第105話 「いざ新たなる禁足地へ」
VG105
剣を持つ腕が宙を舞った。
市中のど真ん中で彼女は天を見上げて荒い息を吐き出す。
「反則だな、本当に。これだけ魔の力を込めているというのに、動き一つ止められないとは。宣誓『我が肉体よ、右腕は最初から存在しない』」
クリスは止血の術式を自身の腕に掛ける。切断面はそのままだというのに、如何なる原理か出血がぴたりと止まった。
『我が主との実力差を理解したのならばとっとと降参しなさい。次はその首を刎ね飛ばしますよ』
義手ちゃんがとても物騒なことを告げる。でもそれは脅しなどではない。命令もしていないのに独断でクリスの腕を切り飛ばしたのは他ならぬ彼女だからだ。
「あと三合が限界か。これ以上やり合えば間違いなく死ぬな。私は」
クリスが残された手でネクロノミコンを構える。台詞とは裏腹にその瞳にはまだ闘志が宿っている。彼女が何かしらの使命を帯びているのは間違いないようだ。
「——教えてくれ。何故今更こんなことをする? 事情を話せば協力できることもあるだろう」
今日は呪いが弱い良い日だった。二人への謝罪といい、思ったことをそのまま口にすることができている。
このまま行けばもしかしたら交渉の余地が残されているかもしれない。
「事情、か。確かに何も伝えないままというのは不義理か。誰にも口止めされていない以上、話すも黙るも私の自由、というわけだ」
やはりクリスは行動こそ変化すれども、その人柄は変わっていないように見受けられる。彼女は一つ嘆息すると改めてこちらを視線に捉えた。
「もともと私は教会から人間扱いされていなかった。それどころかロマリアーナとの共同財産の扱いだった。このネクロノミコンも、ロマリアーナの調査隊が東側で見つけた聖遺物の一つだ」
野次馬が増えてきている。彼らは突如として始まった市中での殺し合いを興味深そうに見ていた人物たちだ。数が増え続けていることもあり、完全に俺たちを取り囲みつつある。
「そんな中、私に人間性を与えて下さったのがヘルドマン様なわけだが、それ以前の主たる雇い主も一応は存在しているわけだ」
これでクリスに遁走される可能性はある程度減らすことができた。ヘルドマンと連絡がつくまで何とか彼女をこの場に押しとどめておかねばならない。
「まあその雇い主が今の黄色の愚者なんだが、ヘルドマン様にお仕えしているうちにすっかりと忘れていたよ」
ここで出てくる愚者の名ほど嫌なものはない。名も、性別も、その能力も一切が不明な謎の吸血鬼。ロマリアーナを居住地としていることくらいしかこちらに手持ちの情報はない。
「そんな有り難くない元雇い主からつい最近連絡があってな、『神の末端が目覚めたから、お前もお前の役目を果たせ』と。応えてやる義理は正直なかったんだが、ヘルドマン様の名を出されれば断ることはできなかった」
ああ、別に許しを請うための言い訳ではないよ、とクリスは投げやりに笑う。
『ぐだぐだと御託はいい。黒の愚者の何がお前を裏切りへと進ませたのだ』
短気極まりない義手の恫喝。でも正直なところ、俺の本音も同じだった。雇い主が替われど、行動原理が変わっていないのならば、ヘルドマンが関係する何かがクリスを突き動かしているということ。
しかも口ぶりから察するに相当良くないことが起こっている気がする。
「裏切り、か。確かにそうかもな。でも私は裏切ってなどいないさ。最初から最後まで忠を尽くす、それだけだ」
「——おい、いい加減喋りすぎだ。こちらの用は済んだ。とっととずらかるぞ」
それに反応することが出来たのは殆ど本能みたいなものだった。青の、白の、緑の、紫の、そして黒の愚者たちとの関わりの中で培ってきたあらゆる戦闘勘が正しく発動してくれたことの恩恵。
背後に割り込ませた黄金剣がなければ俺の胴体は真っ二つに両断されていただろう。
「マジか。娘といいお前といい出鱈目すぎんだろ。やっぱあの強さはお前からの遺伝か」
黒い、甲冑だった。背丈は俺とほぼ同じ。手にしているのは鈍色に光る大剣が一つ。全身を装甲で覆われているせいか表情を伺うことは出来ず、声も何かしらの術式で加工されているのか酷く違和感を覚えさせる不可思議なもの。
「何を語り何を黙るかは私の自由だ。邪魔をするな、アキュリス」
クリスの声色がいたく棘のあるものにかわった。彼女は不快感を隠すそぶりすら見せず、足元に転がっていた自身の右腕を拾い上げている。
「確かにそれは自由だ。俺も異存はない。だが時間は有限だろう? それともこいつを腐らせても構わないのか? 早いところ術式で処理しねえと機能が停止しちまう」
言って、アキュリスと呼ばれた男がどこからともなく四角い瓶を取り出した。今、何もない空間から出現したように見えたが、何かしらの能力だろうか。
クリスの目の色が目に見えて変化する。
それこそ「裏切られた」かのように驚愕と怒りに染まりきっていた。
「——っ、お前、約束が違うだろう。心臓はお前の能力で気がつかれずに抜き取る手筈だったはずだ! 何故、無理矢理引きちぎったかのように血の臭いを纏っている!」
ネクロノミコンの輝きが増し、クリスの殺意が明確にアキュリスへと向けられた。ともすれば今すぐにでも掴みかからんばかりの剣幕。
対するアキュリスは驚くべき事に素直に頭を下げていた。口ぶりや実力からしてそう人にへりくだるような人物には見えなかったが俺の見込み違いなのだろうか。
「こればっかりはすまなかったと言うほかない。彼女から気がつかれずに能力を行使するのは不可能だった。ありったけ焚き付けて、冷静さを失わせて初めて同じ土俵に立てた。流石は黒の愚者、アリアダストリスの姫だ」
ふと視線が瓶の中を捉えた。何かが動いている。実物は何度か見たことがある。というか、一度触ったこともある。アレは間違いなく人類の最重要臓器の一つである心臓で——、
「まさか殺したのか!?」
クリスが身構える。俺は下段に構えていた黄金剣を握りしめた。
「いいや、多分生きている。それは約束を果たした。ヘルドマンはただ瀕死なだけだ」
——殺そうと思った。
この世界に来て久しぶりに誰かを真剣に殺そうと思った。
そう感じさせたのはたぶん、青の愚者以来。
「っ」
何か術式を行使しようとしていたクリスの前に割って入った。剣は既に上段。アキュリスは眼下。振り下ろした剣の刃が黒い甲冑に触れる。そしてそれと同時。この身体が持ちうるありったけの太陽の力を流し込んだ。
「アルテ!」
唐竹割り。
真っ二つになった人体が左右に分かれて地に倒れた。傷口から煙が吹き出しているせいか、血は一切流れていない。
間違いなく即死の一撃。縦に切り分けられて無事な人類などこの世に存在していてはならない。
それこそ不死のマリアクラスの規格外でない限りは。
「——素晴らしい剣の技だ。一切反応できなかった。油断はしていなかったのに。こうなるだろうと予想もしていたのに。いつかここではないところでドブネズミと称したことを謝罪させて欲しい。やはりあなたはあなただけがある。私が目指すべき頂点の一角として礼節を尽くしたい」
どことなくそんな予感はしていた。人の命を奪ったという根源的な忌避感が感じられなかったせいだ。この感覚の時は殆どの場合、相手を殺せていないとき。
けれどもこう、完璧な無傷で居座られたのは初めてのこと。
切り捨てたはずの姿が、いつの間にか五体満足のまま、また別の所に立っている。
「私はサルエレムであなたのことを待っている。そこでもう一度、剣を合わせられれば望外の喜び。そこのクリスも同じくしてそこで待っている」
見ればいつの間にかクリスの姿が消えていた。蜃気楼と言わんばかりの、霞のように影も形もなくなっている。
そして視線をアキュリスに戻せば、それもまた一切の痕跡を残さないままに世界から消失していた。
『主様、お気になされぬよう。あなた様の技は完璧でした』
「でも殺せていない。それでは無意味だ」
詰まらない八つ当たりを義手にしてしまう。手にしていた黄金剣を怒りのまま地面に突き刺した。遠巻きに見ていた野次馬たちが一斉に逃げ出していく。
「——ヘルドマン、今どこにいる。応えろ」
縋るように指輪へ声を掛ける。いつもならば数秒以内に返ってくるあの理知的な声が一切聞こえない。
「おい、ユリ、どうした。何があった。赤の愚者に挑戦しにいったんじゃなかったのか」
応答は一切ない。ただアキュリスの手にしていた瓶から漂っていた、どことなく俺自身に似ている血の臭いが残滓として周囲に残っていた。
目の前が真っ暗になった。
01/
目が覚めた。不意に自失していたことを自覚したイルミはその不快感から思わず顔を顰めていた。
「——! 良かった、目が覚めたのですね!」
不意に飛び込んできたのは姉と似たような顔をした女。だがこれが姉であって姉でないことをイルミは知っている。
「あなたたちが私に顔を見せるなんて相当珍しいわね。私を地下牢に縛り付けたとき以来かしら」
こちらを覗き込むγを眼にしてもイルミは動揺を見せない。視線を周囲に巡らせてみれば、今自分が何処かの建物の屋上にいることを窺い知ることができた。少し離れた所ではレイチェルがゴリアテと共に周囲の状況を伺っている。
「イルミリアストリアス、落ち着いて聞いて下さい。クリスが裏切りました。今、アルテが彼女の足止めを担っています」
そう、とイルミはγの言葉に頷きを返す。クリスよりもアルテの方が格上だと信じ切っている彼女はさしたる動揺は見せない。ただ、クリスが裏切ったという事実に対しては素直に疑問を示す。
「あの人はドがつくほど馬鹿正直な人だわ。裏切るなんて相当の理由がなければありえない」
「理由は不明だが、ボクと君に自失の呪いを掛けたのは事実だ。他ならぬクリスがそれを認めていたよ」
いつの間にかこちらに歩みを進めていたレイチェルがイルミを見下ろしていた。彼女は二人の横に腰を下ろすと「本当に不可思議だ」と頭を掻いた。
「クリスはここにいる赤の眷属を殺そうとしていた。そして君の意識を奪うことに何かしらの意味を感じているみたいだった。今わかるのはそれだけだ」
「——なら直接問いただすまで。アルテの加勢に向かうわ」
同感だ、とレイチェルもイルミの言葉に同意を示す。イルミが意識を取り戻した以上、クリスから逃げ続ける理由は殆ど残されていない。唯一の懸念材料はいつの間にかアルテとともにいたγという女のみ。
「ただ先にこちらをはっきりさせよう。γ、といったか。お前は何者だ」
不意にゴリアテがγの背後に立つ。警戒させるフリをして、レイチェルが密かに配置していたのだ。イルミもまた二匹のオオカミを召喚してゴリアテと挟み込むようにγを取り囲んだ。
「レストリアブールで一度ボクは赤の眷属を見かけている。アレはさすが世界最強の眷属と言うべきかとんでもない戦闘力をもつ化け物だった。だがお前は不思議とそこらの人間よりも少し上の力しか感じられない。姿形こそほぼ同じだが本当にお前は赤の眷属か?」
レイチェルはγのことを信頼はしていなかった。アルテと共にいたことから即座に敵というわけではないだろうが、それでも無条件の味方であるとは微塵も考えていない。何よりγの人間に近すぎるその雰囲気に違和感を覚えていた。
「眷属かそうでないか、と問われればわたくしは眷属であると申し上げるほかりません。ただ、他の眷属に比べて戦闘力が備わっていないのもまた事実。αのようなブーストも、βのような破壊力も持ち合わせていないので。そもそも目覚めることを想定されていなかったイレギュラーが私なのです」
γの口ぶりにレイチェルとイルミは同じ疑問を抱いた。そしてそれを口にしたのはやはりと言うべきかレイチェルだった。
「まてまて、お前のその言い方だとお前たちは不特定多数存在していて、それが眠りについており必要に応じて目覚めていると言うことになるが、本当なのかそれは」
「だからそう申し上げました。わたくしどもは『2億3021万4321体』存在しており、それぞれがこの世界各地で眠りについております。ですが、同時に意識があるのは3体までと決まっていて、わたくしのように4体目が目覚めることは本来あってはならないのです」
クリスの呪いは解けたがまた吐き戻しそうだと、レイチェルは目眩を覚えた。イルミも同じ感想なのか目を見開いたまま固まっている。ただ意識ははっきりしており「うそ、馬鹿みたい……」と妙な呟きを漏らしていた。
「——いやその話はおかしいだろう」
痛むこめかみを押さえつつレイチェルが口を開く。滅茶苦茶な事実を突きつけられてなお、彼女はある違和感を見逃さなかった。
「一体目と二体目はボクがレストリアブールで見たものだろう。だが二体目の個体はアルテによって殺されているはずだ。ならその三体までしか存在できず、四体目のお前がイレギュラーというルールはおかしくないか? 二体目が欠番になっている以上、今目覚めているお前は三体目だろう」
自身の台詞に頭がおかしくなりそうだったがγの言動に含まれている矛盾をレイチェルはそのままにはできなかった。不測の事態が生じている以上、どんな些細な情報でも丁寧に拾っていかなければならないと考えているからこそ。
「いいえ? 私は四体目ですよ。一体目のαは存命ですし、βは肉体こそ失いましたが意識だけは既に覚醒しています」
なるほど、と納得しかけたが「いいやまて」とレイチェルは口を挟んだ。
「ならやはりお前は三体目じゃないか。何も言っていることが解決していない。αと呼ばれる個体、βと呼ばれる個体、そしてγと呼ばれるお前。併せて三人ならばルールに抵触していないじゃないか」
言われて、γは「ああ」と相づちを打った。そして彼女にはあまり似つかわしくない、少しばかり周囲を小馬鹿にしたような声色でこういった。
「だってα、β、γはコピーの個体につけられる記号じゃないですか。オリジナルのことを忘れていますよ」
オリジナル? とレイチェルが反復する。γの視線が徐にイルミに向けられた。
「オリジナルのイルミリアストリアス・A・ファンタジスタがこうして活動しているじゃないですか。彼女から数えたらイルミ、α、β、γになって私が四体目というわけなのです。——何も間違えてはいないでしょう?」
03/
サルエレムに行くぞ、とエリムは口にした。
二人して仕留めた獣を解体し、その肉をたき火に焼べていたときのこと。会話こそ殆どなく、ただそれぞれ栄養補給につとめていたその最中にエリムは口を開いていた。
「サルエレムってあのサルエレム? 禁足地じゃない。気でも触れたのなら今すぐにでもとどめを刺してあげるけれども」
辛らつな言葉を投げつけるのは向かい側に腰を下ろしているティアナだ。彼女の蒼い瞳は氷のように冷たいままエリムを睨み付けている。
「——狂人について考えていたのだ。あれは太陽の毒を自在に操る術を有している。あれだけの力、常時身を焼く苦痛を伴うものだが、それをどのように手に入れたのかふと気になってな……」
「誰も言わないけれど、太陽の毒を克服した吸血鬼なんてこの世界にはたった一人。そいつから呪いを受けたのでしょうよ。口にするのも憚られる災厄の化身から生まれたのがあの男よ」
だとしてもだ、とエリムは言葉を続けた。
「なればその力の本流はどこにある? あの狂人に力を授けたのがかの天災ならば、その天災はどこで産声をあげた? 神をも凌駕しかねないその絶対の力の由来はどこだ? まさか太陽の毒に満ちあふれている禁足地が無関係であるということなどあるのか?」
そう言われて全てを否定できるだけの知識を、考えをティアナは持ち合わせていなかった。
もともと口減らしで殺され掛けた社会の最下層に位置していた人間だ。決して教養があるわけでも、頭が回るわけでもない。
「それに、俺がいた暗殺教団にずっと言い伝えられていることがあった。かの禁足地にはその太陽の毒を我がものにする神槍があるのだと。もしそれが本当ならば、かの狂人相手に振るう武器として不足はあるまい」
狂人に対抗しうる得物がある。
そう言われれば積極的に反対する動機が消失していた。どうせ槍を振るうのは目の前の男なのだと思い至ったティアナは「あっそ」と短く言葉を返す。そしてこう付け加えた。
「なら早いところそちらに向かうわよ。なんかね、ちょっと嫌な予感がするの。私の眷属が焼き殺されたときも同じような感覚があった。私は私の勘なんて信じてはいないけれども、この不快な感じは決して無視できないから」
言って、彼女は胸元のペンダントを強く強く握りしめていた。もう温もりも殆ど残されていない抜け殻のようなペンダントを。
次回、黄色の愚者編
これで黒の愚者編はお終いです。
次回は黄色の愚者編になります。またぼちぼち更新していきますのでよろしくお願いします。