第28話 「準備期間」
遅くなりました。ごめんなさい。
その傷、本当に直さなくても良いのか?
傷だらけで眠り続けるアルテの傍ら。
桶に張られた水で手ぬぐいを冷やしていたイルミにクリスは語りかける。
水面に映るイルミの手。
アルテの血液に含まれる太陽の毒で焼かれた両手は火傷の跡が痛々しく残っていた。
イルミはじっと己の両手を見つめた後、静かに首を横へ振った。
「いらないわ」
クリスの提案は至極簡単な物だった。彼女の持つ異能である「声によって魔の力を支配する」能力によってイルミの治癒力を一時的に高めてやるのだ。
そうすればイルミが本来手にしている莫大な魔の力も相まって、彼女の傷は完全に消え去る。
その答えに納得がいかなかったのか、クリスはさらにイルミへ問いかけた。
「何故だ? 理由を聞かせてくれないか」
澄んだ赤い瞳がクリスに向けられる。血のように鮮やかな瞳が不意に滲んだ。
それがイルミの流した涙によって成された現象であることにクリスはすぐには気が付くことが出来なかった。
「これはこの人がくれたものなの」
両目を潤ませながらイルミは眠りこけるアルテの手を握った。そしてその小さな手のひらをアルテのそれに重ね合わせる。
赤く上気した頬を月明かりに照らして、イルミは続けた。
「この傷はアルテが私に刻んでくれたもの。誰でもない、私に刻んだものよ。だから治すなんてとんでもないわ」
クリスはただ、「そうか」と返すしかなかった。
薄々気が付いてはいたが、イルミというこの少女。相当アルテに心を焼かれてしまっているらしい。
その姿に自身の敬愛する主人の姿を徐に重ねて、クリスは苦笑を一つ漏らした。
「なら、もう一つだけ教えてくれないか」
アルテの看病に熱中し始めたイルミに、クリスは再び問いを投げかける。
それはこれまで彼女がイルミに対して抱いていた純粋な疑問だった。
クリスが思い出すのは、数年ほど前、アルテと共に赴いた一つの任務。
「私とアルテは聖教会の命を受けてとある吸血鬼退治に向かった。そこにはどうやら聖教会の要人の肉親が監禁されているらしくてな、それの救助と合わせての任務だ」
ぴたり、とイルミの手が止まった。
「その吸血鬼は面倒なことに赤の愚者を信仰する宗教の教祖で、いろいろと面倒な手続きは多かったが、退治自体はとても簡単だったよ。なんせ私と狂人の二人掛かりだ。
負ける道理も理由もありはしない」
「……前から思っていたけどあなたは随分と自信家ね」
「実際実力は自負しているからな。まあ、それは今はどうでも良い。――重要なのはそこに監禁されている人物さ。
……なあ、イルミリストリアス・A・ファンタジスタ。お前はあの日――、あの穴蔵から私とアルテに助け出されたとき、何故アルテのもとへついて行くことを選んだんだ?
望めば教会の保護を与えられ、魔導教院への進学も認められたんだ。それほどの魔の力の才能だ。
おそらく磨けば稀代の魔の力の使い手になれただろう。なのにお前が望んだのは、己を縛り上げていた鎖をアルテに引き渡すことだけだ。
結果、狂人の奴隷となり今日までそれは続いている。
聞かせてくれ、イルミリストリアス。全てを捨ててまで何故、あの狂人に思い焦がれる。何故、あの狂人の奴隷となった?」
訪れたのは沈黙だ。イルミの手から滴る水の音だけが時折二人の耳へ届く。
イルミはクリスを見ない。彼女はアルテに視線を向けたままそっと瞳を閉じた。
そしてそれから三拍ほど。
ゆっくりと立ち上がった彼女は来ていた衣類を上半身だけ脱ぎ捨てた。
クリスが息を呑む。
「これはあなたに頼んで書き換えて貰った奴隷の証」
惜しげもなく晒された裸体の中心。膨らみかけの幼い胸の真ん中に刻まれていたのは漆黒の文様だった。
「制約も強制力も何も存在しない、形だけの符号。けれど、前に刻まれていた物よりかは遙かに綺麗で幸せよ。
……何故私がアルテを選んだのか、って?
馬鹿ね。
自我も何も持ち得ていなかったお人形みたいな私があなたたち聖教会についていっても、監禁される場所が穴蔵からこぎれいな場所に変わるだけで、他は何も変わらない。
ならこの人に全てを委ねて見ようと思った。
使い魔を切り伏せ、狂ったように戦い続ける狂人から私の心は逃げられなかった。
――そして、私の考えは間違っていなかったわ」
愛おしげに、アルテによって刻まれた傷の残る両手でイルミは胸を掻き抱いた。
その様子を見て言葉を失っていたクリスがようやく紡ぎ出したのは、以下のような言葉だった。
「当時の私の心配は決して杞憂ではなかったのだな。これまでも、そしてこれからも」
「あら、それは褒め言葉ね」
いつもより幾分か饒舌なイルミはからかうような笑い声を上げた。
その仕草までもが、ヘルドマンに似すぎていると、クリスはウンザリしたようにため息をついた。
多分その日は、満月だったと思う。
コンビニバイトに必要な制服と幾ばくかの文房具、ちょっと型落ちしたスマートフォンに赤茶けた財布を持っていた。
今は無き右手には親から大学への入学祝いで送られたそこそこのブランドの時計をはめていた。
バックライトに浮かび上がる文字盤を見る。
22時32分。
夜勤組に業務を引き継いでまだ15分しか経っていない。
たしかタイムカードを切ったのが22時15分くらいだった筈だ。
そこから17分。
繁華街を抜けて最寄り駅にはとっくに着いているはずなのに、俺は草原の真ん中にいた。
アスファルトを踏みしめていたぼろぼろのスニーカーはいま湿り気を帯びた土を踏んでいる。
排ガス臭かった風の臭いは今とても澄んでいて、草の香りが混じっていた。
空から降り注ぐのはネオンやLEDの光ではなく目映いばかりの月の光だ。
「何処だ、ここ?」
ついて出たのはそんな間抜けな言葉。
都内にこんな場所が未だに残っているとは聞いたこともない。
突然としか言いようのない景色の変遷に、戸惑いどころか軽いパニックになりかけた俺はそれ以上の言葉が紡げないまま、きょろきょろと周囲を見回した。
不意に、誰かが肩に触れた。
――残念ながら、その肩を掴んだ人物が誰なのか今となってはもう思い出せない。
靄が掛かったかのようにかの人物の顔が、体型が、性別が、全てが朧気だ。
「成功、したのか」
その人物が酷く安堵した声色で一人呟いた。
それは多分俺に投げかけられた言葉などではなく、個人内で完結している酷く自己中心的な言葉だ。
「57000体の私の演算能力を使い潰してやっと人一人か。十一次元層の壁を突き破るのにさらに20000体。2014年10月29日の同位意想体を特定するまでに3000体。
座標軸の振れ幅を取り戻すまでに7500体。タキオンの出力に20000体。
はは、デウスエクスマキナが聞けば発狂しそうな浪費だな。ざまあ見ろ。お前の1000年分を僅か12秒で使い倒してやったぞ」
人物は笑う。
まるで狂人のように嗤い続けていた。
けれど不思議と嫌悪感は湧いてこない。それどころか初対面の筈なのに妙な親近感が湧いてくる。
「おっと、この私ももう時間切れか。だがこれも都合は悪くない。ユーリッヒとノウレッジが器を既に用意している筈。
ならば無駄なく使い切ってしまおう」
その時、初めてそいつはこちらを見た。
綺麗だと思ったのはよく覚えている。
姿なんて全く思い浮かべられないのに、とにかく綺麗だと思った。
「謝罪はしない。懺悔もしない。ただお前には力と寿命を与える。お前だけがこの世界を支配する神に抗う英雄になれる。
私も他の者も首輪を繋がれている以上、為しえることのない偉業だ。
もしもお前が私を憎むのなら、憎悪するならば力を磨いて殺しに来い。
願わくば、与えた刃を曇らせることなく、研ぎ澄ませてくれんことを」
そいつが俺に抱きついた。
否、それだけではない。
首筋に激痛が走る。
そいつは俺に噛みついていた。
鋭い犬歯を首筋に突き立てていた。
吸血鬼みたいに、血が吸われるのかと思った。
けれど予想は違っていた。
吸われるのではなく、何かが流し込まれているようだった。
全身の血液が沸騰したみたいに熱い。目がチカチカして、四肢から力が抜けていく。
膝を屈しそうになる身体を、そいつは無理矢理支えた。ここで楽になることをどうやら許してはくれないようだ。
何かが刻まれる。
忌まわしい何かが身体に刻まれていく。意識が遠のく。
吐き気がする。
何もかも、忘れてしまいそうになる。
いや、多分忘れてしまったのだろう。
気分は最悪だった。
どうもここ最近、夢見が悪くて体調も優れない。
街に繰り出す気にもなれないまま、だらだらと『ドワーフの穴』で過ごすことが多くなってきた。
生活時間も周囲に合わせて、昼間は睡眠を取り、夜間に出歩くようになっていた。
漆黒の魔導人形の修繕は割かし順調なようだった。
レイチェル・クリムゾンの厚意によって足りない部品の大多数は提供され、一から修理するよりも何倍も早く実戦復帰が出来るとエンリカは喜んでいる。
「おい、アルテ。ちょっとばかし暇か?」
頬にでっかい絆創膏を貼り付けたレイチェルと出くわした。
彼女はトーナメントの選手としては引退宣言をしたのち、専属のメカニックを数人引き連れて『ドワーフの穴』に住み込んでいる。
なんでもエンリカと協力して、魔導人形専門の整備工場を作るのだとか。
確かに元トップランカーという肩書きを有している彼女ならば上手いこと事業を進めることが出来るだろう。
「ああ、とくに用事はないが……」
「そうか、なら新しく完成した訓練用の魔導人形に一緒に搭乗してくれないか。ホワイト・レイランサー戦に向けていくつか確認したいことがある」
そんなこんなで整備場の一角にレイチェルと二人で訪れた。
見ればレイチェルが連れてきたメカニックたちがきりきりと一体の魔導人形の整備を行っている。
「これは?」
朱色で塗装された魔導人形は俺やレイチェルのそれに比べると随分と簡素な物だった。装甲は簡素で余計な推進器や武装は取り付けられていない。
ずんぐりむっくりの寸胴なボディにやや細身の四肢がぶら下がっている。
「私の魔導人形のコアを移植した訓練用の魔導人形さ。演算能力だけならそんじょそこらの魔導人形が束になっても勝てないからな。
仮想の空間を作り出して実戦演習を行えるように用意したんだ」
そう言ってレイチェルは手早く魔導人形に乗り込んでいった。俺もそれの後についていく。
コックピットに当たる部分は俺の魔導人形のように上下に二つの座席が設けられており、下にレイチェル、上に俺が座り込む形になった。
「それじゃあ早速始めるか。これはあくまで仮想空間の戦闘だ。実際に魔導人形が動くわけではないから違和感があるかもしれないが、まあ慣れてくれ」
彼女が操縦機器に備え付けられた何かしらのボタンを操作する。すると魔導人形の動力炉に火が入ったのか周囲に青色のコンソールが展開された。
つい先ほどまではエンリカたちの整備場にいたはずだが、映された場面は競技場のそれだった。
そして正面に一機の魔導人形。
「っ! これは……」
口から零れたのは純粋な驚き。
レイチェルはそんな俺の反応を予想していたのか、特に気にした風もなく続けた。
「私が初めて奴と相対したときの状況をもとに作らせた。これほど有意義な訓練はそうないだろうな」
声色に緊張が含まれているのは恐らく俺の気のせいではあるまい。
その証拠に、足下に座する彼女の肩は若干震えていた。
そう。仮想空間とは言え目の前に現れた機影。
初めて目にするそれだが、誰かに説明されなくとも正体は痛いほど理解出来る。
純白に光り輝く装甲。佇まいはさながら中世の高貴な騎士のようでいて、周囲に振りまくプレッシャーは戦鬼のそれだった。
手にしたランスは長大にして重厚。果たしてそれを振るうことが出来る者はこの世界にどれだけ存在するのだろうか。
「ホワイト・レイランサー!!」
俺が打倒すべき世界最強の一角。
そいつは幻ながらさながら実体のように、そこにあった。
 




