第110話 「もう戻れない」
サイレント投稿。
VG110
工房を立つ段取りは随分とあっさり決まった。この町から逃げ出したときのように、騎竜便をいくつも乗り継ぐことになった。自身の魔の力で心臓の代替品を急造したというヘルドマンもγに支えられながら同行することになっている。
「こちら、手前弁当ですがアルテ殿の義手の調整に必要な保守部品が入っております。ゴリアテも細かな調整を施しておきました。レイチェル殿もまたこの町の英雄であります。必ずここへ帰ってきてくださることを期待しておりますぞ」
革の大きな鞄をレイチェルが受け取っている。彼女はそれを手慣れた様子でゴリアテに背負わせた大きな荷台に放り込んだ。ヘルドマンの持つ不思議空間に収納できれば大変便利ではあるのだが、心臓を奪われた彼女はその権能のほぼ全てを失ってしまっている。
「アルテ殿、皆を頼みます。大変過酷な旅路とは思いますが、キスカ殿も帰りを待ち侘びていることでしょう」
いや、それは暫くいいかな。ちょっと過激なファンには懲りたのだ。
イルミちゃんなんて名前聞く度に露骨に不機嫌になるし。
でも帰ってくることは約束するよ。またトーナメントで遊んでみたいし。
「また殺し尽くしてやる」
はいでたー。糞翻訳ボディの呪いです。考え得る限り最悪の回答じゃんよ。コミュ障というよりかただのヤバい奴じゃん。
「ふふっ、どうやらいつもの調子を取り戻されたようですな。重畳重畳。これで安心ですな」
あれ? なんかウケた。なら別に良いか。(いやよくはない)
「さて時間だ。アルテ。出発しようか。イルミも忘れ物はないか? いろいろ荷物に詰め込んでいたようだから、物の管理には気をつけてくれ」
レイチェルの言葉を受けたイルミが首を小さく横に振った。彼女もまた背中に大きな背嚢を抱えている。ここ最近、随分と背が伸びたお陰かそういった旅の服装が似合うようになってきていた。
「問題ないわ。それに私はアルテに着いていくだけ。着の身一つでも何とかしてみせる」
本当に頼もしすぎる相棒である。彼女とならば碌な装備なしでも世界の果てまで歩いて行くことが出来そうだ。
「——そろそろ時間です。ロマリアーナが敵対関係になっている以上、ここから南東に位置するロマリアーナの勢力圏を通ることは適いません。南西のルマセイユに向かうならば少し急ぎましょう。こちらのルートは大変タイトな行程です。田舎町をいくつも経由する都合上、少しばかりの遅延が命取りになります」
しんみりとした出立の雰囲気の中、声を上げたのはγだった。彼女は持ち前の怪力を活かして、ヘルドマンを背負子を使って背中に抱えてくれている。ヘルドマンは少しでも体力を回復させようとしているのか、日差しよけの頭巾と外套を深く被って身動き一つしていない。ただ、規則的な呼吸の音は聞こえているので小康状態ではあるらしい。
「おっと、引き留め過ぎてしまいましたな。ではそろそろ。お達者で」
こうしてシュトラウトランドに二度目のお別れを告げる事になった。前回は東へと向かう騎竜便を乗り継いでいったが、今回はほぼ真逆、南西へ向かう騎竜便に乗り込むことになる。ちなみにこのルートはヘルドマンが指定したものだ。彼女曰く「アテ」を使うにはこのルートを辿る必要があるらしい。
「ルマセイユはこの大陸きっての港湾都市だ。しかも聖教会もロマリアーナも食指を伸ばし切れていない、いわゆる自治都市だな。エンディミオンほどの独立性はないが、ズブズブの支配地域を抜けるよりかは遙かにマシだろう」
騎竜便に揺られること数日。途中、休憩と乗り継ぎを何度も挟んだ。俺たちの旅のナビゲートはレイチェルが買って出てくれていた。こういった行程管理は得意なんだと、彼女は朗らかに笑っていた。彼女曰くルマセイユは一度だけ訪れたことがある場所だという。
「普通に行けばあと2日ばかりで到着する。ヘルドマンも容体は落ち着いているようで何よりだ。いくら延命を続けているとはいえ、心臓が奪われた状態が長く続くことは間違いなく不味いだろう」
「ご心配なく。今の状態でしたら数十年単位で過ごすことが可能です。それよりか、この旅路を聖教会に嗅ぎつけられることを畏れてください」
騎竜便の籠の隅でγに看病されながらヘルドマンが青白い顔でそう嘯いた。この旅を計画し、実行に移しているのはレイチェルの力あってこそだが、実現させているのは彼女の様々な影響力による所も大きい。例えばゴリアテを輸送している都合上、莫大な輸送費を請求され続けたが、ヘルドマンがいつの間にか用意していた銀細工のプレートのような物を提示したら、御者たちは黙って俺たちを運び続けてくれた。ヘルドマン曰く、聖教会の後払い手形のような物らしい。
「まあ、私のものではなくマリア次長の物なんですけどね」
普通に他人の権力をガメているようで、なんだか心配になる。でも逞しいと言えば逞しいのか。
でもこうやって勝手にツケにし続けたらあとが怖い。ていうかマリアはその気になれば俺が何処にいるのか分かるようになっているのだっけ。
ただここまで何のリアクションもない以上、彼女も決して暇ではないのだろう。というかさらりと聖教会の重鎮を担っていたヘルドマンが離脱しているのだが、その辺りはどうなっているのだろうか。
「——わかりません。ですがかの教会の全てが味方でなくなったと考えなければならないでしょう。クリスが離反した以上、何処まで黄色の愚者についているのかわかりませんから。彼女ほどの忠義の者はいなかったのです」
ここまで敢えて明言は避けていたのだが、やはりヘルドマンもクリスのことは気がかりなようである。彼女がクリスについて今もってどう考えているのかは不明だが、少なくはない衝撃は受けているようだ。ただ一つ救いなのはクリスが牙を剥いたのは俺とレイチェル、イルミ、そしてγであってヘルドマンと明確に敵対したかははっきりとわからないことだ。
俺の見間違いでなければ、人類最強がヘルドマンの心臓を奪い取ったことについて苦々しく感じていたように思う。
「恐らくまだ我々が手にしていない重要な情報やそれぞれの思惑が渦巻いているのでしょう。渦中にいる身としてこれほど情けないことはありません。ですが必ず奪い返して見せます。私という、黒の愚者を舐めた代償は必ず払わせるつもりです」
ヘルドマンがクリスについて言及をほとんど避けている今、俺たちが口出しできることは少ない。ただ彼女を無事に禁足地とやらに連れて行くのが俺たちの成すべき事なのだ。
「ま、今はとやかく言っても仕方がない。まだまだ道のりは長いんだ。身体を休めて、英気を養おう」
レイチェルの言葉に異を唱える者は誰もいなかった。隣に座るイルミがこちらに頭を傾けてくる。静かだと思っていたら、どうやら眠りに落ちていたようだ。俺は肩にイルミの重みを乗せたまま、自身も目を固く閉じた。
目を醒ましていれば考えることが余りにも多すぎる。今ばかりは、この嵐の前の静けさばかりはゆっくりと過ごしていたかった。
01/
レイチェルの説明通り、ルマセイユは中規模の港湾都市だった。山が海岸線にかなり迫っている都合上、港湾の際に集落がひしめき合っている。殆ど崖のような斜面に立ち並ぶ石造りの家々はこんな事情がなければゆっくり見て回りたいくらいには興味深いものだった。
「この地形の特性があるからこそ、良質な港ができたと彼は言っていました。言わばここは彼のお気に入りの場所なのです」
ヘルドマンに導かれて、俺たちは港へと真っ直ぐ向かっていく。
どうやら彼女は誰かとの合流を目指しているようだった。そしてその口ぶりから件の人物が誰なのか想像することができる。
おそらく現時点で、俺たちが頼ることの出来る最高戦力だ。
「やあやあ皆さんお揃いですね。まさかこんなに早く再会が叶うとは」
港に停泊する幾つもの大きな船の中で、一際その威容を誇っている帆船があった。よくよく目をこらしてみればエンディミオンの校章が帆に刻まれている。黒い外板で覆われた船体は綺麗に磨き上げられており、海藻やフジツボの類いはほとんど見受けられない。
そしてその帆船の直ぐ側で船員達に指示を飛ばす男こそが我々の切り札。
紫の愚者、パープル・ノウレッジその人だった。
「どうせならもっと互いに健勝の状態でお会いしたかったのですが、成る程成る程。これはかなり重篤ですね」
船の中に備え付けられた医務室。そこでは白い外套に身を包んだノウレッジがヘルドマンの診察を行っていた。彼はヘルドマンの心臓があったところに静かに一撫でする。
「——背後から一撃。まさかあなたからそのような芸当が可能な人物が赤の愚者以外に存在していたとは」
「ふん、赤の愚者ですら四撃は使わせましたよ。アレは、ロマリアーナの人類最強は、変則的な次元跳躍を有していた。それさえなければ」
横になったヘルドマンがノウレッジを睨み付ける。ちなみに彼女は今、上半身に一切の衣服を纏っていない。けれどもノウレッジもヘルドマンも至極当たり前のように会話を続ける。
唯一それに立ち会う俺だけが気まずさに負けて横を向いている形だ。
「ロマリアーナの人類最強ですか。まさかこんな早くに出張ってくるとは。まさしく黄色の愚者も死に物狂いということですね。あなたのお母様——赤の愚者がかの愚者を蔑ろにしたツケだと考えれば皮肉ではありますが」
「あの人が蔑ろにしない人間なんてこの世界に存在しないでしょう。絶対にして孤高。唯我独尊の権化ですよアレは」
それからしばらく。ノウレッジによる診察が暫く続いた。時間にして凡そ十数分。そろそろ居心地が悪くなってきたな、と思い始めたとき、唐突にノウレッジがこちらを見た。
「というわけで久方ぶりですね。アルテミス先生、いや、アルテ。まさかこんなにも早く黒の愚者との関係に辿り着き、しかも再会が叶うなんて、これだから人生というものは予想外で面白い」
こちらこそ、もう暫くは会えない、といった風に別れたものだから完全に予想外でしたよ。よもやヘルドマンが手配した助っ人があなただったとは。
返答は何も出来なかった。呪いによる沈黙があるのみ。けれどもノウレッジはやはり何処か別の次元に生きているのか、すらすらと俺の思考を読み取ってみせる。
「何、この子とは黒の愚者襲名時からよく一緒に悪さをした間柄なんですよ。今回も今回でそのよしみというわけです」
成る程。ところでお一人でここまで? エンディミオンの業務はどうされたのです?
「ああ、アルテミス先生は前期で退職されたのでご存じないのですね。今は丁度長期休業中なんですよ。3ヶ月ほどの長い、長いお休みです。大体の学生や教授はこの期間中に自身の研究を進めたり、現地調査に赴いたりします」
「ちょっと二人とも私が混ざりにくい方法での会話はやめて下さい。ただでさえ体力が底をついているのに、これ以上ストレスを増やされると耐えられません」
おっと、ノウレッジの読心術に頼り切っていたらヘルドマンの小言を頂いてしまった。ノウレッジも「いやあ、そんなつもりはなかったのですけどね」と悪びれもせずに微笑んでいる。ヘルドマンはゆっくりとした動作で下着とシャツを纏うと、静かに横になった。
「——あなた、魔導力学科の学生達も連れてきましたね。私はあなた一人だけで来るように、念を押しましたが」
じろり、とヘルドマンがノウレッジを睨み付ける。ノウレッジは微笑みを貼り付けたまま、今度は気まずげに言葉を返した。
「うちのヘインくん、彼はロマリアーナの王族です。ちょっと彼のコネがなければこの港も船も、聖地への航路も確保できなかったんですよ。で、彼に頼ったらあとは芋づる式に同行希望が増えてしまって、どうやら皆さんイルミさんに会いたかったみたいです」
へえ、彼彼女達もここにきているわけか。少なくない時間面倒を見ていた若者達だ。あとでこっそり会いに行ってみよう。
「あ、あとアルテ。ヴォルフガングくんも来ていますよ。アルテミス先生の仇を取ると意気込んでいました」
おい、それは連れてこなくていいだろう。ええ加減、俺=アルテミスってバラしてやろうか。
「——だめですよ、アルテ。あれは聖教会の秘蔵していたホムンクルスを使った秘中の秘です。もしかしたら私とあなたの切り札になりえるかもしれないもの。アレのからくりに気が付いているのは私とレイチェル、そしてあなただけで十分です」
うぎ、速攻で釘を刺されてしまった。ていうかヘルドマンもできるやん、読心術。
「今のはわかりやすく顔が歪んでいたからですよ。あなたがそこまで露骨に顔を顰めるなんて、相当あの婚姻申し込みが堪えたのですね」
堪えたも何も人生初の告白が野郎からですからね。死ぬほどトラウマになったわ。なんかここにいてもその話題をほじくられそうだから、少しばかり船内を回って割り当てられた自室に戻りましょうかね。ノウレッジが診てくれている間はヘルドマンも大丈夫そうだし。
軽く別れを告げて医務室をあとにする。それなりの大きさの船だが、船内の廊下は随分狭い。多分居住空間を広げるための設計なのだろう。確か甲板はこっちだったか、と角を曲がる。すると随分と大きな人影にばったりと出くわしてしまった。
すいませんね、と廊下の隅によけてすれ違おうとしたら人影にがっちりと肩を掴まれてしまう。
何事か、と伏せていた顔を上げたら見覚えのある強面がそこにはあった。
「——貴様っ、まさかこんなに早く出会えるとはな。ノウレッジ殿についてきて正解だったようだ」
まさかまさかのヴォルフガングくんである。エンディミオン組との初エンカウントがこれって、ほんとクソゲー。
02/
「イルミっちとこんなに早く再会できるなんて思ってなかったー! ノウレッジ先生の校外実習って聞いたときは何事かと思ったけれど、ついてきてよかった!」
出航前の船の甲板。船員達がせわしなく作業をする中、イルミはエンディミオンの面々との再会を果たしていた。ゴリアテを使って荷物の積み込みを手伝っていたレイチェルは「旧交でも温めてゆっくりしているといい」と席を外している。
「まだあれから数ヶ月しか立っていないけれど、また背が伸びたのか? 随分と大人びてきたな」
イルミを視界に入れたハンナとアズナが親しげな声を上げる。 イルミはとくに言葉を発さなかったが、それでも二人には視線をしっかりと向け、ハンナにベタベタと身体を触られても嫌がる素振りは見せなかった。
「ところでイルミっちがここにいるっていうことは、あの人も——」
ハンナの言葉は最後まで続かない。何故なら彼女達の背後、船内から甲板に繋がる木製の扉が破砕音と共に吹き飛んだからだ。すわ、敵襲か、と身構えたアズナだが、イルミはそれも含めて冷めた目線をそちらへと向けた。
「ええ。ここにいるわ」
ヴォルフガングが素早い打撃を叩き込んだかと思えば、アルテが如何なる原理かそれを小脇で受け止めて完全に衝撃を殺してみせる。扉を打ち砕いたのがヴォルフガングの足技だと気が付いたのは、次に繰り出された彼の一撃が甲板の壁面に大穴を開けたからだ。
「すごっ。あの打撃、一つ一つに魔の力が込められている。あんなの当たったらバラバラになるぞ」
アズナの言葉にハンナがぎょっと目を剥いた。じゃあ止めなきゃ、と一歩踏み出そうとするが意外なことにイルミがそれを押しとどめる。
「やめときなさい。死ぬわよ」
それはヴォルフガングだけでなく、アルテの技量も知り尽くしたイルミだからこそ出てきた言葉。彼女は愛しい狂人がどれだけ恐ろしい存在なのか、世界で一番熟知している。
「おい! アルテ! 遊ぶのはそこまでにしろ! その大穴、誰が修理させられると思っているんだ!」
頭上から怒声が飛んだ。見ればゴリアテを操作していたレイチェルが怒り狂っていた。確かにこの惨状、原状復帰をさせられるのはゴリアテを操作することの出来るレイチェルだろう。
アルテはヴォルフガングをいなしながらも、一瞬だけレイチェルに視線を向け———そしてヴォルフガングを投げ飛ばした。丁度正拳突きを引き込んで、その勢いのまま投げたのだ。投擲先は甲板の向こう側、すなわち海。
「おいおいマジか!」
アズナとハンナが慌てて手すりに駆け寄った。月の民にとって海とは魔の力が一切届かない死の世界だ。基本的にこの世界の住人は水中で身体を動かすことが出来ない。例え騎士として修練を積んでいるヴォルフガングでも数分と持たずに溺死するだろう。
「早く助けを!」
「馬鹿! あんたまで溺れ死ぬわよ!」
咄嗟に飛び込もうとしたアズナをハンナが必死に引き留めた。隣で海中を見下ろすイルミも少なからず動揺を見せている。騒ぎを聞きつけた船員達も集い始め、船上は騒然となっていた。
「レイチェル」
「はあ、遊ぶなとは言ったが、余計な手間を増やせとは言ってないぞ」
いつの間にか甲板まで降りてきていたレイチェルが大きな溜息をつく。彼女はゴリアテに甲板に転がっていたロープを持たせると、アルテの背中を割と強めに殴った。
「行ってこい。義手は外せよ。海水は不味いからな」
「ああ。これを三回引いたら引き上げてくれ」
手慣れた様子でレイチェルがアルテから義手を取り外した。アルテもテキパキと該当と上半身に纏っていた衣服を脱いでいく。そしてそれをイルミに手渡すと、ロープをぐるぐると肩に巻き付けて躊躇なく甲板から飛び降りていった。
「おい! あんたそれは!」
アズナが止める間もなく、海面に水しぶきが吹き上がる。港湾とはいえ、船が接岸できるだけの水深がある場所だ。ヴォルフガングどころかアルテの姿も漆黒の水に呑まれて見えなくなっていた。
「静かに。ロープには触れてくれるな。合図が読み取れないといけないからな」
レイチェルが首元のチョーカーに指を添えてじっとゴリアテが持つロープを見つめた。誰もが息を呑む中、無限にも等しい沈黙が周囲に立ちこめる。静かな港湾の波音だけが唯一の音になった。
「来た」
微かにロープが揺れた気がする。ハンナがそう感じたとき、レイチェルが小さく言葉を吐いた。続いて人の数倍の巨躯を誇る魔導人形であるゴリアテが勢いよくロープを引き上げ始めた。
「アルテ!」
果たして水中から引き上げられてきたのは、意識を失ったヴォルフガングを肩に担いだアルテだった。イルミが喜色の籠もった声を掛けると、小さく手を上げて寄越した。彼は甲板まで引き上げられると、数回ヴォルフガングの頬を叩いた。
「うっ、ぐう!」
「流石訓練された軍人だ。呼吸を止めて水を飲まないようにしていた。意識は朦朧としているが直ぐに回復するだろう」
アルテの見立て通り、ヴォルフガングがうなされながらも目を開く。数秒、彼はぼんやりと宙を見上げていた。やがて胡乱げに周囲を見渡し、最後に正面から覗き込んでいたアルテを見定めると——
「せんせいっ!」
思いっきり抱きつこうとして、アルテの足裏の蹴りを顔面で受けることになった。
03/
なんか似たようなことをレストリアブールでやった気がする。あの時は水路に落ちていったエリムを拾いに行ったんだっけか。なんか水難救助のスキルだけどんどん上達しているような。
というか、割とマジギレのレイチェルさんにビビって手元が狂ったのかいけなかった。想像以上の勢いを持ってヴォルフガングくんが吹っ飛んでいったときは血の気が引いた。レイチェルが落ち着いて救助の手筈を整えてくれなかったらテンパってそのまま溺れ死にさせていたかもしれない。
ま、何はともあれ無事救助も終了し、水も飲んでいないから人工呼吸も必要ないかと安心していたつかの間、いきなりこちらに飛びかかってきたものだから、とどめと言わんばかりに蹴りを叩き込んでしまった。
それから。
死にはしないだろうけれども、完全に伸びてしまったヴォルフガングくんを船員達に預けて、俺はレイチェルと二人でぶち壊してしまった船の甲板や壁面を修理していた。
「随分と暴れたな。でも殺さなかったのは偉いぞ。成長したな」
「そう易々と殺したりはしない」
「どうだか。ボクと初めて出会ったときは聖教会の戦闘員を切り捨てたりしてただろう」
あれも殺してないし! 手加減して動けなくしただけだし!
「——ところでアルテ。服はどうした? いい加減体調に差し障るぞ」
大穴に応急処置用の板を張り付けたのと同時、レイチェルが呆れた目線をこちらに寄越した。そういえば対して汚れてもいないのに、「着替えを取ってくるわ」と言ってイルミが持っていってしまってた。
そのことをレイチェルに正直に伝えると、「ああ、」と諦めたような声を上げて「それはしばらく帰ってこないな」と笑った。
「おっと出航したのか。船が動き始めたな。もう、暴れてくれるなよ」
微かに頬に風を感じた。あたりを見渡せば、漆黒の海をかき分けるように船が進み始めている。
「次に帰ってくるのはいつになるのだろうな」
レイチェルが背後に広がる白亜の町並みを眺めていた。俺も自然と彼女の隣に立ってそれらの景色を目に焼き付ける。
「多分もう帰ってこないだろう」
「え?」
ふと口から零れた言葉にレイチェルだけでなく俺自身も驚いた。呪いボディでまともにコミュニケーションの出来ない身体ではあることは確かだが、ここまで意識していなかった言葉が出たのは初めてかもしれない。
「——そっか。まあお前がそう感じるのならそうなのだろうな」
いつか一緒に帰ろうと言ってくれたレイチェルが寂しげに笑っていた。失言をしてしまったことは理解できていても、咄嗟に弁明することも、意図を告げる事もできない。
「修理も終わったし、先に戻るよ。早くイルミから服を取り返せよ」
ゴリアテを待機状態にしたレイチェルが船内へと消えていく。俺はただ一人、少しずつ小さく遠くなっていく陸地をただただ見つめ続けるしかなかった。