第24話 「それぞれのそれぞれ」
「これは、まあ……こんなものか」
ヘルドマンの執務室はいつにも増して静かだった。
いつもはすぐ側に控えている、懐刀であるクリスは狂人アルテの下に送っている。自身の左胸に刻まれた傷を上書きしていった男にヘルドマンは並々ならぬ期待を寄せていた。
その気持ちの現れとしての今回の派遣劇だった。
まあ、その狂人の義手作成が想像以上に難航しているということもあったが。
そんな彼女は今、執務室の一角であるものを咀嚼していた。
詰まらなそうに、食事であるにもかかわらずまるで苦行をこなすかのようにヘルマンはそれを口にしている。
「やつの真意は知りませんし、知りたくもありません。ですが折角これが手に入ったのなら……」
リンゴを囓るのと同じように口に含むそれは、赤々とした血が滴っている。
月の光が執務室の中を、ヘルドマンを照らした。
吸血鬼。
食事としての吸血行為は随分と昔に捨て去った種族である。だがその本性は食人鬼だ。
ヘルドマンもその例に漏れず、いや、吸血鬼の頂点に立つ存在の一人だからこそその行為に対しての忌避は少ない。
「それでも味は非道いものですね。これならば太陽の毒に犯された彼の血の方が美味に感じるやもしれません」
月明かりに照らされたヘルドマンは口の周りを鮮血で染め上げていた。
だがそれらを気にする素振りは見せずに手にしていたもの――スカーレットナイトが置いていったブルーブリザードの心臓を、鋭い犬歯噛み千切っては胃に収めていく。
見る人が見れば、とくにヘルドマンに並々ならぬ信頼を寄せているクリスが見れば卒倒しそうな光景。
「スカーレットナイト……ああ、今の名はアリアダストリスでしたか。随分と余計な手土産を残してくれたものです……!」
がりっ、と最後の一口をヘルドマンは飲み込む。
そして血に濡れた口周りを手の甲で乱暴に拭い去った。
彼女は自らを照らす月に吠える。
「貴様はいつまで私を苦しめれば気が済むのか! それほどまでに月の民が憎いのか! 月の時代が憎いのか! 神の化身よ!」
答えが返ってくることは恐らく永遠にない。だが赤の愚者の、当代最強と謳われる吸血鬼をヘルドマンは心の底から憎悪していた。
その憎しみが、怨嗟が、彼女の咆哮と共に夜に広がっていく。
「――良いだろう! ならば滅ぼしてやる! 月の時代も、そしてお前も!」
彼女の叫びに合わせて執務室の室温が急激に低下していく。
窓硝子はいとも簡単に凍り付き、並べられていた書類や本も同様に固まった。そして自身の重さに耐えられなかったのか自然と朽ち果てていく。
一面氷の世界となった執務室でヘルドマンは荒い息を吐く。
ブルーブリザードの心臓を取り込んだ彼女は、制限された魔の力が少しばかり回復していることを知って、薄暗い笑みを浮かべた。
自分ではどう足掻いても赤の愚者を殺すことが出来ない。
ならば、それを成し遂げられるあの男を、愛しい狂人の進む道を作ってやるまで。
アルテの前を遮る障害はヘルドマン自身が蹴散らしていけば良いのだ。
「彼は恐ろしいぞ! スカーレットナイト! 貴様の身を焼き尽くす太陽そのものだ!」
叫びは嗤い声に変化していた。
彼女の黒の愚者としての傲慢と誇りが蘇りつつあった。聖教会の幹部の一人として甘んじていたヘルドマンが、今まで身に纏っていたメッキが剥がされていく。
聖教会全体を、いや、月の世界全体を揺るがす大事件の幕開けは着々と近づいていた。
イルミは張り切っていた。アルテに必要とされたその日から彼女は今までになく張り切っていた。
イルミは知っている。
アルテが心開く人間はこの世界には存在しない。いつも彼は別世界の人間のように振るまい、そして生きている。
ヘルドマンに対しても、クリスに対しても、よく仕事の依頼を受け取ってくるマクラミンに対しても壁のようなものを作って彼は生きているのだ。
だがそんなアルテがイルミだけにたった一言だけ言葉を囁いた。
「イルミは俺に必要だ……」
言葉には正しく呪いと、魔の力が宿っている。
口に出してみるたびに緩む頬が抑えられなかった。じくじくと疼く胸の高鳴りが抑えられなかった。何故ならそれはアルテが少しだけでも自分に心開いてくれた証拠だから。
あの暗闇から連れ出されたときから憧れは抱いていた。
彼の狂気からくる恐怖で塗りつぶされてしまったその感情も、今では立派な尊敬に変化している。
そして今、イルミ自身にも自覚できないレベルで尊敬は愛情に変化し始めていた。
私は必要とされている。
世界で只一人、その言葉を与えて貰っている。
電池代わりとして魔導人形に詰め込まれるのも、何ら不満のない、むしろ狭い操縦席内でアルテに密着できるだけ彼女にとっては幸せなことだった。
そのためか、アルテがほぼ一撃で敵を屠り去っていくことは誇らしいと喜ぶと同時、もっと彼に密着していたいと思う二律背反した思考を持つまでに至った。
口には出さずとも、イルミは既にアルテに夢中だった。
昼間出歩いたツケに夜に睡眠を取る彼を眺め続けるのが日課になった。
時折頬などをぺたぺたと触ってみたり、ちょっとムラムラするときはぺろりと味見をしたこともある。
残念ながら彼の血は太陽の毒に汚染されているため飲むことは出来ないが、それでもいつかは口にしてみたいと思った。
使い魔の二匹の狼も、そんな主人の心情に左右されているのか随分とアルテに懐くようになった。
アルテは動物が余り好きではないのか、狼を見れば一目散に去って行ってしまうがそんな意外な一面もイルミの恋心をくすぐった。
何から何まで、アルテのことが愛おしくて仕方がなかった。
くっつけば身体が蕩けそうになり、声を聞けば心が融けた。
そんな穏やかな日常に変化が訪れたのは、アルテがトーナメントで通算二十二勝を成し遂げたときである。
ちなみにここまで無敗。
当初は観客に滅法嫌われていたアルテだが、エンリカがいつか予想したとおり、圧倒的な力で対戦相手をねじ伏せていく姿に惚れ込んだファンも幾ばくか生まれていた。
スーパーヒールとしての立ち位置を築き始めたアルテを、イルミの気にくわない女ナンバーツーであるクリスはよくからかって笑っていた。
彼女もブルーブリザードとの対戦を経てから随分とアルテに対してフランクになったものだ。
異変はアルテが二十二勝を達成したその場で発生した。
真っ二つにされた対戦相手を見下ろす漆黒の魔導騎士の前にそいつは現れる。
イルミの気にくわない女ナンバースリ―のレイチェル・クリムゾンだ。
彼女は既に通算六十勝を達成したトーナメントのスーパースター。今は二度目の白の愚者の挑戦権をいつ行使するのかがもっぱらの注目である。
レイチェルは主催者から音声を増大する魔導具を取り上げ漆黒の魔導騎士を指さす。
「太陽の化身、漆黒の魔導人形のアルテよ! ボクはここに宣言する! 白の愚者に挑戦する前にお前とまず闘いたい! よもや逃げはしないだろうな!」
宣言は一方的だった。
目の前で何が起こっているのか理解出来ていない観客たちが言葉を失う。もちろん普段から饒舌ではないアルテとイルミも沈黙を保ったままだ。
しかしレイチェルは何を思ったのかそれを肯定と受け取ったようだった。
「期日は一週間後だ! その時を楽しみにしているぞ!」
トーナメントトップランカーの一人、レイチェル・クリムゾンの突然の宣戦布告。
それはアルテやイルミたちにとっても、また彼らを見守っていた観客たちにとっても波乱を予感させるには十分すぎる出来事だった。
イルミにとってはちょっとばかり鬱陶しい、面倒なイベントである。
レイチェルの宣戦布告を受けて早三日。
俺の魔導人形は度重なる試合のせいか、フルメンテナンスを受けなければならない状況だった。
出来ればレイチェルとの対戦までには目標の通算三十勝近くまで勝ち星を稼いでおきたかったが、どうもそうはいかないようだ。
エンリカ曰くレイチェルと万全に闘いたければその日まで魔導人形を動かすことは控えておいた方がいいらしい。
というわけで随分と暇になってしまった。
イルミやクリスと街をぶらぶらしても良いのだが、最近は俺のことを応援してくれているファンが出来たせいでそれも難しくなった。
正確には、折角出来たファンにイルミが喧嘩を売りまくるので余り出歩きたくない、というのが本音か。
ヘルドマンも多忙なのか余り通信が繋がらなくなってきた。彼女曰くとても重要な案件を相手にしているのでいつでもフリーというわけではないようだ。
「久しぶりに出歩いてみるか……」
工房をうろうろとするのもいい加減に飽きてきたので、俺は久しぶりに昼のシュトラウトランドを歩き回ってみることにした。
口に出してみればこれは中々妙案であることに気づかされる。
昼間ならば太陽を嫌う月の民と顔を合わせることも殆どないため、好き勝手にシュトラウトランドを観察することも出来るのだ。
ついでに何かと喧嘩っ早いイルミを宿に置き去りしても問題ないという、本人に告げれば八つ裂きにされかねないメリットもある。
そうと決まれば行動は早かった。
いよいよ太陽が昇ろうかという街に黄金剣片手に繰り出していく。
久方ぶりのフリーな時間に俺は心躍っていた。
そんなわけで昼のシュトラウトランド。
取りあえず俺は何か面白いものはないか、と街の中心部に位置する広場に来ていた。噴水台が設置されたそこはトーナメントの競技場と並ぶ街のランドマークタワーだ。
ちなみに俺たちが宿泊したり、工房『ドワーフの穴』があるのはバンデンベルク地区で、ここはグローセンハンク地区らしい。
最近購入したシュトラウトランドの地図を見ながら俺は街を徘徊する。
と、その時。
広場の噴水――シュトラウトランドらしくやや小さめの魔導人形の彫刻で彩られたそこに、人影を一つ見つけた。
薄手のローブを着たその姿は、いつかの食事を強請ってきた女に似ていて、少しばかり警戒感が増していく。
だが俺のそんな心配は杞憂に終わった。
人影がこちらを見る。フードの向こう側にあった顔には見覚えがあった。もちろん、あの強請り女ではない。
「何をしてるんだ?」
「それはボクの台詞だ」
特徴的な一人称と勝ち気な面構え。
それはついこの間こちらに宣戦布告してきたレイチェル・クリムゾンその人だった。
 




