第2話 「その男、狂人につき」
その男がこんな昼下がり、人気もまばらな酒場で酒を傾けているのには訳があった。
端的に言い表せば、狂人と渡り合うためには己も狂った行いをする必要があったのである。
一般的な酒場は一応昼過ぎまでは営業はしている。しかしながら酒を煽る客は殆どいない。酒場とはあくまでも、かなり遅めの食事をとるか、眠れない昼に、自分と同じように起きている別の誰かと語らうための場なのだ。
何故なら、彼ら月の時代を生きる者たちが泥酔した状態で日光の元を出歩くことは自殺行為に等しいから。
短時間出歩くだけなら太陽の下でも殆ど問題はない。
だが仮に泥酔して日光の元に倒れればどうなるか。
答えは単純だ。知らない間に太陽の毒に体が冒され、運が悪ければそのまま死亡。良くても耐えがたい苦痛と後遺症に後々悩まされることとなる。
そのことを皆よく知っているから昼過ぎの酒場で酒を煽る客は殆どいないのだ。
話を戻そう。
その男の名はジェームズ・マクラミンといった。
無精髭を生やした、見た目は四十過ぎの男である。壮健な顔立ちに分厚い丸眼鏡を掛け、黒い聖人服を身にまとっている。
遠目から見れば純朴な宗教人に見えなくもないが、こんな昼過ぎに酒を傾けているその姿はまさに狂人といえた。
しかし彼がこのような立ち振る舞いをするには訳がある。
それが先ほど記したとおり、これから出会う狂人と対等に渡り合うためだった。
ジェームズが待ちわびるその人物は、彼の予想通り太陽が完全に登り切った死の時刻に店の扉を叩いた。
「すまない、遅れた」
腰元に長剣を差したその男はジェームズの腰掛けるテーブルの反対側に着いた。そして一切のためらいもなくテーブルの上に並べられた酒の瓶を口につける。
そしてこんな風に嘯いた。
「喉が渇いていたんだ。ありがとう」
その言葉を聞いて、ジェームズは周りに悟られないように敗北を認めた。やはり本物の狂人にまがい物は勝てないと。
言動だけではない。こんな日差しの強い昼間なのに、ローブ一つ身にまとわず、麻のシャツとズボンという軽装でやってきた男の姿形にも敬服する。
いくらこの男が太陽の毒を克服していると知っていても、その行い、言動は狂人のそれとしか思えなかった。
狂人の男の名はアルテという。
「いや、気に入ってもらったようで何よりだ。ここにある酒は全て君のために用意したものだ。好きなだけ飲みたまえ」
常人ならば遠回しに死ね、と告げているように聞こえてしまう言葉も、アルテには一切通用しない。
殆ど感情の読み取れない無表情を、わずかに喜色に染め、アルテはいそいそと酒の瓶を手にしては口に運んでいった。
ジェームズはその様子をしばらく黙って眺めていたが、しばらくしてこう口を開いた。
「今回も外れだったらしいな。何でも吸血鬼かぶれの翼人だったとか」
ぴた、とアルテの酒を飲む手が止まる。
彼は静かに酒の瓶をテーブルに置いて、ジェームズの方へ視線をやった。
「ああ、残念だ」
アルテの言葉にジェームズは息を呑んだ。いや、正確にはその視線に息を呑んだのか。
こちらを見つめてくる視線には一切の偽りが感じられなかった。ジェームズは直感で理解する。この男は本当に、吸血鬼を狩ることが出来なくて残念がっていると。
吸血鬼ハンターは、その名の通り吸血鬼を狩ることを生業にする者たちだ。だがその実態は人間に害をなす魔の生き物全般を退治する便利屋のようなものだ。
誰も喜んで、自分たちより遙か強大な力を持つ吸血鬼を狩ろうとはしない。大概は返り討ちに遭い、無残な死体を太陽の下に晒すハメになるからだ。
だがアルテは違う。
これまでずいぶんと長い付き合いで認識したことだが、アルテはおよそ一般的な魔の生き物の退治依頼には殆ど興味を示さない。彼がその食指を動かすのは大抵誰もが忌避するような吸血鬼の討伐依頼なのだ。
アルテは当たり前のように吸血鬼の討伐依頼を引き受け、当たり前のようにそれを完遂してくる。
言葉にすれば簡単なことだが、それを達成することがどれだけ神懸かり的なことなのか、あるいは狂った行為なのか、ジェームズは考えもつかなかった。
吸血鬼討伐のたびに連れて行かれるイルミという奴隷のことを何度も哀れんだりした。
こんな狂人について行けば命がいくつあっても足りないと、ジェームズは嘆いた。
しかし現実は遙か先に行っている。
現にアルテは五体満足のまま、目の前で酒に舌鼓を打っている。今この場にはいないが、おそらくイルミも同じく五体満足でつかの間の休息を享受していることであろう。
だからジェームズはアルテについて深く考えることはやめた。
ただそこに存在する狂人として、自分も狂人のフリをすることによってアルテに付き合うことにした。
恐らくこれが最適解なのだと、何度も何度も言い聞かせながら。
「で、次の依頼はないのか、マクラミン」
こともなげに問うてくるアルテに、いちいち戦慄を感じていては正気を保つことも出来ない。
ジェームズは短く嘆息した後、用意していた羊皮紙の束をテーブルの上に広げた。
アルテがここに来るまで酒を傾けていた理由は先に話した。
曰く、狂人と渡り合うためには己も狂人のフリをしなければならないと。
だがもう一つ。もう一つだけ別に理由が存在する。
それは羊皮紙に記された討伐依頼を見れば嫌でも理解しなければならない。
こんな狂った依頼、己も狂ってしまわなければ他人に紹介することなど到底不可能なことだった。
ジェームズはたっぷり数秒ほど、間を溜めて口を開く。
「さあアルテよ。さまよえる哀れな狂った子羊よ。お前は神に挑むことが出来るか?」
討伐依頼に目を通したアルテの口角がつり上がる。滅多に表情を変えない男の表情が間違いなく歓喜に彩られていた。
羊皮紙には血のような赤文字でこう刻まれている。
討伐依頼
七色の愚者:
第七階層「青の愚者」
ブルーブリザード
のちに語り継がれることとなる、月の時代の争乱の幕開けが今此処にあった。
七色の愚者。
愚かなる者と書いて愚者。それも七色。
最初その名を聞いたときは雑伎団の名前か何かか、と思っていた。だがこの世界でしばらく生きていると、どうやら違うということに気がついた。
まず「七色の愚者」の七色とは文字通り色のことだ。
赤、青、黄色、緑、紫、黒、白がここで語られる七色となる。
で、この色がどういう意味を持つのかというと、まずはこの世界に於ける魔の力について説明しなければならない。
今現在は魔の力が活発な月の時代。魔の力が衰退し、所謂機械文明が栄えていた太陽の時代とは正反対の時代だ。
こんな時代だから、月の時代を生きる民、通称「月の民」の殆どはそれぞれ固有の魔の力を持っている。例を挙げれば火を使わずに物を暖めたり、逆に水を使わずに物を冷やしたりなど。
それぞれの魔の力が日常生活に於いて活用され、そしてすくすくと繁栄してきたのが月の民なのだ。
そしてこの魔の力なのだが、不可視の性質を持っている。
どういうことかというと、たとえば目の前の人物が魔の力を使って火を起こしても、火を起こしたという事象を見ることは出来るが、その過程で行使される魔の力の作用は見ることが出来ないのだ。
要するに魔の力は本来、目では観測できませんよ、ということ。
中には魔眼と呼ばれる特別な力を使って、魔の力の作用を観測する人もいるが、基本的にごく少数だ。
大多数の人間が魔の力をはっきりと視覚によって感知することは出来ないと考えても良い。
まあ、俺から言わしてみれば夜中に魔の力を使って視力を獲得しているこの世界の住人が、魔の力を観測できないというのは何処か矛盾していると感じてしまうのだが、当人たちはそのようなことを気にもとめていないので、特に指摘しようとは思わない。
多分、そうやって常時魔の力を無意識に観測しているから、人為的に起こされた魔の力を逆に観測できないのだろう。
ごめん、今のは適当な推測です。
話を戻そう。
そんな訳で不可視なこの世界では不可視として扱われる魔の力であるわけなんだけれども、唯一の例外が存在する。
それが七色の愚者のことだ。
七色の愚者とはそれぞれ強力な力を持つ、七人の吸血鬼の称号だ。
彼らが保有する魔の力は圧倒的で、本来見えないはずの魔の力がその密度の所為で見ることが出来てしまうのだ。
個人個人で見える魔の力の色が違うから七色とカテゴリ分けされている。
あと、愚者という称号がどこから来ているのかは、実は俺を含めて殆どの人が知らない。
諸説は様々だが、この世界で幅広く信仰されているとある宗教の教典の記述からそう名付けられたと、だいぶん昔にマクラミンから聞かされた。
彼もまた所詮は噂話程度だとぼやいていたので、本当かどうかは定かではない。
長々とご託を並べたが、一言でまとめてみれば至極単純。
この世界に君臨する七人のめちゃくちゃ強い吸血鬼のことを人々は「七色の愚者」と呼んで恐れているのだ。
あれから適当に酒の代金を払い、俺は再び宿泊している宿に戻ってきていた。
時刻は丁度夕方。
早起きの人はフード付きのローブをかぶって外を出歩き始める時間帯だ。
部屋に戻れば睡眠をとっていたイルミがいつの間にか目を覚ましていた。気怠そうに背筋を伸ばす彼女は、俺の方を一度だけ見やった後、すぐにぼうっと中空に視線を彷徨わせた。
どうやらまだ眠気は完全に覚めていないらしい。
そんなイルミを見て、俺は今し方、一つの悩みを抱えていた。
さて、どうやって依頼の内容を彼女に話そうか。
酒場でマクラミンから受けた吸血鬼の討伐依頼。吸血鬼ハンターたるもの、この依頼を受けなくて何の依頼を受ける、と意気込んだまでは良かったのだが、よくよく考えればイルミをどうやって説得すればいいのか思いつかずにいた。
説得とは、どうやって彼女を依頼に連れて行くか、だ。
基本的にいつも俺のあとをついて来るイルミだが、内心どのような心境でついてきているのか殆どわからない。
ここまで付き合ってきて、何となく理解したのは彼女にそれほど嫌われている訳ではないということくらいだ。
だからと言って、調子に乗ると彼女が使役する二匹の狼の餌になりかねないので自重は大切だ。
いきなり世界最強の吸血鬼の一角をぶっ殺しにいこうぜ、と嘯こうものなら、間違いなくイルミの怒りをダース単位で買い取ってしまうことになるだろう。
この前の依頼は吸血鬼の偽物、翼人の討伐だったものだから、いまいちモチベーションが上がらなかった。
だが今度は違う。普段なら外れの討伐依頼を面倒くさがる俺でも、本物の吸血鬼退治はやはり心躍るのだ。だってほら、ファンタジーでしか語ることの出来なかった冒険譚が目の前に転がっているのだから。
そんなわけで是非とも今回の依頼はイルミを連れて向かいたい。それも彼女の機嫌を損なわずに。
足りない頭でいろいろと考えてはみるが、妙案を思いつくような気配はない。
だから俺はイルミに誠意を見せることにした。嘘も言い訳もつかずに、俺の討伐に向かいたい、という本心を彼女に語るのだ。
昼開け前、アルテが部屋に戻ってきた。
心なしか上機嫌な彼を見て、私の直感が何かよからぬことがこれから起こるぞ、と叫んでいた。
なので出来るだけ視線を合わせないように、寝ぼけているふりをしてやり過ごそうとする。
しばらくはそれで時間稼ぎが出来たものの、すぐに彼は私の目の前にやってきて口を開いた。
「イルミ、討伐依頼を受けてきた」
二つのセンテンスから成り立つ、簡素な台詞。だがそこから導き出される万をも超えた災厄に私は寒気を感じずにはいられない。
何故ならアルテの言う討伐依頼は世間一般で語られるような「ゴブリン」や「オーク」の討伐依頼とは話が違う。私たちの上位存在として存在する吸血鬼に対する討伐依頼なのだ。
命を投げ捨てるようなことを平気でする狂人。
それがアルテという男だった。
けれども。
普段の、いつも通りの私ならば、これから降りかかる不幸に身を嘆きつつも、何とか己を奮い立たせて彼について行くことを選択しただろう。
何故ならば私は彼の奴隷だ。彼に生殺与奪を委ねている私は彼の行くべき道をついて行くことしかできない。
しかしながら今回ばかりは勝手が違った。
そもそも彼がここまで上機嫌という現象から、私はその先に横たわる未来を読み取るべきだったのだ。
アルテが言葉を続けた。
そして私は心を折られた。
「討伐対象はブルーブリザード。七色の愚者の第七階層の吸血鬼だ」
七色の愚者。
彼が何を言っているのか何一つ理解できなかった。
七色の愚者。
それはこの世界に君臨する神にも等しい強大な七人の吸血鬼たちだ。実際彼らを神と崇め、信仰する宗教も存在している。
たとえ最下層、つまり一番力が弱いと言われる第七階層の吸血鬼ですら、そんじょそこらの吸血鬼とは絶対的な格の違いがある。
それを彼は、アルテはなんと言った?
討伐する……?
何を?
七色の愚者を?
アルテのあんまりな台詞に私は言葉を失い、思考を放棄した。
狂人が帰った後に残されたのは、狂人になりきれなかった哀れな男だった。
テーブルの上には自分が呑んだ分を支払ったのか、アルテが残していった何枚かの銀貨と、空の酒瓶が転がっている。
ジェームズは手元に残された依頼書の写しを見て、果たして自分がした行いは正しかったのか、と自問を繰り返していた。
神を殺せと命じた。
狂人はそれを喜んで引き受けた。
吸血鬼ハンターのアルテが、そのことの意味を知らないはずはない。
七色の愚者とは絶対強者であり神だ。周辺国で信仰されている宗教の大半は七色の愚者の誰かを崇拝するものが多い。
そんな神そのものと言っても良い存在の討伐依頼。普通のものであるはずがない。討伐依頼が下された真相こそジェームズもはっきりと認識しているわけではないが、そこに彼が所属している聖教会の思惑が絡んでいることだけは理解できる。
聖教会とは世界各地に点在している吸血鬼ハンターの組合を統括している元締めのような組織だ。
教会と名乗ってはいるが、特定の信仰している神は存在しない。ただ人間に害を成す一部の吸血鬼を討伐するために結成された。
恐らく教会は何かしら「ブルーブリザード」に関して面倒な事象を抱え込んだのだろう。
七色の愚者はその強大さ故か、殆どが人間に興味を示さず、それぞれの領域で自由気ままに活動している。
だが七色の愚者の中でも最下層に位置づけられている「ブルーブリザード」はその例外だ。
この吸血鬼は他の愚者たちに対する劣等感でも抱いているのか、自分よりも弱い生き物を嬲り殺す悪癖があった。
そして、その悪癖に対する教会の許容量がついに超えたのかもしれない。
どちらにせよ、事実として「ブルーブリザード」の討伐依頼は下され、アルテという狂人によってそれが受理された。
これは最早引き返すことすら不可能な、何か新しい災禍の引き金が引かれたとジェームズは考えている。
アルテとの別れ際に、彼が見せた表情が脳裏にこびりついて仕方がなかった。
「本当にこの依頼を受けるんだな」
席を立ち、帰り支度を始めたアルテにジェームズは念を押した。
決して見捨てる訳ではないが、それでも全ての責任を負うことは出来ない。そういった意味を込めた彼なりの遠回しな言い方だった。
だがそれをあざ笑うようにアルテは嗤う。
「当たり前だ。吸血鬼を狩らずして、何がハンターか」
恥ずかしながら、ジェームズは圧倒された。
吸血鬼と血を血で洗うような殺し合いを続ける狂人の笑顔に圧倒された。
「今から楽しみで仕方がない」
酒場の入り口へ向かう男へ掛ける言葉が見つからなかった。狂人のフリをしていた化けの皮がはがれる。ジェームズは己が抱く、何か自責にも似た苦々しい感情を振り払うため、残された酒瓶をやけくそ気味に煽るのだった。
明日はお休み。多分続きは明後日。