第106話 「今は雌伏の時」
黄色の愚者編スタートです。
こんな世の中なので少しでも皆さんに楽しんで頂けるよう頑張ります。
VG106
オリジナルとはどういうことだ、とレイチェルがγに詰め寄ったとき、不意にイルミが空を見上げた。続けてγも同じ方向に視線を向けたことで、レイチェルも自ずとそちらの方角を見る。
くる、と呟いたのはイルミとγのどちらだったのだろうか。
レイチェルが視界に捉えたのは赤い流星だった。
「——本当にどこまでも自分勝手で、傲慢不遜で、馬鹿な人」
イルミの冷め切った声が屋上に響き渡る。それと同時、感触を一切感じさせることがない赤い不可思議な衝撃波が屋上に広がった。そして周囲に満ちあふれる圧倒的な魔の力。
血のような赤い魔の力を見て、レイチェルは自身の全身が凍り付く感覚を覚えていた。
「まさか四体目が目覚めているとは。イレギュラーではあるけれども幸運と捉えるべきか」
「その様子だと、αは力尽き、死んだのですね」
「ええ。私にこの子を託した後、終了したわ。βと共にサルエレムに最も近い地点で再起動を掛けているところ」
銀色の髪がたなびいている。レイチェルはそれの姿を眼にしたことはなかったが、その正体を違えることはない。月の民にとって絶対的な不可侵の象徴で、最強の吸血鬼で、天災の権化であり、七色の愚者の頂点に君臨する存在を間違えることなどあり得ない。
「あなたの感情は何? αは博愛をβは憤怒を与えた。おそらくあなたはストックから魂を供給されているはず」
「——憎悪、ですよ。あなたが『こんな筈じゃなかった』と思い続けた感情から出来ています。後悔とも言えるかもしれませんね」
その怪物は嘆息をした。そんな人間らしい行動を取るのかと、レイチェルは抗いがたい吐き気と寒気に苛まれながら言葉を失っている。
「なら早速だけど役割を与えるわ。……この子をお願い。どうかアルテの元に無事に届けて欲しい」
その時初めて、本当の世界最強が誰かを抱きかかえていることに気がついた。意識を失っているのか四肢は力なく垂れ下がっている。死人のように青白くなっているその人はレイチェルがよく知る人物だった。
「ああ、お労しやお嬢様。わたくしどもは間に合わなかったのですね」
「外部から受けたクラッキングで私とαを繋いでいたバイパスが強制的に切断された。αが敵性防壁の解除に成功したとき、もうこうなっていたわ。生きてはいるけれど非常に状態が悪い。20年ほど前と同等か、それ以上」
淡々と告げられる言葉。レイチェルは振るえる視線を何とかその人物へと固定した。見れば胸に大穴が空いており、それが致命傷たり得ているように見えた。
「届けたあとは如何様に?」
「本当は許されないことだけれども、アルテをサルエレムに連れて行って欲しい」
「——驚きました。てっきりあなたは旦那様を遠ざけてから、ご自身で黄色を討つと思っておりましたから」
「黄色はこの世界で唯一私が殺せない愚者。その他の有象無象は今すぐにでも塵に還してやれるけれども、アレだけはどうしようもない」
「ならば正しく鬼札である旦那様を当てるのですね」
「ええ、こうなることを想定していたわけではないけれども、どのみち神殺しのためには避けては通れないから。その為に、私はここまで生きてきた。黄色の愚者討伐は完全な寄り道になるけれども、あの人の糧に間違いなくなる。それにこの子を、ユリを救えるのはおそらくあの人だけ」
いいえ、とγが首を横に振った。
「奥様と旦那様が手を取り合ってこそもとの鞘に収まると思いますよ。今は決して交わらぬ道でも、いつかは重なり合うでしょう」
「馬鹿ね、今は互いに平行線。永遠にその時はこないわ」
「おや? そんな道理を曲げてこられた旦那様だからこそ、あなたは伴侶に選ばれたのだと思いますが」
もう一度、赤い人影は溜息をついた。
「無駄話に興じすぎたわ。私は私で今から懸念材料を排除しに行く。この肉体はもう間もなく朽ち果てるだろうから、次はもしかしたらあなたのを間借りするかも」
「どうぞご贔屓に」
瞬間、赤と銀の女はその場で跳んだ。たったそれだけの動作でかの人影はレイチェルたちの目の前から消失していく。
残された三人は互いに顔を見合わせた。
「ね、自分勝手でしょ」
「ですがここまでお嬢様を運んで頂いたのは僥倖です。これならばやりようはあります」
何事もなかったかのようにイルミとγが口を開いた。一人取り残されたレイチェルはこめかみを押さえながら「ちょっと待て」と小さく叫ぶ。
「何が起こっているのかさっぱりだ。だがまず最初に、このヘルドマンは無事なのか? 見たところ致命傷だ。アルテの所につれていくにしても、向こうはクリスとやり合ってるんだぞ」
レイチェルは屋上に寝かされたヘルドマンの手を取った。やはり見た目通りと言うべきか、氷のように冷たくなっている。だが浅いながらも呼吸は繰り返されており、ぎりぎり生きてはいるという状態は伺い知れた。
「さすがお嬢様と言うべきか、魔の力を体内に循環させることで最低限の生命維持を実行されています。決して佳い状態とは言えませんが、まだ望みは失われてはいません」
γがヘルドマンの力なき手を取りながらそう評する。どこまで信じていいのか判断の尽きづらい状況ではあったが、今この時ばかりは彼女の言葉を否定することも難しかった。
「——今からアルテの方に斥候を出すわ。もし合流できそうなら速やかに合流しましょう。彼の判断を仰がないと……。それにこれ以上クリスが邪魔立てしてくるなら燃やし尽くしてやるわ」
静かだが確かな怒りだとレイチェルは感じた。突如として現れたγに赤の愚者、そして瀕死のヘルドマンと気が狂いそうな要素に満ちあふれてはいるが、妹分のいつもの調子に少しばかり安心感を覚える。
「まさか君の短気に救われるときがくるとはな」
イルミの使役するオオカミの内の一頭が屋上から恐るべきスピードでアルテがいる方向へと駆けていった。残りの一頭は三人の中心に寝かされているヘルドマンの周りを心配そうにぐるぐると回っている。
「……もうすぐ夜明けだ。なるべく急いだ方が良いな」
レイチェルはそっとゴリアテを使役して横たわるヘルドマンを抱きかかえた。あれだけ不遜で絶対的だった女が、今こうしてみれば幼い少女のようにも見えるものだから妙な気持ちだ。
アルテが一人で立ちすくんでいると三人が知ることになったのは、それから凡そ幾分も立たないうちだった。
三人は茫然自失としている彼を連れて、一度身を休めることのできる場所を探すことになった。
01/
この世界でいつの間にか生きていた。
黄金色に輝く剣を一つだけ持って、訳のわからない平原に一人立っていた。
暫くは途方に暮れながらもそれとなしに生きていた。自分が思ったとおりに喋ることができないことも、人より身体が頑丈なこともその過程で知った。けれども生きる目標というものはなかなか見つからないままで、本当に惰性で生命活動を続ける毎日。
死ぬ勇気がないから自死だけはしていないという、そんな状況だった。
「——おっと、あなたは吸血鬼ハンターさんかな。仕事がないのならば私の護衛をつとめてくれよ」
若い行商人の女だった。名を名乗られたが、今となってはもう覚えていない。しかしながら小さな村の酒場でだらだらと過ごしていた俺に声を掛けてくれた人という意味では忘れようがない。
「ハンター? なんだそれは」
今よりも相当ぶっきらぼうだっただろうに、女はからからと笑って「その首の傷、吸血鬼に噛まれた跡だろう? それでいまこうして生きているんだから呪いの恩恵を受けているんだろう」と俺の身体の頑丈さの理由を言い当てていた。
首に何かしらの傷があることには当初から気がついていたが、それがまさか吸血鬼というファンタジーの化身のものだとは思わなかったが。
あとはもう殆ど流れのようなものだった。幾ばくかの賃金を貰い、行商人の女を隣町に送り届けた。途中、何かしらの危機が起こることもなく、ただ二人で森の街道を進んだだけだ。
だが女はそれだけで大層喜んでくれた。
「凄みっていうのかな。あんたが近くにいると魔獣も野盗も近寄ってこないねえ。酒場で避けられていたあんたに声を掛けたのは正解みたいだった。また、帰りも頼むよ」
村の酒場よりも幾分か大きい食事処で女はけらけらと笑っていた。確かに見渡せば他の客たちは俺たちを遠巻きに見守っていて、こちらに近寄ろうとはしない。そしてその視線は無造作に立てかけられている黄金剣に向けられていた。
「みんなあんたのなりが怖いのさ。でもそれがこうして人助けに役立っている。結構なことじゃないか」
帰り道もまた、何事もなかった。たいした出来事もないままに彼女をもとの村に送り届けてから、俺はふらふらと他の町に仕事を探しに行った。それは別れ際に彼女が言った「ありがとう。助かったよ」という言葉に後押しをされて。
「いいんじゃないか。人助け、むいていると思うよ」
目標というたいそれたものではないが、生きていく欲求というものは見つけられたのかもしれなかった。これまでのはっきりとした記憶すら持ち合わせていない俺だけれども、頑張れば誰かの助けになることを知れたことが嬉しかったから。
それから暫く、様々な村や町で吸血鬼ハンターとしての仕事を請け負うようになった。本物の吸血鬼に出会うことは中々なかったけれども、黄金剣と呪いで付与された筋力でゴリ押しをしていたら殆ど何とかなった。
いや、何とかならなかったことも多々あったけれども取り敢えずはそれなりに逞しく生きていたと思う。
「そういえば」
あの行商人の村はどうなったのか、とある日気になった。野良で活動していたら聖教会から声を掛けられた頃だった。一言くらいあの村のあの行商人に礼を言っても良いのかも知れない。名前すら忘れてしまっているけれど、顔や仕草、そして受けた恩は覚えていた。
黄金剣と簡単な旅の荷物だけを背負って、随分と遠いところまで来てしまった道のりを辿り戻っていく。思いたってから数週間は掛かってしまったが、最後にはそこへ行き着くことができた。
ただし、村は焼け落ちて跡形もなくなくなっていたが。
「——あなたはこの辺のハンターでしょうか? 失礼ながら聖教会に登録は?」
神父らしい男に声を掛けられる。彼は聖教会の部下たちを率いて、燃え尽きた村の残骸を調べて回っていた。俺は声を掛けられただけでまだ登録はしていないことを素直に告げた。
「そうですか。ならあなたに干渉する権利がないのでそう強くは言いませんが今すぐこの地を離れなさい。ここ最近、青の愚者と呼ばれる強大な吸血鬼が周辺を跋扈しているのです。恐らくここはその吸血鬼の食料にされました。凍り付いてミイラ化した死体がその証拠です」
言われて、ふらふらと村の中央に積み上げられた人の山に近づいた。死体を眼にすることがそう珍しい世界ではなかったので、今更忌避感は抱かない。
けれども死体の山の中で無造作に転がされた、彼女だったものを見つけたときは言い様もない感情に支配されていくのを自覚できた。
「——名前、覚えておくべきだったか」
「は?」
俺のあとについていた神父が呆けたような声を上げる。俺はそんな神父の横を足早に通り抜けて村を後にすることにした。
頭の中はたった一つの言葉が渦巻いている。
——殺さなきゃ。
02/
「青の愚者を巡る狂人との因縁か。難儀なものだな。お前と狂人の縁というものは」
「青の愚者様は狂人に敗れたことを悔いていた。でも一つ不思議なことがある。いくら狂人が狂ったような力を持っていたとしても、何故青の愚者様を傷つけることができたのか。あの人はただの人に傷つけられるほど弱くはなかったはず」
日が昇りきった頃、エリムとティアナの二人は岩場に掘り起こした横穴の中で身を休めていた。ティアナが愚者としての力を行使し掘削した穴で太陽の光を凌いでいる形だ。
本来ならばこの時間は睡眠に充てるべきなのだろうがどちらからともなく口を開いていた。
「青の愚者は愚者の中でも最下層だったときく。ならばイシュタルを殺して見せたあの男ならば手は届いたのではないか」
一瞬、失言だったかとエリムは考えた。だがティアナは氷の槍を作ることなく、静かに言葉を続けた。
「例えそうだとしてもそれは本当に奇跡的な出来事が起こらなければありえないことだわ。——陰謀論だと笑ってもいいのだけれど、私は誰かが手引きしたのじゃないかと考えている。青の愚者は常々言っておられたから。『アレはただの人の枠を一瞬だが超えて見せた。遙かに格上の愚者を相手取ったときのような動きをして見せたのだ』って。私、今ならその言葉の意味がわかるかも」
「それは紫の愚者の教えか?」
ティアナは小さく頷いて見せた。
「ごく一部の吸血鬼の使用に限られるのだけれど、自身が刻んだ呪いを縁にして、一時的に力を人間に分け与える術式があるそうよ。もしかしたら狂人はその術式をもって太陽の力を手にしたのかも知れない。そしてそれを並外れた実力者が行使したのだとしたら一時的な恩恵が恒久的なものに変質しても驚きはしないわ」
なら青の愚者と狂人の対決を手引きした者は決まったも同然だな。
エリムはそう言いかけて結局は口を噤んだ。何故ならティアナは最初からその結論に辿り着いていただろうから。なればこそ、彼女は狂人と正面からやり合う愚を今こうして避けているのだ。
聡い女だ、とエリムは嘆息する。
それと同時、哀れな女だとも。誰かの無念や思いを果たすためだけに生きているこの女には全てが終わったとき、一体何が残されているのだろうか、と暗鬱とした気分になった。
「同情したら殺すから」
ティアナの青い目がこちらを見ていた。エリムは黙って首を振る。そして本当に聡すぎるな、と背を向けて横になった。
「——お前も休め。日没が始まり次第東に移動する。そろそろ我々人類の生存圏を逸したところに手が届く。余計な雑念はお前の身を滅ぼすぞ」
返答はなかった。ただ衣擦れの様子からティアナも少し離れた所で横になった気配を感じ取る。
二人の奇妙な無言の時間は、淡々と過ぎていった。
03/
有り金の八割以上をはたいて、大型の騎竜便を五つ貸し切った。従者たちにも幾分か金品を握らせて運んでいるものを口外しないように言い含める。一騎はパーティーメンバーが乗り込み、残り四騎でゴリアテを牽引した。向かう先はカラブリアからシュトラウトランド。
レイチェルがパーティーに加わった地だ。
「サルエレムに向かう前に一度エンリカにゴリアテ、そして君の義手を見て貰うべきだろう。一度そこで戦力を整えるべきだ。適うならばヘルドマンもそこで療養したい」
レイチェルの提案に異を唱える人物は誰もいなかった。ヘルドマンが担ぎ込まれてから極端に口数が減ったアルテ。もともと緘黙気味でアルテが絡まなければ何も言わないイルミ、そして生死の淵を彷徨っているヘルドマン、新規加入のγが他のメンバーとなれば当然のことだった。
凡そ四五日の旅程をこなし一行はシュトラウトランド入りを果たす。
既に聖教会からの指名手配も解かれているとあって、騎竜発着場の関所を訪れても特にお咎めはなかった。ただ、白の愚者を害した悪評はそのままのようで道行く人々の態度ばかりは素っ気ないものが殆どではあったが。
「——ようこそいらっしゃいましたな! 伝書鳩経由でお話は伺っていましたが皆さん壮健なようでエンリカは嬉しゅうございます!」
工房も、エンリカの人懐っこい笑みもそのままだった。白の愚者殺害の嫌疑が掛けられたときは殆ど逃げ出すように後にしたものだから殆ど挨拶も礼もできていなかったというのに、彼女は温かく一行を工房へと招いていた。
「むっ、こちらが手紙にもあった黒の愚者さまですか。酷く衰弱されている様子ですな。すぐに湯を沸かし食事を用意しましょう。皆さんもお疲れのようですから是非とも休んでいってください」
「ありがとう、エンリカ。暫く世話になるよ。ボクのゴリアテとアルテの義手も少しばかり見てくれると助かる。取り敢えずはこれで足りるか?」
金はマリアから吸血鬼討伐の報酬として受け取っていたものの残りだった。エンリカは「もらいすぎですぞ」と一度固辞はしたものの、「まだまだ頼みたいことがあるんだ。ゴリアテの追加武装にアルテの義手への機能追加とあげていけばキリが無い」というレイチェルの言葉に渋々受け取ってみせた。
「皆さんは私にとって様々な夢を見せてくださった大恩ある方々。気が済むまでゆっくりしていって下さい!」
エンリカの言葉にレイチェルは少しばかり疲れたように笑った。
多分レイチェルは進んで貧乏くじを引いていくタイプ。