第57話 「緑の愚者」
死にかけの肉体を放棄し、新しい肉体へ転生を果たしていく。
それがイシュタル――いや、緑の愚者から語られた彼女の能力だった。
その碧色の瞳を涙で溢れ返させながら、イシュタルは独白を続ける。
「何度自死しようと考えたかもう覚えていません。でもこの私をイシュタルとして慕ってくれるエリムがいてくれるかぎり、彼が緑の愚者を崇拝してくれている限り、私は生き続けなければならない」
緑の霧がこちらの全身を覆っていく。身じろぎすら許されない、万力の如き締め付けが意識を刈り取ってくる。
「……いえ、本当はエリムに全てを、真実を告げて自死すべきだったのでしょう。あなたと共に育ったイシュタルはとっくの昔に私に喰われてしまった現実を。けれども私にはその勇気がなかった。それどころか彼の告白を受け、これからの未来を夢想してしまった」
「……だから俺の肉体を乗っ取ろうとするのか」
やっと絞り出した言葉はそんな平凡なものだった。
けれどもこちらの予想に反して、イシュタルは「いいえ」と首を横に振った。
「あなたは余り自覚していないようですが、あなたの肉体は煉獄の炎で形作られたこの世の苦痛そのもの。例え私の魂を持ってしても、あなたに渦巻く憎悪と悲しみは私を数度焼いても余りある」
……要するに、俺が持っている太陽の力が吸血鬼である彼女にとっては邪魔と言うことか。
「……本当はあなたにその真実を伝えるのが義理なのでしょうけれど、あいにく時間がありません。結論から申し上げましょう」
眼前に立っていたイシュタルが歩を進めた。
彼女は俺の横を静かに通り過ぎていく。彼女とすれ違った瞬間、身体を拘束していた緑の霧はいつの間にか霧散していた。
自由に動ける身体を手には入れたが、直ぐさま反撃するには余りにも実力差がありすぎた。
「……あなたにも私が過去に迫られた選択をしていただきたいのです」
そう言って、イシュタルは聖堂の東側に備え付けられている扉に手を掛けた。
油の切れた蝶番の音を響かせながら、扉は開いていく。
そして、その中にあるものを見た瞬間、思考が沸騰していた。
実力差を鑑み、様子見に徹した冷静さは吹き飛んでいた。
気がつけば、短剣一つでイシュタルに斬りかかっていた。
「……その愚直ささえあれば、あの時の私も救われたのかもしれませんね」
だが結果は火を見るよりも明らかだった。
両腕すら揃っていない、人一人を刺殺するのにも苦労するようなちんけな剣で、彼女を貫くのは余りにも無謀。
再び現れた緑の霧が、残された左腕をしっかりと絡め取っていた。
「もう状況は理解したでしょう。ここにいる二人、そのどちらかの身体を私に譲ってくれませんか。どちらを差し出すのかはあなた次第。さあ、選んでくださいな」
扉の向こうにいたのは、教団の戦士に後手を拘束された、イルミとレイチェル、その二人だったのだ。
/
うかつだった、とレイチェルは下唇を噛んだ。
姿の見えないイルミを探し始めたのが全ての始まりだった。
本当に気がついたら、としか言い様がなく彼女は意識を失っていた。
自分たちが半敵地にいるという意味を、しっかりと理解してはいなかったのだ。
油断の代償は余りにも大きい。
目が覚めてみれば、イルミと共に後手で拘束されていた。
やられたと思ったときには、自分よりも先に意識を取り戻していたイルミと共に、聖堂へと連れ込まれていた。
そして扉越しに知らされた緑の愚者の真実。
イシュタルが緑の愚者の関係者であることは理解していたが、まさかそのものとは思いもよらなかった。
「もう状況は理解したでしょう。ここにいる二人、そのどちらかの身体を私に譲ってくれませんか。どちらを差し出すのかはあなた次第。さあ、選んでくださいな」
自身とイルミ、どちらかの身体を差し出せとイシュタルは言った。
残された左腕を拘束されたアルテはその場でもがき続けるが、如何せん非力すぎた。
このままでは共倒れになる。
三人とも、緑の愚者の餌食になる。
そう思い至ったとき、レイチェルは咄嗟に叫んでいた。
「アルテ! ボクを差し出せ! イルミを殺すな!」
驚いたような表情でイルミがこちらを見ていた。だがそれを無視してアルテに語りかける。
「イルミを選んでみろ! これから先、絶対にお前を許さない!」
打算がないと言えば嘘になる。
それは太陽病に侵されているこの身ならば、緑の愚者といえども大した強化にはならないと考えたからだ。
武を収めているわけでもない。特殊な力を持っているわけでもない。
こんな自分の身体ならば、必ずアルテが殺してくれるだろうと見越してのことだ。
それに、数ヶ月とは言えそれなりに可愛がってきた妹分を差し置いて助かろうと思うほど、厚かましい性分でもなかった。
相も変わらずもがきながら、アルテがこちらを見た。
レイチェルが初めて見る表情をするアルテだった。
どうすればいいのかわからない。
何が最善なのかわからなくて苦しむアルテ。
そんな顔をしないでくれ、とレイチェルが眉根を下げたとき、イシュタルはアルテの左腕から短剣を取り上げながらこう告げた。
「ああ、やっぱり。選ぶことの出来なかった私は正しかった。あの時、エリムとイシュタルを選べなかった私は何も間違っていなかった」
それは背筋に氷を突き刺されたような、悪寒の止まらない声色だった。
この世界の絶対強者としての覇気が溢れでている、そんな声色。
「例え狂人と恐れられていてもそれは変わらない。あの女があんなに手塩に掛けて育てたあなたでも、それは変わらない。なら、あなたの取るべき手段はただ一つ」
イシュタルが一人の教団の戦士から麻袋を受け取った。
それをアルテに投げて寄越す。
左手だけで受け取ったアルテが袋の中を覗き込んでみると、中にはレイチェルに預けた筈の義手が入っていた。
「使いなさい。それを装備する間だけ、その子の拘束を解きます」
イシュタルの言わんとすることが、レイチェルには理解できた。そしてそれはアルテも同じだった。
義手を手にしたまま、こちらに歩いてくるアルテに向かって、レイチェルは叫んだ。
「やめろ! それを持ってくるな。ボクはそれを装備させない!」
何て残酷な選択をさせるのだろうと、レイチェルはイシュタルを睨んだ。
アルテがこれを持ってくるということは、精一杯の抵抗をしてみろという、緑の愚者なりの意趣返しなのだ。
「レイチェル。頼む。片腕では戦えない。奴を殺すには両腕が必要だ」
「馬鹿を言うな! 見たところいつもの剣だって無いじゃないか! いくら新しい吸血鬼の呪いを手にしていても、あれは別次元の生き物だ!」
イシュタルから漏れ出ている緑色の魔の力。
それを目にしたレイチェルは狂人と愚者の絶対的な差を噛みしめていた。
だからこそ、そんな無謀な戦いに挑ませぬよう、必死の抵抗を見せる。
「戦う必要なんてない! ボクを奴に差し出してしまえば終わりなんだ! お前はイルミを守るために戦うんじゃなかったのか!」
/
二人のやりとりを受けて、それまで沈黙を保っていたイルミは静かに口を開いた。
「アルテ、私を選んで。私をあの女に差し出して」
恐怖と悲しみに震えた小さな声だった。
「駄目だ! イルミは黙ってろ!」
イルミはこちらにも食らいついてくるレイチェルを見て、どうして彼女がそこまで必死なのかと困惑した。
確かに死ぬことは怖かった。
こんなところで緑の愚者の餌にされて、殺されてしまう末路なんて真っ平御免だった。
けれども。
殆ど勝ち目の無いような戦いにアルテを挑ませて、彼を殺してしまうくらいなら自分が死んだ方がマシだとも考えていた。
もう血の海に沈む彼を見たくなかった。
うつろな表情で、この世界に絶望する彼を見たくなかった。
好きだから、愛しているから、アルテを苦悩させたくなかった。
「私のことはいい。私はあなたの奴隷。あなたの所有物。でもレイチェルはそうじゃない。あなたの仲間。あなたの理解者。だから差し出しちゃ駄目。きっとあとで後悔する」
自分でも驚いてしまうくらい、すらすらとレイチェルの事を擁護していた。
あんなに嫌いだったのに。
あんなにアルテに付きまとう彼女が鬱陶しくて仕方が無かったのに、そんなわだかまりはすっかり忘れてレイチェルの事を庇っていた。
これに驚いたのはレイチェルだった。
まさかイルミがこんな庇い方をしてくるとは思わなかったので、危機的状況だというのに面食らってしまう。
「だからお願い。アルテ、レイチェルを助けて。そして自分を大事にして。もう、あなたが苦しむのは見たくないわ」
/
怒りに支配されていた思考が急速にクリアになっていくのを感じた。
そして、視野が狭くなっていた自分を恥じた。
必死に自己犠牲を唱える二人を見て、最初から迷う必要なんてなかったのだと今更ながらに理解した。
「レイチェル。義手をとっとと嵌めろ。彼女のことは哀れに思うがそれとこれとは別だ。お前たちに害を加えるというのならば、俺は奴を殺す」
久方ぶりの、考えたことと話したことが一致した瞬間だった。
偽りざる本音にレイチェルが息を呑んだのが伝わる。
「……お前が殺されるぞ」
「黙れ。いい加減鬱陶しい。そんなにも俺が信じられないか」
いや、これに関してはレイチェルの方が全面的に正しい。
間違ったことを、間抜けなことを主張しているのは俺の方だ。
けれども今は、今だけははったりを押し通さなければならない。
「……わかった。でも、本当に、本当に危なくなったらボクを差し出せ。許しを請え」
「くどい」
もう何を言っても無駄だと悟ってくれたのだろう。レイチェルは振り返って自身を拘束する男を睨み付けた。
睨み付けられた男はイシュタルに視線だけを向けて指示を請う。果たしてイシュタルの返答は「離しなさい」というシンプルなもの。
「義手の自立思考回路は最大のままだ。彼女との連携がお前の生命線だ。けれどもお前が不味いと思ったら彼女を切り離す覚悟も必要だ」
「……こいつ、女だったのか」
「そりゃあエリカが設計したんだからな。男の思考回路なんて組み込みようがないだろう」
軽口一つも儀式のようなものだった。
例え今のような極限状態になっても、レイチェルの腕は淀みなく動いている。
時間にして僅か数十秒、義手はあっという間に俺の身体の一部になっていた。
『お久しぶりです。我が主様。あの女が此度の得物ですね。中々歯ごたえのありそうな奴です』
「歯ごたえがありすぎて歯が砕けるかもな」
いつも通りのレスポンスを返してくる義手を見て、俺は立ち上がろうとした。だがいきなりレイチェルの腕が伸びてきて俺の襟を掴んだ。
そしてそのまま彼女の顔に引き寄せられる。
「これはボクがお前にしてやれる精一杯の餞別だ」
数秒間だけ唇が重なる。彼女から流し込まれた太陽の力が全身を駆け巡っていったのを感じた。
「それと、イルミ。君もアルテに分けてやれ。今の彼なら魔の力だって己の力にできる」
言って、レイチェルが俺をイルミの元へ押し出した。
「アルテ……」
イルミの赤い瞳がこちらをじっと見つめている。
けれどもすぐに意を決したかのように表情を引き締めると、「かがんで」と手短に告げてきた。
言われたとおりにしてみれば、拘束されたままイルミは精一杯首を伸ばして、こちらの首筋に噛みついてきた。
瞬間、圧倒的な魔の力が体中を駆け巡っていくのを感じる。
レイチェルの太陽の力が熱い血潮だとすれば、イルミの魔の力は月の力、冷静な思考を与えてくれる清流のような力だった。
「私、信じてる。あなたなら必ず負けない。だって私がこの世界で唯一自分の意思で付き従っているのはあなただけ。頑張って、私のご主人様」
言葉はそこまで。直ぐさま教団の戦士たちによって拘束され直した二人は外周の突き当たりまで引っ張っていかれた。
普段よりも明瞭な五感と、軽い身体を携えてイシュタルの前に立つ。
「まさか手ぶらで挑ませるわけにもいきませんから、これをどうぞ」
最後にイシュタルから投げられたのは一本の剣だった。
黄金剣とは違い、銀色の刀身の、片刃の剣だ。波打つ文様が刃に刻まれた美しい剣。
これで和の持ち手が付いていれば日本刀のようにも見えただろう。
「……あの時の私は何も選ばなかったから多くのものを喪ってしまった。だから今回は選びます。あなたを殺して、二人を喰らい、エリムと共に生きていく。それが受け入れられないのならば、精一杯足掻いて見せなさい。哀れで間抜けな狂人よ」
/
尖塔の一つ。丁度南側を司る塔の屋上に二人はいた。
「……あれが彼女を煽った結果なの?」
「ああ。大好きな、最後に残された男と生きていきたかったら狂人を殺せ、と脅したんだ。効果は覿面だろ?」
剣を携え、対峙しあった愚者と狂人を見て、αは瞳を伏せた。
「……昔からあなたもあの人も悪趣味が過ぎるわ」
「馬鹿言え。それがいいんだろ。それにあの人は身内以外にはとことん冷酷で、残酷に振る舞えるのは今更のことだ。それを気に病んで何になる」
βは心底興味がなさそうにその場へ寝そべった。
まるで両者の殺し合いがどのような結末を辿るのか知っているみたいに。
「終わったら起こしてくれ。まだあの狂人に切られた傷が完治していないんだ。たく、不完全な代物とはいえ、『パラケルススの魔剣』で切られたものだから治りがあり得ないくらい遅い」
それだけを告げて、βは本当に寝入ってしまった。
αはそんな様子を見て、悲しげに溜息を吐いた。
「……本当、五十年前から嫌な役ばかり。いい加減、解放されて楽になりたいわ」
/
先手を取ったのはアルテだった。
これまで何度もそうしてきたように、直線の機動力に任せてイシュタルに斬りかかる。
だがイシュタルはこれまでの相手とは格が違った。彼女は銀の双剣を器用に使って、直線軌道のアルテの刃を絡め取った。
「!?」
このままだと双剣に首を刈り取られると判断したアルテは、咄嗟に宙へ飛んだ。
絡め取られた刃を回転運動で無理矢理己に引き戻す。
イシュタルの上を一回転で通過したアルテは着地した後、改めて彼女の化け物染みた力量に戦慄していた。
「どうしました? これくらいで驚いていたら一分と持ちませんよ? あなたの気の乱れ、手に取るようにわかります」
次に仕掛けたのはイシュタルだ。
彼女はとん、とその場で飛ぶかのようなステップを踏んだ。
音量、そして速度の共に遊んでいるかのようにしか見えない運動量。
けれどもその移動距離はアルテの想像の数倍だった。
「アルテ!」
レイチェルの声がなければそこでアルテの意識は吹き飛んでいた。
反射的に頭部を庇ったのが彼にとっての幸運だ。
両腕を交差した丁度その部分にイシュタルのつま先がめり込んでいた。もしも生身の腕が外側であったならばその瞬間に腕が砕けていただろう。
蹴られた勢いを殺しきれず、アルテは大きく後方に後退する。
「……蹴り潰す勢いだったのに、呆れた頑丈さと反射速度ですね」
じんじんと痺れる腕を庇いながら、アルテは剣を中段に構えた。
『主様、奴の戦いの癖がまだ読み取れていません。もう四合、手合わせをしていただければ必ずや全てを読み取って見せましょう』
義手の言葉にアルテは冷や汗を流した。
あと四合。四合は少なくともこの怪物と刃を交わさねばならないのか。
けれども諦めるわけにはいかなかった。
この膝が地を付いた瞬間、三人の命運が途絶えることは確実。
決して心が折れることは許されない。
再びアルテは一歩踏み込んだ。
「何度来ようが同じ事ですよ!」
剣が双剣に絡め取られる。
刃が首元に迫る。
先程と全く同じ光景が繰り返される。
だがアルテは逃げなかった。そのままもう一歩、踏み込んだ。
自分から双剣の刃に突っ込んでいった。
ここにきて初めて、イシュタルは虚を突かれた。
二つの刃がアルテの首筋を切り裂いた。イルミが金切り声にも似た悲鳴を上げた。
鮮血が宙を舞い、銀の刃を汚す。
ただ鮮血は一人だけのものではない。
アルテの突き出した剣がイシュタルの肩を貫いていたのだ。
「くっ!」
溜まらずイシュタルが後方に飛んだ。傷口からあふれ出る血に触れてみれば、それは煙を噴き上げて燃えていた。
太陽の毒か、と思い至ったとき、両肩を己の血で真っ赤に汚した狂人が笑っていることに気がついた。
「……まさかあそこから踏み込んでくる人間がいるとは思いませんでした。死ぬことが怖くないのですか? 確かにこうして私は手傷を負いましたが、あなたのその出血量、長くは持ちませんよ」
イシュタルの言うとおり、アルテは急所の重要な血管を切られていた。
吸血鬼ハンターとしての回復力と、イルミから貰った魔の力でなんとか凌いではいるが、それも時間の問題だった。
「……怖いさ。でもここで恐れてなんになる? 万が一の可能性があるならば俺はお前に挑み続ける」
その場で羽織っていた上着をアルテは手早く脱いだ。
それはエリムから贈られた砂竜の革で出来た上着だ。二つの袖を力任せに引き千切ると、首の出血箇所へしっかりと巻き付けた。
「本当にあなたは私の選ぶべきだった道を見せつけてくれるのですね!」
イシュタルがここに来て初めて激昂した。双剣を携え、アルテに挑みかかる。
だが例え怒りに捕らわれていようとも、その技の冴えは全く鈍ることがなかった。
二つの刃が音速を超えた速度でアルテに迫り来る。
一つは剣で受け止めた。
だが時間差で訪れる二本目は防ぎきれない。
眼前に迫り来る刃に対してアルテが出来るのは腕を差し出すことだけだった。
「ぎっ!」
灼熱の痛みがアルテの思考を支配する。
彼にとってのただ一つの幸運はイシュタルが剣を振り抜かなかったことだ。
あふれ出た鮮血を浴びまいと、腕を中程まで寸断して彼女はその場から飛び去った。
骨半分で繋がったまま、使い物にならなくなった腕を彼は見る。
「……何て忌々しい血。少し降りかかっただけでも、ここまでこの身体を侵しますか。イシュタルの人間の身体でなければ、それだけでも致命傷になるでしょうね」
そう、アルテの血が持つ太陽の毒を警戒してのことだった。
事実、数滴の返り血を浴びたイシュタルは身体の所々から煙を噴き上げていた。
『我が主様! 何故私で防がなかったのです! あなたらしくない愚行だと進言いたします!』
珍しく義手がアルテをなじった。
そう、アルテは義手を付けた左腕に迫る斬撃を反対の右腕で受け止めていたのだ。
つまりは腕を交差するような形で防御したのである。
「五月蝿い。ここでお前に壊れられるわけにはいかないんだ。腕は治せるが、お前を完全に直せる人間はこの世界に一人しか知らない。それに言っただろう。お前たちの誰も喪わないと」
アルテの言葉を聞いて義手は沈黙した。
それは饒舌な彼女らしくない、返答に困り果てた沈黙だった。
『……了解しました。以後そのように我が主をサポートいたします』
銀の片刃剣を握りしめ、義手がなんとか返答を返した。
それで良い、とアルテは剣を眼前に突き出す。
「あと二合、あいつを組み合って生き残って見せる。あとは頼んだぞ」
/
まさか仮初めの命の義手すら庇い立てるとは。
イシュタルは苛立ちに下唇を噛んだ。
ただ、その苛立ちは狂人に向けてのものではなかった。
それは過去の自分に向けてのものだった。
あそこまで、自分は貪欲に反抗することができなかった。
様々なことに諦めて、妥協して生きてきた。
己が身を削って、誰かを守ろうとしてこなかった。
アルテの一挙一足を見る度に、過去の自分を罵られているようで心がささくれ立った。
激昂すら生ぬるい、静かなドロリとした苛立ちが心の奥底に溜まっていく。
イシュタルは、いや、緑の愚者はそんな自身の未熟さを振り払うかのように、さらにアルテへ斬りかかった。
もう剣で受け止めることも出来ないアルテは、懐に飛び込んでくるイシュタルとほぼ同じ速度でバックステップを踏んだ。
けれども僅かばかり、イシュタルが速度で勝っている。
双剣の切っ先がアルテの胴を凪いだ。
内臓までを傷つけることは適わなかったが、それでも少なくないダメージをその身に叩き込んでいる。
血反吐をまき散らしながら、アルテは聖堂内を転げ回った。
「あと一合か」
『はい。ご武運を』
あの義手がこちらの動きを学習していることに今更ながら気が付いた。
けれども焦りはない。
その隔絶した技量差の前では、そのような小細工、無にも等しい陳腐なものだからだ。
例え戦うことが好きでなくても、他の愚者のように強者として振る舞ってこなくても、腐っても世界の頂点に立った存在だ。
ただの人間如きに負けるような器ではなかった。
かつん、とイシュタルのサンダルが聖堂の床を踏みしめた。
ずるりと、多量の血を流したアルテが重たい足を引きずって後退した。
イルミとレイチェルが、それまで言葉を飲み込んでいた二人が悲鳴を挙げた。
「やめろ! もう勝負はついている! 私を喰らえば良い! だからアルテから離れろ!」
「お願い、彼を殺さないで! 私の身体をあげるから、それ以上傷つけないで!」
二人の女に愛された狂人を見て、イシュタルの苛立ちは彼女の器を超えようとしていた。
彼女は先ほどそうしたように、軽いステップを踏んだ。この期に及んでそれが軽い運動だと考えるものはこの場にはいない。
最後の気力を振り絞って、アルテは防御姿勢を取ったが完全に出遅れていた。
いつの間にか懐に入り込んでいたイシュタルが身が焼けることもいとわずに、アルテの身体に組み付いたのだ。
『っ! 離れろ! この下郎!』
口やかましい義手は、アルテの腕に接合されていたバンドを引きちぎることによって、遠くに放り投げた。
奇しくも義手の着地地点は拘束された二人の眼前だった。
義手を失ったアルテが、イシュタルの徒手空拳のもとに晒される。
彼女の左腕がアルテの骨半分で繋がっていた腕を切り裂き、彼女の右腕が内臓破壊の拳を胴体に叩き込んだのだ。
ごふりっ、とどす黒い血液をアルテが吐き出した。
それを正面から浴びたイシュタルは胴の左半分を焼き付かせながら、倒れ込む狂人の前に立った。
「さて、まだ何かやり残したことはありますか?」
圧倒的だった。
あまりにも圧倒的すぎる幕引きだった。
アルテの成す抵抗全てが、イシュタルにとっては児戯に等しかった。
そして、狂人からの返答は何もなかった。
/
膝をついてしまった、と理解したとき、最早ここまでかという諦観が全身を襲った。
立ち上がるのに必要な両腕は既に失われ、気力を振り絞るための血液すら足りていない。
序列第五位といえども、愚者は愚者という現実を突きつけられた攻防だった。
いや。
こちらの攻撃は殆ど通っていないので攻などはなから存在しなかったか。
既に霞み始めた視界と聴覚に、必死に何かを叫ぶイルミとレイチェルが映る。
彼女たちには申し訳ないことをしたと思う。もう少し早くに逃げ出す算段をつけていれば、いや、そもそも俺がここで騒ぎを起こさなければ、無事三人でサルエレムにたどり着けていたのかもしれないのだから。
ただ、ここで意識を失って、一足先に死ぬことは酷く無責任なことのように感じた。
そう感じたからこそ、こちらを見下ろすイシュタルを盗み見た。
もうさしたる抵抗は出来ないけれど、あと一回くらいは彼女に飛びつくことが出来る。
飛びついて噛みつくくらいなら、この命を引き替えに出来るかもしれない。
こちらにとどめを刺すべく、イシュタルが歩みを進めた。
あと一歩、もう一歩とこちらに近づいてくる。
狙うなら首筋だろう。成功する確率なんて万が一にも存在しないが、ここで静かに殺されるよりは遙かにマシなことだ。
「……やり残したことがないのなら、ここで終わりですね」
彼女が双剣の片方を振り上げる。その動作に隙は見当たらない。
けれども諦めるわけにはいかなかった。
イルミとレイチェル、二人の命を預かっている以上、ここで止まってはいけない。
顔だけを動かしてイシュタルの首を見た。
真っ白な、どこにそれだけの武を収めているのかわからない、細い首筋だ。
食らいつくための得物を見定めたその時、ふと冷静な思考が脳内に揺り戻ってきた。
そう言えば。
新しく刻まれたその呪い。
あれは本当に五感を強化するためのものだったのだろうか。
βという、あれだけ強力な吸血鬼の姉であるαが刻んだ呪いなのだ。
本当にそれだけで終わる呪いなのだろうか。
いつか、クリスと交わした会話を思い出す。
彼女にどうやって能力を行使しているのか問うたのだ。
まさか自分の吸血鬼ハンターとしての能力が、回復力の向上とコミュニケーション力の欠如だけとは考えたくなくて、彼女にコツを聞いたのだ。
クリスは言った。
「魔の力を噛まれた傷痕に馴染ませるんだ。すると自ずと力の使い方がわかるようになる」
その時の自分は魔の力を使えなかった。
当たり前だ。そんなものが存在しない世界から来たのだから、使えるわけもない。
だが今となっては状況が変わった。
レイチェルから太陽の力について教わり、αから魔の力を完全に知覚できる呪いを与えられた。
行使するべき魔の力もイルミからたっぷりと受け取っている。
体内で魔の力を行使することが出来なくても、彼女の質、量共に他を圧倒する魔の力は必ずや力になってくれる筈だ。
四肢は動かずとも、魔の力を体表に這わせることが出来た。
イルミから受け取ったそれを新しい傷痕に馴染ませていく。
ずきずきと痛むそれは確かな熱を持って、新しい何かを生み出していくのを感じた。
ぱきん、とガラスが割れる音がする。
それはいつか聞いた、魔の力が世界の一角を壊した音によく似ていた。
/
切り裂かれた腕が、血の跡を辿ってアルテの腕に戻った。
幾つもの泡沫が傷口を覆い、切断面を縫合していく。腹についた二つの大きな裂傷も、完全とは言わなくとも塞がっていった。
義手が外れた左腕は相変わらず隻腕のままだったが、片腕さえ揃っていれば立ち上がることは出来た。
「……なるほど、それがあなたの力。そんなところまであの女に似ているのですね」
残された腕で剣を握りしめた。
全身を真っ赤に染め上げながら、太陽の毒で周囲の魔の力を焼き払いながら、緋色の燐光を纏いながら狂人は立ち上がった。
そう、それはさながら赤の愚者のコピーのようだった。




