第34話 「閑話休題 クリスの受難」
日が暮れてから暫くして、エンリカが酷く憔悴しきった顔で帰ってきていた。
トーナメントを取り仕切る役員の一人が白の愚者の言伝を持ってきたのが夕暮れ時だったからおよそ三時間くらいか。
彼女はまだ緊張が解けきっていない様子でクリスにこう語った。
「白の愚者に黄金剣を持ってこい、と命令されたのはよいですが、なにぶん生きた心地がしませんでしたぞ」
彼女は語った。
初めて白の愚者を間近で見たこと。彼は想像以上の化け物だったこと。
漆黒の魔導人形を作ったのは自分か、と問われたこと。アルテがトーナメントに参加した理由を告げたこと。
しどろもどろながら、彼女は脂汗たっぷりに説明した。
その姿が余りにも不憫だったので気の毒に思ったクリスはエンリカをこう諭した。
「今日はもう休め。大丈夫だ。ヘルドマン様にはシュトラウトランドの聖協会を通して吉報を伝えておくし、部屋に閉じこもったままのイルミもアルテが帰ってくれば直ぐにケロッと出てくるさ」
クリスの言うとおり、白の愚者との決戦が終わった後、イルミは何を思ったのか部屋に籠もりっきりになってしまった。
理由を問いただそうにも、「知らない」と冷たく返されるだけで取り付く島もなかった。
あの時、魔導人形の中で何が起こったのかクリス達は何も知らない。
イルミは堅く口を閉ざしたままだし、アルテは白の愚者の指示で競技場に拘束されてしまった。
レイチェルは少しばかり思い当たる節でもあるのか、いろいろと考えを巡らせてはいたが、真実を知る二人は今ここにはいない。
想像するだけ無駄だとクリスは早々に達観の構えに入っていた。
競技場に拘束されたアルテも、あの白の愚者が処刑などという愚行を犯すはずもないし、そこら中の有象無象が殺せるほど優しい存在ではないことも理解していた。
よって彼女は今、アルテその人が帰還する時をのんびりと待っていたのである。
「そうですか、ならお言葉に甘えましょうかな。……それに、もしもアルテ殿が太陽の時代の『核』を持ち帰れば大急ぎで義手を仕上げなければなりませぬから。少しでも遅れれば私が届けた剣でこうなってしまいます」
首元を手でなぞり、斬首されるマネをしたエンリカにクリスは笑った。
何だ、アルテのことがよく分かってきたじゃないか。
なかなかどうして、ここまで打ち解け合えたものだと素直に喜ばしかった。
「では私は早速シュトラウトランドの聖協会支部に行ってくる。もしもアルテがその間に帰ってきたらそう伝えてくれないか」
軽い出掛け支度を終えたクリスはエンリカにそう告げて、工房「ドワーフの穴」から出て行った。
エンリカも親しい友人を見送るようにひらひらと手を振った。
そこには先ほどまで彼女が漂わせていた悲壮感も疲労感も何もない。
日常としてこの世界の何処にでもありふれている束の間の別れの光景だ。
けれども。
今思えば、それが二人がまともに会話した最後の瞬間だった。
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クリスがグランディアにいるヘルドマンと連絡を取るには幾つかの手段がある。
その一つが各聖協会支部に備え付けられた通信機を使ったものだ。
これは魔の力に変換した声を遠距離に飛ばすことの出来る、ある特殊な装置を利用した通信手段で、大きな都市には大体一つから二つは備え付けられている月の時代の偉大な発明だ。
欠点としては装置一つが小さな一軒家くらいの大きさがあること。
また通信の正確さは声を届ける側、受け取る側、双方の魔の力を操る技量に依存するということだった。
ただ今回のように七色の愚者の一人であるヘルドマンと、その懐刀であるクリスが通信を行う場合、二つ目の欠点はあってないようなものだった。
だからこそ、アルテがヘルドマンから譲り受けた通信用の指輪を初めて見たときは、シュトラウトランドの技術力に大層驚いた。
「申し訳ございません。テトラボルト殿。ヘルドマン様が城内の何処にも見当たらず、そちらにお繋ぎできません」
だが開口一番、グランディアの聖協会にいる職員にそう告げられたとき、クリスはどうしたものか、と唸った。
基本的に引きこもり気味のヘルドマンのことだ。クリスが何処に出向していてもこうした定時連絡はいつもスムーズに繋がっていた。
しかしながら、今回に限ってヘルドマンが留守にしているという。
ここ最近はアルテのことや不死のマザーとの不仲で荒れていたということもあり、クリスは少しばかり嫌な予感がした。
けれどもここにいても何も出来ることはないと判断して、通信設備が置かれた文字通りの小屋を出た。
どうせ昼間には滅多に出歩けないヘルドマンのことだ。
ここで暇を潰していれば明け方には連絡が取れるだろう。
まだこのとき、クリスはどこかのんびりとした面持ちで過ごしていた。
ついでと言わんばかりに聖協会の内部をぶらぶらと観察して歩くほどには。
シュトラウトランドの聖協会は古城をそのまま使用しているグランディアとは雰囲気が全く異なっている。
グランディアが荘厳な、若干薄暗い雰囲気なのに対し、シュトラウトランドは白一色の清廉な雰囲気が漂う場所だった。
自分のような武骨者には息苦しい。
それがここに対するクリスの評価だ。
と、その時。どたどたと聖協会の中が慌ただしくなってきたのを感じた。
声を媒体とする魔の力を使用するためか、クリスの聴覚は常人のそれより遙かに優れている。
彼女は騒ぎの元を嗅ぎ分けその場所へと足を進めた。
たどり着いたのは聖協会の中心に位置する巨大な回廊だった。
「どうした」
回廊の中を血相を抱えて走り回っていた職員を一人捕まえて問いただす。
分厚い瓶底のような眼鏡を掛けた男性職員はクリスの姿を見定めると、震える口調でこう告げた。
「そ、それが白の愚者が、ホワイト・レイランサーが……」
その名を聞いた途端、クリスは自信の表情が強ばるのを感じた。エンリカの言伝が正しければその白の愚者は今頃アルテと合っている筈。
ならばそこから考え出される最悪の状況は何か。
まさかアルテが殺されたのか。
言葉にすれば胃の奥底が押しつぶされるようで、口からそれを吐き出すことはなかった。
けれども思い返せばそういった可能性は十分にある。エンリカに黄金剣を持ってこさせたのも、最初は白の愚者の気まぐれだと思った。
大方アルテの能力に興味を持った彼が、それを披露させるために持ってこさせたのだろうと。
アルテは白の愚者の逆鱗に触れたのだろうか。それとも無謀にも戦いを挑んでしまったのだろうか。
そもそもアルテが白の愚者に挑むことが出来たのは、魔導人形という愚者にとって足枷にしかならない土俵で戦うことが出来たからだ。
いくらその戦いで勝利を収めることが出来ても、生身の肉体で打ち合うことは無謀極まりないことだ。
それだけ七色の愚者の強さは浮き世離れしている。
アルテを殺されたイルミのこと、そしてヘルドマンのことを考えてクリスは視界が絶望に染まるのを感じた。
どうすればいい。
これから私は何をするべきだ。
ぐるぐると一人思考が没入していく中、クリスを現実に引き戻したのは職員の続けて言い放たれた台詞だった。
「……ホワイト・レイランサーが狂人に殺されました!」
クリスの思考が完全に停止した。
言葉を紡ごうにも、「は?」や「え」とした意味をなさない音しか漏れてこない。
ホワイト・レイランサーが、
アルテに殺された?
「な、何を馬鹿なことを」
「馬鹿なことじゃありませんよ。テトラボルトシスター。既に白の愚者の遺体はここに運ばれました。検分も直に終わります」
どくん、と心臓が跳ねた。
嫌な予感どころではない。それは既に実感を伴った悪寒としてクリスの背に纏わり付いている。
壊れた玩具のように、やっとの思いでクリスは振り返った。
「なぜ、あなたがここに……」
存在そのものがここにある筈がないとクリスの脳は否定している。けれどもはっきりと目に映っているこの光景が全て現実だと教えてくれる。
己の主人が嫌っている聖協会の実質的ナンバーツー。
何度肉体が朽ち果てようが、その恐るべき不死性ですぐさま再生してしまう不死の吸血鬼ハンター。
マザー(修道女)と呼ばれ敬われる、聖協会の実質最強。
マリア・アクダファミリアがそこにいた。
「たまたまですよ、テトラボルトシスター。上に命令されてこちらに視察に来ていただけのこと。けれどもどうやら随分と面倒なことが起こってしまったみたいですね」
見た目はまだ二十歳にもなっていない自分より年下の少女だ。
だがクリスはマリアを侮ることはない。彼女には逆立ちしても適わないことぐらいはっきりと理解している。
その不死性と対峙することの愚かさをはっきりと認識しているのだ。
「今ここの支部の長から要請がありました。白の愚者殺害の容疑で、重要参考人であるアルテを拘束して欲しいと。でもちょうど良かった。あなたまでここにいるなんて、まるで月の恩寵が我々を祝福しているよう」
どういう意味ですか、とは聞けなかった。
マザーの鳶色の瞳がクリスのそれを覗き込んでいる。まるでこちらの腹のそこを探り当てるように。
「聖典の使用を許可します。アルテを拘束する実働部隊に加わりなさい。あなたのような実力者が加勢してくれるのなら、必ずやかの狂人の首に縄を掛けられるでしょう」
唇を噛みしめて、やっとの思いでクリスは返す。
「……私はヘルドマン様の命でこちらに出向しています。勝手にそれを反故にすることはできません」
「あら、それならご心配なく。あなたに聖典の使用を許可したのは元を辿ればヘルドマンですよ」
嘘だ、と絞り出す。
だがマリアは泰然とした面持ちでこう返した。
「嘘ではありません。先ほど彼女にこちらの支部から連絡を取りました。あなたには『うまくやるように』との伝言まで頂いていますよ。彼女自身も騎竜便を使って大慌てでこちらに向かっているようですが」
皮肉なことに、ヘルドマンと連絡がつかなかった理由をマリアから教えられた。
何と言うことだ、とクリスは臍を噛む。全てが後手に回ってしまっている。これは自身の失敗だと己を責めた。
「さて準備ができ次第、狂人狩りを行いましょう。開始時刻は夜が明ける直前です。短時間でケリをつけますよ」
獲物を前にして気が昂ぶっているのかマリアの声が弾んでいた。
それとは対照的にクリスの表情は何処までも暗い。
してやられた、と思っても最早全てが後の祭りだった。
今からアルテを探し出して事実を問い詰めようにも、マリアを出し抜いてこの聖協会から脱出する術を彼女は持っていなかった。
八方塞がりだ。
ひらひらと手を振っていたエンリカのことを思い出す。
せめてあの「ドワーフの穴」が戦場にならないよう、決して適わぬ儚い祈りを捧げることしか、クリスにはできなかった。




