第115話 「しかたがないなー、ご主人様は」
まだまだいくよ
「アルテ! アルテ!」
何これクソ痛い。でもわかった。この術式、とんでもない奴だ。
マリアの居場所どころか、彼女の感情まで流れ込んできたように思う。
間違いない。マリアはすぐ近くにいる。
こちらを揺さぶるイルミを制し、ノウレッジに向き直る。まだズキズキと顔の半分に痛みを感じるが、それ以上にノウレッジに伝えなければならないことができたから。
「————ロマリアーナがバベルの塔に辿り着いた。奴らはそこに乗り込んで何かを目論んでいる」
詳細まではわからなかった。だが、マリアが感じた不安、焦り、憤りがこちらに流れ込んできた。彼女の父親は、黄色の愚者はきっとろくでもないことを目論んでいる。
「互いに監視し合う禁忌の術式ですか。よくもまあ、そんなものをそれぞれ刻む気になりましたね。ですがこれは上手く利用すれば切り札にもなり得る。もちろん弱点にも為りかねませんが」
ノウレッジの言うとおり、こちらの目論見や位置はマリアに伝わっているだろう。だがロマリアーナの軍勢がこれまで一切の妨害行為をしていないのが、マリアが積極的に敵対していない証拠だとも思う。
「随分と彼女を買っているのですね。ですが今はあなたのマリアに対する信頼を信用することにしましょう。というわけでお二方、こちらはそのような事情を抱えています。もしも十全のアルテと戦いたいなら、こちらの手を貸して頂けるとことは早いのですが」
おいおい、今殺しに来ていないだけで奇跡なのに、そんな厚かましいことをいうんじゃない。
機嫌を損ねたらこちらに対抗する手段はないんだぞ。
「————私はエリムの決定に従うわ」
しかしながら。
意外なことにティアナは答えをエリムに託した。そしてもう興味は失せたと言わんばかりに食事に集中し始める。短い付き合いながら、彼女がどことなく暖かい食事を喜んでいる様子が見て取れた。
もしかしたらエリムとの旅でそれなりに消耗していたのかも知れない。
「手を貸せ、ときたか。友よ、お前は誰を打ち倒すつもりだ? 敵を違えているのならば、俺はお前をこの場で殺そう」
ふと、イルミの様子を探った。彼女は特に殺気を飛ばしたり、狼を召喚しようともしていなかった。まるで俺の返答がエリムを満足させられることを知っているような、そんな感じ。
いや、普通に俺はビビり散らかしているけどね。ヘルドマンを助けられるのならば、誰とも敵対しないのが一番だろうに。
「敵などいるものか」
お、割と真意に近い一言が出てきた気がする! でもどうだろう。この返答は。エリムのお眼鏡には適ったのだろうか。
「ふん、両腕が使えぬと言うのに随分と大きく出たものだ。だがそれでこそ俺の友だ。黄色の愚者どころか、聖教会とロマリアーナの全てを敵に回すというか」
いや、雑魚ばかりで敵じゃないとかそんな意味じゃないんで。ていうかノウレッジ、絶対この会話の齟齬に気が付いているよね。いちいちニヤニヤしてこっち見るな。
「まあいい。お前の不遜さは嫌いではない。よかろう。黄色の愚者を打ち倒し、黒の愚者に対する懸念が消し飛んだとき、お前と決着をつけるとしよう。この神槍を己の手足とするためには、不足なき相手だろう」
いや、本当強くなったね。君。レストリアブールでつるんでいたときより遙かに今の方が逞しく見えるよ。
ふと、ティアナと目が合う。
彼女の青い瞳がじっとこちらを見ていた。どこかこちらを見透かしてきそうな、深い深い海のような瞳。目を反らすことはできなかった。
「そんなに見つめ合っちゃ嫌」
ずいっ、とイルミの赤い瞳が割り込んでくる。いや、正直助かった。なんか先に目をそらしたら負けみたいな雰囲気が合ったから。
「話はまとまりましたね。では食事を終えたら、一度桟橋に戻り、ケイプロス島に帰還しましょうか。聖教会とロマリアーナの動きは気にはなりますが、一度体勢を整え直す時間が必要でしょう」
あ、そういえば。
とノウレッジがこちらを見る。によによと少し小馬鹿にしたような笑みを貼り付けて、こいつはこう宣った。
「アルテさんの腕、そろそろ治しておきますね」
5秒で両腕が復活した。俺とイルミが空になったスープの器をノウレッジに投げつけたのはほぼ同時だった。その様子を見て、ティアナが呆れたように声を漏らした。
「あんた達、よく似てるわね」
01/
「どうやら目的は達成したようですね。少々ややこしいことになっていそうですが」
ヘルドマンの看病を努めていたγにはそう言われた。ケイプロス島に帰還して直ぐ、禁足地の現状と、これからについてパーティーに共有していたのだ。
「次、日が落ちたらすぐに出発します。食糧などはこのケイプロス島で調達しましょう。私は集落の長にサイクロプス討伐の報を伝えてきます」
「なら私は食糧や物資の調達を行う。ゴリアテがあれば荷物を運びやすいしな」
「私たちもそれについていこうと思います」
レイチェル、そしてハンナを初めとした魔導力学科の一同は物資の補充に出かけて行った。意外だったのはこういうときに面倒くさがりそうなヘインまで大人しくついていったことだ。
「エリム殿、なかなかの凄腕と見受けられる。私に稽古をつけてはくれないだろうか」
ヴォルフガングの要請にエリムは是と応えた。もともと面倒見の良い男である。もしかしたら相性が良いのかも知れない。
「イルミ、ヘルドマンに魔の力を流し込むのを手伝ってくれませんか? 私一人よりも効率が良く、ヘルドマンの容体も安定するでしょう」
γとイルミは引き続きヘルドマンの看病に戻った。確かに彼女達の上質な魔の力を分けられれば、体調も少しはマシになるだろう。
と、なると。
「………………」
ああ、めっちゃこっちを見てる! 青い瞳でじっとこちらを見ている! アルテミスとして活動していたときから、ティアナのこちらを見つめる瞳が怖くてたまらないのだ! 完全に主従関係を植え付けられてしまっている!
しれっと、とくに用事もないがケイプロス島の市場に足を運ぶ。こうすれば一人になれると踏んでのことだ。しかしながらあろうことかティアナは黙ってそれに着いてきた!
「ねえ、この果物、美味しいのかしら」
しかも話しかけてきている!! 嘘でしょ! あなた青の愚者を殺した俺のことが憎くて憎くてしょうがないんでしょ!
「喰ってみればわかる」
ああ! もっとマシな台詞を作り出して! アルテミスの体を返してよう! この子とのディスコミニケーションは即座に凍結(物理)されるんだって!
「それもそうか。おじさん、これ1つ」
ティアナがマンゴーのような果物を1つ手に取り、市場の店主に声を掛けた。彼女は懐から銀貨を一枚取り出して支払おうとするが、店主は見たことのない造形の銀貨を警戒し、受け取ろうとしなかった。たしかにそれは橋上都市のオケアノスで流通していたものだ。ここいらでは使うことができないだろう。
「これでどうだ」
ここで逆転ホームランだ! ノウレッジから貰っていたお小遣い(サイクロプス討伐の報酬とも言う)で華麗に支払いを済ませる。これで直ぐに氷像にされることもないはず。
果物を手にしたティアナがこちらを見やる。彼女は何度か果物とこちらに視線を走らせたあと、それを半分に割って、片方を一口かじった。
「————美味しい。好きな味だわ」
そう言って、こちらにそのままかじりかけを渡してきた。え、これってどういうこと? 喰えってこと?
渡されるままに貰った果物を口に運ぶ。
あ、確かに甘酸っぱくて美味しい————と思ったら突如ティアナの瞳が殺気ばった。
咄嗟にバックステップを踏んだら、加えたままの果物が氷結し、粉々に砕け散っていた。
「渡すほう、間違えたわ。というかあんたもしれっと喰ってんじゃないわよ」
え、何それ理不尽。
ティアナは残された果物の片割れを口にし始めて、それからしばらくの間何も話してはくれなかった。
02/
もうー、しかたないなあ、ご主人様は!
ヘラヘラと笑うあの女が見えた気がした。金だけはそれなりに持っていた馬鹿の顔がどうしてもチラつく。少しでも自分が上位に立てることがあれば、直ぐ調子に乗る馬鹿な眷属だった。
え、くれるんですか! やったー!
こちらの食べかけでも直ぐに尻尾を振るようなプライドのなさ。それが腹立たしくて、でも愛おしかった。凍り付いたこちらの心を溶かし尽くしてしまう、太陽のような女だった。
どうしてあの時、自分は渡すほうを間違えたのだろう。
どうして自分は自然と果物を分けようとしたのだろう。
ティアナは眼前を歩く狂人がわからなかった。この男がアルテミスを殺したことは間違いがない。この男の黄金色の剣がアルテミスを貫く瞬間をはっきりと見ていた。
ずっと殺してやると思っていた。
今この瞬間もその思いは消え失せてはいない。
絶対に勝てないと心が折れていたとしても、アルテミスを思い出す度に仇を取ってやらなければ、という薄暗い感情が沸き上がってくる。
それなのに————。
「あんた、ぼんやりしてたら騎竜車に轢かれるわよ」
狂人の首根っこを掴んで引き留める。驚いたようにこちらに振り返る狂人は何とも毒気に抜かれた顔をしていた。そしてその直ぐ後ろを騎竜車が駆けていく。
まあこいつ、轢かれたぐらいじゃ死なないんだろうけど。
「すまなかった」
なんでそんなすぐに謝るのよ。あんたはただ全てを殺し尽くす狂った男なんでしょ。
仇を取らなければという思いが、男を視ているとどうしても保ち続けることができない。
男の一挙手一投足が気になり、何か世話を焼いてやらねば気が済まなくなっている。
「あんた、まだエリムにやられた傷が痛むの? ちょっと見せてみなさい」
狂人の返答よりも先に、肩を無理矢理引っ掴む。抉り取られていた肩の筋肉と骨は完全に再生しており、ノウレッジの手腕の完璧さが覗える。
「おい、どういうつもりだ」
焦ったように狂人がこちらを引き剥がそうとする。それはまるで、脇腹を抉り取られたアルテミスがこちらを誤魔化す動きとそっくりだった。
ふと、アルテミスが負傷していた腹に手を当てる。
当たり前だが傷はない。
そりゃそうだ。その女とこの男は違う。
どうしてそんな当たり前のことに惑わされるのだろう。
どうしてそんな当たり前のことに悲しくなるのだろう。
どうしてそんな当たり前のことで泣きそうになるのか。
「————どうした。何故泣く?」
ぽろぽろと、氷でない涙が足下を濡らしていく。いやだ、泣きたくない。この男の前では泣きたくない。こんな情けない姿、「あいつ」には見せられない。
「はあ、仕方がない」
意外なことに狂人は溜息をついた。そしてこちらの手を引いたまま、拠点となっていた宿舎へと私を導いていく。
その時、あの能天気なムカつく声が聞こえたような気がした。
もうー、しかたないなあ、ご主人様は!
02/
「お前、猫被りすぎじゃね?」
聖教会とロマリアーナの軍勢達。その幹部クラスに割り当てられた個別の天幕がある。天幕としては決して大きくはないが、備え付けられた調度品は決して安物たちではなかった。
つまり大天幕を与えられるほどの地位ではないが、決して無碍にはされない立場の人間が宿とする場所である。そこには漆黒の法衣姿のクリスと、甲冑姿の人類最強————アキュリスが座していた。
「猫、とは?」
不快感を滲ませながらクリスが問う。アキュリスとのやり取りはそれなりに長い付き合いになっている。隔絶した技能を持つ、化け物のような戦士だが、失言1つで怒り狂うような人間でないことをクリスは理解していた。
だからこそ普段は見せない砕けた調子でクリスは言葉を重ねていく。
「いや、お前そんな良い子ちゃんじゃないだろう。正直、いつ裏切るんだろうな、と俺は楽しみにしているくらいだ。もっとマリア辺りにいらんことを吹き込むと思っていたんだが、そんなそぶりを一切見せないからな。心配になってきた。違う自分を演じ続けるのは体に良くないぞ」
「ふざけたことを。誰もが本当の自分など知らないだろうに。私は私の忠を尽くすだけだ。そのためには黄色の愚者の目論見を完遂する必要がある」
「そこなんだよな。俺はあのおっさんが何考えているのか全く知らねえ。興味もねえ、と格好付けるつもりもない。でも誰も教えてくれねえから、どうしたもんかと思っている」
言外に、黄色の愚者の目的を教えろと言っている。クリスはそう読み取って、どうしたものかと眉間に皺を寄せた。
「————どうした、お前の忠に尽くして考えろよ。それを裏切ることになるのなら別に黙っていてもかまわない。だが、そうでないなら教えてくれ。理屈はシンプルだ」
やはり面倒な奴だ、とクリスは溜息を吐いた。
どこまでもこちらを見透かしてくる様子は、何処かヘルドマンに似ていてクリスは苦手だった。
「黄色の愚者はこの世界のルールを書き換えようとしている。例えば大きな傷を負えば死ぬ、とかそういったルールだ」
「意味わかんねえな。人が死ぬのは自然の摂理だ。ルールも糞もあるかよ」
「あるんだよ、それが。私たちは知覚しにくいが、この世界の摂理は滅茶苦茶になっているんだ。本来、人は魔の力だけで視力を得ることは出来ないし、自分の体1つでは火をおこすことも、ものを切ることもままならない、弱い生き物なんだ。武器を持たなければそれこそ猫にすら負けるくらいには」
「ならなんだ? 本当は人は死なないってか?」
アキュリスの茶化したような声。それに対してクリスはそうだな————、と天井を見上げた。
そしてたっぷり数秒。それはもったいぶるとか、言いにくそうにするとか、そういった類いのものではなかった。ただ思考を何度も巡らして答えを口にする。
「うん、私たちは本当は死なないんだよ。そう、作られているから」
03/
ノウレッジは隠し事をしていた。
サイクロプス討伐の報告に出て、真っ直ぐ宿舎に戻らなかった。
彼はケイプロス島の市場の最奥、小さな小さな路地の突き当たりにある扉の前にいた。
ひとけはない。扉には何一つ文字も刻まれていない。
それどころか、この扉を知覚できる人間は世界に7人しかいなかった。
「————どうやら彼女もずいぶんと焦っているようだ」
扉が開けられる。吸い込まれるようにノウレッジが入っていく。
薄暗い室内はそう広くはない。標準的な宿の一室よりも少し狭いくらいだ。
調度品はテーブルが1つと、椅子が2つ。
テーブルの上では何かしらのガラス器具が火に掛けられている。黒に近い茶色の液体が少しずつ抽出されていた。
「『バラク・オバマ』の中で見つけた。アメリカ海兵隊が最期に飲んでいたものかもしれない。彼らに哀悼の意を示して、アメリカンでいいかな?」
「私はイタリア人の血を引いているはずなので、エスプレッソが好みなんですが…………。まあいいでしょう」
テーブルの向かい側で器具を操作していた人影が「相変わらずだな、」と笑う。彼女はカップ2つにコーヒーを並々と注いで、静かに椅子へと腰掛けた。
「まさかあなた本人からコンタクトがあるとは思いませんでしたよ。しかもγを経由しない、オリジナルが来ているとは。そこまで事態は悪いのですか?」
カップを受け取ったノウレッジは椅子に腰掛けなかった。彼は立ったまま、赤の愚者 アリアダストリスと相対する。
「最悪だ。それこそ猫の手も借りなければもう事態は立ちゆかない。完全に黄色の愚者に出し抜かれた。まさか聖教会のシスターがそうだとは思わなかった。彼女は私と同じルーツの人間だ。故に全てを知っているし、全てにアクセスすることができる」
「アルテと同じ制約ですか? 貴方が知覚できないというのは」
「その通り。私が偽物の神を騙すために適用した制約があのシスターにも生きている。どこで見落としていたのか皆目見当がつかない」
アリアダストリスは、コーヒーの水面を見つめながら小さく息を吐き出した。
「だからノウレッジ、あなたに伝えよう。遙か昔から私と盟約を結びし、盟友である貴方に伝える。そして請う。どうか私たちを助けてはくれないか」
ノウレッジの返事は首肯が1つだった。