第29話 「覚醒(仮)」
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ひとりの武人の話をしよう。
彼は愚直でありながら誇り高く、己の研鑽にのみ心を砕いていた。
人より恵まれた力を天から与えられ、また種族にも恵まれていた。
当たり前のように武の才能を有し、それを自覚すらしていた彼はただただ己の強さのみを追い求めた。
同族である吸血鬼を屠ること幾万、猛者と呼ばれる人族を蹴散らすこと数千。
飛竜は数百滅ぼし、龍は数十殺してきた。
されど彼の心はいつも何処か渇いていた。
彼はいつも強者だった。
彼はいつも他者を打ち砕き蹂躙していく上位存在だった。
この世に生を受けたときから、彼をして叶わぬ、と思った存在を見たことがない。
それが彼にとっての最大の不幸。
つまり目標とする、目指すべき力を有した存在を中々見つけることが出来なかったのだ。
転機が訪れたのは数百年ばかり生きたときだったか。
肉体的には全盛期より若干老いていた。
だが圧倒的な戦闘経験とセンスとのバランスは最良に保たれていた。彼に言わしてみれば「第二の全盛期」とも呼ぶべき時期だった。
諸国をぶらりと放浪する彼の目の前に現れたのは一人の女だった。
女は赤い魔の力を垂れ流していた。
彼は白い魔の力を静謐に身に纏っていた。
彼の記憶が正しければ、この頃から可視性の魔の力を持った六人がそれぞれ愚者と称され、人々に畏敬の念を抱かれ始めていた。
赤、黒、白、黄、紫、緑の六人がそれぞれ圧倒的な魔の力と戦闘能力を有し、この世の支配者として君臨していたのだ。
男は最初、赤い女に興味を抱かなかった。
強者に対する憧れが既に諦めへと変貌していた彼は、赤い女をその他大勢に数え込んでいた。
女は嘯く。
「逃げるのか?」
安い挑発だと思った。
たかだか愚者の一人に数えられただけで調子づいている小娘相手に闘気は湧いてこなかった。
素通りしようと彼女の横を無造作に通り抜けていく。
「まあ待ってくれよ。ご老人。少しばかり手合わせ願いたいんだ」
足が止まる。
彼の中に根付いている武人としての矜持が、挑戦者を受け入れなければならぬ、と足をその場に押しとどめた。
だが理性はまた違った答えを台詞として導き出した。
「失せろ」
何ら感情の込められていない、純粋な無関心から来る声色は酷く無機質だった。
女の表情が変化する。
それは無視されようとしている事実に対する怒りでもなんでもなかった。
喜怒哀楽では表現し得ない、彼よりも遙かに無機質な表情筋の変化。
敢えて言葉を当てはめるのなら条件反射というべきか。
「そうか。なら、もうお前はいらないや」
返答は完全な無関心だった。
その一撃をかわせたのは無限にも等しい鍛錬によるものだった。
赤い女――スカーレットナイトが振るった一撃は大地を裂き、空に雷鳴を轟かせた。
ただ無造作に、子どものように打ち付けた拳。
それが世界の一角を破壊した。
「!!!!!!!!!!!!!!!」
言葉は出ない。だが瞬時に目の前の小娘を最悪の脅威と認識した彼は、ほぼ刹那の時を持って正拳を叩き込んだ。
龍の鱗を砕くほどの、幾多の生命を塵芥に還してきたそれは正しくスカーレットナイトの顔面に直撃する。
ただ、やった、とは思えなかった。
「うん、結構痛い」
口端から一筋の血を流した彼女はそう感想を述べた。
だがそれだけだ。ザクロのように弾けるでも、潰れるでもない、口の中を切った彼女はその感想を述べたのだ。
「この!!!!!!!!!!!!!!!」
二撃、三撃、四、五、六、……と、百までは数えた。
彼が久しぶりの疲労感を得るまで拳を叩き込み続けた。スカーレットナイトの全身のあらゆる部位を打ち続けた。
だがその結果は残酷なものだった。
「いてて。さすがにこれは酷いや」
スカーレットナイトは真っ赤だった。彼女の垂れ流す赤い魔の力を差し引いても、赤く染まったと断言できるほど、赤の愚者は赤色だった。
全身を血に染めた愚者は涙目で彼に抗議する。
「無抵抗の人を相手にこれはフェアじゃないな」
スカーレットナイトはダメージを受けていた。全身に裂傷を作り、血を吹き出している。
けれどもそれだけだ。肉は綺麗に繋がり、骨は罅一つない。
そう、スカーレットナイトは怪我こそはしていても、彼女の生命を根本的に揺るがすような傷は一つとして負っていなかった。
彼は一歩、背後に下がった。
スカーレットナイトは血で汚れた顔を乱雑に二の腕で拭いながら口を開く。
「うん、赤点ぎりぎり合格ラインかな。おめでとう、黒いのと並んで二人目だ」
一歩下がった足はもう一歩下がった。そして言いようのない虚脱感に彼は苛まれた。
けらけらと嗤うスカーレットナイトを目の前にして彼はもう言葉が出て来なかった。
そしてそれらが、彼女に対して恐怖心を抱いたことに対する証明であることに気が付くまで、そう時間は掛からなかった。
その日から武人は変わった。
乾きは怯えに変化し、赤の愚者を恐怖するようになった。
己の傲慢を自覚し、徒に強さを追い求めることを止めてしまった。
ただ惰性に闘い、ただ惰性のままシュトラウトランドに流れついた。
そして彼は怯えを誤魔化すように、生身で闘わずに済む魔導人形に傾倒していき、白の愚者としてその名を周囲に知らしめていった。
ホワイト・レイランサー。
才能も努力も全てを手にしていた彼は、たった一人の化け物に世界の頂点を見せつけられ、この小さな箱庭を住処とした。
その真意を知っているのは当人、只一人。
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78回、開幕二秒以内に敗北した。
42回、二合目で切り捨てられた。
15回、三合目で核を貫かれた。
以上、仮想空間内におけるホワイト・レイランサーとの対戦結果だ。
はっきりと認めよう。
勝てる確率はゼロだ。
俺はレイチェルと二人して整備場の一角に備え付けられたベンチに腰掛けていた。滝のように吹き出した汗を拭く余裕は共に残されていない。
飲み物が入った陶器製のビンを手にしたまま、空を呆けて見つめていた。
墨汁を流した夜空は半月が昇っている。
「どうだ? 何か糸口が見つかりそうか」
からからに乾いた声色でレイチェルが問うてきた。
俺はただ首を横に振ることしか出来ない。
「あれがこの世界の最強、ホワイト・レイランサーだ。同じ世界に生きる生き物とは到底思えないような、そんな化け物だろう?」
けれど、と少しばかり嬉しげにレイチェルは続けた。
「三合、たったそれだけでも、そこまで切り結べた魔導人形とその操り手はまだ存在していない。
だから誇ってもいいと思うぞ。うん」
「……何の慰めにもなりはしない」
不意に出た言葉は随分と辛辣なものだった。
こちらのことを気遣って声を掛けてくれているレイチェルに対して、申し訳なく思う。
けれど謝罪の言葉は中々紡ぎ出せなかった。本気で呪いのことを疎ましく感じるのはこういったときだ。
「まあ諦めるにはまだ早い。三合切り結ぶことが出来れば四合打ちあうことが出来、四合打ちあえば五合。さらに六合と可能性は広がっていく。
ならばそれを繰り返せば何れは届くだろう。そしてその方法はないわけではない」
体力が若干でも回復したのか、レイチェルは「よっ」と立ち上がった。
そして整備場に鎮座する訓練用の魔導人形の横を通り抜け、隅の方におかれていた幌に手を掛ける。
カーキ色のそれをめくった先には、巨大な人間の肋骨のような機械が横たわっていた。
「これは?」
「私の魔導人形に組み込まれていた太陽の時代の特殊機構だよ。元はもう少し大きくいろいろと付属品もあったのだが、なんとかサルベージ出来たのはこれだけだ」
「で、これはどうするんだ」
「エンリカには漆黒の魔導人形にこれを取り付けるように頼んである。あとはアルテ、君がこれを使いこなせるようにするだけだ」
レイチェル曰く、この赤い魔導人形に組み込まれていた機構は原理こそは不明なものの、魔導人形に予め設定されているリミッターを強制的に解除するものらしい。
とくに太陽の時代に制作された魔導人形はリミッターの解除が非常に困難で、レイチェルの知る限りは彼女の赤い魔導人形しかそういったギミックを保持していなかったそうだ。
「こいつは太陽の毒――私は太陽の力と呼んでいるものに反応して起動する」
「太陽の光をエネルギー源にしているのか」
「いや、そうじゃない。操縦者が吐き出す太陽の力を吸い込んで力を発揮するんだ。外に溢れている太陽の毒ではウンともスンとも言わないさ」
太陽の毒。それはこの世界で生きていくには常識として身につけていなければならない知識だ。
魔の力、月の光によって文明が成り立ち人々が反映しているこの時代を「月の時代」と呼ぶ。ちなみに千年前に滅亡した時代のことは「太陽の時代」と称する。
「月の時代」に生きる人々にとって「太陽の毒」つまり「太陽の光」は何故か身体にあまり良くないらしく忌み嫌われていた。
原理は不明だが前の世界にも紫外線が生命の危機に直結するような体質も存在していたので、つまりそういうことなのだろう。
で、レイチェルがしきりに繰り返す「太陽の力」という言葉。
「魔の力」が月の光に多く含まれている便利存在であるからにして「太陽の力」は太陽の光に含まれているのだろうか。
だとすれば、吸血鬼の呪いを刻まれ人より死ににくい身体と常人離れした身体能力を手に入れた――言い換えればそれだけで、他は何の変哲もない普通の人間である俺にそんなものを操る力は存在していない。
「……俺は、太陽の力など扱えない」
若干の心苦しさはあるものの、俺は正直に打ち明けた。
正確な出自を話そうとすれば吸血鬼の呪いの副作用でぶっ倒れてしまう体質だが、これくらいならば問題ないだろう。
「嘘だ。もしくは君がそれを完全な無意識下において扱っているせいで意識できないだけだ」
「嘘じゃない」
「いいや、嘘だ。証拠はある。君の血はイルミの――月の民の肉を焼き、私が注ぎ込んだ太陽の力を取り込んで肉体を治癒した」
え?
いや、最近イルミとはあまり顔を合わせていないけれど何、肉を焼いたって?
もしかして包帯でぐるぐる巻きにしたあの手? いや、確かにトーナメントで負傷したとは聞いたけれど、あれはそういうことなの?
それに俺が太陽の力で身体を治癒した?
「本当に自覚がないんだな。だが問題はないさ。なければ呼び覚ますだけだ」
パニックな思考に押しつぶされて何も言葉を発せない俺に呆れたのか、レイチェルがため息を一つ吐く。
だがすぐさま姿勢を正すと俺の正面に向き直って彼女はつづけた。
「覚悟を決めろ。無自覚な狂人よ。君がこの世界の英雄になりたいのならば、今そこから一歩、踏み出すべきだ」
鋭い眼光に射貫かれたその瞬間、思い出したのは何故かこの世界の原風景。
俺に呪いを刻んだ吸血鬼のそれだった。
戸惑いに似た感情を抱きながら俺は思わず首を縦に振る。いや、思わずではない。どちらかというと行き詰まった現状を打破するために何かに縋ろうとする悪足掻きで了承の意を示したのだ。
俺の人生の転機はこの世界に迷い込んだその日で間違いない。
なら第二の転機はもしかしたら今この瞬間かもしれないという淡い希望がそこにはあった。
レイチェルが俺の肩を掴む。
彼女が口を開いた。月の世界の住民にはそう珍しくない、少し長い犬歯が見える。ぬらぬらと光る真珠色のそれが俺に近づき、ついには首筋に牙を立てた。
吸血鬼のそれとは違い、相手の皮膚を突き破ることには特化していない牙は切り裂かれるような激痛を与えてくる。
切れた皮膚から血が滲み出し、レイチェルの舌がそれを拭った。
そして傷から何かが流れ込んでくる。
「あぎっ」
普段は気持ちの悪いくらい寡黙な口から変な声が漏れた。どこかで味わったことのある激痛と吐き気が体を駆け巡る。
膝が笑い、立っているのもつらくなるがレイチェルが倒れ込むことを許してはくれない。
彼女に抱きすくめられたまま地獄のような時間が過ぎ去っていく。
それは果たして、永遠にも似た時間だった。
「アルテ、アルテ」
自分の名が呼ばれていると気がついたのはそれから暫く立ってからだった。
自分がベンチに横たわっていると判断できたのは、レイチェルの顔と整備場の天井が視界に映り込んでいるからだ。
どうも彼女と関わるとこんな風に介抱されることが多いような気がする。
「成功だ。これが何かわかるか」
彼女は俺の手を取り、顔をのぞき込んでくる。その手はやけに暖かくて太陽に手を翳しているような錯覚を覚えた。
いや、それがそんな幻想でないことはすでに理解できていた。
レイチェルの手の中にあるのは本物の太陽のようなものだ。
正確には太陽の力か。
「こんなものが世界には溢れているのか」
一度知覚したらそこからは止まらなかった。点に輝く半月からは溢れんばかりの魔の力が。そしてレイチェルや俺の体にはそれとよく似てはいるが、明らかに異質な別の力が流れていた。
どこか懐かしさすら覚える、血の温もりにも感じ取れる太陽の力。
「これがこの世界の多くの人々にとっては忌むべき力さ。何故このような力が存在するのかは誰にもわからない。昔読んだ本では太陽の時代の名残だとか、異世界から来た悪魔の力だと説明していた」
レイチェルがそう呟くのを耳にし、俺はある仮説を思いついた。
それは目の前の彼女が、俺と同じようにこちらの世界に迷い込んでしまった同郷の人間の子孫である可能性だ。もちろん太陽の時代にはこんな力が溢れていてそれの残り香みたいなものかもしれないが、俺がこうやって太陽の力を知覚できている以上、その仮説はそう突拍子もないことではあるまい。
「君に施したのは魔の力を知覚できない人間に強制的に知覚させる方法の荒療治版みたいなものだ。うまくいくかは未知数だったが、その様子だと問題はなさそうだな」
急に黙り込んだ俺を見て、どうやら先ほどの行為に不満を抱いていると勘違いしたレイチェルが言い訳を始めた。
だが俺はそんな彼女を気遣う余裕などないままに彼女へと詰め寄った。
「レイチェル、お前はここの出身ではない、南の地方の出身だといったな。そこにはお前や俺のように太陽の力を扱えるものはいないのか?」
突然の俺の質問にレイチェルは戸惑いを隠せない。だがやがて、苦虫を噛みつぶしたように、憎々しげにこう言った。
「そんなものがいたら私はここに捨てられていないさ。文献では極少数ながら太陽の力を身に宿した、という人物は見かける。けれども実際に見つけたのは君が唯一だ」
なら同郷の子孫説はそう有力な仮説ではないのだろうか。そもそも俺の太陽の力ももとの世界から持ち込んだものではなく、俺に呪いを刻んだ吸血鬼がもたらした力の可能性もある。
月の民以上に、太陽に弱い吸血鬼がそんな力を扱えるとはそう考えづらいが、考慮しなければならないことには違いない。
「それか七色の愚者の第一階層、序列一位の赤の愚者くらいか。彼女が太陽の毒を克服した話はあまりにも有名だが、それもある意味で太陽の力を使いこなしている証拠なのかもしれない」
レイチェルが己自身に言い聞かせるようにはき出した言葉を俺は聞き逃さなかった。
そうだ。あまりにも有名すぎて忘れていたが、この世界における太陽の力の秘密を握っているであろう人物は確実に一人存在する。
意図せずして、今後の方針は決まった。まずは白の愚者からなんとしても義手の核を手に入れ、満足に戦える体を取り戻す。
そして可能ならばレイチェルの故郷を訪ねて太陽の力の源流を見つけ出すのだ。
もしかしたら俺がこの世界に迷い込んでしまった原因がわかるかもしれない。今更帰りたいとはあまり願わないが、それでも真相を知りたいという欲求はまだまだ健在だ。
それが終えればヘルドマンにも示された俺の最大目標である赤の愚者「スカーレットナイト」の討伐。
果たしてそれが可能かどうかはわからないが、彼女が太陽の力に関する大きな秘密を握っているというのはそう空虚な幻想ではないはずだ。
ならばその第一段階。白の愚者を打倒することが俺の第一目標となる。
仮想世界でのシミュレーションによって折れかけていた心がもう一度立ち直ったことを実感する。
疲労困憊のレイチェルには申し訳ないが、これからもたびたび協力してもらうことになるだろう。
行き詰まった視界が開けたわけではないが、少しばかりの道筋は見えてきた。
今はこの晴れやかな心境を糧に、一歩ずつ前に進もうと決めた。
/
イルミは呼吸するのも忘れてその場から逃げ出していた。
訓練に精を出しているアルテを気遣って飲み物を持ってきたのがそもそもの間違いだった。
今となっては馴染みとなった整備場を覗き込んだ彼女が見つけたのは非常にショッキングが光景だった。
レイチェルによって抱きすくめられ、首筋をその牙に預けているアルテがそこにはいた。
何となく、嫌な予感はしていた。
トーナメントの激闘を通して二人の仲が決して悪くないことくらい、イルミにもわかっていた。
けれど。
けれど。
これは一体どういった悪夢なのだろうか。
自分が夢に焦がれていた、愛しい人の血を啜るという至上の行為。
それがいつの間にかやってきたレイチェル・クリムゾンにまんまと奪われてしまったのだ。
手にしていた飲み物の入った瓶を落とさなかったのは、ひとえにアルテに対する忠誠心がなせる業だった。
邪魔をしてはいけない。
彼がレイチェルを受け入れているのなら自分はそれに従わなければならない。
必死に自分に言い聞かせ、イルミはその場を離れた。
溢れ出る涙が顔を汚し、喉の奥からは嗚咽が止まらなかった。
所詮、自分は奴隷なのだ。
枠からはみ出して、余計な私情は持ち込んではいけないのだ。
包帯に巻かれた両の手で顔を覆いながら、夜の帳に取り残されたイルミは声をあげて泣いた。




