第109話 「始動」
次回からお話動かします。
第一に、皮で出来た小さなベルトを腕に巻いた。なるべくきつく巻き付けるのが一つのコツである。次にノウレッジから餞別がわりにもらった注射器を取り出した。使うたびに熱湯に放り込んで消毒しているそれをためらう事なく白い肌に突き刺す。ベルトで締め上げられて浮き出てきた血管から血を一気にイルミは引き抜いた。
鮮やかな赤い液体がガラス管の中に溜まっていく。イルミはそれを一瞥することもなく流作業のように別のフラスコへと流し込んだ。
「——これは血液から魔の力を生成する器具よ。紫の愚者がくれたの。アルテの力を一時的に増幅する薬液になるの」
好奇心に塗れた目でこちらをじっと観察しているエンリカが気になったのか、非常に珍しいことにイルミの方から口を開いた。滅多なことでは(アルテのことを除く)自分からは口を開くことのないイルミらしくない仕草ではあったが、彼女なりにエンリカに対しては恩義を感じている部分があるのかもしれない。
「はあ、さすがは紫の愚者様だと器具の異次元の完成度に感心するべきなのか、それともそんな方と交流を深めていらっしゃるイルミ殿を畏れれば良いのかさっぱりですが、少なくとも常人には到底至りようのない様々な技術や能力の結晶であることはわかりますな」
エンリカは濃縮と精製を繰り返すイルミの血液をじっと眺めた。
「確かに血液には多量の魔の力が含まれておりますが、これだけの純度の高いものを作り上げようとすれば普通、全身の血液を吸い出してもまだ足りぬでしょう。それをイルミ殿はこの細いガラス瓶一本で事足りるという。もちろん紫の愚者様の用意された器具の効能もあるのでしょうが、間違いなくイルミ殿の莫大な魔の力がなければ成り立たないものでしょう」
惜しみないエンリカの賛辞に対してイルミはつまらなさげに、それこそ頬を掌で支え、肘をテーブルについたまま気怠げに答えた。
「こんなもの、姉が化物故の副産物みたいなものよ。お陰様で一生の半分は薄汚い地下牢で暮らす羽目になったしね。まあでも使えるものは有効に使わせてもらうわ。こんなことであの人を手助けできるのならば血なんて微塵も惜しくない」
二本目の注射器をイルミは自身の腕に突き刺した。これ以上は邪魔してはいけないと判断したエンリカがそっと席を外す。イルミはそちらを一瞥することもなく淡々と血を抜き始めた。あっという間に血で満たされた注射器をイルミはそっとテーブルに置いた。
「……、」
赤い瞳が赤い血を見る。込められている魔の力の総量以外は至って平凡な誰にでも流れている普遍の血潮。だが彼女の瞳はその血潮からわずかに滲み出ようとしている銀色の煌めきを見逃さなかった。
「——未精製のくせにもう魔の力が可視化されるなんて」
口にしてしまうとそれはとても恐ろしいことのように思えて、悪寒と共にイルミは口を噤んだ。そして彼女は自身から抜いた血の総量が既に致死量を超えていることにも気がついて静かに小さな体をぎゅっと抱きしめる。
「ダメよ、イルミ。これは誰にも気が付かれてはだめ。あの人と共に生きたいのならば隠し通して見せなさい」
今日一日だけで数えきれないくらい注射器の針を突き刺した左腕。そこには全くと言っていいほど傷跡が残されておらす、初雪のような真っ白な肌が照明に照らされて輝いていた。
回復力が、吸血鬼の呪いなど受けたことがないはずなのに明らかに増してきている。
イルミはもう吐きそうになりながら、姉から贈られた手袋に手を掛けた。魔の力の威力が上がるという触れ込みで受け取ったものだ。基本的にいつでもアルテと共に戦えるように、地下遺跡で巨人と交戦した時からつけっぱなしにしていたもの。
「、うそ」
手袋の下には焼け爛れた掌があった筈だった。ここシュトラウトランドでアルテを魔導人形から引っ張り出した時に受けた、太陽の毒による火傷が刻まれているはずだった。
けれども今確認したそこには、傷一つない美しい掌が存在している。
アルテに刻みつけられた絆のような傷痕は最初から存在しなかったかのように、綺麗さっぱり消失していた。
01/
妥協案は翌々日の模擬戦と言うことになった。レイチェルと二人がかりで何とかキスカを宥め賺した結果だった。
「ありがとうございます! 万全の状態を整えておきますのでよろしくお願いします!」
腰が折れんばかりの礼がどこかムズかゆい。慕ってくれているのは結構だが、行き過ぎるとこれまた中々対処に困るものである。
「良い気分転換の機会だ。全力で叩きつぶしてやれば良い」
トーナメント会場を後にするとき、レイチェルは少しばかり上機嫌だった。恐らく彼女が意図していた通りに事態が動きつつあるからだろう。しかしまあ、とんでもない後輩を抱えているものだ。
「ボクが現役だった時から目はあったんだが、もうあと一つ皮が破れない奴だった。けれどもあの日、ボクを君が天からたたき落としたときから、そして白の愚者を下したときから明確に何かが変わったんだ。それを見て、もうこの街にボクは必要ないことを悟った」
大通りに立ち並ぶ白亜の建造物をレイチェルは感慨深げに眺める。生まれこそサルエレムではあるが、彼女にとってここは間違いなく第二の故郷だ。何かしら想うところ、感じるところはあるのだろう。
「そんな顔をするなよ。ボクは君との旅路を後悔したことなど一度もない。ここに留まっていればもちろんトーナメントの英雄としてのレイチェルクリムゾンを続けられただろうが、それよりかは間違いなく今の人生の方が楽しいさ」
それから、とりとめのない話を続けながら二人して街を歩いた。ただ、最短の帰路ではなくこの街で白の愚者を倒すために過ごしていた毎日を確かめるように、ふらふらと様々なところへと足を進めた。
レイチェルは初めて太陽病を告白した噴水前で、ヘルドマン——ユリについて口を開いた。
「まあ今更かの御仁が君の娘であることにとやかく言うつもりはない。彼女を救うために人類最強とやらが向かったサルエレムに赴くのも賛成だ。様々な要因で頓挫したとはいえ、もともと彼の地を目指していた訳だからな。——ただ一つ。いつか君に心の余裕というものができたら、イルミにもヘルドマンに向けるだけの——いやそれにも勝る愛情を向けてやってくれないか。彼女は今それを欲している。ヘルドマンのことについて何も口にしていないからこそ、彼女が抱く情念を君は汲み取ってやるべきだ」
これまでの旅路でなんとなくわかってきていたこと。それはイルミと俺の関係についてだ。俺が一方的に畏れを抱き、苦手意識を持っていたのは最早過去のこと。ここまでいくつもの死線をともに乗り越えてきたからこそ、二人の中に芽生えているものはある。ただ俺が彼女に抱いているものと、彼女が俺に抱いているものは決して同質ではないだろう。
レイチェルの告げるとおり、俺の勘違いでなければ彼女は——、
「多分いま君が考えていることは自惚れではないよ。何処の世界に好きでもない男にすき好んで血を分け与える子がいる? という話だ。だからこそ君も何かしらを返してやれ。さっきは愛情と言ったが別に女性として無理に愛する必要はない。それこそ君の内心の自由なわけだから。でも、気持ちの大きさは返すべきだ。それだけで彼女はきっと救われる」
いつの間にか噴水に並んで腰掛けていた。東の空から太陽が顔を出し始める。気がつけば夜明け前の黄昏時。黄金色に輝く日の光が二人の足下を侵食しつつある。
人気はほとんどない。あっても既にフードを目深に着込んでしまっていてその顔を窺い知ることは出来ない。ただ、一切の日差し対策なしで座り呆けている俺たちに奇異の目線を向けていることだけは確かだ。
「——綺麗だな。君が力を行使しているとき、周囲には同じ光景が見えているよ」
「ほとんどの人間が忌み嫌っている」
減らず口を叩いたことを一瞬後悔するが、レイチェルは特に気分を害した様子もなく、それどころか少し神妙に、こちらを気遣うように言葉を続けた。
「そうか。よくよく考えれば君もヘルドマンがそれと気がつくまでこの世界で一人だったんだな。この景色を美しいと思える人は誰もいなかったのか」
言われて、確かにそうだと思った。クリスとイルミを助け出すまで俺は一人だった。あの寒村で吸血鬼を殺そうと決意するまで、生きる目的すらなかった。
孤独を感じていたかはどうかはわからないが、それでも端から見たら一人だったことは確かだ。
——うん、レイチェルに気遣われて思い至ったが、たぶん寂しかったのだろう。
この世界は本来俺が生きていてはいけない場所故に。
「すまない。どうやらボクは君が参っている理由を半分くらいしかわかっていなかったみたいだ。うん、やっぱりヘルドマンをとっとと救わなければならない。もとよりそのつもりだが、俄然覚悟が定まってきた」
口調は至って平凡。しかしながらその目線はどこまでも真っ直ぐで美しい。
「帰ろうか。こんな道草などしている場合ではなかった」
陽が完全に登り切った陽光の中、レイチェルに手を引かれた。けれども行きよりも遙かにこちらの足取りは軽く、引っ張られている感じはしない。むしろ、手を繋いで並び歩いていると表現するのが自然なのだろう。
「取り戻そう。全てを」
ドワーフの穴の門を潜るその時、レイチェルが零した声がやけに耳に残った。
02/
翌々日は直ぐにやってくる。模擬専用の魔導人形は完膚なまでに壊れ尽くした俺の黒いそれを、エンリカたちが突貫工事で改修したものだった。
「いやー職人の技量向上のためにちまちまと弄っていたものがこうも役に立つとは。全盛期の半分の出力もありませんが、アルテ殿の技量ならば問題ありますまい」
「最悪、ゴリアテのコアユニットを移植して、ボクと共同で操作するつもりだったが、まさか二日で何とかしてしまうとは……。畏れ入ったよ、エンリカ」
懐かしい悪鬼がそこにある。トーナメントの観客たちには大層不評だったデザインだが、こうしてみれば中々感慨深いものがあるな。まあ、一人では指一本動かせないのだけれど。
「さて、こちらも準備万端か」
トーナメントの地下控え室。エンリカたちが黒い魔導人形に最後の調整を施す傍ら、用意されたスペースの片隅にイルミは立っていた。すでに魔導人形に自身の魔の力を送り込むためのスーツを着込んでいる。奇しくもヘルドマンの戦闘服のような出で立ちだ。
イルミは近づいてきた俺に静かに向き直ってくれる。
「足は引っ張らないわ」
「まさか、一度も疑ったことなどない」
珍しく会話が成立した。その証拠に見間違いでなければ心なしかイルミの機嫌が良くなった気がする。レイチェルも黒の魔導人形の調整を手伝う傍ら、小さく微笑んでいた。
「何というか、いいですな。実にいい」
エンリカが遠慮がちに俺の背中を叩く。彼女もまた、俺に対して一定の信頼というか親愛を感じてくれているのだろう。
「さあ二人とも、そろそろ時間だ。存分に暴れてこい」
以前よりも魔の力というものへの理解が進んだからか、魔導人形を動かす感覚が鋭敏になっていた。例えれば実の肉体を動かすのに近しい。今ならもっと苦戦することなく白の愚者に勝てるかもしれない。
懐かしさすら覚える魔導人形の胎内、足下ではイルミがこちらをじっと見上げていた。
「魔の力は好きなだけ使って。あなたが臨む限り、私が枯れることは絶対にないから」
頼もしすぎる言葉である。今更イルミの魔の力に疑問を感じることなどあるわけがない。愚者にも匹敵——いや、最早青の愚者程度ならば余裕で勝っているだろう。そんな彼女の魔の力を使い放題とか、贅沢にも程がある。
如何なる原理か、魔導人形の重さを悠々と支える昇降用エレベーターが稼働する。石と土で構成されている割には、不可視の障壁など様々な意味不明な技術が注ぎ込まれた競技場が視界一杯に広がった。
歓声と怒声が頭上と周囲から降り注ぐ。そういえばあの時もこんな感じだった。
ふつふつと沸き上がってくる高揚感に身体が震える。
「さあ、行きましょう」
トーナメント開始の合図。オレンジ色の魔導人形が眼前に佇んでいる。向こうが剣を構えた。こちらは可能な限り姿勢を低く保った。加速は一瞬、肉薄は刹那。宙を舞い、地に落ちたのはオレンジ色の魔導人形の首。
しんと静まりかえった競技場の中心で、オレンジの魔導人形が膝をつく。
「——素手で捥ぐなんて、ますますキスカに気に入られそうだな」
聞こえないはずのレイチェルの言葉が頭に思い浮かんで、俺は「あっ」と小さな声を上げ後悔した。
03/
「かんっむっりょっうでした!!」
感無量ときたか。変態の考えていることはわからないな。
試合後、それぞれの魔導人形が運び込まれた「ドワーフの穴」でささやかながら食事会が催されていた。正直ヘルドマンのことが気になって、のんびり飲み食いしている余裕などなかったが、γが少しばかり席を外しておいてください、と俺やレイチェル、イルミを寝室から追い出したのだ。
それならばキスカの相手でもしたらどうだ? とレイチェルに提案され素直に受諾。そして今、とっても後悔している。
「まさか首を素手で捥がれる経験を、魔導人形越しとはいえ体験できるとは。私は果報者です! スタンピングなんてまだまだ序の口であることを思い知らされました!」
そうか、それは多分知らなくて良かった知識じゃないかな? 俺は教えなければ良かったとすごく残念に思ってるよ。
「いや、本当にこの両手で引き裂かれたら私、どうなってしまうんでしょう?」
真っ赤に紅葉した顔と荒い鼻息で両手を取られた。そしてそれがキスカの細い首へと誘導される。うん、どうなるもこうも普通に死ぬんじゃないかな?
あ、義手ちゃんはこうなったとき暴走されると洒落にならないので、エンリカに頼んで一度自立稼働レベルを最低に調整してもらっている。
「ちょっと、離れなさい。あなた何者? 慣れ慣れし過ぎるわ」
イルミがキスカから俺の手をひったくった。彼女も随分と身長が伸びたお陰か、やや年上のキスカと同じくらいの背丈になっている。つまり目線がばっちりと重なり合う体躯というわけだ。いや、マジでイルミちゃん殺気が怖いよう。
「というかレイチェル。なんでこんなの連れてきたの。あなたが任せろ、っていうから好きにさせてあげたのに。聞いていないわよ、こんな変態」
あ、変態って言った。みんな思っていても敢えて明言をさけていたのに。レイチェルもレイチェルで珍しくイルミに返す言葉も無いと言わんばかりに平謝りを繰り返していた。
「いや、これでも実力は確かなんだ。アルテの気付け薬にはこれくらいが丁度良かったのさ」
ちらっ、とイルミがこちらに視線を向ける。その時間僅か数秒。けれども彼女は何かしらの納得をえられたのか、乱雑にキスカの手を振りほどいて言葉を続けた。
「あなた、今後一切ここへの出入り禁止」
いや、それを決めるのはエンリカじゃないかな?
そんな感じでやいのやいの食事会はそれなりに盛り上がっていた。
「ごめんなさい。少しこちらに来て貰えますか」
ふと袖を引かれたかと思えば、いつの間にかγが背後に立っていた。もう今更驚きはしないが、周囲の誰も彼女がこの会場に現れたことに気がついていない。あのイルミですら厳しい視線でキスカを追いかけたままだ。
「構わない。どうした?」
実の所彼女が敵なのか味方なのかまだはっきりとしていない。こちらに協力的だと言うだけで、信じるに値する彼女らの目的や意志をこちらが知らないからだ。ユーリッヒ——ユリの母親である赤の愚者の眷属であることは確かなのだが、赤の愚者の目的も同様に不明の今、無条件の信頼は危険だと感じている。
故にいつでも斬りかかれるように、半身を少しだけ引いて彼女の後を追った。
「——そうやって抜かりないところは貴方の美点でもあり欠点でもありますね。あの人は——アリアダストリス様はそういった気質もいたく気に入っていたようですが」
向かった先はヘルドマンの寝室だ。彼女は相も変わらずベッドの上で浅い呼吸を繰り返している。
「お嬢様の前です。互いに諍いはよしましょう。私の事が信用に値せず、信頼が置けないことは重々承知です。ですが今この時だけは私の話を聞いてもらいたいのです」
γがヘルドマンの横たわるベッドに腰掛けた。俺はその対面から見下ろす形で立つ。
「——端的に申し上げますと、ユーリッヒ・ヘルドマン、いえ有田ユリの心臓が黄色の愚者に奪われました。理由は聖地サルエレムに存在する機械仕掛けの神、デウス・エクス・マキナを起動するためです」
うん。言っていることの半分も分からなかった。心臓が奪われたことは既に本人の口から聞かされている。しかしながら何故奪われたのかは今初めて聞いたように思う。
「デウス・エクス・マキナとはこの世界のテクスチャを今現在のものに強制的に書き換えた災厄の神です。これを起動するにはある資格が必要になります」
言葉尻から察するにそれはどうやら機械らしい。それもとんでもなく力の持った。
けれどまだ何処かピンとこない自分がいる。
「——もう薄々お気づきでしょうが、この世界はあなたが生きていた世界の遙か未来の世界です。あなたの生きていた世界は西暦で言うところの2045年に滅びました。たった一人の人類を残して。この星そのもののテクスチャが書き換えられたために、ほぼ全ての理と生命が滅亡したのです。そして今の世界が新たに生まれました。創世記——ジェネシスが誕生したのです」
やはりそうか、と小さな溜息が漏れた。やはり俺がエンディミオンで見た地下遺跡は想像通りのものだったのだ。γはあっさりと滅亡と言ってのけたが、地下の惨状を鑑みるに壮絶な災厄が世界を覆ったに違いない。
「我々はそうやって滅んだ前の時代を太陽の時代と呼び、新しい世界を月の時代と呼んでいます。そしてデウス・エクス・マキナは、太陽の時代を書き換えた神は、皮肉なことに太陽の時代の人間達が作り出した機械なのです」
何となく資格の意味が分かった気がした。けれども確証が持てない以上、俺はただγの言葉に耳を傾ける。
「何故それが造られたのかは私の口から語ることではないと思うので省きます。ですが機械仕掛けの神を手懐ける資格の詳細だけは伝えさせてください」
γの赤い瞳が俺とユリを交互に見た。彼女は数秒の拍の後、こう口にした。
「太陽の時代、生き残ったただ一人の人類。あなたの妻であり、ユリの母親である彼女の遺伝子情報に起動キーが隠されています。つまり赤の愚者——アリアダストリスと血縁関係にある者のみがそれを継承しているのです」
だから黄色の愚者に狙われました。
γは最後にそう締めくくって見せた。
04/
まて、と声が漏れた。γはなにやら伝えるべき事は伝えきったと言わんばかりの雰囲気を纏ってはいるが、俺はある矛盾点がどうしても気になった。
それはあまり頭の良くない俺でも直ぐに思いつくような、至極簡単な矛盾。
「イルミはどうなる? 彼女もまた赤の愚者と血を分けた人間だろう」
イルミからはっきりと明言されたわけではない。しかしながら彼女をあの地下牢獄から助け出した時の状況、その後の成長ぶり、さまざまな人物の言葉から鑑みるに、彼女は十中八九赤の愚者の血縁者だ。γの言い分が正しいのならば、赤の愚者と血縁関係にあるイルミにも資格十分ということになる。
しかもこう言ってはなんだが、黒の愚者として覚醒し次元跳躍すら手に入れたユリを相手どるよりもまだ、イルミの方が下手人たちにとってどうこうしやすかっただろう。
「確かにイルミに資格がないわけではないです。彼女も起動だけならば可能でしょう。ですが、彼女にはテクスチャを、世界を書き換えるだけの権限がないのです」
ぐいっとγが距離を詰めてきた。彼女の手が俺のまだ生身の腕を掴む。細身からは考えられないほど込められた力に驚き、少しばかり後ずさった。
「あなたと赤の愚者の遺伝子が混じり合ったものが、もっとも世界を書き換えるにたる資格を有するのです。それは機械仕掛けの神が造られた経緯に由来するのですが——」
「やめなさい。γ。これ以上父を、父さんを困らせないで」
声に思わず振り返る。いつの間にかベッドから身を起こしたヘルドマンがγを睨み付けていた。
「心臓を奪われたのは私の不徳の致すところです。アルテは関係ありません。これ以上、いらぬ事を吹き込んでアルテを巻き込むようならあなたと一戦交えることも吝かでは——」
言って、崩れ落ちそうになる。だが彼女は俺が手を伸ばすよりも先にもう一度両の腕で踏ん張り直し、こちらを見据えた。
「私は私の力で心臓を取り戻す。アテもあります。クリスが離反したのは予想外ですが、私は黒の愚者、ブラックウィドウを襲名している身です。黄色の愚者を見事下して見せましょう」
ただし、と彼女はこちらにそっと視線を向けた。
「ここまで愚者を討ち続けている『狂人アルテ』よ。あなたに依頼を申しつけます。『私を手助けなさい。私を救うのではないのです。手伝いなさい』 報酬はそうですね——。依頼成功の暁には」
初めて出会ったときのことを思い出す。傲慢不遜でこちらを品定めする瞳。だが不思議とそこに嫌悪感はなく、頼もしさすら感じる強者の余裕。俺が全幅の信頼を置き、愚直に依頼をこなしてもいいと思わせてくれた彼女が帰ってきていた。
「これから未来永劫、父として慕い続けてあげますよ。それまではいったんお預けです。聖教会お雇いの吸血鬼ハンターとして精々頑張りなさいな」
茶目っ気たっぷりのその笑顔はまさしく、俺に赤の吸血鬼殺しを依頼したときのものと同じ色を帯びていた。
次も頑張ります。