第13話 「氷の愚者」5
というわけでブルーブリザード編はこれで終わりです。次回はエピローグを少し。
ブルーブリザードがアルテを蹴り飛ばした。
弱々しいそれはただアルテを引き離すだけに止め、殆どダメージを与えられることはない。
「がはっ! ごほっ!」
腹部が熱い。ぬるりとした赤い血が灼熱の鉄のように熱かった。原因はわかっている。
氷の刃に付着していたアルテの血だ。
忌々しい狂人の血に含まれている太陽の毒が体内に入り込み、その身を焼き尽くしているのだ。
一般的な月の民ならば少々の痛みを感じる程度の毒でも、吸血鬼であるブルーブリザードは地獄のような苦しみを味わうことになる。
「ひさ、久方ぶりだな! この痛みは!」
膝をついたブルーブリザードが血反吐混じりに声を上げる。
彼の思考を支配しているのは一抹の懐かしさだった。
過去に目の前の狂人に敗れたとき、身に走ったのは煉獄の業火だった。ただ一太刀、たった一太刀撫で切りにされただけで実に十数年も活動不能になってしまった。
その痛みが、今感じられる。
耐えようのない痛みが絶え間なく体内を蹂躙するのだ。
「あああああああっっっ!」
蹴り飛ばされ、距離を置かれていたアルテがブルーブリザードに馬乗りになった。
右肘から先を失ったアルテは左腕だけでブルーブリザードの顔面を殴りつける。
一度、二度と殴りつけるたび、叫びを上げていたブルーブリザードが血反吐だけを吐くようになっていった。
「あがっ……」
やがて、アルテの拳からも皮が破れて血を覗かせたとき横から何かに突き飛ばされた。
ブルーブリザードの上から転がり落ちたアルテが視たのは、自分をここにつれてきた少女、ティアナだった。
咄嗟にそちらへ手を伸ばすも、横たわったブルーブリザードを抱きしめた彼女は文言を発動する。
「転移! 座標『 』へ!」
魔の力を全く感知出来ないアルテでも目の前で何が起ころうとしているのか理解した。
逃げられる……!
そう判断したアルテは残された力でティアナとブルーブリザードに飛びかかる。だが数瞬、間に合わない。
気が付けば、氷の回廊を支配していたのは先ほどまでの戦いが嘘のような静寂だった。
一人取り残されたアルテは飛びかかったあとの姿勢のまま、暫く地面に這いつくばっていた。
もう、これ以上は飛べない。
空っぽになってしまった己の魔の力の残量を感じながら、ティアナはふらふらと立ち上がった。
転移した先はアルテと刃を交わした館から少しばかり離れた雪山の頂上付近だった。天から降る雪はなく、月明かりが白い世界を照らしている。
傍らには血を吐き散らし、うめき声を上げるブルーブリザードが横たわっていた。
彼から流れ出る血がじくじくと広がって、雪の地面に赤い波紋を刻んでいる。
「ごほっ!」
狂人との戦いは結果的には敗北だった。
ほんの一瞬の隙を突かれて腹に突き立てられた氷の刃。それを媒介にして流し込まれる太陽の毒が彼の生命を急速な勢いで蝕んでいる。
「主様……」
そっと傷口にティアナは触れた。
吸血鬼ではない、ただの月の民の彼女ですら火傷してしまいそうな猛毒が暴れ回っている。
このまま放置すれば、間違いなく助からない。そんな傷だった。
「……悪夢だと、あれは悪夢だったと信じたかった」
はっ、とブルーブリザードの顔をティアナは覗き見る。
先ほどまで血を吐き続けていたブルーブリザードが言葉らしい言葉を告げた。
朦朧とした意識の中、絞り出すように彼は続けた。
「ただの人間ごときに負けるはずがない。私が下等生物に負けるはずがない。あれは只の悪い夢だと証明したかったのだ」
ティアナは知っている。自分の主が狂人に抱いていた思いを。
彼が悪夢を振り払うために、どれほどまで苦しみ続けていたのかを。
だからこそ、見過ごせなかった。ただ狂人に殺されようとしている己が主を見捨てることなど出来なかった。
アルテを目の前にして恐怖心がなかったと言えば嘘になる。今もまだ、転移直前に見た狂人の姿が忘れられない。
けれども、すんでのところで忠誠心が勝った。ブルーブリザードに対する忠義がティアナの身体を動かしたのだ。
「だが届かなかった。あと一歩、あと一歩のところだったのに勝利は手をすり抜けていったのだ」
ブルーブリザードの両の手が力なく中空をさまよう。逃してしまった勝利を、狂人に対する復讐を探し求めるように、ゆらゆらと血塗れの両の手が動いていた。
ティアナは小さな手でそんなブルーブリザードの両手を握りしめた。
「大丈夫です。まだ機会はあります。復讐を果たす機会ならまだ……」
「駄目だ」
ティアナの必死の励ましもブルーブリザードには届かなかった。彼はもう既に気が付いている。
体内を食い散らかしている太陽の毒がやがて彼の命そのものまで食らい尽くそうとしていることに。
過去に撫で切りされたときとは比べるべくもない、アルテの血液を直々に体内に取り込んでしまったのだ。
その毒の濃度は筆舌に尽くしがたい。
「ああ、何と無念なことか。たとえ万人から七色の愚者と称えられても、たった一人の狂人に私は滅ぼされるのだ」
静かに告げられた言葉はティアナを絶望させるには十分だった。
彼女が敬愛している主人が今まさに死のうとしている。しかも多大なる後悔と無念を孕んで。その内心を察してしまった彼女はまるで自身の身が引き裂かれていくような錯覚を覚えた。
だから両の手をさらに強く握りしめる。
そして涙混じりに叫んだ。
「そんなことはありません! あなたはあの狂人の片腕をもぎました! 次の機会があれば必ずやその五体を滅ぼすでしょう!」
ぽたり、ぽたりと涙が腹の傷に落ちていく。ブルーブリザードは眼球の入っていない眼窩でそれを胡乱げに見た。
ティアナの瞳から流れ落ちる熱い液体。
そしてぽつり、と告げた。
「ああそうか。私の失った瞳はあの狂人の片腕には届いていたのか」
天啓を得たような、この場には似つかわしくない涼しげな声色だった。
真意を測りかねたティアナが一瞬言葉を失う。
「ははっ! これは愉快だ! あれほど悪夢までに見た狂人の腕は私の眼球如きと等価値だったのだ! なんだ! 私は奴に届いていた!」
七色の愚者らしからぬ言葉だった。
傲慢であり不遜であることが許され続ける数少ない存在。それが彼ら七色の愚者だ。全ての吸血鬼の頂点に立ち、人々から畏怖されるであろう存在がたった一人の片腕の犠牲を喜んでいた。
だがティアナはそれを否定しなかった。
常々ブルーブリザードが語っていた狂人アルテとの過去。
そこに込められていた万感の思いをティアナは否定し得なかった。
「……いま思えば、この身だけではなく心まで焼かれていたのか」
ブルーブリザードの呼吸が止まっていく。ティアナはそれを必死につなぎ止めようと何かを叫んだ。
「願わくば、救われぬ狂人にさらなる地獄を」
最期の言葉はそれだった。
呼気が止まる。胸が一番低いところで沈んでしまったブルーブリザードにティアナは泣きわめきながら縋り付いた。
雪山の、生き物一ついない静かな世界に少女の慟哭が延々と響いた。
どれくらいそうしていただろうか。
「なんだ。こんなどうしようもない奴にも涙を流してくれる忠臣はいたのだな」
不意にティアナの泣き声が止まった。
ブルーブリザードの遺体を掻き抱いていた彼女は恐る恐る背後を振り返った。
誰も存在し得ないはずの、ブルーブリザードと自分だけの世界であると信じ切っていた雪山の頂上。そこに轟く第三者の声は嫌に透き通っていて、彼女に悪寒を抱かせるには十分だった。
そして悪寒はすぐさま絶望へと変化する。
「あ、ああ……!!」
ぺたり、と腰が抜けティアナはその場に座り込んでしまう。せめてブルーブリザードの遺体を庇えるような位置を守ったのは彼女の忠誠心の成せる業だった。
それでも、そんな最後の牙城はすぐさま崩壊した。
「まあ私の用事を邪魔しなければいくらでも泣き喚け。それがその男の供養になるのならな。……ああ、そういえばこいつは無神論者か。ならその魂は無に還ったかーー」
一歩、声の主はブルーブリザードの遺体に歩み寄った。三歩、ティアナはそれから逃げるように後ずさった。
七色の愚者の一角であるブルーブリザードの配下だからこそ知っている事実。
過去に一度だけ、たった一度だけ目にしたことがある災禍の化身。
「私が今ここで頂くかのどちらかだな。ええ? ブルーブリザードの忠臣よ」
声の主は女だった。
天頂に輝く月のように透き通った銀髪は腰よりもさらに長く伸び、下手をすれば降り積もった雪にまで届いている。
そしてこちらを見下ろす瞳は彼女が纏っている真紅の魔の力と同じ色だった。
間違いない。
目の前に佇む女はブルーブリザードと同じ七色の愚者の一柱。
ただ一つ違うとすればその格。ブルーブリザードが七色の愚者の第七階層、つまり最下層に位置する吸血鬼だとすれば、目の前の女はーー、
「スカーレットナイト……!!」
やっと絞り出した台詞は果たして、銀髪の女、スカーレットナイトの耳まで届いていた。
そう、彼女こそが七色の愚者、第一階層が一人。
「うん? 何だ。私のことを知っているのか。なら話は早い。ほら、殺されたくなかったらそこに転がっている男の死体を寄こせ。いや、別に穢らわしい全身はいらんよ。ただ、」
言葉だけの脅しの筈だった。実際、スカーレットナイトは何一つとして身体を動かしていない。
もちろん魔の力も行使していない。
だがそれでも、たった一言言葉を発するだけでティアナの身体は鉛を流し込まれてしまったかのように動かなくなってしまった。
「残された魔の力だけ寄こせばそれでいい。あはは、なんて他人想いで優しいのだろうな私は。全世界がひれ伏すほどの慈悲深さだ」
けらけらと軽い足取りでスカーレットナイトはブルーブリザードの遺体に近づいた。呆然と座り込むティアナの横をすり抜け、やがてブルーブリザードの胸元へ手をやる。
そして何気ない動作で、全くの予備動作なく、その心臓を抜き取った。
「ほら、残りの死体は好きにしろ。魔の力の性質自体は肉体にも残されているから、血肉を貪ればお前も冷蔵庫紛いの奇術が使えるようになるぞ。いや、エアコンと言った方が正しいのか?
ううむ、私には違いがわからんな」
意味不明の言葉をぶつぶつ呟きながらスカーレットナイトはその場から立ち去る。その際、一切こちらに振り返ることはなかった。
そしてティアナもスカーレットナイトの気配が完全に消失するまで、指先一つ動かすことが出来なかった。
主を失い、その遺体までも蹂躙された少女は暫くの間、雪山に一人座り込み続けた。
狂人を殺そうと思い至ったのはそれからさらに少し経ってからだった。
ブルーブリザードの遺体からは完全に熱が失われ、縋り付いていた涙もとっくの昔に枯れ果てていた。
徐に、ティアナはブルーブリザードの腹に穿たれた傷に向かって口を付けた。
瞬間、まだ残されていた太陽の毒が喉を焼き、思わず咳き込んだ。
この苦しみに、この人は全身を侵されて殺されたのか。
瞬間、まるで煮えたぎる溶岩のように怒りと憎悪がわき上がってきた。止まるところを知らない負の感情はやがて冷気となってティアナの周りに広がっていく。
口の周りを血で赤く染めた彼女はもう一度傷口に口を付けた。そしてーー、
「ごろ、じで、やる……!!」
爛々と輝く瞳は、ブルーブリザードがそうだったように美しい青色。
焼かれた喉から声を絞り出し、この世界の何処かで今もまだのうのうと生きているであろう狂人に怨嗟を吐き出す。
「ぎざまだけは、ぜっだいにゆるさない!!」
咆哮は雪山の頂を揺るがし、広がっていた雪の世界をさらなる冷気で凍てつかせていく。生前纏っていた数倍の冷気に晒されたブルーブリザードの遺体ですら例外ではなかった。
ティアナは憎悪を糧に己が主を貪っていく。
その日、青色の愚者は確かにその生命を絶たれ、無へと還った。
だがそれを受け継ぐ物が消えた訳ではない。
彼女が二代目のブルーブリザードとしてその名を世界に知らしめるのは、もう暫くあと。




