第31話 「ホワイト・レイランサー」
イルミはアルテに対して初めて嘘を吐いた。
少し前の彼女ならば考えられなかった愚行だ。アルテに捨てられることを極度に恐れている彼女がそういった行為に及ぶことは凡そありえなかった。
けれどもあの女が、赤い女が残していった爪痕がそうさせた。
「何かあったのか」
問いはそれだけ。魔導人形に乗り込む直前の、ほんの一瞬だった。
銀の端子が埋め込まれた皮の服に着替え、アルテの前を横切ったときだ。
かの狂人の顔を見ることはイルミにはできなかった。赤い女の残り香を振り払うように、汚された体を悟られないようにイルミは小さな肩を少しばかり抱いた。
「何でもないわ」
不思議と後悔はなかった。ただ、少しも迷うことなく返答できた自分にイルミは驚いた。
アルテを偽るときはそれこそ身を切られるような錯覚すら覚悟していたのに、これはいささか拍子抜けだった。
イルミはアルテのことを疑ったことは一度もない。けれども、今この瞬間、アルテに対して捧げている忠誠心に対しての疑念は生まれた。
自分が抱く忠誠心のなんと薄汚いことか。
主人をこうもあっさり偽ってしまう忠誠心のどこに清廉さが存在しているのだろう。
思えば叶わない恋慕を一瞬でも抱いたのが間違いだったのだ。
嘘偽りのない純粋な忠誠心すら捧げられない道具に一体どれほどの価値があるのか。
アルテの隣を歩いて行くことができるのは自分だけだと夢想していた自分はなんて愚かなのだろう。
イルミはその瞬間決めた。
あっさりと己の心を捨て去ることに納得した。
アルテの道具として使い捨てられることを恐れていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。
そうだ。道具は主人に恋心を抱かない。主人に対して見返りなど求めたりはしない。
捨てられればそこで終わりなのだ。それを嘆くことも、主人を恨むことも許されはしない。
アルテより先に魔導人形に乗り込み、イルミは魔の力を解放した。
今まで以上に調子がよく、雑念が湧かない分、高純度の魔の力を吐き出すことができた。
それを喜ぶことも、アルテから褒められることを期待することもない。
ただ、なかなか体は言うことを聞いてくれないのか右の瞳から一筋だけ涙が零れた。
/
もしかしてレイチェルと抱き合っていたのをイルミに見られていたのだろうか。
最近、めっきり相手してくれなくなった少女を見て変な汗が背中を伝っていった。
ちゃうねん、何もやましいことはないねん。ただあまりに下手くそだった力の使い方を教えてもらっただけやねん。
正直なところ、イルミとの関係は過去最高だと感じていた。
以前よりも口数は多くなったし、俺を見る視線もどこか柔らかく親愛すら感じさせる程だった。
白の愚者に挑戦状を送ると告げたときも、青の愚者の時のように嫌な顔をされることもなくすんなりと協力を申し出てくれた。
それがどうだ。レイチェルに力を借りて太陽の力に目覚めたときから、以前よりも遙かにこちらに対する対応がドライになった。
端的に言えば嫌われている。
これはあれか。
思春期前の少女特有の異性と性的な接触を図るものは全て気持ち悪い、というあれか。
俺とレイチェルが乳繰りあってるように見えて嫌悪感マックスなのか。
……どうしよう。
何とか勇気を振り絞って「何かあったのか」と遠回しに問うてみた。
もしもレイチェルとのやりとりが糾弾されれば、それこそ土下座でもする勢いで弁解をするつもりで。
だが現実は非情だ。
糾弾されるだけ、どれだけマシだったのか思い知った。
イルミから返ってきたのは「何でもない」という極シンプルな答え。自らの父親を嫌悪する思春期少女ドンピシャな取り付く島もない絶望的な回答。
すたすたと魔導人形に乗り込んでいくイルミはこちらを一度も振り返らなかった。
これはもう間違いない。
俺はイルミに気持ち悪いと思われている。
ちょっとばかり気を許した、親愛を見せた男が性的欲望の片鱗を覗かせたと彼女の中で自己完結してしまっているのだ。
これは関われば関わるだけ深みにはまっていく負のループだ。
前の世界では他人事のように考えていた、世の中の父親全てが抱いているジレンマをまさか自分が味わうとは思わなかった。
イルミに続いて慌てて魔導人形に乗り込んだ後も、どうしても自分の体臭が気になった。
くんくん、と自らの袖を嗅いでいると足下のイルミの肩がびくついた。
そうか、これもあかんか。イルミちゃん。
/
アルテが魔導人形内の臭いを気にしていると知ったとき、イルミは心臓が止まるかと思った。
たとえ心を捨て去ってはいても、本能から来る恐怖までは制御しきれなかった。
もしもここでスカーレット・ナイトと自分が邂逅していることを彼が知ったらどうなってしまうのだろうか。
烈火の如く怒り狂って、片手間にイルミの頭部をひねり潰し、すぐさま赤い吸血鬼を討ち取るべく暴れ出すのではないか。
彼に殺されるのは別に構わないと考えている。けれどもここでアルテがスカーレット・ナイトの存在に気がついてしまうと心を捨て去ってまで嘘を吐いたことが無駄になってしまうと思った。
永遠にも等しい時間が魔導人形内に流れる。
それはまるで処刑をただ待ち続ける罪人のような心境だった。
なまじ断頭台が背後にいるだけ、生きた心地はしない。
だが救いはすぐにやってきた。
トーナメントを取り仕切る役員の一人が、競技の開催を告げに来たのだ。
/
先に漆黒の魔導人形が競技場に現れた。
降り注いだのは罵声が八割、歓声が二割だった。
「思ったより歓声が多いな」
クリスの感心したような呟きはエンリカにのみ届いていた。エンリカはクリスの真意を測りかねたが、彼女が上機嫌に笑っているところを見ると、たぶんその台詞は本心なのだろう。
随分と低めの期待値ではあるが、アルテの初日からの人気を見ているエンリカとしても随分と持ち直したものだ、と感じた。
「しかしあいつはどこに行っても嫌われるな。グランディアの聖協会でも殆どの職員が彼を避けていた」
既に競技場の中には観客たちが手にしていたゴミが幾ばくか投げ込まれている。
会場全体が殺気立ち、競技場の役員たちが悲鳴を挙げながら事態の収拾に走り回っていた。エンリカはついこの間クリスから聞いた話を思い出し、こう相槌を打った。
「何でも領主の逆鱗に触れてしまったとか聞きましたが……」
「まあ、奴の悪癖の所為だ。ひとたび吸血鬼を滅ぼすと決めたら障害になるものは全て切り伏せていく。十年前、グランディアはそれで痛い目を見たんだ。ヘルドマン様が口添えをしなければ永久に立ち入りを認められなかっただろうな」
そこまで続けてクリスは不敵に笑った。
「果たしてこの地で奴はどういった評価を受けるのだろうな。奴が振りまくその狂気が希望となり得るのか、それとも民草の怨嗟を一身に浴びる絶望に変わるのか。私も楽しみになってきた」
やっぱこの美人もどこかあたまがおかしい、と引きつった表情を浮かべていたエンリカだったが彼女を不意に現実に連れ戻す出来事が起きた。
それまで競技場に降り注いでいた罵声と歓声が鳴り止んだのだ。
見れば周囲の視線は競技場のある一点に集中している。
音は重厚な足音が一つだけ。
「ホワイト……レイランサー」
声は誰のものだったか。
競技場に静かに現れた純白の戦鬼にその場にいた人間はみな釘付けになっていた。漆黒の魔導人形を本能のままに相手を食い散らかす狂戦士とすれば、純白の魔導人形はまさに騎士道に殉じる高潔な騎士。
ただ纏っている魔の力だけが違った光景を見せていた。
いつもならばただ静謐に、規律を伴って存在している白の魔の力は、まるで狂戦士と共鳴したかのように荒ぶり競技場に渦巻いている。
魔の力の動きに敏感なエンリカやその他の観衆たちは額から流れ出た汗を拭うことすら忘れていた。
光景の正体を見抜いていたのはこの場でも、幾多の修羅場を乗り越えてきたクリスだけだった。
彼女ですら冷や汗を伴って、何とか言葉を絞り出す。
「不味いな、あれは殺気だ」
それも競技によって相手との技量比べをするなどという生やさしいものではなかった。
間違いない。
あれは相対するもの全てを屠らんとする、明確な殺意を持った者だけが出すことのできる殺気だ。
「あわわわわ……」
怯えているのはエンリカだけではない。
競技場にいる全ての人間がホワイト・レイランサーに恐怖していた。そして彼らは思い出す。
自分たちが興味半分に祭り上げていた、歓声を送っていた存在が何者であるのかと。
世界には七人の神がいる。
赤、黄、黒、白、緑、紫、青。
それぞれが愚者と呼ばれ、月の民、引いてやその上位存在である吸血鬼すら凌駕する実力を持つ吸血鬼。
その一柱の男が殺気を纏っている。
それが意味する現実はこの場にいる人間全てに絶望を叩き込んだ。
クリスですら震える手を必死に押さえ、口の中ではかの愚者に叩きつけるべき呪詛を編んでいた。
けれどもそれが行使されることは終ぞやってこなかった。
代わりに漏れ出たのは、自分でも拍子抜けするくらいの情けない声。
「あ、アルテ?」
漆黒の魔導人形が一歩前に進み出た。それだけで全ての人間の意識は恐怖から現実に引き戻されていく。
例えそれが狂人でも、皆から忌み疎まれる男の所行でも、人族である彼が白の愚者の前に進んだという事象は確かな希望となった。
「はは、大した奴だ。お前は。やはり神を殺した男だけのことはある」
希望は伝播した。鳴り止んでいた人々の声が再び競技場に戻ってくる。
だが罵声は戻らなかった。その代わり、溢れんばかりの歓声が世界を支配し始めた。
結界に阻まれ、例え届かないと知っていてもクリスはありったけの魔の力を自身の声に注ぎ込んで叫んだ。
「いけ! アルテ! 歴史を変えろ! 狂っていてもいい! 狂気を振りまいてもいい! だが我々月の民に新しい世界を見せてみろ!」
開始の鐘がなる。
黒と白が激突した。
/
最初から最速の一撃は手にしたランスによって流された。
いや、むしろ流されたというよりかは弾き飛ばされた。
鋼鉄で作られた筈の魔導人形は羽のように吹き飛ばされ、周囲に張られた結界に激突する寸前、何とか身を持ち直す。
踏ん張った脚部と競技場の床が擦れ合い、火花が辺り一面を照らした。
「カウンター……」
アルテの吸血鬼の呪いによって強化された視力でも殆ど捉えきれない神業だった。
白の魔導人形は手にしたランスを少しばかり動かすだけで、アルテが仕掛けた力のベクトルを反発させたのだ。
ぞくり、と背筋を悪寒が走る。
この感覚をアルテは知っていた。青の愚者にも感じた、圧倒的強者を目にしたときに感じる特有のもの。
隔絶した技量差を体は理解していても、脳で理解できていない違和感そのものだ。
これはやばい。
湧きだした唾液を一秒にも満たない時間で飲み干した。
けれども、その一秒が命取りであることを次の瞬間には身をもって体感した。
「アルテ!」
叫びをあげたのは足下にいるイルミだった。
滅多に聞くことのできない彼女の悲鳴。
それが幸いにもアルテの直感を動かした。目で見るよりも先に、魔導人形の手にした黄金剣で白の愚者の一撃を防いでいた。
突き出されたランスの軌道が逸れる。
逸れた切っ先は左肩の装甲の一部をはぎ取って串刺しにした。だがそれで終わりではない。ランスを持たない徒手の拳が既に眼前にまで迫っていた。
「くおっ!」
打ち出された拳が胸部装甲に到達する寸前、何とか右の手のひらで受け止めた。
いや、正確には右腕全体を犠牲にして、何とか胸部装甲への到達を防いでいた。
「なんて、出鱈目……」
愚者の白い魔の力を纏った拳はまさに魔弾。レイチェルが繰り出した赤い翼を受け止めたときよりも一撃一撃のダメージは深刻だった。
たった二合でアルテの周囲に展開されたコンソールの半分が赤く染まり、足下にいるイルミの荒い息が響き渡る。
「 」
言葉は何も出てこなかった。
ただ既に白の愚者と二合結んでしまったという現実がアルテには重くのし掛かっていた。
レイチェルとの特訓では三合目に切り捨てられること実に八割強。
アルテが試算した、二割の勝率は既に風前の灯火だった。
何とか残された意識で白の魔導人形から距離を取る。
それはこのトーナメントに参加してからアルテが見せた初めての挙動だった。
そう、それまで漆黒の魔導人形は自分から逃げることは決してなかったのだ。
外野からの悲鳴もアルテには届いていない。
まずい、やばい、どうする、どうする……!!
諦めた訳では決してなかった。だが、試合前の戦意が残っているわけでもなかった。
ただ彼の思考は勝利への最善解を求めて目まぐるしく動いていた。幸運なことに白の愚者は距離を取ったアルテに対して追撃を仕掛けてこなかった。
だからこそアルテの注意力は殆ど己の内側に裂かれていた。
こちらを静かに見上げるイルミの視線にも気がないのは仕方のないことだった。
/
イルミは悪魔との契約の内容を思い出す。
「もしも彼を手助けするだけの力が欲しいのなら、自身の魔の力の正しい使い方を思い出しなさい」
女の言葉はいまいち要領の得ないものだった。けれども嘘を吐いていないことだけは何故かわかった。
「しかし今回は相手が相手だからね。どう振る舞っても最後は彼が勝つようになってはいるけれども、可愛いイルミリアストリアスが願うのなら少しばかり助けてあげよう」
女がイルミの頭に手をかざした。
たったそれだけ。力を分け与えられたとか、何か特別なことをされたとは思わなかった。
「使えるのは一度きりだ。そう何度も乱発すれば彼が壊れてしまうからね。まだ君の魔の力に耐えられるほど彼の器は成長していない。だから今から告げる方法はここぞというときの--」
/
運命の三合目。仕掛けたのはまたもやアルテだった。
一縷の望みをかけて、再び白の魔導人形に挑みかかった。魔の力を帯びたランスの迎撃は恐るべき反射神経で何とか交わした。
だが振り下ろした黄金剣の斬撃は同じく魔の力を帯びた魔導人形の手のひら止められていた。
ここまでこれたのが奇跡のような実力差。そのまま黄金剣を弾かれ、無防備になった胴体部を白の魔導人形に押さえつけられる。
そしてそのまま地面に叩きつけられた。
赤の魔導人形とか比べるべくもない馬力で漆黒の魔導人形は白の魔導人形に押しつぶされている。
アルテは詰まらなそうにこちらを見下ろす白の愚者をその姿に幻視していた。
耳障りな音を奏で、全身のフレームが軋みをあげる中、アルテは白の愚者からはっきりとした失望を感じ取る。
なんだ、こんなものか。
ついこの間、白の愚者は自分との対戦が楽しみだと語っているのを思い出した。
あれがどこまで本気だったのかは知るべくもない。だがこのまま終わりたくはなかった。アルテのプライドが、吸血鬼ハンターとしてこの世界で生きてきたプライドがそれを許さない。
「舐め、るなあああ!!」
行使するのはレイチェルと共に手に入れた新しい力。
自分がこの世界で生きていく上で武器になる切り札にして鬼札。
漆黒の魔導人形に埋め込まれた赤い魔導人形の部品が唸りを上げる。
黒の装甲に覆われた胸部の下で肋骨にも似た黄金色の機構が光り輝いた。世界に振りまく粒子は夜の闇を焼き尽くす黄金色。
「!!」
ホワイト・レイランサーの動揺が僅かながらでもアルテには伝わった。獣染みた本能でそれを感じ取ったアルテはここが反撃への好機ととる。
強化された人工筋肉が白い魔導人形を押し上げる。やがて力どころか体勢までも拮抗したとき、アルテは雄叫びをあげた。
「人間を舐めるなあああああ!!」
繰り出したのは決して優雅とは言いがたい、技術も経験も何もないただの頭突きだった。
だがほぼ密着した状態で行われた蛮行は確かに白の魔導人形の装甲を穿った。
ダメージなど殆どないであろう、僅かな装甲の歪み。
けれどもそれは、白の魔導人形が初めてその身に刻んだまやかしではない傷痕。
会場の歓声が爆発した。
普段はそこまで喜怒哀楽を表さないクリスまでもが隣に腰掛けてるエンリカと抱き合った。
神の一柱に人間の一撃が届いた確かな瞬間だった。
 




