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ヴァンパイア/ジェネシス(勘違い)  作者: H&K
第三章 緑の愚者編
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第50話 「アルテとユーリッヒ」

 執務室がある。

 月の民が好む黒壇で出来たテーブルが中央に鎮座し、飛竜の翼膜が張られた上等な椅子が備え付けられている。壁には古からの書がビッシリと収められた本棚が並び、薄暗い室内を照らすランプはドワーフ謹製のものだ。

 調度品一つとっても、家が一つ買えてしまいそうな高価なものばかり。

 そんな貴族の書斎のような部屋で、部下が煎れたコーヒーを嗜むのはユーリッヒ・ヘルドマン。

 世界最強の一角である吸血鬼、黒の愚者その人だった。


「……此度は随分と大胆に来たのですね」


 黒壇のテーブルには腰掛けず、壁により掛かりながらヘルドマンはコーヒーカップを傾ける。

 視線の先には、麻で出来た質素な外套をかぶる人影がいた。

 黒を基調とした高級な部屋の中で、唯一浮いた存在がその人影である。


「そんなユーリッヒも手荒な歓迎は止めたのか? この前は風穴だらけにされて追い返された」


 人影が外套を脱ぐ。足下に届かんばかりの銀髪が翻る。血のように赤い瞳がランプの光を受けて輝いている。


「クリスに連れられて来客として来るとは思いませんでしたから、ただただ呆れているだけですよ」


 そう言って、ヘルドマンは自身の影を人影へ伸ばした。質量を持った影は螺旋を描いて人影を穿つ。

 完全な不意討ちからの、完全な致命傷。だが銀髪の主--赤の愚者、アリアダストリス・A・ファンタジスタは意にも介さない。


「なに、認識阻害の力を作ってみたんだ。ヘルドマン、お前の腹心すら騙せたのだから実験は大成功だったよ。さすがに……愚者クラスまでは欺けなかったようだが」


 影に串刺しにされたまま、アリアダストリスはヘルドマンに何かを投げて寄越した。それを受け取ったヘルドマンが月明かりに翳してみれば、真っ白な仮面がそこにはあった。


「αとβにそれぞれ持たした。もちろんそれほど効果の強いものではないよ。精々、性別や声色を偽るだけだ。全くの別人に化けることはできない」


「……あの忌々しい双子はまだ生きているのですね」


「昔、お前に半殺しにされてそれぞれ療養していたがな。つい最近、ようやっと動けるようになったんだ。それぞれ狂人の監視に赴いている。けれど姉は私以上に自由奔放で、ほぼ任務を放棄している。まったく困った奴だ」


 溜息を吐きながらアリアダストリスは己を串刺しにしていた螺旋を砕く。それも片手で握りつぶすというラフな方法で。

 ヘルドマンは苛立ちを隠すこともなく、アリアダストを問い詰める。


「アルテが言っていたレストリアブールの吸血鬼はβの方ですね。何が目的ですか。緑の愚者を、グリーン・ランペイジを刺激して何がしたいのです?」

 

 赤い視線がヘルドマンを射竦める。この世界最強が放つ、常人ならば狂い死にしかねない狂気の目線だ。だがヘルドマンは一切怖じ気づくことがない。同じ愚者に数えられる者として、実力こそ違えども、そこは譲らない。


「……彼が英雄になるには必要なことだ。言っただろう? この時代を変えるのはあの狂人だ。彼が神を殺すために必要なプロセス。五十年前から決まっている歴史・・だ」


 瞬間、ヘルドマンから伸びる影が増えた。幾多もの螺旋が音速を超えて殺到する。アリアダストリスは眉一つ動かさない。

 だが今度は何もしない、ということはなかった。片手の手のひらを広げ、赤い障壁を生み出してそれらを全て包み込んだ。

 そして恐ろしく優しい声色で、諭すように言葉を続けた。


「おいおい、癇癪持ちに育てた覚えはないぞ。それにこの部屋の調度品、見ればなかなかの逸品じゃないか。それを壊すようなもったいないこと、しないほうが良い。君の部下も後始末に頭を悩ませているぞ」


「黙れ! お前がアルテを語るな! 何故お前はあの人を利用する! お前は何がしたいんだ!」


 畳みかけるようにヘルドマンはアリアダストリスに突進する。そして影を纏わせた右腕で力一杯に殴りつけた。けれどもそれは赤い障壁に拒まれる。ヘルドマンの拳が砕け、鮮血が噴き出した。


「おいおい、それ以上はよせ。お前が傷つくだけだ」


「五月蝿い!」 

 

 右腕が駄目なら左腕で、左腕が砕ければ頭突きでアリアダストリスに向かう。全身をぼろぼろにしながらヘルドマンは叫ぶ。


「私からお前はどれだけ奪えば気が済むんだ! 力を、家族を、故郷を、記憶を返せ! アリアダストリスぅ!」


 ヘルドマンらしからぬ、涙混じりの叫び。余裕を是とし、優雅に生き続ける黒の愚者としてはあり得ない振る舞い。

 癇癪を起こした幼子のような彼女を目の前にして、アリアダストが見せた表情は意外なことに悲しみのそれだった。

 それまで平静を装っていた赤の愚者が初めて見せた表情の変化だった。


「記憶を奪った、か。そうだな。私はお前から記憶を奪った。父親を奪った。力も奪った。お前はそれを返して欲しいのか」


 ヘルドマンがらしくないのならば、アリアダストリスもそうだった。

 傲慢にして不遜。唯我独尊な彼女が自らヘルドマンに歩み寄る。


「やめろ! 近づくな! これ以上私から何も奪うな! ここまで取り戻すのにどれだけ時間を掛けたと思っている! 可愛い部下も、私を守ってくれる組織も、愛しい人も! 全部お前に奪われてから手に入れたんだ!」


 螺旋の暴風がアリアダストリスを殺そうとする。だが悲しいかな、世界の頂点にそれは届かない。殺戮の暴風も、アリアダストリスにとってはそよ風ですらない。髪の毛一つ、動かすことができない。


「やめて……、とらないで、かえして、もうやめて」


 自身の攻撃が何一つ効かない現実を突きつけられて、その余りにも違いすぎる存在の大きさに耐えかねて、ヘルドマンは己のかき抱くようにしてその場に跪いた。そして左手薬指に嵌めた指輪に向かって助けを求める。


「助けて、アルテ。お願い、助けてよ、アルテ」


 けれどもその言葉は愛しい狂人には届かない。アリアダストリスが何かしらの妨害を行っているのか、魔導具が発動しない。

 アリアダストリスがヘルドマンの眼前に立つ。

 彼女はそっと、振るえる黒髪に手を伸ばした。


「今あなたが望めば記憶を返すわ。ユーリッヒ。いえ、この名で呼ぶことすら間違っているわね。ごめんなさい」


 ヘルドマンが面を上げる。

 血と涙でぐちゃぐちゃになった顔で赤の愚者を見る。震える唇が何か言葉を紡ごうとするが、それはアリアダストリスの言葉に掻き消されていった。


「あなたから記憶を、力を、父を奪ったこと、どれもよかれと思ってやったこと。けれどもそれがそんなにもあなたを苦しめるのなら、返しても良い。

 ……でもこれだけは言っておくわ。思い出した先にたぶん幸せなんてない。あるのはこの世界に対する絶望だけ。私が抱いている絶望と同じものをあなたも背負うだけ。それでもいいの?」


 ヘルドマンの瞳が、アリアダストリスと同じ色をした瞳が怯えたように揺れる。

 だがそれは一瞬のこと。すぐさまアリアダストリスを睨み付け、宣誓を行う。


「見くびるな。私はユーリッヒ・ヘルドマン。この世界を支配する愚者の第三階層 黒の愚者だ」

 

「そう。なら記憶を返す前に、一つだけ忠告をあげるわ。それはあなたの名について」


「……え?」


 ヘルドマンが疑問をこぼす。だが、それ以上はアリアダストリスが告げた。


「あなたの名はユーリッヒでもヘルドマンでもない。ヘルドマンの家名はあなたの家族の名ではない。それはこの世界で忘れ去られた没落貴族の家名。あなたとは何の関係もない。ユーリッヒは辛うじて名を残しているけれども、それすら私があなたにつけた偽名だわ」


 残酷な真実がヘルドマンを突き刺す。


「あなたの本当の名はね、アルテ(・・・)っていうの。……どう? これを聞いてもなお、あなたは真実を求める? 正直言って、今の仮初めの、あなたが作り上げた世界の方が、よっぽど幸せ」



     /



「驚いた。アルテも家名が存在しないのか」


 エリムと剣を打ち合う日々が三日ほど続いたある日、二人して練兵場で休憩がてら腰掛けていたら、己の出自についての話になってしまった。まさか別の世界から来たと言っても信じてもらえるはずがないので、家名すら持たない、住所不定の存在だとエリムに告げた。するとそんな反応が返ってきたのだ。

 正直な話、俺の元の名字がこちらの世界で発音しきれないから、限りなく近い名を名乗っているだけなのだが、その事実も伏せておいて良いだろう。 

 というか、俺も、と驚いているのならば、エリムも家名が存在しないのか。


「ああ、俺はもともとここの貧困街に捨てられた孤児だ。それが緑の愚者様に拾って頂いて、槍の手ほどきを受けた。そのことは感謝してもしきれない」


 そう言って彼はこちらを見た。


「だから俺は家の格を信じない。俺みたいな孤児でも、暗殺教団では一応頭を張ることが出来る。それは緑の愚者様から教えて頂いた槍があるからだ。お前を信じ、友と断言するのもお前の剣の腕があるからだ。武は、積み上げてきた武の歴史は、万の言葉よりもそいつの人柄を語る。そしてお前の武、これほど好ましいと思った武はお前を除けば一人だけだ」

 

 べた褒めですやん。照れますやん。


 けどその口ぶりならば、もう一人、エリムが褒めちぎる存在がいることになる。それはやはり緑の愚者なのだろうか。


「いや、違う。緑の愚者様は俺が語ることが出来るようなお方ではない。もう一人はイシュタルだ。彼女は女伊達らすさまじい実力を有している。お前と同等かあるいは上だ」


 純粋な疑問をぶつけたら結構意外な答えが返ってきた。

 いや、意外ではないか。ここ数日のうちにわかってきたことだが、このエリム、実際のところイシュタルに思いを寄せている節があるのだ。恋愛ごとにはさっぱり鈍感な俺だが、何となくその事実だけはわかってきた。

 まあ、これもレイチェルに告げられてから意識し始めたことなんだけれども。


「彼女も俺と同じで緑の愚者様に育てられたのだ。おそらく緑の愚者様が後継者を指名されるとしたら、彼女だろうな」


 エリムの声色は寂寥のような、それでいてちょつとばかり誇らしそうだった。

 自身が彼女に劣っているという劣等感と、好きな相手が認められるという誇らしさ、それぞれが入り交じっているのだろう。


「だが俺もただそれを指を咥えて見ているつもりはない。お前の剣からは今までになかった戦いの術を学べる。必ずやそれを糧にして、俺はもっと高みに上ってみせる」


 エリムが槍を振るった。それは打ち合いの再会の合図だ。

 ぶっちゃけ身体は死にそうなくらい疲れていて、正直休みたいけれども、彼のうきうきとした仕草を見ていると付き合ってやらなければ、という気持ちも沸いてくる。

 

 やれやれ、初めての友達はおじさんにくらべて若すぎるよ。 



     /



「探しましたよ! ヘルドマン様! 来客が帰られたことも告げずに何処で油を売っているのですか!」


 いつのまにか執務室から姿を眩ませていた敬愛する主を見つけて、クリスは非難混じりの声を上げた。

 場所はグランディアの城の中庭。泉が設置されている--いつかヘルドマンとアルテが語り合った中庭だ。


「お茶の一つでもお出ししようと思えば、執務室は物抜けの空ですし……ヘルドマン様?」


 いつもならば大して反省していない様子で「ごめんなさい」と笑う主が何も言葉を発しない。

 それどころか泉の縁に腰掛けて俯いたままだった。これはただ事ではないと、クリスはおもむろに手を伸ばす。


「触るな!」


 びくっ、と手が止まった。そしてクリスは見た。眼前まで伸びている螺旋の影を。

 思わず腰を抜かして、その場にへたりこむ。

 ヘルドマンはクリスが倒れ込む音を聞いて、初めて彼女の存在を認めたのか、はっと瞳を見開いた。


「ああ、ごめんなさい。少し考え事をしていました。ごめんなさい。ごめんなさい」


 螺旋が溶け、影が霧散する。

 けれどもそれ以上何かを言うこともなく、再び俯いてしまった。

 驚愕から回復したクリスがヘルドマンに言葉を掛ける。


「あの、体調が優れないのですか? すぐに備え付けの医者をお呼びします」


 クリスのごく当たり前な提案をヘルドマンはすぐに否定した。


「いえ、それには及びません。本当に考え事をしていただけなのです。……あなたには申し訳ないのですが、ごめんなさい。ちょっと一人にしてもらえますか。ごめんなさい」


 消え入りそうな声でヘルドマンがそう懇願する物だから、クリスはそれ以上言葉を掛けることができなかった。ただ頭を一つ下げると、足早にその場を立ち去る。

 もしも何か入り用ならばすぐに呼びつけるよう言い残して。

 一人残されたヘルドマンは胡乱げに月を見上げた。満月ではない、今にも消えてしまいそうな、新月の直前の三日月。


「私の名はアルテ。なら、あの人はなんなの。何故、あの人は私の名を名乗るの? どうして、なんで……」


 結論から言えば、ヘルドマンは記憶を取り戻すことを拒否した。

 アリアダストリスから告げられた本当の名があまりにも衝撃的すぎて、それ以上の真実を告げられることを拒否した。

 その名前すら嘘だと叫んだ。

 だがあの直後、アリアダストリスはあろうことかヘルドマンを力一杯抱きしめながら、泣きながらこう言ったのだ。


「お願い、それだけは嘘だと言わないで。それが嘘なら、あの人はこの世界で本当の孤独になってしまう。それだけはお願いだから受け入れて。記憶は取り戻さなくても良い。でも、その名前だけは捨てないで。どうか、どうか」


 頭が真っ白だった。

 自分の存在が根本から揺るがされたような感覚だった。

 そして自分が愛おしいと思っていた男が、そこには存在しない幻のようなものだという錯覚すら覚えてしまった。

 ヘルドマンはアリアダストリスが去り際に言った、一つの言葉を思い出す。


「私が彼のことをアルテと呼ばないのは、あなたがアルテだから。けれども彼もアルテなの。あなたたちは二人ともアルテ。だから私はあなたから、いえ、二人から記憶をなくした。それがあなたたちの幸せだと今も信じているから」


 真実を受け入れることを拒否した今、自分に残されたものは何もないとヘルドマンは考える。

 だが自分が思いを寄せる狂人に会わないという選択肢は存在しない、と覚悟も決めていた。

 かの狂人は、本当のアルテはレストリアブールに今いる。


 聖教会の戦争の先兵になることは、あまり乗り気ではなかった。

 ただの人間如きに命令されるなど、虫酸が走る思いだった。

 けれどもそれすら今となっては好都合なこと。

 ヘルドマンが月を睨む。そしてこの世界の象徴に宣戦布告を行う。


「いいだろう。私とアルテ、二人で必ずやお前を叩きつぶす。そしてお前が奪っていった物を全部取り戻してやる。もう慈悲は受け取らない。涙も絶対に見せない。だから心しろ。たとえ世界の頂点でも例外はない」


 ヘルドマンは己の懐に手をやった。そこには革の袋に収められた、赤の愚者の置き土産がある。

 血の滴る生々しいそれは、白の愚者から抜き出された心の臓。


「許せ、白の愚者。お前の力、無駄にはしない」


 吸血鬼特有の犬歯が心臓を食い破る。噴き出す血を喉に流し込み、固い肉を噛み千切った。

 ヘルドマンの纏う黒い魔の力の密度が明らかに増していく。

 やがてそれは泉の水すら蒸発させる恐るべき瘴気へと変貌していった。月の光もまばらな夜の闇に、黒の愚者の叫びが響き渡った。

  


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