第33話 「それでも狂人はやっていない」
女中らしき少女が深々と一礼してきた。
彼女は一言こちらです、と告げた後、とっとと背を向けて白磁の螺旋階段を降りていった。
その案内から遅れないように、あと階段を踏み外すという失態を犯さないよう確実に下の階層へと足を進めていく。
七色の愚者、第四階層ホワイトレイランサー。
彼との決戦はよく分からないままに終わりを告げていた。
脳みそが焼き切れてしまいそうな集中力で彼の拳から逃げ続けていたことだけは何となく覚えている。
けれども一度焼き切れた、と自覚してからは記憶が曖昧だ。
ずきずきした頭の所為かぼんやりと上を見上げていたらこちらを見下ろしていたイルミと視界が合った。
彼女はいつも通りの無表情でこちらを見ていた。多分、愛想を尽かされたら嫌だな、とか怒らせていたら困るな、とか考えていたのだろう。
だが肝心のその後がどうしても思い出せない。
何があったのか本人含めクリスやエンリカに問おうとしたのだけれども、牢屋の中で意識を取り戻したものだからその機会には恵まれなかった。
そう、俺はいつのまにか囚われの身になっていた。
目が覚めたら硬い石畳の上に寝かされていた。両の手には、(右腕は存在しないのでそちらは肩口を縛り上げるように鎖で繋がれた)銀で出来た枷を嵌められ、口元はよく分からない布きれで封印されている。
この光景には見覚えがあった。
グランディアで少しばかり暴れすぎ、領主の怒りを買ったとき以来だ。
あのときも牢屋にぶち込まれて斬首されかけたっけ。
まったくもって嫌な思い出だ。
今回もすわ同じパターンかと二日ばかり戦々恐々と過ごしていた。
口を封印されているので食事も水もその間は与えられなかった。
吸血鬼の呪いで随分と死ににくい身体なものだから耐えることが出来たが、これはさすがにあんまりな仕打ちだと嘆いた。
しかしながら三日目。
多分深夜を少し過ぎたばかりの時間帯。月の民の活動がもっとも活発になる頃合い。
一人の女中が牢屋の前に立っていた。
イルミと似たような年頃の少女だ。彼女はこちらに何も告げることなく牢屋の鍵を開け、手枷と鎖を外してくれた。
そして開口一番、
「白の愚者さまがお呼びです。どうぞこちらへ」
と宣ったのだった。
案内されたのはトーナメントを行っていた競技場の地下だった。
ここは何処か、という俺の質問に女中の少女は簡潔にそう答えた。
かなりの距離を螺旋階段で降っている。不思議なことに照明も何もないのにこの空間は視界に不自由さを感じることはなかった。
それが大気に漂う魔の力を視認できるようになったから、と理解するまでやや時間が掛かった。
ああ、そういえばレイチェルのおかげで視えるようになったんだっけか。
彼女は元気にしているのだろうか。
「ここです」
様々なことをつらつらと思い返していたらいつの間にか最下層にたどり着いていた。
そこには白い扉があった。両開きの、三メートルはあろうかという大理石らしきもので作られた扉だ。
何かしら彫刻が彫られてはいるが、別段芸術に興味があるわけではないのでそれの価値まではわからなかった。
けれども荘厳な、それこそ武人である白の愚者らしい扉だな、と思った。
「中でお待ちになっておられます。ご健勝を」
それだけを告げて少女は螺旋階段を再び昇っていった、
一人取り残された俺は暫く扉を静かに眺めて――、
いや、言い訳やご託はよそう。
正直なところその扉を開けるのは怖かった。
扉の向こうに白の愚者がいるのは間違いない。
その白の愚者だが、トーナメントで相対してどれほどの実力差が存在していたのか身に刻まれた。
全くと言ってよいほど為す術がなかった。こちらの世界ではそれなりに努力し、経験を積んできたつもりだったが何の役にも立たなかった。
これはブルー・ブリザード戦で身に染みたことだ。
ここにきてもうはっきりとした。
七色の愚者は強い。
こちらの世界に来ていい気になっていた自分が情けなくなるほど彼らは強い。
技術も経験も、地力も自分が相手をすることなどおこがましいほど差が開いている。
ましてや第一階層の、最強と謳われるスカーレット・ナイトなど想像することすら許されない領域にいるのだろう。
文字通り神にも等しい存在を討伐する。
果たしてそんなことは可能なのだろうか。
今まで刃を交えたのは三人。
一人は過去の戦傷で実力が十分の一に制限されていた。
一人はたまたま相性が良く、運にも味方された。そして他の愚者から侮られるほどには最下層だった。
そして一人、第四階層の愚者には手も足も出なかった。
もう一度扉を見る。
多分ここが運命の分かれ道だ。ここで扉を開ける未来を選ばなければヘルドマンとの約束を違えることにはなるが、神にも等しい化け物を相手取ることもなくなるだろう。
もしも扉の向こう側へ出向いたのなら、そこは地獄すら生ぬるい闘争の日々が始まりを告げる。
勝てる見込みのない相手を想定し続け、この身が朽ち果てるまで戦い続ける終わりのない毎日だ。
どちらを選べば良いのか、そんなことはまったくわからない。
いや、答えはもう殆ど分かっている。
イルミと共にこの異世界を平穏に楽しむ未来。それが万人にとって、そして自分にとっても正解なのだろう。
けれども。
自分がどちらを欲しているのかと言われれば俺は答えることが出来ない。
我ながらガキみたいな思考だと思う。
けれどもこの世界でまともな自我を持ったときに感じた高揚感を未だ忘れてはいない。
英雄になりたいと思った。前の世界では決して成し遂げられない、何かをしたかった。
現実が見えないガキの思考そのものだ。
けれどもここは異世界だ。俺が生きる筈だった世界とは違う。
俺はここにあってここにない。
この世界の運命は俺にはない。俺にはこの世界の居場所など、安寧の地など存在しない。
ならば欲するしかない。
自分で手に入れるしかない。世界を、自分が生きていける、自分を生かしてくれる世界を。
扉に手を掛けた。
地獄でも何でもやってくればいい。
ただこの世界で生きていてもいいという証明さえいつか見つけることが出来ればそれでいい。
大理石の扉はあっさりと、左手だけでも開いた。
真っ白な光が視界を覆う。
運命の分かれ道はこうして越えた。
/
「よく来たな、狂人アルテよ」
声は正面。初老の男がこちらを見ていた。その姿は遠目ながら一度だけ見たことがある。
ホワイト・レイランサー。
七色の愚者の第四階層、白を司る吸血鬼だ。
白髪交じりの髪をオールバックに撫でつけ、鍛え上げられた肉体が身に纏ったタキシードを押し上げている。
何よりもその威圧感。
肌で感じるプレッシャーがこの男の実力を如実に物語っていた。
「それと、これはお前の愛剣か」
ホワイト・レイランサーは剣を持っていた。見覚えがある黄金色の剣だ。
いや、というかあれは俺の剣だ。
何故ここにある、という疑問は先にホワイト・レイランサーが答えた。
「エンリカとか言う工房主に持ってこさせた。ふむ、なかなかいい業物だな。私のコレクションに加えてもいいくらいだ。いや、奴が鍛えたのだから当然と言えば当然か」
鞘から抜いた剣を鋭い眼差しで見つめるホワイト・レイランサーは一人何かしら納得していた。
彼の口ぶりはまるで剣の制作者を知っているようだった。
ちなみに俺は全く知らない。いつのまにか手に入れていたもので、何処で拾ったのかはとっくの昔に忘れていた。
「返そう」
言葉は一つ。一瞬ホワイト・レイランサーの手がぶれたかと思うと目の前に黄金剣が投げられた。
鞘から抜かれた剥き身の状態だ。
吸血鬼ハンターとしての視力、そして反射速度がなければ危うく首から上がおさらばしていたところだった。
左手だけで何とか受け止めた俺は非難の意味も含めてホワイト・レイランサーを見た。
だがそこには彼はいなかった。
「!!」
前髪が幾つか宙に舞う。
眼前には浅黒い拳があった。いくつもの古傷が刻まれた岩のような拳だ。
鼻っ面の数ミリ先で止められたそれは直撃すればこちらが爆散する、そんな一撃だった。
一回殺された。
素直にそう思った。
「我が拳を見ても表情一つ変えぬか。なるほど、確かにおもしろい男だな」
いや、いきなりすぎて全く反応できなかっただけですわ。
しかもこの身体は大層感情表現が苦手なので、内心はガクブルしてるよ。
もちろんそんな巫山戯た感想はホワイト・レイランサーには伝わらない。
彼は拳を収めると部屋の中央に置かれた黒壇の机へと向かった。そしてその上に置かれている小さな木箱をこちらに持ってきた。
「その黄金剣を届けに来た工房主が語った。お前はどうやらこれが必要らしいな。一つだけ問いたい。お前は何故私と戦った」
最初、その木箱が何を意味しているのは全くわからなかった。
けれどもエンリカの名前を聞いて、そういえば自分が義手作りのためにトーナメントに参加していたことを思い出した。
余りにもトーナメントで戦うことに熱中しすぎて完全に忘れていたことだ。
だから正直に語った。
自分がどんな心境でトーナメントに臨んだのか。
何故、白の愚者に挑もうと思ったのか。
「闘争が楽しかった。その先にお前がいた。それだけだ」
相変わらず言語のアウトプット機能はポンコツ極まりなかった。
ごめんなさい、テイクツーくれます?
本当は「トーナメントが思いの外楽しくて本来の目的を忘れてしまった。いつの間にか目標が打倒白の愚者に置き換わっていた。自分でも間抜けなお話だと思います」だ。
白の愚者は暫くこちらをじっと見つめていた。
何故か先ほどまで感じていた威圧感は感じなくなっていた。
この感覚は覚えがある。競技場で相対したときも一度だけこんな場面があった。
「……そうか。ならお前はもう満足か?」
満足――、どうだろう。
何をもって満足なのかは全く決めていなかった。
けれどもホワイト・レイランサーに手も足も出なかったこと、これから赤の愚者を筆頭とする様々な強敵と戦う未来があるのならここで終わりではないだろう。
「いや、スカーレット・ナイトまでの道のりはまだまだだ」
これは本音と実際に吐きだした言葉がリンクした希有な例だった。
自分でも不思議なことがあるものだと驚いていたら、ホワイト・レイランサーが続けた。
「ならばそれはお前が持って行け。よもや隻腕で赤の愚者に勝るとは自惚れてもいまい。これは私からのささやかな餞別だ」
小箱を手渡したホワイト・レイランサーは最早語ることもないと判断したのか、こちらに背を向けた。
これはあれか。競技場での一戦の結果はよく分からないが、一応は認められたのか。
「とっとと去ね」
最後の言葉はそれだった。
礼を告げようとしてもその背中が拒絶しているような気がした。
俺はもう一度白い扉をくぐる際、白の愚者に振り返った。
何処か浮き世染みた彼はとても現実のものとは思えなかった。
ホワイト・レイランサー。
これまで出会ってきた吸血鬼の中では間違いなく最強だった。
いつか彼の拳と相まみえることの出来る実力を手に入れれば、是非とも再戦していと思わせる、そんな男だった。
/
太陽のような男だと思った。
素直に眩しいと感じてしまう、そんな男だった。
アルテが去った後、ホワイト・レイランサーは静かにそれまでの邂逅を思い出していた。
魔導人形同士の戦いは完敗だった。
当初は圧倒的優位に試合を推し進めたものの、最後の一瞬。
歪に立ち上がった漆黒の魔導人形を見てから全てが変わった。
感じ取ったのは赤い女の臭いだった。続いて吸血鬼ならば、いや月の民ですら恐れおののくような太陽の毒の奔流を見た。
魔導人形の中に座していなければ骨も残らず焼き尽くされたであろう、絶望の炎。
あれが狂人の抱く憎悪なのだろうか。
だとすれば人の身には重い、あまりも酷な呪いだと思った。
ホワイト・レイランサーはある一つの確信を抱いている。
それはアルテに吸血鬼の呪いを刻んだ者の正体だ。
「……来たか」
彼は手にしたままの黄金剣の鞘を捨てた。
狂人に返し忘れていたことに今更ながら気づいたが、今となってはどうでも良いことだった。
目の前に出現する災厄の象徴を見た後となっては。
「久しぶりと言うほど間は経ってはいないが、それでもまた会えたな。ホワイト・レイランサー」
忘れようと願っても忘れることの出来ない赤の女。スカーレット・ナイト。
彼女は白の扉の前の悠然と立っていた。そう、まるで狂人と入れ替わるように。
「まずは謝辞を。よくぞ狂人の深淵を引き出してくれた。それは間違いなくお前の手柄だよ。彼の自我の境界を突き崩すまでの猛攻、見事だった」
口調は平坦かつ事務的だった。
こちらを見ているようでこちらを見てない。
ただやらなければならないから、義務としてやる。そんな調子がありありと見て取れた。
昨日までの、狂人と相対するまでの自分ならば気にもとめなかった態度だ。
彼女は、スカーレット・ナイトはそれが許される。
この世界には彼女を阻害するものは何もない。彼女を諫めるものは何もない。
傲慢で不遜であることを約束された存在だからこそ、ホワイト・レイランサーはそこから何も感じなかった。
だが今日は違う。
「気に入らんな、小娘よ」
ぴたり、とスカーレット・ナイトの動きが止まった。
彼女は少しばかり驚いているのか、その美しく赤く染まった瞳を僅かばかり見開いていた。
「貴様のその態度、実に気に食わん」
初めてスカーレット・ナイトに拳をぶつけたとき、叩き折られたのは己のプライド。
一度砕けた心の器は決して戻ることはない。白の愚者として磨き上げてきた器はあの日、崩れ去った。
だが、新しい器を用意することは決して不可能ではない。
思い返すのは弱者でありながらこちらに向かってきた狂人の姿。
そしてその生涯の目標を、赤の愚者に定めると宣言したときのあの眩しさ。
自分は完成された武人などではない。乾きなど幻だ。強さを追い求めてきた幻想の方が正しかった。
新しい器は今完成する。
それは挑戦者として、いまはまだ弱者であると認める器だ。
一つ。ステップが踏まれた。
二つ、床が抉れホワイト・レイランサーの姿がかき消える。
三つ、白の魔の力を纏った拳がスカーレット・ナイトに突き刺さった。
スカーレット・ナイトの背後に血しぶきが舞った。彼女を中心に扇形に白の床を鮮血が汚した。
突き抜けた拳はスカーレット・ナイトの胸を穿ち、その背中まで貫通していたのだ。
ごふっ、とスカーレットナイトは血を吐いた。
「……これがお前の答えか」
スカーレット・ナイトが拳を引き抜くべく数歩後ろに下がった。
拳の突き刺さっていた場所は伽藍の穴が開いていた。
けれども穴自体はすぐさま塞がっていく。背後に飛び散った血液も煙を上げて消滅した。
「そうか。深淵を引き出されたのは狂人だけではなかったのか」
スカーレット・ナイトが笑った。
いや、基本的にスカーレット・ナイトは笑みを絶やさない。
だがホワイト・レイランサーは絶句した。
何故ならばそれは彼女が初めて己に見せた笑みの部類だったからだ。
「ならばもっと見せてみろ」
スカーレット・ナイトが腕を振るった。すると彼女の手の中に黄金剣が出現した。
それが狂人の持っているものとほぼ同等だと認識する間もなく、ホワイト・レイランサーは次のステップを踏んだ。
先手必勝。
常に撃ち込み続けなければ決して勝ち目がないことはとうの昔に知っていた。
拳が再びスカーレット・ナイトに迫る。
あと数センチ。
赤い女の顔面を吹き飛ばすまで、コンマ一秒もない。
だが拳は届かなかった。
「!!」
ホワイト・レイランサーが味わったのは浮遊感。
彼の目は大きく開かれ、口元からは先ほどスカーレット・ナイトが吐き出したよりも遙かに多量の血液が零れた。
無様に床に打ち付けられる。
そして彼は見た。己が胸に墓標のように突き刺さっている黄金色の剣を。
「見事だ。ホワイト・レイランサー」
賛辞は先ほどと全く同じ。だが血の海に沈み込むホワイト・レイランサーは怒りを覚えなかった。
剣が引き抜かれる。
やっとの思いで、視線だけスカーレット・ナイトに向ける。
彼女は相変わらず慈愛染みた笑みでこちらを見ていた。
「私に僅かばかりでも危機感を覚えさせたのはユーリッヒ以来だ。誇ってもいい。お前で二人目だ。アドルフ・ケインリヒ」
いつからか。
その名で呼ばれなくなったのは。
とっくの昔に捨てたと思っていた本来の名がスカーレット・ナイトの口から発せられたとき、ホワイト・レイランサーは、いや、アドルフは不意に涙が出た。
「お前の死はかならずや神を殺す礎とする。無駄にはしない。せめて安らかに眠れ」
最期に聞いたのはそんな言葉。
アドルフ・ケインリヒ。
白の愚者と呼ばれ、人々から神と畏れられた男。
武人として生き続け、武人として死ぬことの出来た彼の生涯はここに終わった。
/
女中の少女は食事を持って再びそこに訪れた。
既に狂人との会談は終えたのか、白の愚者の私室から物音はしない。
いつも通り、ノックを二回した彼女は眼を伏せながら白の扉を開けた。
「白の愚者さま、食事をお持ちいたし――、」
響き渡ったのは銀のお盆が落下し、陶器のカップが割れる音だった。
少女は言葉を失った。
彼女の揺れる瞳は血だまりに倒れ伏す白の愚者を見ていた。
慌てて駆け寄れば心臓に当たる部分が抜き取られ、かの愚者が絶命していることを知った。
「なんで、……こんな」
どうして、どうして、と理解の追いつかない思考で必死に考える。
やがて一人の人物を思い出した。
市井の人間が話していた。
その男は七色の愚者を討伐するために世界を回っている。
すでに青と黒の愚者を下し、次の目標は白の愚者に定めた。
男は狂人だ。太陽の毒に身を焼かれ、気を狂わせている。
「狂人、アルテ……」
恨めしげに呟かれた名を聞くものは誰もいない。
だが狂人が白の愚者を討ち取ったという凶報がシュトラウトランドを駆け巡るまで、それほど時間が掛かるはずもなかった。
 




