第55話 「エリムの決意」
吸血鬼に敗れ、新たな呪いを刻みつけられてしまった友のことをエリムは考えた。考えて、ただ我武者羅に槍を振った。
真紅の槍は緑の愚者から与えられた彼にとっての誇りであり、名誉だった。緑の愚者に拾われ、鍛えられ、そして認められた証なのだ。
だからこそ槍裁きには人一倍の自負心があったし、実際彼の槍を受け止めることの出来る人間は暗殺教団には殆ど存在しなかった。それがここ数日、アルテに対して全くといって良いほど通用しない日々が続いている。
単純に悔しかった。
もちろんアルテが生死の境を彷徨うような重傷を負ったことの副次効果であることは理解している。
例えあの動体視力が得られるとしても、エリムは吸血鬼に呪いを刻ませることを良しとはしない。
だが、それでも。
武人としての次の段階にアルテが行ったことは認めざるを得なかった。己よりも一つ上回る実力を手に入れたことを認めなくてはならなかった。
汗が迸り、手のひらから血が滲む。
恐るべき握力で降られた槍がしなって轟音が練兵場に響いた。
こんなことをしても無駄だ。こんなことではアルテに勝てないと、理性が諭してきても武人としての本能はそれを許してくれなかった。
どれくらい時間が経過しただろうか。
槍を振るいだして二時間ほどのことだろうか。
アルテはとっくの昔にいなくなり、他の暗殺教団の戦士たちはみな食事などを取りに練兵場から姿を消していた。
足下には汗で出来た染みが広がっており、自分がどれだけ槍を振るい続けていたのか教えてくれていた。
だがまだまだ足りないと言わんばかりに、エリムは槍の鍛錬を再開する。
と、その時鈴を鳴らすような声が練兵場でさえずった。
「鍛錬も良いですけど、ほどほども肝心ですよ」
振り返れば自身と同じ髪の色をした女が立っていた。イシュタルである。彼女はエリムの汗を持っていたタオルで手早く拭くと、すぐに飲み物の入った瓶を押しつけた。
「あの狂人が来てからあなたは良くも悪くも変わりましたね」
イシュタルがへそを曲げてしまう前に、エリムは手早く瓶を飲み干した。彼女の好意を素直に受け取らねばどうなるのか、彼は長年の経験で心得ている。
「お前以外の目標を見つけられたんだ。それは良いことだろう」
「でも焦りも生まれた。狂人に置いて行かれたくないという焦りが」
図星だったのかエリムは罰が悪そうに視線を反らした。イシュタルはそんなエリムの視線の先に回り込んで話を続ける。
「久しぶりに手合わせしませんか。焦りも苦痛も忘れて、ただ舞いましょう」
彼女が取り出したのはいつかエリムが使っていた二本の曲刀だった。それを彼女はエリムに向かって振るう。彼は危なげもなく二本の剣を槍で弾いた。
お返しと言わんばかりに突きを彼女の胴体に穿ち込むが、イシュタルは軽やかにそれをかわして見せた。アルテが俊敏さで槍から逃れていたのとは違い、単純な技でのみ彼女は回避してみせる。
「いいですよ。エリム。あなたの気が安定しています」
それからは静かな、けれども死と隣り合わせの舞踊が二人の間で続いた。けれどもそこに恐れもなければ殺気もない。ただ相手に対する信頼だけが二人を支配していた。
幼少の頃から共に武を磨いてきた。
二人で緑の愚者のため、剣を槍を振るってきた。アルテが来たことでエリムの目標は少々変化しているものの、二人に取っての原点はそこにあった。
「ねえ、エリム」
銀と赤が高速で交差する中、まるで世間話でもするかのようにイシュタルが口を開く。エリムはただ一言、「なんだ」と先を促した。
「愛していますよ」
言葉を受けた瞬間、エリムの槍がぶれる。それをイシュタルは見逃さない。彼女は羽のような身のこなしでエリムの振るった槍に乗り上がると、体重を感じさせないような足裁きでそれを進んだ。二本の剣がエリムの首に添えられる。
「ぷっ、まだまだですね。こんな甘言に引っかかるなんて」
剣を収め、イシュタルが笑う。エリムは眉根を顰めて槍を振り回した。が、イシュタルは体勢一つ崩すことなく鮮やかに地面に着地して見せた。
「あなたはまだまだ私にとって可愛らしい弟分ですよ」
エリムは何も言わなかった。
だが、アルテに槍を止められたときのように、しげしげとそれを眺めた。
そしてすぐに意を決したように、槍を眼前に掲げた。イシュタルの眼前にだ。
エリムの行動の意味がわからなかったイシュタルは形の良い目を見開いて固まる。
「なあ、イシュタル。俺はこの槍に誓う。まだまだ未熟な槍だが、これが俺の全てだ。だからこの槍に誓う」
何を? とイシュタルが問いかける前にエリムは続けた。
「結婚しようイシュタル。俺と夫婦になってくれ。俺もお前を愛している。ここ最近のアルテを見て、自覚した」
驚いたのはイシュタルだ。普段から笑みを貼り付けてそれを崩すことなど滅多にない彼女が、目に見えて狼狽える。
「え? あれ? 何を言ってるんですか?」
「俺は本気だイシュタル。緑の愚者様のためだけではない。レストリアブールの平和のためだけではない。お前のために槍を振るいたい」
エリムの言葉は嘘ではない。特にアルテの姿を見て決意を固めたというのは本当の事だった。
アルテが何故自分と打ち合いを、一歩間違えれば殺し合いになりかねない打ち合いを続けているのか考えてみれば直ぐだった。最初は単純に強くなりたいからだ、と結論づけた。だが最近のアルテは仲間のイルミを守りたいと武を磨いている。おそらくはあの吸血鬼から。
エリムはそんなアルテの姿勢に共感し、また羨ましいと思った。
それは何故か。
愛する者のために武を振るうその姿が美しいと感じたからだ。
だからこそエリムは宣誓する。己と共に育ち、武を磨いてきたイシュタルを彼は愛していた。
愛しているからこそ、例え実力は負けていても、イシュタルのために槍を振るいたいと思ったのだ。
「俺は弱い。お前よりも、あのアルテよりも弱い。だがこの誓いは本物だ。どうか受け取ってくれ」
エリムは槍をイシュタルに捧げたまま、その場に膝をついた。それは彼が緑の愚者にしかしたことのない、戦士としての誓いだった。イシュタルはその姿を見て、暫し固まった。
だが彼女も意を決したかのように、口元をきつく結んで――エリムの槍を受け取らなかった。
その代わりに彼の槍を押しのけて、彼にしっかりと抱きついた。
「そんな槍に誓わなくても、あなたと生きていけるなら私は幸せです。だから自分を追い詰めないで。もっと自分を大切にして。そして出来たほんの少しの余裕に、私を入れて」
エリムは槍を取り落とした。代わりにイシュタルの華奢な身体を抱いた。さっきはあれほど軽やかに逃げ回っていたイシュタルも、身体を強ばらせつつもエリムに身を任せた。
「ああ、わかった。俺は死なないし、お前もしなせない。俺は強くなる。でもお前を悲しませたりは絶対しない。これだけは必ず誓う」
「ありがとう。ならもう一度言わせて下さい。愛していますよ、エリム」
「俺もだ、イシュタル」
どちらからともなく、二人は唇を重ねた。
その光景を見ていたのは天頂に輝く青い月と――、暗闇に身を潜める一匹の吸血鬼だった。
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「……それは本当ですか? クリス」
騎竜が立ち並ぶ宿舎で、黒い鱗に包まれた一際大きな騎竜の世話をしていたヘルドマンが訝しげに振り返る。視線を受けたクリスは直立不動のまま報告を続けた。
「ええ、やっとの思いでレストリアブールに送り込んだ間諜と、現地の人間を買収させて手に入れた情報です」
騎竜の鼻先を撫でていたヘルドマンの白魚のような指が止まる。そしてそのうちの一つに嵌められた指輪にヘルドマンは話しかけた。
「アルテ、緊急です。すぐに応答して下さい」
クリスを尻目に、ヘルドマンは念話を行うことの出来る指輪に話しかけた。だが応答がないどころか指輪の発動すらしなかった。考えられる理由は二つ。持ち主であるアルテが死亡したか、指輪の持ち主が変わったか、だ。アルテを持ち主として登録しているため、赤の他人が装備しても効果が発動しないようになっている。
「……これはどう考えます?」
ヘルドマンの問いを受けて、クリスはこう答えた。
「あの狂人が死亡したとは考えられませんし、報告でもそのようなものは上がってきませんでした。ならば念話型の魔導具の発動を妨害する何かしらの方策を立てられたと見ることが自然かもしれません。少なくとも、暗殺教団の根城は奴の妨害範囲に含まれていると思います」
「やっかいなことになりましたね。私はアルテに緑の愚者の正体を老婆だと伝えてしまった。だが、あなたが教えてくれたとおり、奴の転生周期が今になって回ってきたのだとしたら、少なくともその情報は確定ではありません。おまけに念話型魔導具の妨害を行ったということは緑の愚者がアルテに持たした指輪の効果に気が付いている可能性もあります」
ヘルドマンが騎竜から離れる。そして宿舎の外に足を運んだ。クリスはヘルドマンの意図がわからないまま。その後ろをついて行く。
ヘルドマンが向かったのはグランディアの城の中庭だ。黒の愚者によって半壊させられたそこは、そのままの姿で放置されたままである。彼女が修繕を命じない限り、誰も近づこうとしないからだ。
「ヘルドマン様……」
不安に駆られたクリスが声を掛ける。ヘルドマンは一度だけクリスに視線をやると、こう告げた。
「私とマリアで先鋒を切ります。直ぐにマリアに準備させて下さい。聖教会の兵たちは予定通りの到着でも構いません。最悪、私とマリアで緑の愚者を殺しましょう。あの愚者が転生に成功しているのだとすれば、アルテ一人には余りにも大きすぎる相手ですから」
 




