第52話 「二人の吸血鬼」
「おい、アルテ。ちょっと遣いにいってこないか」
イルミと二人で買い物に行ってから丁度一週間。あれから頼み事をすっぽかされたレイチェルが拗ねたりと、いろいろあったけれども、概ね平和な一週間だった。
連続殺人騒ぎも嘘だったんじゃないか、という程、夜の警邏も異変はない。
ただぶらぶらと街を回って、住民の皆から声を掛けられて、と平和そのものだ。
で、そんな時。いつも通りに警邏に向かおうと装備を調えていたら、既に出発の準備を終えたエリムからそんなことを言われた。
遣いといっても全く心当たりがなかったので、何事か、と問うてみる。すると、
「何、この前の礼にお前用の防寒具を職人に作らせておいたんだ。暗殺教団の戦士ならばみな支給されている砂竜の革でできた上着だ。昨日完成したらしいから、お前が取りに行け。受け取りの時、細かな調整をしてくれる」
そう口早に告げて、エリムはとっとと警邏に出て行ってしまった。
まだ腰に吊していない黄金剣を片手に持ってまま、俺はぽかん、とその場に立ち尽くす。
「ああ、ごめんなさい。エリムはああ見えて照れてるんですよ。何処に受け取りに行けば良いのか、アルテが知るはずもないのに」
助け船を出してくれたのは戦士たちの見送りに来ていたイシュタルだった。彼女は懐から羊皮紙を一枚取り出すとこちらにそれを手渡してくる。
「簡単な地図と店の名前です。おそらくあなたの特徴はエリムから伝えられているでしょうから、そこに行って名前を言えば品物は受け取れるでしょう」
そんなわけで、アルテ、レストリアブールでの初めてのお遣いが始まったのである。
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上着の受け取り自体は比較的簡単だった。
羊皮紙に記された通りの場所に行き、名前を告げるだけで店の主人が革製の上着を出してくれた。
そしてその場で羽織ってみて、細やかな調整をいくつかした後、めでたく品物を受け取ったのである。
いつもの外套の下に羽織ったそれは、見たこともない生き物の革で作られており、とても暖かい。エリムは砂竜と言っていたから、騎竜とよく似た生き物が砂漠にもいるのかもしれなかった。
で、暗殺教団の本部に帰ろうとしたのだが、ついでに黄金剣の整備を何処かで頼めないか、と俺は市場から少し離れた商店街をふらふらと歩いていた。
この剣ももう長いこと研いでいないので、そろそろ研いでやらねばと思い立ったのだ。
残念ながら、目も覚めるような金色をしている所為で、月の民からの評判はすこぶる悪く、中々研いでくれる職人はいないけれども。
まあ、ごくごく希に好き者な職人が面白がって研いでくれるから、それをあてにするしかないのだ。
最悪、研ぎ石だけでもどこかで手に入れて、自分で研ぐというのもある。
「ん? ここか」
軒先に剣を吊した、見るからに武器を扱っている店を一軒見つけた。
とりあえずはここでいいか、と店の扉に手を掛ける。
と、同時。外套どころか、貰ったばかりの上着を誰かに引っ張られた。何事か、と振り返れば、麻で出来たフード付きの外套に身を包んだ、頭一つ小さい影がそこにいた。
……この人影、なにやら見覚えがある。
「いやあ、まさかと思って後をつけてみれば、あの時の恩人さんじゃないですか」
人影がフードを取った。そして無理矢理にまとめていたのか、拘束が取り払われた瞬間、目の前に鮮やかな銀髪が翻った。いつかの血のような赤い瞳がこちらを見ている。
「お久しぶりですね。アルテさん。私です。アリアダストリスですよ」
いろんな意味で、会いたかった顔がそこにはあった。
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ラウンジが備え付けられた居酒屋で俺とアリアダストリスは対面する。
丸いテーブルを挟んで腰掛け、いつかのように、アリアダストリスはテーブルに収まりきらないくらいの量の食事を平らげていた。
「あ、今日の食事代は私が出しますからアルテさんもじゃんじゃん食べてください」
骨付きの肉を咥えながら彼女はそんなことを宣う。
だが俺は彼女の申し出通り、食事をすることはなかった。ただ景気よく肉を平らげていく口元をずっと凝視していたのだ。
「……そんなにも気になります。この歯」
俺のそんな視線に気がついたのか、食事を中断したアリアダストリスが肉を皿に置いた。そして指で唇を捲り上げて犬歯をこちらに見せつけてくる。けれどもそこにあったのは俺が疑っていた物ではない。
少し長めだが、吸血鬼のそれとは言えない、普通の歯だった。
「……どういうつもりだ」
もう遠巻きに問い詰めることも出来なかった。
この店に入ってから小一時間。いや、正確には出会ったときから俺の内心は全くもって穏やかではない。
むしろ鞘に黄金剣が静かに収まっているのが奇跡にも思えるような感情の昂ぶりだ。
だがアリアダストリスはそんな俺の内心を嘲笑うように、こう告げた。
「あら、てっきり私の妹のことを聞かれると思ったのですけど、アルテさん的にはその辺どうでもよかったりするんですか? あの子と私は同じ顔ですから、すぐに問い詰められると思ったのですけれど。ちょっと拍子抜けですね」
「やはり、あいつはお前の肉親か」
そう。エリムと二人がかりで挑んで、圧倒的な格の違いを見せつけられたあの吸血鬼。
仮面が剥がれて現れた冷酷な美貌と、瓜二つの顔が目の前で食事をしているのだ。これで内心が穏やかなわけがない。
「その推測は大当たりです。血縁上はあの子は私の妹になります。名前はβ。そして私がα」
「べーた? あるふぁ?」
およそ名前と呼べないような記号を唱えたアリアダストリスを見て、俺は妙な声を零してしまった。
アリアダストリスは……いや、αか? はそんな俺を気にするでもなくこう続けた。
「名付け親がめんどくさがったんですよ。正確には私がアリアダストリスα。そして妹がアリアダストリスβ。見ての通り双子ですね」
言うことは言った、と言わんばかりにαはそのまま食事を再開した。皿に残されていた肉を食み、付け合わせの果実を囓りとる。喉が詰まればエールで流し込み、追加の注文を流麗にこなす。こちらとはどこまでも対照的に脳天気な女だった。
「なら一つ教えてくれ。何故βはこの街で殺人を繰り返している。どうして人を殺して魔の力を集める? 見たところ、お前たち姉妹は他人から魔の力を奪う必要がないくらい強大だ。そこに何の意味がある?」
αの瞳がこちらを見た。相変わらず血を落とし込んだような、現実離れした赤い瞳だ。
「……まあ、ここで私がゲロるのも、あの人の想定のうちでしょうし、別に良いでしょう。何、簡単ですよ。私たちの協力者に魔の力を恒久的に必要とする者がいるからです。βちゃんはその人に魔の力を届けるためにこの街で頑張っています。まあ、あなたに両腕を切り飛ばされて、しかも協力者にはもう魔の力は必要ない、と言われて御役御免なんですけどね」
「協力者とは誰だ?」
「それは言ってもいいのですけれど、あなたはすぐに答えにたどり着くでしょうから言わないでおきます。ただヒントだけはいります?」
そんなの聞かれるまでもない。
緑の愚者の懲戒を終わらすためにも、何よりあんな巫山戯たことを繰り返した元凶を討ち取るためにも、この女をこのまま帰すわけにはいかないのだ。
「ああ、でも勘違いしないでくださいね。私からのヒントは協力者の正体についてではありません。あなたの行動指針についてです」
視線だけで、先を促す。
αはせっかちな人ですね、と苦笑した後、口を静かに開いた。
「あなたの近くに、特大の魔の力を持った子がいますよね。私たちの協力者。あの人、その子が気になっているみたいですよ」
それからの動きはもはや本能的だった。テーブルを引き倒し、剣を振り抜いた。
黄金色の軌跡がアリアダストリスαに向かう。彼女は咄嗟のことに対応できず、体勢を崩したままそれを受け止める形になった。防ぐ術は存在しない。何千、何万と繰り返してきた人斬りの動作は今完了する。
けれども--、
「だから言っただろう馬鹿姉! この狂人の前でうかつな事を話すなと!」
剣は血しぶき一つ舞い上がらせることなく、代わりに俺の視界が傾いていた。
続いて腹に響く激痛を感じて、喉から何か熱い物がこみ上げてきて、思わず吐きだした。
それが多量の血だと気がついたときには、髪を掴まれ、無理矢理視界を引き上げられていた。その主犯がこの前の吸血鬼、βであることは疑うべくもない。
「私が近くに控えていたからよかったものの、あんたは戦うようには作られていないんだ! もう一歩狂人が踏み込んでいたら今頃殺されていた!」
「まって、β。ストップ。黙りなさい。今のあなたはいらないことを口走りそうだわ」
「五月蝿い! 今日という今日はなあなあでは済まさないからな!」
霞む視界の中、手先の感触で黄金剣の柄を掴み取る。幸いβは姉との口論に忙しく、こちらを見ていない。腹の傷が気にはなるが、確かめている余裕はない。
殆ど気力だけで剣を振る。
「β!」
先に気がついたのはαだった。彼女が声を上げたのと同時、βが剣を素手受け止める。いつか影で補っていた両腕は既に再生しており、生身の手のひらが刃に触れて鮮血が舞った。
「こいつ!」
たまらずにβが俺の髪の毛を離した。すぐにステップを踏んで後ろに下がる。騒ぎに気がついた他の客が悲鳴を上げて逃げ惑う中、俺はしっかりと敵を見据えた。
「……アルテ、あなたもやめて。今のあなたではβに決して敵わない。βも私のことは良いから下がりなさい」
「邪魔するな、馬鹿姉。この前見逃した恩を仇で返すような奴だ。ここでもう殺してしまう。それに忠告だってした。次は手加減できないと」
臨戦態勢に入ったβから凄まじいまでの殺気が迸る。それだけで剣を取り落としそうになるが、救いの手はあった。それは文字通り俺の右腕だった。
『お気をつけください。我が主。あなたの想像以上に体力を消耗しています。まことに遺憾ながら撤退をお勧めします』
そう。それはここのところ大人しくしていた義手だった。
前回の独断専行に耐えかねて、しばらく大人しくしていろ、と命令していた義手だ。さすがにこの状況を大人しくしているはずもなく、俺の意思とは違う動きを繰り替えす。だが今となってはそれが頼もしい。
βが構える。俺も義手を使って剣を向ける。踏み込みは左足から。
少し踏み込めば腹から血が吹き出たが、今はそれも構っていられない。
「やめろ、お前たち!」
後はさじ加減一つで飛びかかれる、と覚悟を決めたとき、雷鳴のような声が降ってきた。
俺もβも思わず声の主を見てしまう。殺し合いの最中にはあまりにも不用心すぎる振る舞いだったが、そうさせるだけの何か--例えばカリスマがその声には宿っていた。
声の主は……そう、αだ。
「β、ここでアルテを殺すことは予定にはありません。もしも殺してしまえば、あの人が怒り狂いますよ。三十年前みたいに先走って、手痛い目には遭いたくないでしょう。アルテも、その傷で戦えばあなたの命がない。それであの子は、イルミは喜びますか?」
言われて初めて、自分の傷を見た。まるで何かに穿たれたかのように、大穴のあいた腹。
すぐさま手当を行わなければ、このままくたばってもおかしくはない。
だが今は大人しく引き下がるわけにはいかない。こいつらがイルミを狙っている以上、みすみす取り逃がすわけにはいかない。ここで死んでしまっても、俺には彼女を見捨てることなんてできなかった。
「……心配なさらずとも、私たちが直接手を下すことはありませんよ。あくまで私たちの協力者が狙っているだけであり、その協力関係も実のところ、もう途絶えています」
信じられるか、と血泡まじりの言葉を吐き出す。
「なら、こうすれば信じてもらえますか」
「おい、馬鹿姉。まさか……」
βが制止するのを振り切ってαがこちらに近づいてきた。義手が暴れようとしたが、間に割り込んできたβがそれを押さえ込んでしまう。
「手伝ってくれてありがとう。β」
「あんたのそういう後先考えないところが嫌いだ」
そしてそのままβに羽交い締めされ身動きが出来なくなる。なんとか抵抗を、と四肢に力を込めても、血を流しすぎたせいか、βの怪力には太刀打ちできない。せめてもの抵抗として、眼前に膝をついたαを睨む。
「……あなたはいつだってそう。いつかの時も、そうやってあの人に楯突いた。あなたはあなたの大切なものを守るために戦う。私はそういうところ、嫌いじゃないです」
αが口を開ける。ぬらりと赤い舌がうごめき、そしていつのまにか鋭く伸びていた犬歯が光った。
間違いない。吸血鬼特有の以上に発達した犬歯だ。
「まだ全部は話せないけれど、いつかはあなたは全てを知ることになる。あなたがそこでどのような選択をとるかはあなた次第。だから今はせめて、あの人の言うとおりにして」
動けなくなった首元に犬歯が突き刺さる。吸血鬼に襲われた呪いの傷跡とは、丁度反対側。
激痛が全身を襲った。
昔、呪いを刻まれたときと比肩しうる痛みが体中を駆け巡る。腹の傷なんてかすり傷に思えるほど、全身が熱く燃えるようだった。
押さえ込まれていた四肢も、βの拘束を振り払わんばかりに暴れ回る。
「くっ、この!」
「押さえて! 大丈夫! あなたの傷が塞がっているの! その痛みは一時的なもの! だから頑張って!」
手放しそうになる意識の中、二人の吸血鬼の声が聞こえた。
あれほど暴れ回っていた四肢も、いつのまにか全く力が入らなくなって、投げ出されたように視界に映っている。
すぐに耐えがたい眠気がやってきて、俺はそれに抗うことができなかった。
早くイルミのところへ。
完全な暗闇に思考が塗りつぶされる寸前、俺はそんなことばかり考えていた。
 




