第103話 「裏切り」
パーティー会議が始まった。出席メンバーは俺とイルミ、そしてレイチェルだ。もちろん忘れてはいけない義手ちゃんもちゃっかり参加している。
『私は主様がご健勝のようで安心しました。念願の黒の愚者の首を刈り取るということで出しゃばってはならないと大人しくしていましたが、その他の有象無象の排除、是非ともお任せ下さい』
開幕早々物騒すぎる右腕である。いや、まあでもこれまで助けられてきたのは紛れもない事実なので決して邪険にはできないのだけれども。
「で、だ。君とクリスは何かしらの結論を抱いて納得したのかもしれないが、ボクとイルミはあの黒の愚者との戦いの中で何が判明して何がわからずじまいなのかいまいち想像がつかない。もちろん説明してくれるんだろうな?」
対面に腰掛けたレイチェルが徐に口を開く。イルミも言葉こそ発してはいないが、その赤い瞳が同意の意を語ってくれていた。
たぶん彼女も色々と気にはなっているのだろう。
さて。
正直なところ、俺は今まで自分の身の上を誰かに語ったことは殆どない。それは呪いの制約の所為というのもあるが、異世界から転移してきて吸血鬼に襲われてしまいました、などという荒唐無稽なお話を大真面目に語る気がしなかったというのも大きい。
それで誰かが助けてくれる訳じゃないというのも正直なところだったし。
しかも記憶がきっちりと保持されているのはここ十数年ほどのことで、それ以前——つまり転移直後の記憶は酷くあやふやなモノだ。
てっきり呪いのせいかと決めつけていてが、ヘルドマンとの答え合わせでそれが凡そ誤りであることも察しがついた。
それはつまり、今なら忌憚なく自身の身の上を語る事ができるということ。
何より、ここまで苦楽を共にしてきた彼女達二人には既に全幅の信頼を置いている。
この二人には隠し事をしたくないというのが本音の所だ。
それに彼女達ならば真実がどうであれ、その事を受け止めてくれる自信もある。呆れられたり、今の今まで忘れていたことを怒られそうな気もするが、そればっかりは仕方がない。
だから俺は告げる。
確定ではないが、ほぼ決まりかけているある真実を。
「——黒の愚者は、ユーリッヒ・ヘルドマンは俺の娘だ。おそらく」
「おろろろろろろろろ」
吐いた。
何を。
ゲロを。
何処で。
パーティー会議のど真ん中で。
誰が。
レイチェル・クリムゾンが。
ここぞという場面でそのたくましさでパーティーを救い続けてくれたレイチェルが盛大に吐き戻していた。
これまで殆ど食べ物を口にしていなかったのか、ほぼほぼ胃液みたいなものだったが。
俺はもちろん、レイチェルの隣に腰掛けたイルミも驚愕の余り身動き一つ取ることができない。
「げぼっ、げほっ、ごほっ」
俯いたまま吐瀉物を落としているレイチェルの背中が小刻みに震えている。引き攣った顔でイルミがそっとそんな背中を撫でた。俺も初めて見る表情を形作った彼女は、恐る恐る何度も手のひらを擦っていた。
「あの、レイチェル、大丈夫?」
消え入りそうな声でイルミが問う。すると嘔吐くような荒い呼吸に紛れて、レイチェルが絞り出すように言葉を返してきた。
「……子供がいるって、それはげろっ、なし、ごぼぼっ、だろう?」
うん。ゴメン。俺もなしだと思う。正直身に覚えがなければ全力で否定していただろうし。ユリにバラバラにされた衝撃がなければおそらく思い出すことはなかったことだ。
「相手は、相手は誰だ?」
何の相手か聞くまでもない。彼女が聞きたいのは娘の母親——つまり俺が誰と子をなしたのか、ということだろう。ただこればっかりは完全な推測になるし、正直あり得ないと否定する気持ちが九割強だから即答はできなかった。
だがユリが確信していることを信じるのならば結論はたったひとつしかない。
たっぷり数十秒、覚悟を決める沈黙を挟んで俺は口を開いた。
「—————多分、赤の愚者」
「こえ、ちっさ。おろろろろろろろろろ」
追いゲロが床に広がっていく。流石のイルミもレイチェルの背中を撫でる手を止めてしまっていた。そりゃそうだろう。彼女からしたら自身のよくわからない肉親が、パーティーのよくわからない男と子供を作っていたことになるのだから。
「すまない、イルミ。隠していたわけではない。本当に今の今までわからなかったんだ」
苦しい言い訳であることは百も承知だが事実は事実だ。これ以上弁明しようがないのであとは彼女達の沙汰を待つしかない。最低と軽蔑されるかもしれないが、甘んじて受ける覚悟はある。
「イルミからしたら本当に不本意だと思う。本当にすまなかった」
いつも俺を苦しめてきた呪いボディが今この時だけはやけに素直だった。もしかしたら肉体自身がここは誠心誠意謝り尽くすしかないと理解しているのだろうか。
「——イルミ?」
返事が全くない。それだけ怒り心頭なのか、と考えたが、身動ぎひとつせず、瞬きすら成されないイルミの表情を見て違和感を覚える。不躾だとは思いながらも、そっと頬を撫でてみれば見事なまでに反応がなかった。
そう。
イルミは、マーライオンになっているレイチェルの横で、
目を見開いたまま意識を手放していた。
01/
それは目が覚めた瞬間に走り出していた。
人を遙かに超越した跳躍力と脚力を活かして、屋根から屋根へと飛び移っていた。
カラブリアはそれなりに活気のある、人通りの多い街だが誰もその影には気がつかない。余りにも移動が早いことももちろんあるが、そもそも認識が出来ない術式がそれの周りには展開されていた。
いつかの仮面と同じように、彼女達は特殊な術式によって周囲を欺いている。もちろん今目覚めたこの存在もその例に漏れないでいた。
「急げ、急げ急げ急げ!」
それは最後の屋根を砕かんばかりの脚力で踏み飛ばし、大きく跳躍した。
そして目指し続けていた地へと音もなく舞い降りる。風に靡く銀髪を揺らしながら面を上げた彼女は、ある宿屋の庭先でようやく目的の人物を見つけた。
「——?」
こちらに背を向けていた男が胡乱げに振り返る。彼は病人が身に纏うような貫頭衣を身に纏いながら、井戸から水を汲んでいる様子だった。
「お前、αか? いや、β? ……そのどちらでもないのか」
訝しげな言葉を受けたが、男に正しく認識されているという事実に彼女は安堵する。
それと同時、男に対する認識が成立していない事実に焦燥にも似た確信を覚える。それはつまり、彼女達を統括するある存在と急速に切り離されつつある今があるからだ。
彼女は男へと歩みを進め、意を決したように口を開いた。
02/
うなされつつ寝込んでしまったレイチェルと、気を失ったイルミをそれぞれベッドに寝かしつけて、俺はもろもろを掃除した手ぬぐいを洗うべく、井戸の中庭に来ていた。
えらく古風な石造りの井戸から水をくみ上げて汚れた手ぬぐいを綺麗にしていく。淡々とその作業をこなすこと数回、ふと背後に何かしらの気配を感じた。
この感じ、おそらく彼女が来たのだろう。
シュトラウトランドで飯を奢らされ、レストリアブールではややマッチポンプ気味だったが命を救われ、我が娘と死闘を演じながらフェードアウトしていった彼女だ。
その後の無事は確認されていなかったが、まあ何となく生きているのだろうなという確信はあったからそう驚きはしない。
ただ何となく、今このタイミングで現れるのは面倒なことが起こっているのだろうな、という諦観はあったが。
けれども、ちょっとした違和感。
「お前αか? いや、β?」
もしくはそのどちらでもないか。
そう。背後に現れたのは確かにαやβと同じ風貌をした女だった。彼女達共通の要素である美しい銀の髪と赤い瞳をもっている。しかしながらこう、表情の造りはαっぽいのに、一つ一つの構成するパーツがβっぽいのだ。何となく二人の容姿を掛けて割ったような感じがする。
「——よかった。あなたにもそう見えているのですね。……お初にお目に掛かります。わたくし、名は今の今まで存在しませんでしたが、便宜上γと名乗らせて頂きます。よろしくお願いしますね、旦那様」
うっ、あれだけ苛烈な性格をしていたβの顔で微笑みかけられると背筋がぞわぞわする。
「ですが個体としてはβのモノであるとお答えします。以前と様々な箇所で差異が生まれているのは、まだβとして生きた経験が浅いためです。αは諸事のためここにはこられません」
柔和ではあるが、どこか事務的な雰囲気を漂わせる口調で彼女——γは微笑む。言っている意味は訳がわからないが、取り敢えずはあの二人と別人という解釈はそう間違っていないようだ。
「で、そんなお前が何のようだ」
しくじった、と内心歯噛みする。αやβはただの敵や味方では分類しきれない不可思議な女たちだった。ヘルドマン曰く赤の愚者の眷属と言うことなので、無条件に敵というわけではないのだろうが、それでも無警戒でいられる相手ではない。
黄金剣は宿の部屋。
懐に緊急時用のナイフを忍ばせてはいるが、彼女達の戦闘能力の前では全く役に立たないだろう。
最悪、逃げの一手だと半歩左足を下げる。
「見知らぬ存在に対する警戒心、ご立派でございますね。そうやってわたくしどもに心を許されない旦那様を見て、嬉しく思います。ですが今ばかりはお話を聞いて頂けないでしょうか」
γが頭を垂れる。ここまで傅かれてしまうと、毒気が抜かれたのもまた事実。左足を戻すことはなかったが、俺は意識をγの言葉に傾けた。
「有り難うございます。単刀直入にお伺いしますね。——イルミは、イルミリアストリアスは今、どのような状態でしょうか」
どきり、とした。余りの事実に気をやったのかと思っていたが、彼女のような存在が関わってくると話が変わってくる。間違いなく良くないことが起こっているのだと、焦燥感が膨らんでいく。
「——意識がない。呼吸と心臓は落ち着いている。あれはただの気絶ではないのか」
やはり。とγが臍を噛んだ。彼女はこちらをじっと見定めると静かに口を開いた。
「旦那様は黒の愚者と赤の愚者が戦い始めているのはご存知ですか?」
知っているか、と問われれば知らないと答えるしかない。だが驚きはない。去り際の彼女を見ているとそうなる可能性が非常に高いことは明らかだったからだ。
「成る程、予想はされていたのですね。でしたらその戦いの中で予期せぬ出来事が起きていることをお伝えしなければなりません」
γの形の良い唇が小さく言葉を紡いだ。
「黒の愚者——お嬢様が戦っている相手が立った今、赤の愚者ではなくなりました。私が目覚めるまで——イルミリアストリアスが意識を失うまでは間違いなく赤の愚者本人だったのですが、そうはいかなくなったのです。これを悪意ある第三者に察知されると、取り返しのつかないことになりかねません。至急、イルミリアストリアスを目覚めさせるのに協力して頂けないでしょうか」
03/
赤の愚者は自分の手のひらを数度見た。間違いない。絶対支配権が消失し、肉体がαのモノに戻っていた。
原因の究明までは至らないが、この状況が芳しくないことを彼女は理解していた。足元の空母の甲板を確認し、次に隣接するイージス艦たちまでの距離を凡その目測で測る。
飛び移れるか否か、と思考したときその頭脳は否、と答えていた。
「——? あなた、どういうことですかそれは。先ほどの入れ替わりと良い、今のあなたと良い、まどろっこしい手品でも使っているのですか?」
臨戦態勢を整えつつあった黒の愚者までも異変に気がつく。彼女は赤の愚者が発していた極大の圧力が消失したことに気がついており、眼前の敵がαと入れ替わっている事実を認識していた。
αは自身の手のひらから視線を上げると、真っ直ぐヘルドマンを見る。
そして荒ぶる波の音に負けないよう、できる限りの精一杯の声色で叫んだ。
「このような不具合は想定していませんでした! これはいけません! お嬢様、一度休戦を。今すぐこの海域を脱出し、至急狂人の元へにげっ」
斬、と何かの音がした。
急速に蒸発した海水に当てられて雨が降り出す。乾いたアスファルトの甲板が濡れそぼっていく中、赤黒い液体が雨水に混じって周囲に広がっていった。
「ああ、例え最強の存在といえど紛い物はこの程度か。いや、組成は人間に限りなく近いが故の脆弱性。まだ、そちらの小娘の方が遊べそう、だなっと!」
αの影がぶれる。何かに吹き飛ばされるようにαの影がヘルドマンに肉薄した。思わずそれを抱き留めたヘルドマンはやけに軽い質量を訝しみ、視線を下に向けた。すると腹から下を失ったαが多量の出血を伴って苦しげに蠢いている。
下半身はもとあった甲板の上に取り残されていた。
「お前は、一体……」
そしてαの下半身の向こう、彼女の上半身を蹴り飛ばした体勢で立つ人影がひとつ。
雨に打たれる黒の刺々しい甲冑は鈍く輝き、手にした大剣はαの血で真っ赤に染まっていた。
「俺か? 名乗るほどのものではないが、一応黄色の糞たわけの下で人類最強と呼ばれている者だ。折角赤の愚者に挑めると聞いてすっとんできたのに、まさか紛い物を引かされるとはな。約束と違うぜ、馬鹿野郎」
殺してもいい対象だとヘルドマンが判断するまで凡そ1秒もない。黒い槍では生温いと言わんばかりに超速で自身の影からそれを紡ぎだし、銃口を敵へと向ける。
「ひゅう! 流石にアリアダストリスのお姫様は血の気が多い!!」
ブローニング機関銃十数丁が火を噴いた。加熱される銃身と雨水が触れ多量の水蒸気を生み出す中、人体をズタズタに切り開いていく弾丸たちが「人類最強」に殺到する。だがソレは甲冑の下で喜色を浮かべながら手にした大剣を横薙ぎにするだけだった。
普通ならば上半身そのものが爆散しかねない圧倒的な暴力。
「っ!」
ヘルドマンは自身の頬を何かが掠めていき、遅れて裂けた傷口から血がこぼれ落ちるのを感じていた。そして放った弾丸のひとつが跳弾によって自身を傷つけたことを理解するまでに数秒の時を要する。
同じような現象は三人の周囲にも発生しており、「人類最強」に到達するはずだった全ての弾丸が甲板のアスファルトに対して火花を散らしていた。
「太陽の時代の糞みたいな武器だな、それは。旧人類はそれがなければまともな殺し合いも出来なかったらしいな。だが残念、俺は新人類だ。これ一つでお前さんたちを地獄にたたき落とすことができる」
剣の切っ先がヘルドマンに向けられた。彼女の腕の中ではαが「こひゅーこひゅー」と消え入りそうな乱れた息を吐き出し続けている。徐にヘルドマンはαを抱きしめた。
「俺は弱い者いじめが趣味じゃない。甲冑は脱がないでいてやるから、精々抵抗しな。アリアダストリスのお姫様?」
唇を噛みしめたヘルドマンが「人類最強」を睨み付ける。彼女の瞳が赤く輝き、周囲の黒い影が渦を巻いた。
「私たちの話に割り込んだ不躾な輩は言われなくてもぶち殺してやりますよ」
瞬間、海を割ってさらなる鉄の怪物たちが唸りを上げる。
04/
宿屋の階段をγと二人で駆け上がった。そして二人を寝かせている部屋の扉を蹴破るように開ける。中では並んだベッドそれぞれにレイチェルとイルミが伏せていた。
「っ、やはり外部から何かしらの干渉を受けています。至急、イルミリアストリアスを目覚めさせなければ!」
俺からしたらさっぱり何もわからないが、彼女には何かしらの術式が見えているのかもしれない。血相を変えたγはイルミの脇に立つと、その額に手をやり、聞き取れない何かしらの言葉を発した。
ばちん、と何かしらが弾けた音がする。
見ればγの手のひらが宙に打ち上げられ、その表面が赤黒く焼けただれていた。
彼女は苦痛に声を漏らすと、一歩こちらに後退して振り返る。
「申し訳ありません、旦那様。何者かが既にイルミリアストリアスに外部干渉妨害の術式を展開しています。術式の定着具合から見て、本のつい先ほどに行使されたものです」
脂汗を浮かべながらγが再び手を翳す。今度は直接触れることはなかったが、彼女とイルミの間で赤色の障壁がまたたくのが確認できた。
「——何とか解呪を試みてみます。どのようなことでもいいので術式のヒントを頂けないでしょうか。例えばイルミリアストリアスに直近で接触した人物の特徴など」
言われて、俺は息を呑まざるを得なかった。
だってそうだ。イルミに直近で触れた人物などそう多くはない。魔の力を供給された俺と、そんな彼女を羽交い締めにしたレイチェルくらいだ。そして俺とレイチェルは残念ながら高度な魔の力の行使を行うだけの技量は有してはいない。
ならば赤の眷属であるγの手を焼かせる程の術式を、魔の力の達人であるイルミに気がつかれないように仕込むことの出来る技量を有していて、直近でイルミに関わった人物はもう一人だけしか残っていない。
しかしながら俺はその可能性を直視することが出来なかった。
だから応えたのは騒ぎに気がつき、よろよろとベッドから身体を起こしたレイチェルだった。
「クリスだ。ボクたち以外でイルミに触れることができた人物は彼女だけだ。だが、彼女は声を媒介し魔の力を行使する。怪しげな文言は何も言っていなかったように見えたが」
いいや、違うんだレイチェル。
あいつは、彼女は俺にこうも言っているんだ。「腹話術みたいなものだ」って。カラブリアの牢獄で、無声で術を行使したように見えたことを指摘したら、彼女は間違いなくそう言ったんだ。
——ヘルドマン様の施術は完璧だ。もう動き回っても大丈夫なくらい回復している。あとは頑張れ。君も君のやりたいようにすればいい。
声は、掛けていた。クリスはイルミに対して激励を落として去って行った。
俺はそれが術式の行使ではないことを証明する手立てがない。
「ところでアルテ、この女性は誰だ。何故イルミに触れている? 何が起こっているのか教えてくれ」
レイチェルの疑問が飛んできても応えられるだけの余裕はない。
そしてγが「クリス」という名に食いついてきたものだから、尚更だった。
「声の魔術を操るクリス? もしかしてクリスティアーナの事を言っているのですか? ロマリアーナの魔導兵器の名前ですよそれは」
魔導兵器? γは何を言っている? クリスは俺と同じように吸血鬼に呪いを刻まれ、聖教会でシスターとなり、ヘルドマンの秘書を勤め上げるに至ったただの有能な人物だ。
「——お嬢様の秘書? それはあり得ません。わたくしたちはお嬢様のことを逐次監視してきたつもりですが、そのような人物は存在しませんでした。精々、喧嘩友達らしいマリアなる人物がいたくらいでしょう」
は? いやまてそれはおかしいだろう。そもそも俺とイルミが出会ったのもクリスと協力して任務をこなしたからこそだ。あの縦穴の底でイルミを拾ったとき、間違いなく彼女と共闘してオオカミを退けたはずだ。
「まって、いや、違う。そういうことか。そうか、これが最初から向こうの狙いなのか。わたくしたちは、アリアダストリス含め、全員あれに騙されていたのか?」
γが何かを言いかける。彼女はこちらに歩み寄り、俺の手を取ろうとしていた。
「落ち着いて聞いて下さい。赤の愚者の許可もないので、おそらくこの事実を伝えればわたくしは形象崩壊を起こし消滅します。ですが、あなたには今すぐ思い出して貰わなければならない事実がある」
γが言葉を続けた。有無を言わせない迫力を有した彼女は間もそこそこに声を発する——
「 」
——筈だった。
05/
「——想定外はこちらの台詞だ。まさかこのカラブリアにも予備が仕込まれていたとは。マリア次長も去り、ヘルドマン様も不在の今、仕掛けるなら今だろうと勇み足を見せたのがいけなかったのか」
カツン、と質の良い革靴が宿屋の床を踏みしめる。
「『誓約、誰も話すな。動くな』 このネクロノミコンなしでは術式が通らないとは本当にお前たち眷属は厄介だよ。それが眠っていてもそうなのだから本当に反則だ」
γが何かを必死に叫んでいる。俺に対して何かを訴えようとしているのが伝わってくる。だが肝心の声が聞こえない。肝心の言葉が届かない。
「そしてアルテ。お前もまた私の術が殆ど効かないんだったな。今日ほどそれが疎ましいと感じたことはない。だが私も使命というものはあるんだ」
もう一度足音がした。俺はγを後ろに下がらせて、ベッドの脇に立てかけておいた黄金剣を手にする。
「どいてくれ、アルテ。私はお前を戦友だと思っている。だからこそのお願いだ」
彼女もまた、光り輝く本を片手に剣を抜いた。いつかシュトラウトランドで打ち合ったときに見せたのと同じ、聖教会支給の長剣だ。
「頼むから私にそいつを殺させてくれ」
こちらに剣を向けるクリスは間違いなくそう言い放った。
黒の愚者編はもう少しだけ続きます。
ちょっとずつ、お話を畳んでいきます。