールで没する運命。


 受け入れた事なんて一度も無い。いつもその日が来ることを恐れて臆病な愚者を演じてきた。

 せめて自身が生きた証が欲しいと、二人の子供を育てた。

 例えその片割れを殺してしまっても、残された一人は全力で愛そうと誓った。


 振り返れば後悔ばかりの人生だった。

 世界最強の一角と崇められようと、畏れられようと、彼女はいつだって弱者だった。

 あの赤い吸血鬼の言われるがまま、されるがままに生きていくだけの人形だった。


 ごふり、と残された命そのものを吐き出すように最後の血を口端から零す。

 イシュタルは未だに状況を理解していないエリムを、己の眼前まで引き寄せた。


「ごめんなさい。エリム。あなたには何も伝えてこなかった。あなたに拒絶されるのが怖くて何も告げてこなかった。だからもう、ここまで来て何かを語ろうとは思いません。ここまで隠し通してきたのなら、あなたに不義を働き続けていたのなら、私はその不義を通す」


 彼女の口から事の真実を語ることはなかった。

 浅い呼吸を三度。

 そして短い口づけを一つ。

 

「さよなら。私の愛しい人」



        /



 イシュタルの胸が一番低いときに沈んだとき、エリムの取った行動は現実の否定だった。

 彼は己よりも遙かに強い彼女が、常に一歩先を行っていた姉貴分が、自分が愛し守ろうとした人が没したことを認められなかった。


「おい、起きろ。起きろ、イシュタル。お前の悪趣味癖にはもううんざりだ。ほら、アルテまで巻き込んだんだ。彼に謝罪しろ。そこまでして俺を困らせるな」


 じり、とレイチェルがアルテを引き摺った。

 イルミも腕の拘束を全て解いて、二匹の狼を呼び出した。

 イシュタルが死んだことで、封じ込められていた使い魔の行使が可能になっていた。


「だってそうじゃないか。何故お前と我が友が殺し合う。何故お前たちが刃を交わしているんだ。アルテは、友は我々と戦ってくれている仲間じゃないか」


 イルミとレイチェルは互いに視線を交わした。

 言葉はない。けれども、それぞれの役割は瞬時に理解していた。


「……走って!」


 イルミのかけ声と同時、二匹の狼がエリムに突進する。

 レイチェルはそれを受けて、脇目も振らずにアルテを抱えて走り出していた。

 女の細腕には重すぎる彼だったが、火事場の馬鹿力というべきか、普段の彼女からは考えられない俊敏さで駆けだしていた。

 目的地は、赤の魔道人形が収蔵された聖堂の裏手。


「どうして、どうして、お前たちが殺し合っているんだ! 答えろ! アルテ! イシュタルに何をした!?」


 瞬間、狼が砕け散った。

 赤い閃光にしか見えない真紅の槍が二匹の獣を細切れにした。


「もう一度、時間を稼いで!」


 殆ど残り滓のようなものだが、ありったけの魔の力を絞り出して狼を影から呼び出す。

 普段よりは幾ばくか大きいそれが、再びエリムへ襲いかかった。


「邪魔だ!」


 けれどもそれは一秒の隙にもなりやしない。

 先程と同じ光景を繰り返したのを見て、イルミは息を呑んだ。

 三度目の召喚を、と僅かばかりの希望に縋ったが神速で放たれたエリムの蹴りに吹き飛ばされていた。

 致命傷に至らなかったのは、ぎりぎり召喚が間に合った狼の切れ端が緩衝材になったからだ。


「っ! エリムうううううううううううううううう!!」


 イルミが無残に転げ回るのを見て、アルテが吠えた。

 レイチェルの背を飛び降り、徒手のままエリムへ立ちはだかる。レイチェルがしまった、と切り返しても怒りに全てを忘れたアルテの速度には追いつかない。


「アルテえええええええええええええええええええ!!」


 ほんの一時でも友情を交わしあった二人は憎悪に身を染めて向かい合った。

 言葉を、親愛を忘れて初めて出会ったときのように、互いを殺すつもりで向かい合った。


 ただ一つだけ違うのは、その持ちうる力か。

 万全の、無傷のエリムと瀕死の重傷を負ったアルテ。しかも彼は徒手。

 火を見るよりも明らかな邂逅の結果に、レイチェルは目の前が真っ暗になった。

 呻き声を上げ、何とか立ち上がろうとするイルミが悲鳴を上げる。

 エリムの真紅の槍がアルテの眼前に迫った。

 誰もが狂人の終わりを直視した。


        /



『誓約:動くな。暗殺教団の番犬ども』



        /



 それはいつのことだったか。 

 空から声が振ってきたときがある。

 グランディアの城壁外で、警備兵にアルテが絡まれたときだ。

 あの時はアルテ以外の全ての人が地にひれ伏した。

 そして今回は――。


「――まあ、間一髪ってところですか。あの糞陰険駄眼鏡もたまには役に立つんですね」


 世界が止まっていた。

 いや、正確には暗殺教団の時が止まっていた。

 エリムと、イシュタルに付き従っていた教団の戦士たちの時が止まっていた。

 エリムは槍を突き出したまま、宙に縫い付けられたかのように固まっていた。


「お久しぶりですね。アルテとイルミ。そしてあなたがレイチェル・クリムゾンでしたっけ」


 固まった人々の間を、ゆっくりとした足取りで人影が歩みを進める。

 その人影は二つ。

 漆黒の外套に身を包んだ美しい女と、聖教会の戦闘装束を装備した金髪の女。

 黒の女は、幾分か伸びた髪を掻き上げて凄惨に笑った。


「お三方とも、緑の愚者の討伐、誠におめでとうございます。これで世界一の愚者にまた一歩近づきましたね」


 ユーリッヒ・ヘルドマン。

 

 七色の愚者、序列第三位の吸血鬼がそこにいた。



        /



 何故、とイルミが言葉を絞り出した。

 ぼろぼろの彼女をクリスが抱き起こし、ヘルドマンとの対面を手助けする。


「その答えにはこちらの複雑な政治事情が絡んでいるので、説明が難しいのですが一言で言い表すならば宣戦布告でしょうか。我々聖教会――というより領主統治国グランディアは此度このレストリアブールに宣戦布告、攻め込んでいます」


 淡々と、ヘルドマンはイルミの問いに答える。


「ん? 宣戦布告の理由ですか? いろいろありますけれど主にあなたの保護と、アルテの拘束でしょうか。彼はこちらでは指名手配中ですからね。そんな人物を匿っていた暗殺教団にはそれ相応の報いを受けて貰わないと」


 アルテの拘束、という言葉にイルミは嫌悪感をあらわにした。

 けれどもヘルドマンは子供をあやす母親のように、至極穏やかな口調で続けた。


「何、彼の指名手配は明日には解けますよ。何なら聖教会第三位の私の権限を使って、略式裁判でも行いましょうか。クリス、アルテの罪状を教えて下さい」


 ヘルドマンの言葉に、クリスは簡潔に答えた。

 まるでその茶番が、あらかじめ織り込み済みだったかのように。


「白の愚者の殺害容疑と、聖教会支部の破壊になります。有罪確定ならば斬首相当かと」


「はい。ありがとうございます。では一つ目の白の愚者殺害について。誰も彼が白の愚者を害したところを目撃していません。証言も、死体を発見した侍女のもののみ。証拠不十分で無罪とします」


 淡々と続けられるヘルドマンの言葉に、イルミは痛みを忘れて呆然とした。


「次に聖教会支部の破壊ですが、白の愚者殺害の罪が立証できない以上、こちらから攻撃した事実は不当だったと判断します。よって、アルテの正当防衛権の行使を認め、無罪とします。いえ、正確には罰金刑くらいでしょうか。幸い、死者は出ていませんし」


 これまでの逃亡劇が何だったのか、と言いたくなるくらいには、あっという間の幕切れだった。

 ヘルドマンはそんなイルミの心情を見抜いているのか、いないのか、にこにこと上機嫌に笑った。


「という訳で二人、いえ、三人は私たち聖教会の庇護下に入って下さい。略式裁判で判決は言い渡しましたが、正式な書状を後日手渡さないといけないので。何か質問はありますか?」


「巫山戯るな!!」


 茶番が終劇に入ろうとしたその時、絶叫が聖堂を支配した。

 声の主が誰か、と視線を巡らせてみればそれは憎悪に表情を歪ませたエリムのものだった。


「外の戦士たちはどうした!? 何故、お前たちがここにいる!? 何故、お前たちが狂人を庇う!」


 ヘルドマンはそんなエリムに、イルミに見せた表情とは真逆のもの、嫌悪感を何一つ隠さないまま答えた。


「向かってくる敵は全て殺しました。今頃残党狩りをマリアが担っているでしょう。今はたった数人の戦力ですが、明日には本格的な軍団がレストリアブールに入場しますよ」


 さらりと言ってのけた吸血鬼の言葉に、エリムは絶句する。


「ここにいる理由はさっきも述べましたね。宣戦布告です。私とマリア、そしてクリスで戦争をしにきました。まあ、じきに終わりますけれど。それと、アルテを庇うというか、守る理由なんですが」


 ヘルドマンはここに来てようやく歩みを再開した。

 宙に縫い付けられたエリムの正面に立ち、力尽き倒れ込んでいたアルテをそっと抱き起こす。

 そして背後からしっかりと抱きしめたまま、殆ど意識のないアルテの顔の横から、言葉を吐いた。


「あなたが緑の愚者を守ろうとしたのと、同じ理由ですよ。可愛いこの人を、お前のような三下に殺めさせるわけないじゃないですか」



        /



 クリスの言葉の拘束を抜け出したのは、エリムの最後の意地だった。

 度重なる修練で手に入れた鋼の精神と、苦痛を噛み殺すことの出来る怒りを持って、彼は動いた。

 槍がぶれ、ヘルドマンに襲いかかる。

 その場にいる誰もが赤い槍の行方を見失っていた。

 いや、正確には二人を除いてだった。

 その例外だったのは槍を振るわれたヘルドマンと、様子をただひたすらに見守るクリスの二人。

 クリスは己が主の危機ながら、動揺一つ見せることなくただ静かに事の成り行きを見守っていた。


 ヘルドマンが目を細める。

 彼女の影から伸びた螺旋が槍を飲み込む。

 続いて外周で立ち尽くしていた残りの戦士たちの首が飛んだ。


「……は?」


 何が起こったのか理解できないエリムは、彼らしくない間抜けな声を出した。

 手元に残された槍は真ん中から先が、最初からそうだったかのように消失していた。

 続いて周囲を見渡してみれば、最後に生き残っていた部下たちの首から上が真っ赤な噴水で覆い隠されていた。


「おっと、加減を間違えました。マリアに怒られるかも」


 なんともひょうきんな、緊張感のない声だ。

 それまで沈黙を守っていたクリスが周囲に響き渡る大きな溜息をつく。


「ヘルドマン様、あなたの影はこの教団の人員全てを拘束するのに使っていたのです。それら全てに同じ動作をさせてはこうなることが必然かと」


「あ、いえ。これはワザとではなくてですね、まだ加減が聞かないというか、不慣れというか……ごめんなさい」


「その謝罪、マリア次長に告げた方がよろしいですよ」


 クリスが忠告したのと同時、聖堂の入り口を粉砕する影があった。

 それが巨大な鉄槌で成されたと理解できたのは、余裕を保ち続けているヘルドマンとクリスだけだった。


「ヘルドマン! あれだけ言ったのに力を暴発させるとは魔の力を覚えたてのガキですか! いえ、ガキの方が私の胴衣を汚さないだけマシですね! ハッキリ言ってやりましょうかこのスカポンタン!」


 鉄槌を引き摺ってきたのは、余りにも小さな体躯をした少女だった。

 それが聖教会第二位。次長の名を欲しいままにしているマリア・アクダファミリアだと知っているのは、ヘルドマンとクリスを除いてはアルテとイルミしかいない。

 彼女は純白だったのであろう胴衣を真っ赤に汚して怒り心頭だった。


「捕虜を一カ所に集めてさあどうしようか、と部下たちと相談していたらいきなりギロチン解体ショーに遭遇した私たちの気持ちがわかりますか!? 対して旨くもない蛮族の血なんてただの拷問です! さあ、何とか言ってみなさいこのアンポンタン! 大体捕虜ゼロ人の教団皆殺しとか、誰と停戦交渉をするんです!」


「さっきから言いたい放題いってくれますね! そんなに不愉快だったのなら、最初から私に拘束を任せなかったら良かったでしょう!」


「自信満々に狂人へ良いところ見せようと張り切ったアホが減らず口を! そんなんだからアリアダストリスに負けて力を封印されるんですよ!」


 ぎゃーぎゃー、と姦しい低レベルな口喧嘩を見て、クリスは頭を抱えた。

 昔からマリアが絡むと優雅さのかけらもなくなる主には若干ウンザリもしていた。

 

 ただそんな平和なやりとりとは対極の男がいた。

 彼は呆然自失としたまま、膝から崩れ落ちる。

 それを支えてくれる人は、もう誰もこの世にはいない。

 

 その事実を今更ながらに突きつけられたとき、彼が行うことが出来たのは完全な思考の放棄だけだった。

ごめんよ。エリム。

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