第10話 「氷の愚者」2
今回は勘違い殆どなし。次回への布石ですん。
視界がゆっくりと開けていく。
ティアナという少女に抱きつかれていた腰の温もりはとっくの昔に消え、代わりに身体の芯まで凍り付かさんばかりの冷気が周囲に満ちていた。
ゆっくりと深呼吸を一つ。
手にしていた黄金剣を中段に構えてゆっくりと周囲を見渡した。
「氷の壁か」
思わず口をついて出てきたのはこんな台詞だった。
背後から強襲し、俺を何処かに転移させた少女の姿は見えない。ただ辺り一面を覆い尽くす白銀の氷が存在していた。
壁の向こう側に見える石造りの壁から、城か大きな館のようなものの中に転移してきたことが窺えた。
ふと、何処かで扉が開く音がした。
見れば、五十メートルほど前方に、これもまた氷で覆われた大きな扉が開け放たれていた。
中からは白い冷気がこちらに向かって流れてきている。
……間違いない。これは誘われているのだろう。
誰に、とは愚問だ。
そんなことわかりきっている。
ただイルミとクリスの二人と離れ離れになってしまったのは戦略的観点から見てもあまりよろしくない。
前回、七色の愚者 第七階層「ブルーブリザード」と戦ったときは、その相性の良さから圧倒することができた。
だが今回も同じ、という保証はどこにもない。
こうしてわざわざ俺を誘い込むような真似をしている時点で、それなりの自信があるのだろう。
それでも悲観するほど戦力差があるとも思わなかった。
ヘルドマンと相対したときのような、七色の愚者の第三階層である彼女と向かい合ったときのような圧力が感じられないのだ。
コツン、と前に一歩踏み出したら、予想以上に音が響いた。
その時初めて、自分が回廊のような場所に立っていることに気がついた。
氷で覆われた絶対零度の回廊。
この先に待ち受ける愚者を求めて、俺は再び足を進めた。
所々が雪の白さで覆われた岩山で、クリスの声が響き渡る。
「『誓約、そこから動くな!』」
「むっ!」
漆黒の甲冑を身に纏った男、アキュリスの動きが一瞬だけ止まる。
その瞬間を見越していたかのように、イルミから解き放たれた二匹の狼が躍りかかった。
巨大な乳白色の牙がそれぞれ左肩と右肩に食い込む。
「ほう! 声を使い対象を使役させるのか! なかなかおもしろいぞ!」
しかしイルミとクリス、二人がかりの拘束が保たれたのは時間にしてほんの数秒だった。アキュリスが少しばかり全身に力を込めると、無理矢理と言わんばかりにクリスの声、そしてイルミの狼をふりほどいたのだ。
「なんて馬鹿力だ! 『私よ、避けろ!』」
ふりほどいた勢いで、アキュリスがクリスに突進する。
それは先ほどアルテに奇襲を仕掛けたときと寸分違わない速度だった。咄嗟に回避の不可を悟ったクリスは、声の力の対象を自分に指定した。
「やるな貴様!」
「ふん! 褒めても何もやらんぞ!」
物理法則を無視したような動きで突進を回避して見せたクリスに、アキュリスが感嘆の声を上げる。だが彼に悠長な時間は残されていなかった。
すぐさま背後から二匹の狼が大口を開けて彼を飲み込まんとしていたのだ。
「ちっ!」
舌打ちをしたのはイルミだった。
見れば二匹の狼はそれぞれアキュリスの片腕によって動きを止められていた。ちょうど顎下を掴み取るような動きだった。
「おっと、これでも獣との戦い方には慣れているのでね。だが貴様はおもしろいな。ハンターでもない人間の身体をしてその魔の力の保有量。
あの狂人が連れ回しているのも納得できるぞ」
二匹の狼とアキュリス、純粋な力勝負の我慢比べが始まった。だが圧倒的に有利だったのはアキュリスだった。
すぐさま二匹の狼は力負けし、左右に放り投げられてしまう。
「しかし悲しいかな。絶望的なまでに脇が甘い」
先ほどまでクリスとイルミの技量に感嘆していた声色から一変、まるで弱者を見下すかのように冷たい声色が放たれた。
それと同時、放り投げられた使い魔に気を取られていたイルミの腹部に、アキュリスの蹴りが突き刺さる。
「ごふっ」
小さな口から血の混じった胃液を吐き出して、イルミが吹き飛ばされる。
彼女はむき出しの岩場を何度かバウンドしたあと、薄く積もった雪の上に叩きつけられて動かなくなった。
主からの指令が途切れた二匹の狼も目に見えて動きが鈍る。
「くそっ!」
その様子を見て焦りを覚えたクリスが斬りかかる。
しかしこれまでの攻防で痛んでいた支給品の剣は、アキュリスの漆黒の甲冑によって阻まれ、そして真ん中から砕けるように折れた。
「命運尽きたな!」
その隙を見逃してくれるほど、アキュリスは甘くない。すぐさま甲冑の手甲を槍のようにクリスへ射出する。
彼女はその一撃を、折れた剣の柄でぎりぎり弾いた。
「だが悪運はある! 『誓約! 止まれ!』」
「練られた魔の力が弱いわ!」
アキュリスの動きが一刹那だけ鈍る。しかし停止までには至らない。
追撃として繰り出された一撃が、再びクリスに向かう。防ぐ暇もない彼女はそれを胸板で直に受け止めてしまった。
倒れたままのイルミのすぐ近くまで、彼女は吹き飛び、転がっていく。
「ふん、こちらの手甲が一瞬阻害されたことによって致命傷は避けたか。だがそれもいつまで持つ?」
詰まらなさそうにアキュリスは鼻を鳴らす。
見ればクリスは胸元に嵌めたプレートで何とか一命を取り留めていた。だが折れた肋骨が肺に刺さっているのか、大量の血を吐き出して起き上がることが出来ない。
まだまだ闘争が続くと期待していたアキュリスはあからさまに落胆した様子を見せた。
「あの狂人と共にするからにはそれなりの実力者だと踏んでいたが、ただ異能に頼りっきりの弱者ではないか。これは名乗るまでもなかったな」
血に染まった雪を踏みしめてアキュリスがクリスに歩み寄る。
対するクリスは這いずるようイルミに覆い被さり、アキュリスから庇うような姿勢を取った。
それが気にくわなかったのか、アキュリスはクリスの脇腹を蹴り上げて仰向けに転がして見せた。
そして告げる。
「私の期待を裏切った罪に対する罪状を言い渡そう。……貴様らの首などいらん。ここで潔く死ね」
鋭利な爪がついた手甲が振り上げられる。
止めを指すためだけの、絶望の瞬間。
クリスはそれを胡乱な、濁った瞳で見上げてーー、
口端を歪めて嗤った。
扉を抜けた先、そこにいたのは館の主ではなく、先ほどこちらに抱きついてきていた少女だった。
臨戦態勢を整え、覚悟を決めて踏み込んだものだから、何処か拍子抜けしてしまう。
いや、別に目の前の少女……ティアナを舐めているわけではないが。
「あいつは何処にいる?」
だからといっていつまでも相手をしている余裕はない。
誘い込まれてしまった以上、何処からブルーブリザードが仕掛けてくるのかはわからないのだ。
ティエラはこちらをじっと見つめること数秒、ようやっと口を開いた。
「あなたは馬鹿なのかそれとも本当に頭がぶっ飛んでいるのかわからないわ。私たちの主をあいつ呼ばわりする人間なんて、この世界には殆ど存在しない。
少なくとも私が知る限りでは」
確かにブルーブリザードは七色の愚者としては最下位であるけれども、一定の信仰は確かに月の民の間に広がっている。
だがそれは月の民に限られた話だ。
もとの世界で様々な神話に触れ、なおかつ神という存在を主観的に知覚し得なかった現代日本人の俺にはおよそ持ち得ない感覚なのだ。
ただの滅茶苦茶強い吸血鬼。
その認識は俺の冒険欲を満たしてくれるただのスパイスに過ぎない。
「とても不愉快だからばらばらにして殺してやりたいけれども、さらに不愉快なことにその力は私にはない。
だからこうして溜飲を下げることにするわ。
ーーおいでください。私たちの素晴らしき主様よ。この不敬な輩に氷の地獄を持って残酷な死を」
風が三度吹く。
丁度俺とティアナの間に冷気の渦が発生した。
やがてそれは青色の透き通った魔の力となり、視認することの出来る密度を易々と通り越していく。
何処か懐かしいその雰囲気を肌でひりひりと感じながら、俺は剣をそっと構えた。
声が一つだけ世界に響く。
「待ちわびたぞ。我が仇敵よ」
遙か昔に聞いたその声は、氷の刃を伴ってこちらに飛来した。
理解が遅れたのはアキュリスだった。
クリスが意味不明な笑みを浮かべたのと同時、振り上げた手甲を動かすことが出来ないことに気が付いた。
見れば主が倒され、動きが鈍り、完全に怖じ気づいていた二匹の狼が再び食らいついてきていたのだ。
最後の悪あがきか、と狼を振りほどく動作に入る。しかしながら甲冑に喰い込んだ顎門は外れない。
「んん?」
異変はそれだけでは終わらない。
どういうことか、ともう一度クリスに視線を戻してみれば彼女はこちらを見上げたまま、口を動かしていた。
だが声が聞き取れない。
いや、正確には何を告げているのかまったく理解が出来なかった。
「『:@ywe ted:9 qed94 e.n』」
静かに、淡々と文言が告げられる。聞いたこともない言語によるクリスの言葉。
けれどもそれが、彼女の異能によるものであるということだけは理解できた。
その行為をやめさせようと身体を、狼に食らいつかれたままでも動かそうとする。が、数ミリたりとも身を捩ることが出来ない。
「……なんだこれは?」
先ほどとは桁違いのパワーを誇る狼たちにアキュリスは困惑を隠せないでいた。
意外なことに彼の疑問に答えたのは地に倒れ込んだままのクリスだった。
胡乱だった筈の瞳には再び光が宿り、こちらを嘲笑するように見つめてきている。
「防衛システム、さ。私ともう一人しか封印を解くことが出来ない特別製のね」
がりっ、と何かが砕ける音が聞こえた。
それがアキュリスの纏った甲冑から聞こえてくる音だと、その場にいる全員が知っていた。
狼の顎から加えられる圧力はさらに増し、アキュリスの四肢を押しつぶしていく。
「この子の姉がとても心配性でね。私がこちらの世界に連れ出す前に、この子の影に縫い付けてしまったのさ。
引き剥がすことなんてとてもじゃないけれど不可能だった。だから力を制限して封印することにしたんだ。
……知ってるか? 封印する前は半径五十メートル以内の生き物全部を食べちまう食いしん坊だったんだ。
無制限状態のこれに近づいて無事だったのは封印を施した私と、同じ化け物のアルテだけだ」
一拍、血の混じった息を吸い込んで告げる。
「悪いな。最初からお前とは正々堂々と戦うつもりはなかったんだ。
遅かれ早かれ、こいつの封印を解いてとっとと片付ける予定だった。
まあ、私がここまで痛めつけられるのは想定外だったけれども」
アキュリスの肉体を狼はむさぼり食っていく。
ばりばりと骨を囓るように甲冑を噛み砕いていた。
「……一つ問おう」
捕食され続ける男の声は不思議なほどに落ち着いていた。もっと怒りの言葉を吐き出すかと予想していたクリスは驚きを隠せないままアキュリスを見上げる。
「この狼を作ったのはそこに転がる小娘の姉だと言った。奇遇なことに、私もそういった式に精通する人物を知っている。
それと小娘が名乗った『ファンタジスタ』という家名。
もしやその人物はあのお方ではあるまいな?」
すぐにはクリスは答えなかった。
ただアキュリスが食らい尽くされる寸前、やっと絞り出すように彼女は答えた。
「……そうでなければ私がこの子を連れ出すことは不可能だろう」
そうか、とアキュリスは天を仰いだ。
最早身体の殆どの部位は残されていない。
ただ二つの足だけは奇跡的に無事だったため、こうして空を見上げることが出来る。
「どうやらここまでのようだ。お前たちを侮った私の負けだな」
不思議な感覚だった。
奇襲までして、こちらに刃を向けてきた男の言葉とは思えなかった。
もしかしたらこちらが本来の性分なのかもしれない。
ブルーブリザードに命令され、アルテだけを連れ出すための捨て石だったのだろう。
そう考えると、こうして不意打ち気味に狼に喰われていくアキュリスが少しだけ不憫に思えた。
「だが我らが主は必ずやあの狂人を下すだろう。これだけは如何ともしがたい、燦然たる事実だ」
そう言い放ち、アキュリスは完全に食らい尽くされる。
飢えた狼の牙がこちらへ向かってくる前に、クリスは再び封印を起動した。
「『:@ywe c4x qed94 e.n』」
クリスの声と同時、狼たちの挙動が目に見えて大人しくなる。そして時間を置かずに二匹はイルミの影に吸い込まれていった。
「『宣誓、我らを治癒せよ』」
さらに異能を行使する。言葉の力をイルミと自身に適用し、治癒力を高めた。
これで完全回復とはいかずとも、少なくとも動けるようになるまで二人は回復するはずだ。
肉体はただの少女であるイルミに対しては気休めかもしれないが、吸血鬼ハンターの頑丈な肉体を持つクリスには効果てきめんだった。
「さて、少し休んだらまた登ろうか」
誰に話しかけるでもなく、クリスは寝転がったまま視線を天頂にやった。
するとアキュリスが最期に見たであろう蒼い月が今日も輝いていた。
 




