第102話 「黒 対 赤」
忌まわしい新月の夜だった。世界が暗闇に満ちて魔の力が枯渇している夜。
月の光の恩寵のもとで生活をし続けている全ての人間にとって忌むべき、災厄の夜。
彼女は、黒の愚者は、ユーリッヒヘルドマンは、有田ユリはそんな日を選んで、決戦の場に降り立っていた。かつては人々が生まれ落ち、成長し、子をなして、育て、そして死んでいった街の残滓。
人々の思いの抜け殻の中心で彼女は暗闇を目一杯吸い込んだ。
冷たい空気が肺を満たしていくが、今この瞬間ばかりはそれすらも心地よい。
「——まずは斥候?」
ふと、そんな彼女の対面に人影が現れた。
廃墟の合間から静かに歩んでくる銀髪の女だ。いつか対等の殺し合いを演じて見せたαだった。アリアダストリスとよく似た顔つきの彼女だが、ようよう目を懲らして見てみれば少しばかり柔和な顔立ちをしている。
「いいえ、私は私の目的でここにきました。あなたの挑戦を妨げることはありませんのでご心配なく」
αが深々と頭を下げる。βの時もそうだったが、赤の愚者の眷属達はユーリッヒに対して強い敬愛を抱いているようだった。
これもまた最近になって気がつくことの出来た世界の変化。
以前のように無碍にすることなく、敵意を見せることなくユーリッヒは口を開いた。
「なら何故ここに? もうすぐここは鉄火雷鳴が降り注ぐ地獄になる。死にたくないのならとっとと逃げなさい」
「——以前とお話の仕方が変わりましたね。やはりあなたは自分を取り戻しつつある。よくぞここまで自分を取り戻されました。βの歓びもひとしおでしょう」
返答はされなかった。ただしみじみと所見を語って見せたのみ。ただそれだけでユーリッヒはαの正体と立場を何となく察していた。
「あなたは赤の愚者が私から記憶と力を奪い取っていった理由を知っているのね?」
「ええ、もちろんです。ですが私の口からそれをお答えすることはできません。私は、私たちはあなたが我らが主人に力を示すべきだと考えていますので」
そう、とユーリッヒは天を見上げた。世界を覆い尽くす漆黒の闇。空の何処を切り取っても薄々と瞬く星達しか見えない。そしてそれらは月の民には恩寵を授けてくれない。
コンディションとしては最悪の夜。
彼女は嘆息を一つ溢して、もう一度αを見た。
「やっぱり力尽くで聞き出すしかないのかな」
「——なら、やってみせなさい」
瞬間、世界が揺れた。
眼前にいた筈のαはいつの間にか消え去っていた。入れ替わったとしか認識できないほどに、ユーリッヒの化け物染みた認識能力を押し潰すかのように、嘲笑うかのようにいつの間にか彼女はそこに顕現していた。
αだったものは赤い魔の力を帯びている。
血のように赤く、夕暮れ時の太陽のように鮮やかな赤。
傲慢不遜で世界最強。この星の生き物を超越し尽くすアルティメットワン。人々は彼女を神と畏れ、口にすることすら恐怖する絶対的な死と絶望の象徴。
銀の髪に紅い瞳、月のように白い肌が全身を覆う美しい化け物。
アリアダストリス・A・ファンタジスタ。
通称「赤の愚者」
ユーリッヒが超えなければ為らない絶対的な障害が今この瞬間、狂気染みた魔の力を練りつつこちらを見ていた。
01/
開始1秒で決戦の舞台となった島の半分が消滅していた。ユーリッヒが眼下を見下ろせば、あまりの高熱にガラス化した地面と、片っ端から蒸発していく海水が荒れ狂っている様子が視界に入る。
存在を認識した瞬間に音速で飛び上がっていなければアレの一部になっていたことを理解し、「本当に馬鹿げている」とヘルドマンは悪態を吐いた。
そう、赤の愚者より前方にあった島の全ての物体が、瞬きもする間もなく焼き尽くされてしまったのだ。
破壊の最前線にいた赤の愚者がこちらを見上げた。
視線が重なるよりも前に、ヘルドマンはありったけの影を螺旋に練り上げて赤の愚者にたたき落とす。
——無駄だよ。
小さな口がそう動いていた。
島全体を覆うほどの馬鹿げたサイズの赤い障壁が螺旋の槍をことごとく防ぐ。傷一つ入ることのない規格外の障壁にヘルドマンはやはりこれでは駄目か、と次の手を打った。
「何時までもやられるままだと勘違いしないでください!」
影から取り出したのはアルテがアルテミスとして使っていた剣の残骸だった。刀身が消滅し、持ち手だけになったそれに魔の力を注ぎ込む。それも以前、フォーマルハウト戦でそうした時よりも遙かに莫大な量だ。
「切り裂け、私の魔力よ!」
剣の先が目視不可能な程に巨大化したそれを、ヘルドマンは障壁に振り下ろした。赤の愚者はそこで初めて表情を変える。僅かばかりだが目を見開いたのだ。
障壁が黒い刀身に触れた瞬間、バターを斬るかのように寸断されていく様子に間違いなく驚きを見せていた。
ただそこで動揺に浸りきるほど彼女は愚か者ではない。直ぐさま追加の障壁を展開し、包み込むようにヘルドマンの黒い刃を受け止めて見せた。
「——っ、障壁を構成する術式が1秒以内にシャッフルされている! 何個脳みそがあればそんなことができるのか!」
ヘルドマンの黒い影はあらゆる物質同士の結合を切り開いていく超常の力だ。だが赤の愚者の防御力はそれを遙かに上回って見せた。属性や構成を絶え間なく変性させることによって、障壁の解析を妨害し切断を防いでいた。
そしてただ防御を続けてくれる程、赤の愚者は優しくない。防御の片手間に腕をこちらに向けたかと思うと、その小さな口が何かを口走った。ヘルドマンが障壁展開に間に合ったのは最大限の警戒を敷いていたからこそ。
彼女の直感が、これまでに培われてきた戦闘勘が攻めから守りへの素早い移行を助けることになった。
腕が捥がれんばかりの衝撃。
眼前に八重に展開されていた障壁が一気に五枚消滅した。ヘルドマンが見たのは自身を覆い尽くそうとしている血のように赤い魔の力の奔流だ。術式もなにもない、ただ莫大な魔の力を放出しただけの雑な一撃。
されどもそれは、この星のあらゆる生き物の頂点に居座る怪物の圧倒的な破壊が含まれていた。
「相変わらず出鱈目の権化だ!」
六枚目が砕け散り、七枚目と八枚目に罅が走った。もう数秒もヘルドマンの防御は持たない。新しい障壁を張り直している余裕などはない。彼女はここにきて新しい札を切る必要性に迫られていた。
それはすなわち——、
「——!」
赤の愚者が腕を下げた。成層圏の彼方まで貫いていた極大の赤い光が霧散する。夜の闇を切り裂くように、天を覆っていた雲の平原には巨大な穴がぽっかりと空いていた。
ヘルドマンが空から消えている。
彼女の視線がぐるりと周囲を見渡した。超高熱で蒸発を続ける海水の爆発音と、冷やされ急速に溶岩化していく岩達の軋みだけが耳と目に届いている。
黒い影の女王は何処にもいない。
「後ろですよ」
新月の夜に甲高い衝突音が鳴り響いた。それは突如として赤の愚者の背後に出現したヘルドマンが繰り出した剣による一撃が、赤の愚者の爪とぶつかり合った音だった。
「虚数空間を渡ってきたのね。もうこの世界のルールの外にいるとは」
静かに、小さな声だが初めて赤の愚者がヘルドマンに声を届けた。ヘルドマンの膂力が少しずつ剣を押し込んでいく。
「あなたから頂いた愚者達の心臓が私に力を与えてくれるんですよ!」
ついに赤の愚者の眼前にまで剣が迫った。あと一息、のこり数センチを押し込むことができればヘルドマンの刃が赤の愚者へと届くところまできている。赤の愚者はもう障壁を展開していない。彼我の距離が近すぎるのか、明らかに彼女は術式の行使をためらっていた。
「——意外ですね。純粋な筋力では私に分があるように見えます」
「そりゃそうでしょう。あなたのような吸血鬼ではない、私は純粋な人間なのだから」
赤の愚者が完全に押し負けた。爪を弾かれ大きく体勢を崩した彼女が蹈鞴を踏む。しかしながらヘルドマンの追撃は成されない。彼女は呆気にとられたように剣を手にしたままその場に立ち尽くしていた。
「? どういうことですか、それでは辻褄があわない——」
「いいえ、あうわよ。だって私があわせたのだから」
赤の愚者が一歩、後ろに飛んだ。されどその軽いステップは音と距離が全く比例しないもの。ヘルドマンですら目を剥く速度を持って赤の愚者は遙か遠くへと離れていた。
しまった、と思った時にはヘルドマンは再び赤い魔の力の奔流に飲み込まれていた。
太陽と見間違えんばかりの灼熱の大河。障壁の展開もままならないなか、ヘルドマンは全身を襲う痛みに抗うように喘いだ。
02/
次の来客は割とすぐにあった。
ヘルドマンによってカラブリアに取り残されたクリスがやってきたのだ。
「その様子だとヘルドマン様とともに一つの真実、一つの終わりに辿り着いたのか。思っていたよりも早かったな」
ヘルドマンが去ってから半日。まだ全快とはいかないものの、それなりに回復した俺は久方ぶりの黄金剣の手入れを行っていた。随分と血糊を吸ってしまっているが故か、ここ最近はその威力に陰りが出ていたためだ。
この世界では金色は忌み嫌われているが故に、並の鍛冶師で研いでくれる者など誰もいない。だからこそ少しばかりは自分自身で簡単な手入れができるように練習してきたのだった。
「知っていたのか。その様子だと」
クリスの口ぶりからして、俺とヘルドマンの関係を最初から知っていたのだろう。何でもできる有能な彼女のことだ、恐らく最初からある程度はこちらの事情も織り込み済みだったに違いない。
「——まあ、な。ここだけの話、まだまだヘルドマン様すら知り得ないことを私は知っているよ。だからこそ私はあの人に仕え続けている。その知識の利がなければ私があの方の下につくことはできない。あの方よりも秀でたものがなければお仕えする意味が無いだろう」
ストイックだな。さすクリ。どこまでも有能でどこまでも忠誠心に満ちている見事な女である。
「まあ、このことを知ったのはお前と出会ってそれなりに経ってからだったけどな。お前には悪いが声の分析を勝手にさせて貰ったんだよ」
声の分析? 初めて聞く単語だ。
なんだそれ?
「私に刻まれた呪いは声を介して魔の力を操るものだが、それの副次効果として人の声の本質を分析することができるんだよ。大なり小なり全ての人の声には魔の力が宿っているからな。そしてその魔の力の形や性質を私は聞き分けることができるんだ」
んー? ということは俺とヘルドマンの声は似ていると言うことか? 自分では一ミリもそんなこと感じないけれども。
「我が主人を分析にかけるなんて畏れ多いこと中々できなかったんだけれどな。ただ、赤の愚者に挑むと心に決められて自身の研鑽に入られた瞬間に形振り構うことができなくなった。もしかしたらそこに一分の活路があるかもしれないと藁にも縋る思いで分析にかけたんだ。そしたら活路なんかよりももっととんでもないものが潜んでいたというわけだ」
おい、その口ぶりだと俺の声は割と気軽に最初から分析していたような気がするんだが。
まあ別に構わないんだけれども。
「我が目を——いやこの場合は耳か。幻覚か呪いの所為で私の脳みそが壊れたのかと思ったよ。ここまで同じ性質を宿している人間はそうそういないんだ。それこそ実の親子や兄弟くらいな。一瞬、後者の線も考えたんだがすぐにそれは違うとわかった。兄弟ならば父親や母親を共有するが故の特定の因子が声に含まれているからな。ヘルドマン様とお前にはそれがなかった」
そりゃそうだ。俺はあくまで異世界の来訪者。この世界に兄弟関係があるはずもないからな。
ていうか元の世界でもバリバリの一人っ子だったし。
「ヘルドマン様は赤の愚者に記憶と力を奪われたとおっしゃられた。そしてお前も私にいつか言ってくれたよな? ある時期より昔のことは何も覚えていないと。その時期が殆ど一致していることも悪いが調べさせて貰ったんだ。ならばもう、残されている可能性は一つだけだろう?」
クリスが部屋の片隅に置かれた椅子に腰掛けた。やや長身の、すらりとした容姿の彼女の全身が灯りに照らされて、部屋の中に色濃い影を形作る。
「本当は墓場まで持っていくつもりだったのだがな、ヘルドマン様がご自身で気づかれたのならもう仕方がないだろう。精々、美しく気高い娘に嫌われないようにしろよ、お父さん?」
03/
残されていた島がほぼ全て消失した。地上のヘルドマンに向かって放たれた魔の力の奔流は僅かばかり残されていた大地を根こそぎ抉り取っていったのだ。
「——これくらいじゃ死ねないのが逆に辛いでしょう。そういう風に、私があなたを調整したから」
ヘルドマンは生きていた。残された力を振り絞って自身の足下に障壁を展開し、大地に流れ込んできた海水の上に立っていた。夥しい量の水蒸気と津波と見間違わんばかりの大波の合間にて二人は立っている。
ただ全身を血に染めたヘルドマンは本当に立っているだけだった。
赤の愚者のようにすぐに言葉を発することすらできない。荒い息を吐き出しながら眼前の赤い世界最強を睨み付けるだけだ。
荒い沈黙が数十秒続いた。
「——馬鹿を言わないでください。あなたを超えるためにはまだまだ死ねないだけですよ。立たせて貰っているんじゃない。私が自分で立っているんです」
言って、ヘルドマンが息を一つ吐く。それは先ほどまでの喘ぐような苦しみのものではなく、何処かしら覚悟を決めた、荒ぶる心を押さえ込む儀式のようなもの。
対面する赤の愚者が訝しむように顔を顰めた。
「私はね、自分一人で立つことができるんですよ。この世界に、私自身の力で」
ヘルドマンの障壁が消失する。煮えたぎる海水へと落下しそうになる彼女を赤の愚者は咄嗟に受け止めようとした。月の世界を生きる彼女達吸血鬼にとって、魔の力が存在しえない水中はまさに地獄の領域。
水に触れた刹那、肉体の自由全てを奪われ魔の力の行使全てが適わない絶望の世界なのだ。
ましてやそれが底の知れない大海となれば助かる見込みなど一分も存在しない。
それでもヘルドマンは、こちらに伸ばされた赤の愚者の手を払いのけて見せた。
もう手助けは必要ないと言わんばかりに。私は一人で生きていけるんだ、と高々と宣言するために。
「我が名はユーリッヒ・ヘルドマン。絶対孤高の黒の愚者にして、暗黒の影の女王。影に覆い尽くされた漆黒の今、ここは私の世界だ」
宣言が世界に木霊した。赤の愚者の足元が揺れる。波の動きではない。それよりも遙か下で何かが蠢いている。傲慢不遜が許される絶対強者たる赤い彼女があろうことかその場から一歩引いた。
海面がせり上がり、黒い何かが熱湯の渦を切り裂いていく。
「太陽の時代、人類はこれで殴り合っていたんですってね。これ、平たくて私の足場に丁度良いんです」
「ロナルド・レーガンか!」
小島と錯覚してしまいそうになる超巨大な影がヘルドマンの足元を支えていた。それは影独特の揺らぎを持ちながらも確固たる質量を保持している摩訶不思議な物体だった。
黒の愚者の言葉の通り、太陽の時代に運用されていた小国を滅ぼして余りある武力の権化。高度に近代化された航空兵力を敵戦力に投射するための海の女王がそこにいる。
かつて人々が「空母」と呼んでいたモノがヘルドマンと赤の愚者の足元に出現していたのだ。
宵闇よりも遙かに黒い影で形作られた巨艦が荒波に抗うように揺れている。
「あなたが島を消し飛ばしてしまいましたからね。ここからは私がそれを補ってあげますよ。いくらでもね」
ヘルドマンがそう嘯いたのと同時、周囲にも同じように巨艦がせり上がってきた。それぞれ太陽の時代を支配した名うての空母たちの影。艦載機こそ存在し得ないものの、周囲の海を覆い尽くす艦隊群に赤の愚者は言葉を失っていた。
「さあ、第二ラウンドと参りましょう。ここから先、アルテにも見せていない私だけの秘密です」
04/
そういえば、とクリスが声を漏らした。
ベッド脇のテーブルの上で何かしらの書き物をしていた彼女がこちらに振り返る。
「マリア次長に刻まれた術式の具合はどうだ?」
言われて暫く何のことかわからなかった。それくらい刻まれた術式の影が薄いのである。もっと呪いのように劇的に何かが変わるのかと考えていたのだが、気持ち悪いくらい身体に馴染んでしまって知覚するのが難しいのだ。
「よくわからん」
はい、でました。ミスターぶっきらぼう糞野郎です。ちょっと、こう、もう少し手心というか。人に優しくしようぜ、俺の身体よ。多分、クリスは純粋に心配してくれているというのに。
「——それなりに難儀な術式なんだけどな。それ。でないと罪人に対する罰にならないだろう。他人に監視される感覚が常時付きまとう筈だから、割と皆発狂するというのに」
え、なにそれこわい。ボク知らない。知りたくなったら相手の場所を凡そ察することのできるGPS的なあれじゃないの? そんな感覚的というか精神的な部分に食い込んでいるヤバい奴だったなんて知らないよ。
「言っただろう。世界でも指折りのとんでもない女性だと。あのヘルドマン様と互角にやり合ってきているんだ。油断が過ぎれば喉元を食いちぎられるどころか、全身まるごと飲み込まれるぞ」
油断ねえ。確かに今はそれがあるかもしれない。
あの廃村跡で共闘したことが昨日のように思い出される。一度は本気で殺しあったというのに、驚くほど息の合う間合いが彼女との間にはあった。ただの戦闘狂とはまた違う、彼女なりの矜持というものも感じることができたし。
少なくともマリアの俺の中での位置づけは頼れる戦友といったところだろうか。
「どうせ碌でもないことを考えているんだろう。お前ともそれなりの付き合いだ。最近、ようやくわかってきたよ。まあお前くらい頭がおかしければそれなりに上手いことやってみせそうだけれどもな」
過分な評価をどうも。どれだけボロクソに言われたってお前相手なら腹なんて全く立たないよ。
多分それだけの信頼はお互いに築けて来ただろうし。
——あるよね? 信頼関係。
彼女は少しだけ姿勢を崩して、白い手のひらに小さな頭をもたれ掛からせて言葉を続ける。
「私はさ、この世界がずっと嫌いだった。当たり前のように理不尽と不幸が転がっていて、悲劇や胸くそ悪い話は文字通り数え切れないくらいある。私に呪いを刻んだ糞野郎は私の家族や友人たちを全て腹の中に収めて嗤っていたしな。——けれどもさ、人間だけはどうしても嫌いになれない。必死に生きている人たちが、清く正しくあろうとしている人々が愛おしくて仕方がないんだ」
クリスがこちらを見る。彼女の鳶色の瞳がすっ、と細められる。
「そんな考えや思いに至れたのはお前たち親子のお陰だよ。力を、全て取り戻そうと足掻き続けるヘルドマン様に焦がれ、馬鹿みたいに真っ直ぐに、ただただ自分を貫き通すお前に光を見た。数多の理不尽の中にも希望はあると教えてくれた」
本当に過分の評価だと思う。ヘルドマン云々はともかくとして、俺は本当に好き勝手に生きてきただけだから。
むかつく奴は斬り捨てて、護りたいモノはずっと手元に置こうとしてきた。負けたことは一度や二度じゃきかないし、かなりの数の人間を不幸に落としてきた自覚もある。
「——私はそろそろおいとまするよ。ヘルドマン様から与えられた役目もまだ残されているしな。あとのことは彼女達に任せるとしよう」
ひらひらと手を振りながらクリスがドアを開ける。するとその向こう側に立ったままこちらをじっと見ているイルミの姿があった。おそらくクリスはその気配を感じ取っていたのかもしれない。
「ヘルドマン様の施術は完璧だ。もう動き回っても大丈夫なくらい回復している。あとは頑張れ。君も君のやりたいようにすればいい」
イルミの耳元で何かを呟いたクリスはこちらを振り返ることなく部屋から去って行った。入れ替わるようにイルミがこちらに歩みを進めてくる。
何か言葉を掛けるべきか、と迷うも何もそれらしき文言が思いつかない。
互いに無言のまま、手を伸ばせば届きそうな距離でそれぞれ見つめ合うことになった。
「——アルテ」
短く名を呼ばれた。
返事をするべきだと口を開きかけた。その瞬間、イルミが不意に距離をつめてきた。
「っ!」
口を何かで塞がれた。続いて鉄臭い液体が舌に触れる。見なくともわかる。イルミの手のひらがこちらに宛がわれており、その表面がいつの間にかナイフか何かで斬られているのだ。恐らく足元に転がっている果物ナイフで咄嗟に斬りつけたのだろう。
「——飲んで」
魔の知覚に疎い俺でも感じることの出来る、莫大な魔力量。愚者にも匹敵しつつある彼女の馬鹿げた力が遠慮なくこちらに注がれている。
「アルテ、お願いだから私を一人にしないで。あなたに死なれたら私、生きていけないわ」
彼女の赤い瞳は涙に濡れていた。ボロボロと流れ落ちる暖かい滴が、血よりも遙かに早いペースでベッドを汚していく。いつの間にか馬乗りになってきた彼女は俺が涙を見つめていることに気がついた。
「見ちゃだめ」
イルミの、無事な方の手のひらで視界を塞がれた。何も見えない。感じられるのは馬乗りになった彼女の重さと、口内の血の味だけ。
「本当に見ちゃ駄目だから」
それから暫く。明らかに供給過多な魔の力を注がれ続けることになった。
05/
アルテの視界をもう片方の手のひらで塞いだとき、不覚にもチャンスだと思った。
たとえヘルドマンとアルテがそういう関係だとしても、こればっかりは手が出せまいとイルミは考える。
まだ直接は無理だ。そんなことをしてしまえば、心臓がたちまち張り裂けて死んでしまう自信がある。
けれどもこのいけない悪戯は酷く魅惑的で、蠱惑的だった。もう止まれないイルミはアルテに悟られぬよう、そっと体勢を変えた。
アルテの口を押さえている方の手のひらに顔を近づける。
葛藤は殆どない。熱に浮かされた頭で自身の手のひらに唇を落とす。
一瞬などではなかった。
数秒、静かに唇で手の甲を触った。不思議と涙が引いていき、腫れぼったい目が両目と口を塞がれたアルテを見下ろした。
自然と、柔らかな笑みがこぼれる。
抵抗らしい抵抗を見せないアルテを見つめ続ける、不思議と穏やかな時間が流れていった。
それは魔の力の過剰供給に気がついたレイチェルが踏み込んでくるまでの、およそ数十秒の間続いた至福の時間。