第120話 「その胸に、嘘の鼓動」
最初、父の背中だとマリアは思った。
何となく負ぶわれていることだけが理解できる。四肢は力なく垂れ下がり、意識はうつろで視界は曖昧なままだ。
ある一定の上下運動が、こちらを背負っている者が歩みを進めていることを教えてくれる。
どうしてこうなったのか思いを馳せようとする。思考もカタコトで、考えは中々纏まらないが、自分がずいぶんな距離を堕ちたことは覚えている。
最後は誰かが落下ししないように、肉の盾になって、下敷きになって、地面に咲いた赤い花になって————
「——————アルテ?」
「気が付いたか。助かった。お陰で死なずに済んだ」
血まみれの狂人がこちらを背負い、歩いていた。覚醒してきた視界で周囲を確認すれば、自分の四肢が切断されていることに気が付く。否、切断されているのではない。再生の途中だから、まだ存在しないのだ。
「むしろ、私が下敷きになったくらいで、落下死しなかったあなたが意味分からないんですけどね。どんだけ頑丈なんですか」
「俺も足が砕けた。だが飛び散ったお前の血潮を啜って、魔の力を取り込み、何とか再生させた」
確かにアルテの歩みも普段のそれに比べれば随分とゆっくりとしたものだ。狂人もそれなりの重傷を負いながら、何とかこちらの血から魔の力を取り込んで、回復させたのだろう。
「魔の力の譲渡を許可したつもりはありませんけれどね。ところでシャリアは見ませんでしたか? 基本的に私から離れるな、と伝えていますが」
「いや、ここに堕ちてきたのは俺たちだけだ。というよりここはどこだ? 塔の内部と言うことはあわかるが、その階層が全く分からない」
どのような物質で構成されているのかも全く見当がつかない、黒塗りの壁が広がる空間。
それが二人のいる場所だった。足下がらせん状に傾斜しており、歩みを続ければ自ずと上部へ登ってくことだけは理解できる。
「わかりません。聖教会の調査報告にこの階層は記載されていませんでした。というか、この塔、やはり普通ではありません。空間がねじれているとしか思えない、滅茶苦茶な構造をしています。私たちが登った高度と、落下した高度の辻褄があわない」
「まさに神のみぞ知る塔だ。皮肉なものだ。バベルの塔は人が神に近づく傲慢の象徴だったのに、この塔は神そのものの振る舞いをしている」
「ん?」
マリアが疑問の声を上げた。アルテが立ち止まる。振り返りこそしないが、こちらに意識を向けてきていることを、マリアは分かっていた。
「えらく饒舌になってません? ちょっと喋ってみてくださいよ」
「どういうことだ。俺は呪いのせいで会話が難しい。脳に負担が掛かるからあまり喋らせてくれるな。ノウレッジくらい読心に長けていれば楽なんだが」
「いや、普通にあなた話せていますよ」
アルテが驚いたように目を見開く。彼はそのまま首筋に手をやり、今だ四肢が揃っていないマリアにチョーカーを捲って見せた。
「吸血鬼に刻まれた傷、どうなっている?」
「————かなり薄くなっている。これは不味いですね。もしかしたら何かしらの作用が働いて、呪いが緩和されているのかも」
「そのとおり。ここはそういう場所だ。マリア次長、あなたの再生が遅いのも、アルテ、お前の呪いが薄れているのも同じ原理だ。というかお前、それなりに思考は回っていたんだな。まあ、当然か。アリアダストリスに見初められる前はただの人だったものな」
声は前方から。
アルテとマリアを塔の下層へとたたき落とした張本人、クリスが螺旋の上層から下りてきていた。
黄金剣を抜いたアルテが問う。
「アキュリスはどうした、クリス。二人で俺を殺しにくればいい」
「奴はイルミたちの方へ向かったよ。最悪あちらは無視していても良いのだが、アキュリスがエリムとどうしても決着を付けたいと言って聞かなかった。まあ、私にとっては好都合なのだが」
クリスがネクロノミコンを開く。マリアがその様子を見て顔を顰めた。
「やめなさい、クリス。連続使用が過ぎます。あなたの魂、随分傷がついてしまっている。それ以上は取り返しのつかないことになりますよ。大体、あなたはヘルドマンに忠誠を誓っていたではありませんが。今更どうして、父の悪巧みなんかにつきあっているんです?」
忠誠、という言葉を聞きクリスは自嘲下に嗤った。
「忠誠は変わりませんよ。まさかとは思いましたが、あなたは本当にご自身の父上の事も、ヘルドマン様の事も、どうしてヘルドマン様の心臓を私があなたの父上に捧げたのかもわかっていないようだ。ヘルドマン様も、マリア次長も……親の心、子知らずだ。……なあ、お父さん?」
ヘルドマン————ユリの父親である俺にクリスは意味ありげに語りかけてくる。
「アルテ、少しだけ話をしないか。先代の黒の愚者と私の密約の話だ。お前の娘であるヘルドマン様と私がどういう関係なのか。そして私がどういう存在なのか、最後まで聞いてくれると嬉しい。その後は煮るでも焼くでも好きにすればいいさ。どうせ私の魔の力はお前には効かない。剣技も適いっこない」
言って、クリスがネクロノミコンに声を流し込んだ。
「『宣誓』 私が虚偽の事実を語ったとき、この本は私の魂を食らい尽くす」
それはクリスが自身の命を賭けた、決して嘘を吐かないという決意表明だった。
01/
自身が何者であるかを知ったのは、ヘルドマン様に拾われてから少し経っての頃だった。
クリスと肩を並べて座り込む。あぐらをかいた俺の膝の上では、相変わらず四肢が生えてこないマリアが子どものようにそこへ腰掛けていた。
「聖教会の道具として使われていた私を拾ったのはヘルドマン様だ。そんなヘルドマン様の育ての親に会えると聞き、私はユーリッヒ家の屋敷に足を運んでいた。そこで出会ったのが先代黒の愚者、ハインリヒ・ヘルドマンだった」
クリスはネクロノミコンを強く抱きしめていた。自身の魂を食らおうとしている呪物を、まるで拠り所のようにして扱っている。
「彼は出会ったときにはもう随分老け込んでいた。効けば権能をヘルドマン様に譲渡したからだとも言っていた。アルテ、お前はどうしてヘルドマン様————ユリとアリアダストリスと袂を分かつことになったか知っているか? 私はその時、ハインリヒに教えられた」
多分それは俺が忘れてしまった記憶のことを言っているのだろう。黙って続きを促していると、クリスはつらつらとその時に得た事実を語り出した。
「神がアリアダストリスを裏切ったんだ。アリアダストリスはもともと神を殺すために利用するつもりでお前を呼び寄せた。神もそれでかまわないとしていた。だがどういうわけかアリアダストリスは心変わりした。心変わりして、お前を愛し、子どもまでもうけた。そしてアリアダストリスは全ての権能を捨て去り、人間として、妻として、人の親として死のうとしていたんだ」
神はたぶん、それが赦せなかったんだと思う。
クリスは塔の上を見上げて続けた。
「太陽の時代の神話に、塔を築き上げた人類を神が罰する下りがある。だがこの世界の神様はそうじゃなかったらしい。神に近づくのをやめ、人としての領分を守ろうとしたアリアダストリスを罰したんだ。どういう手段か知らんが、お前を殺した。殺されたお前を何とか母の元へ連れて行こうとした娘のユリの記憶も奪い、あろうことか母が全ての元凶だという偽りの記憶まで植え付けた。
え、俺って神に殺されてるの? 何で今生きてんの?
俺の困惑を無視してクリスは言葉を重ねた。
「アリアダストリスは怒り狂ったらしい。そりゃそうだ。最愛の夫を殺され、子どもに憎まれるように仕向けられたのだから。だが彼女は力を手放そうとしていても最強の吸血鬼だった。神を欺き、復讐する術を持っていた。どういう原理か、お前を神から認識できないように細工し、生き返らせたんだ。そして記憶を書き換えられた娘はハインリヒに庇護させて、力を付けさせるようにした。その過程で他の愚者達の心臓を喰わせたりもした。手っ取り早く、神に対抗できる力をつけさせようとしたんだ」
だが誤算があった、とクリスは続ける。
「神がお前の存在に気が付いたんだよ。地下都市で神の分霊と交戦しただろ。あれで本体がお前が生きていることに気が付いた。今はまだ、本体は休眠状態だが、それが目覚めるとお前とヘルドマン様、両方がまた殺されることになる。そうなる前に、黄色の愚者の企みを利用して、神を停止させる必要があるんだ」
「とどのつまりあれですか。あなたはアルテとヘルドマンを救うために父上に協力していると。ただ理解できないことが1つあります。どうして彼女の心臓を奪う必要が? 神を停止させるのに必要だとしても、全てをヘルドマンに話し、協力を仰げばよかったでしょうに」
それまで沈黙を保っていたマリアが初めて口を開いた。彼女の四肢はまだ復活しきっていない。もしクリスがここで暴れ出したらどうするつもりなのだろう。
「————それは話そうと思えば話せますが、マリア次長、あなたの出自にも関係することです。それを聞く覚悟はおありですか?」
クリスの視線がマリアを貫く。マリアはそれを正面から受け止め————いや、目をそらした。これは意外だった。てっきり、そんな愚かなことを問うな、くらい言いそうだったのに。
もしかしたら父親に関することはマリアにとって、複雑に絡み合った茨のようなものなのかもしれない。
「覚悟……、そう覚悟ですか。知的好奇心で聞いてはならないと?」
弱々しげなマリアの問いにクリスが答える。
「別に知的好奇心でもかまいませんよ。ただそこに心地の良いものは存在しえない、というだけです。だから覚悟を問うています。どんな結末があろうとも平静を保てますか、と」
好奇心はよく猫を殺しますしね、とクリスは笑った。
なんか込み入った話が始まりそうだし、一回席を外すか。
「待ちなさい。あなたも私と共に聞きなさい。ヘルドマンにも関係のあることです。逃げることは許しませんよ」
両腕のない存在に言葉だけでとっ捕まってしまった。いや、確かにヘルドマンのことはきにはなるけれども、マリアと父親の込み入った話を俺が聞いてもいいのか?
「マリア次長が聞く気ならば、お前も聞いていけ。アルテ。実はお前が神に殺されたあとの後日談がある」
なにそれ。絶対いい話じゃないじゃん。
クリスは俺たちと肩を並べたまま、つらつらと言葉を並べ始めた。流石に魔の力を声として操っているだけあって、玲瓏ないい声だ。
「ヘルドマン様が記憶を書き換えられたのは伝えたろう。それに怒り狂ったアリアダストリスは記憶操作を取り消そうとしたんだ。娘の体をあちこち弄り直してな。ただ、そこでさらに彼女を憤怒させるものが見つかった」
クリスがとん、と自身の胸を叩く。
「心臓に呪いがかけられていたんだ。ヘルドマン様は愚者としての力を捨てようとしたアリアダストリスと、お前の間にできた娘だ。ほとんど人間として生まれ、魔の力はお前とどっこいどっこいの肉体だった。おそらく神はアリアダストリスが再び翻意を返したときのために、保険を仕込んでいたのだろう。次の赤の愚者としてそえる心づもりでもあったのかもな。まあ、その心臓が随分と厄介な代物だったわけだが」
クリスの目がこちらを見た。それは俺の様子や出方を伺っているような眼差しだった。もしかしたら、彼女の中でも、伝えるべきか否か迷っているところがあるのかもしれない。
「不死の呪いだ。肉体がそれこそ原始レベルまでバラバラに砕かれても、いずれは回復し切る強力な呪いだ。死のうと思っても死ねない。そこまで世界の理から外れてしまえば、もうそれは呪いと言っても差し支えないだろう」
腕の中でマリアが息を呑んだのがわかる。あんぽんたんな俺でも、クリスの言わんとすることがどういう意味なのかなんとなくわかってしまった。
「そこから先は多分悪魔の取引でもあったのかもしれない。アリアダストリスと黄色の愚者との間にどんなやり取りがあったのかも私は知らない。ただ、事実として、ヘルドマン様の不死の心臓と、マリア次長のそうではない心臓がどこかで入れ替えられた。そして黄色の愚者は今になって、その取り替えを無かったことにしようとしている。あわよくば神を屠りさってな」
クリスが今度はマリアの胸を一つ、とんと叩いた。
3つ書き溜められたので、三連休で吐き出します。




