第41話 「異国の文化は難しい2」
すいません、遅くなりました。
イルミとレイチェルは二人で市場をぶらぶらとしていた。
手元に残った財産は少なく、無駄遣いが許されるような状況でもない。だが今日の糧を得なければ明日への支障をきたす。
そういったわけで、最小の出費で一番三人の腹を膨らませることのできる物品を、つらつらと物色していたのである。
「ふむ、向こうではあまり見かけなかった果物だな。見ろ、イルミ。これはドラゴンエッグと言ってな、竜の卵のように朱く染まっているぞ」
「……私、竜の卵なんて見たことないわ」
「それもそうか。ボクもシュトラウトランドで一度だけ騎竜の卵を見たきりだ。もしこちらでまともに稼げるようになったら、一度は食べてみたいな。どんな味がするのやら」
うんうん、とレイチェルの背後に控えていた朱い魔導人形、ゴリアテが頷いた。大きめの旅人装束を着せられて巨人族の男のように振る舞うそれはレイチェルによって操作されている。つまりレイチェルは自分の台詞に相槌を打たせているわけで、器用な一人芝居をしているのだ。
そのことを理解したイルミはじっとレイチェルを睨みつけた。
「私の魔の力で動いているのだから、あんまり無駄遣いはしないで」
「無駄遣いも何も、これくらいなら全く消費していないよ。むしろボクの操作の練度が上がって君たちにとっても役立つと思うけどな」
ぐっ、と反論に詰まったイルミを見て、レイチェルは思わず笑みを零した。
この少女、アルテさえ絡まなければ見た目相応の可愛らしい子どもなのである。
だがあまりからかってばかりでも可愛そうなので、レイチェルは仕切り直しと言わんばかりに声を挙げた。
「さてはて、ここが市場の終点かな。とりあえずはお腹の膨れそうなパンと屋台で売っていた鳥の串焼きでも買っていこうか。明日以降はアルテの就職活動に期待しよう」
開けた広場に足を踏み入れた二人は、今まで歩いてきた市場を振り返る。いくつかアルテの好みそうなもの、これからの生活に必要なものは見つけたが、当面の食糧問題を解決することが重要だとレイチェルは説いた。
イルミも異論は無い様で、残り少ない財産が収められた財布を握って頷いた。
と、その瞬間だった。
「あっ」
イルミらしくない、呆けた声が漏れる。
基本的に口数が少ない彼女は、アルテに関すること以外は殆ど話さない。そんな開かずの扉のような唇から、反射的に飛び出した声。
理由は単純明快だった
「まっ……!」
状況を見ていたレイチェルが手を伸ばす。だが届かない。
イルミの手から財布を引ったくった小さな子どもに、彼女の手は数瞬のところで手が届かなかった。
そう、しっかりと握りしめていた筈の財布が、いとも簡単にスられたことにイルミは驚いたのだ。
「待て!」
叫びが広場に木霊した。何事かと周囲の人間が視線を寄越すが、マヌケな旅人がスリにあったと知ると、それぞれ興味を失って明後日の方角を見た。
その顔色からは厄介ごとに関わりたくない魂胆がありありと見て取れる。
我に返ったレイチェルが慌てて後を追おうとするが、ゴリアテを引き連れて市場の人混みを走り抜ける危険性に思いとどまった。
ゴリアテはその大きな体躯もさることながら、鋼鉄で出来た身体を持つ魔導人形だ。その質量は決して生優しいものではなく、万が一人にぶつければ怪我だけでは済まないだろう。
だが、傍らにいたイルミはそうではない。
彼女の中に渦巻く魔の力を感じ取って、レイチェルは悪寒が走った。
そうだ。普段は歳相応の少女でも、この娘はアルテが関わると……。
例えば、アルテから買い物は任せたと言われて、預けられた財布をスられるとなると……。
イルミ、ダメだ! という言葉は口を突く隙がない。
少女の影から飛び出した二匹の狼のほうが素早かった。ゴリアテを人混みに突っ込ませる危険性を考えたレイチェルとは対極の行為。
血走らせた目、剥き出しの牙を一切隠すつもりのない二匹の狼はそのまま人混みに向かって駈け出したのだ。
ああ、とレイチェルは目頭を覆った。
悲鳴と怒声が耳に入ってくるたび、まだまだイルミのことを見くびっていたと、少し前までの自分に後悔する。
アルテの向こう見ずに吸血鬼を狩り尽くす性格と同じように――、
彼女の猪突猛進ぶりはもっとも注意しなければならない悪癖だったのだ。
/
義手から返ってきたのは硬質の感触だ。
肉を打つような弾力はそこになく、代わりに腕全体の痺れを与えてくる。
硬質な違和感の正体は、義手を受け止めた二本の剣だった。
「その思いきりの良さ、驚異だな」
背後からの襲撃者は男だった。彼は緑色の髪をした青年で、褐色の肌を持っている。鳶色の鋭い眼光は素人などでは持ち得ない、戦士の目線だった。
「!!!」
青年が一歩踏み込んだと認識した刹那、アルテはその場から三歩飛び退いた。
そしてその判断は限りなく正しい。
青年が振るったのは一対の曲刀だった。三日月のようなそれは二本で一つの剣だが、それぞれで長さが微妙に違う。一本目の長さの間合いで剣閃から逃れていれば、二本目の剣によって喉元を切り裂かれていた。
「なんと!」
まさか完璧にかわされるとは思っていなかったのだろう。青年は思わず感嘆の声をあげた。だがその称賛は長くは続かない。反撃と言わんばかりに、アルテが黄金剣を上段から振るったからだ。
青年を唐竹割りにせんとする一撃は一対の曲刀によって受け止められる。予想外の剣の重さに青年は冷や汗を一つ流した。だが何よりも、
見えない!
それはアルテの足運びだとか、目線だとか、およそ切り結ぶには注視しなければならない、相手の動向のことではない。アルテが持っている気の流れが見えないのだ。
アルテどころか、レストリアブールにそこそこ詳しいレイチェルすら知らなかったことだが、この国を支配している暗殺教団には相手の気を呼んで感情を読み取る技術が存在する。熟練したものならば、それこそ心を読むレベルで相手の考えていることを察することが出来るのだ。
だが目の前の黒い男、アルテは気が常に荒ぶっており、およそ戦闘で読み取ることのできる心の動きが全くといっていいほど感じられない。
それが青年の動揺を大きくしていた。
彼から見ればアルテはまさしく獣であり、心を持たない怪物だったのだ。
もっとも、ここ数週間の間に頻発している通り魔の凄惨さを考えれば、アルテの気狂いのような心は納得できるものであったのだが。
「ケダモノ風情がなかなかやるな!」
月明かりも殆ど届かない暗い路地裏でいくつもの剣激がぶつかり合い、火花を散らす。
互いの技量はほぼ互角で、一進一退の攻防の連続だ。アルテが踏み込めば青年が飛び退き、青年が踏み込めばアルテが飛び退いた。少しでも呼吸を乱せば、注意力を失えばすぐさま首から上が跳ね飛ぶであろう死の舞踏。
どちらかが根をあげるまでそれは決して幕を引くことがなく、そしてどちらも敗北を甘受するつもりはさらさらなかった。
だからこそ、その増援にはどちらも気がつかなかったのだろう。
「エリム様! 助太刀に参りました!」
ピタリ、と剣を交わしていた二人の動きが止まる。路地に嫌に木霊する声を聞いた二人のその後の反応は対照的だった。
大勢の味方を目にした青年――エリムは安堵の表情を、多勢に無勢となったアルテは忌々しそうにその表情を歪めた。
レストリアブールを自警する暗殺教団の治安維持部隊が到着したのだ。
「気をつけろ。かなりの手練だ。しかも気が一切見えん。妙な力を行使しているのかもしれない」
軽鎧と剣で武装した集団がアルテを取り囲む。エリムと呼ばれた青年もアルテの正面に立って曲刀を構えた。
多勢に無勢。黒尽くめの狂人が一歩後ずさる。
「かかれ!」
号令は一つ。銀色の煌めきを残して、治安維持部隊の人員たちがアルテに斬りかかった。
応対するのは肉の身を持つアルテではなく硬質の右腕。
「猪口才な! 主様を侮るな!」
黄金剣を振りかぶり、戦闘にいた男を袈裟斬りにする。しかし間に割り込んできたエリムの曲刀がそれを押しとどめた。
そして器用にも二つの曲刀を使って黄金剣を捩じ上げる。無理にでも抵抗すればアルテの腕が砕けるか、剣を取り上げられていた。
だがアルテはエリムの動きに逆らうことなくくるくると中空を舞ったのである。マリアにすら出鱈目だ、と呆れられた身体能力が遺憾なく発揮された瞬間だ。
目を剥いたエリムが思わずその場から飛び退いた。
「猫か貴様は!」
牽制のために振るわれた曲刀の斬撃はアルテにかすり傷一つ与えることなく、虚空を切り裂く。
さらに二歩、三歩と後退したアルテは素早く視線を周囲に巡らせた。
その黒い瞳にエリムと治安維持部隊の面々が映る。技量としてはエリムと呼ばれる男が跳びぬけていて、その他はそれ程、だった。
マリアと共に相手をした聖協会の戦闘員に並ぶか、少し劣るくらいだ。
目線を目の前に立ちふさがるエリムに向ける。
己が狙われていると察したエリムが咄嗟に曲刀を構えた。アルテが一歩踏み込む。両脚に力を込め、エリムへと斬りかかる体勢を整える。
そして――、
「なっ!」
その場にいた、アルテ以外の全員が驚愕の声を上げた。
アルテが斬りかかったのはエリムではなかった。
それどころか黄金剣を腰元の鞘に戻し、両の手には何も握られていない。
アルテの獣じみた瞬発力はエリムの傍らにいた、一人の治安維持部隊の人員に向けられていたのだ。
狂人の殺気が一瞬でも向けられた人員は思わず身を強ばらせる。その隙をアルテは見逃さなかった。
人員の肩を踏み台に己を取り囲む人垣を飛び越える。刹那の逃亡劇にエリムですら反応は遅れていた。
そう、多対一を強いられたアルテは――、
四の五言わずに逃げ出したのだ。
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少女は焦っていた。旅行者らしき間抜けから財布を掻っ払ったところまでよかった。見たところ木偶の坊が三人の団体だ。一度市場の人混みに逃げ込めばそれ以上は追ってこれないだろうと高を括っていた。
実際、今まではそれで上手くいっていたし、失敗したことなんてなかった。
だが今のこれはなんだ。
逃げても逃げても背後から二匹の獣たちの息遣いが消えてくれない。
それどころか徐々に距離を詰められて、逃げ惑う人々という盾がなければとっくの昔に飛び掛かられていただろう。
狼たちが、財布を盗られたイルミが放った使い魔であることに少女は気がついていない。けれども自分が標的にされていることくらい、本能的に理解できた。
涙でボヤける視界で、必死に逃げ道を捉えながら市場を駆け抜ける。ただ、自慢の健脚も恐怖によって必要以上に酷使されたとあっては陰りが見えていた。
だからこそ、何でもないような段差であっても足をもつれさせて転倒してしまう。
「あぐっ」
起き上がって逃げなければ。
擦りむいた傷に形振り構わず、痛みを押し殺して咄嗟に起き上がった。けれども背後から強い衝撃を感じて、再び地に倒れ伏してしまう。
「ひいっ」
悲鳴とともに失禁をしなかったのはある意味で奇跡のようなものだ。
こちらを獲物と見定めた4つの黄色い瞳がこちらを見下ろしていた。
か細く見えて――その実人間とは比べるべくもない柔軟な筋肉で覆われた前足がこちらをしっかりと踏みしめている。
ついに二匹の狼は少女を捕らえていた。
「ああああああああ!!」
恐慌状態に陥った少女は腕を振り乱し、狼から逃れようともがく。だが真っ白な歯が並んだ口内を遠吠えとともに見せ付けられては抵抗する力などすっかりと抜け落ちてしまった。
「いた! おい、イルミ! 今すぐ狼をしまえ!」
「あいつを殺したら言われなくともそうするわ」
「馬鹿! 財布を取り戻したらそれでいいだろう!」
「いいえ、許さない。あいつだけは必ず殺すわ」
「やめろ! アルテが殺せと言ったのか!? 余計なことをして不興は買いたくないだろう!」
狼に押し倒されている間、視界の片隅で女二人が口論をしているのが見えた。その二人のやりとりが自身の運命に直結していると感づいた少女は、泣き腫らした顔で二人に助けを求める。
「た、たすけて……」
果たして、伸ばした手を拾ってくれる者はその場にいない。
二人は相も変わらず口論を続け、こちらに牙を向ける狼に対してはそれ程注意を払っていない。
ただ狼の息遣いが、足に込められた力だけが少女の活力だけを削いでいく。
「……でも、こいつはアルテの財産を盗んだわ。私はそれを許しておけない」
「なら今殺すのはやめろ。とっ捕まえてアルテのところに連れて行くんだ。そして彼に判断して貰えばいい」
「……わかったわ」
口論が落ち着いたのか二人組がこちらを見る。
背の低い方――銀髪の少女が狼に向かって何かをつぶやいた。
すると狼はこちらの襟首に食付き、いとも容易く持ち上げられてしまった。逃れようともがいてみるが、もう一匹の狼の鼻っ面で強く打ち付けられると、息が止まり四肢から力が抜けた。
もうおしまいだ。
絶望が視界を黒く染め、これからの未来を悲観で塗りつぶした。
少しばかりの延命は出来たようだが、こんなおっかない二人の親玉のところに連れて行かれれば、その末路など想像に難くない。
たった一度の失敗だった。
今日はたまたま調子が悪かった。
なのにその一度の番狂わせが、これまでの全てを無に帰す結果となってしまった。
声が、再び漏れる。
「お願い、助けて」
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イルミとレイチェルが目を見開いたのは同時だった。
スリの少女を無事捕らえ、アルテのもとに連れて行こうとした矢先だった。
まず、スリの少女を咥えていない方の狼が吹き飛ばされた。
ここで現象を把握できた二人はまだ優秀な方だった。遠巻きに見守っていた野次馬たちは突然狼がその場から消えたように見えたからだ。
イルミが口を開く。
敵だ、気をつけろ、と。
だがその忠告が残された狼に届くよりも数瞬早く、銀色の一閃が振るわれた。
月の光のような軌跡は狼の首もとを鮮やかに通りぬけ、少し遅れて狼の首が落ちた。
気を失いかけていた少女が地に落ちる寸前、しなやかな白い手がその体を掴みとる。
「おい! 聖女様だ!」
誰かがそう叫んだ。
イルミが消滅した狼の使い魔を再び召喚する。だがそれをけしかけるような愚行は侵さない。
自分とレイチェルの前に、――「そいつ」に対する盾とするべく配置しただけだ。
レイチェルが重苦しい口調で言葉を吐き出す。
「おい、こいつは不味いぞ」
「黙ってて」
じり、とイルミの足が半歩下がった。
少女を優しくかき抱いた「そいつ」はこちらを見た。
エメラルドグリーンの瞳が美しい、色白の女だ。そいつは静かに口を開く。
「緑の愚者さまに言われて街まで降りてくれば、なかなか面白いことになっているじゃありませんか。エリムは殺人鬼を見つけ、私は魔物使いですか……。ただでさえ街の治安は悪いのに、衛兵は何を見過ごしてこの者たちを街に入れたのか」
ため息一つに手にした剣を――三日月のような銀の剣をふるう。
刃は二人に届いていない。
だが二人を守るようにして構えていた二匹の狼はあっさりとそれだけで霧散した。
こいつはダメだ。
早く逃げないと。
互いに視線を一瞬だけ交わし、イルミとレイチェルは頷きあった。
ゴリアテが素早く動作し、イルミとレイチェルを掴み上げようとする。
けれども、それよりも遥かに高速で女は動いた。
「逃がしませんよ。聞きたいことは山ほどあります」
とん、とゴリアテの肩の上に女が立つ。そしてゴリアテを操っているレイチェルのこめかみを軽く足先で小突いた。
それだけでレイチェルは糸が切れた操り人形のように、地に倒れこんでしまう。
「レイチェル!」
突然倒れこんだレイチェルを咄嗟に支えて、イルミは女を見た。
その瞳は明らかに異質な女を見て怯えていた。
女はそんなイルミの反応に気を良くしたのか、にこり、と笑ってみせた。
形勢逆転だった。
こんなにあっさりと負けるなんて、思いもしなかった。
怖い。
自分よりも明らかに格上の相手を前にして足が竦んだ。
だから、だからこそ。
それまで追い詰めていたスリの少女がしていた願いと全く同じものをイルミは口にする。
それは彼女が絶対の信頼を捧げる愛しい男の名前。
「アルテ……」
名を呼べば必ず助けてくれると信じて。
「アルテ!」
そして、願いは叶う。
/
漆黒の影は旋風のようだった。
金色の暴風と銀色の煌めきが交差する。
愛しい狂人の振るう刃がイルミの心を焼いていく。女に飛びかかった狂人は叫んだ。
「イルミから離れろっ!」
奇しくも。
エリムから逃亡の道を選んだアルテはイルミの危機に颯爽と飛び込んできたのである。




