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ヴァンパイア/ジェネシス(勘違い)  作者: H&K
第五章 黒の愚者編
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第100話 「父子」

ルート的にはここで一つのエンディング

 イルミが崩れ落ちたのと同時、ヘルドマンが影を操作した。彼女は影を縮小し、それを縫合糸の代わりにしてアルテのバラバラになっていた肉体を繋ぎ止めていった。


「——大丈夫ですよ。彼はまだ生きています。肉体を構成する一つ一つの粒に至るまでこれで元に戻すことができますから」


 首が、手が、足が全て胴体に接続されていった。外見からは伺うことができないが、内臓類も全て元に戻されていっているのだろう。


「全部の要素を繋ぎ止めてあげれば直に息を吹き返しますよ」


 ヘルドマンほどの、卓越した魔の力に関する操作がなし得なければ不可能な絶技。アルテミスの肉体を維持し続けた結果、無意識のうちに人体の構造を把握しきって見せた彼女だから可能にする奇跡。

 最初からヘルドマンはこのような終わりを予感して動いていた。どれだけアルテを切り刻もうとも、そのやり方すら間違わなければ全てを元に戻す自信と根拠を持って相対していたのだ。

 そしてこの狂人が、自身の死を厭わずに突っ込んでくることも想定済みだった。彼ならば文字通り四肢を切断しても止まることはないと信じていた。なので首も切断した。首が残されていたらその顎だけでも食らいついてくるのは容易に想像できたから。


「本当にこの人はすごい人。ですからここまでしなければ私は勝てなかったでしょう」


 血が流れ落ちた障壁が消される。ヘルドマンを覆っていたものが消滅したからか、彼女の黒い髪が風に靡いていた。意識を失ったアルテを優しげな瞳で見つめた彼女はくしゃりと表情を崩した。そこに滲みだしている感情を理解している者はヘルドマンを含めて誰もいない。彼女もまた、心を満たしている不可思議な暖かさに戸惑っていた。

 凡そ世界の支配者らしくない、ただの小娘のような仕草だった。


「ありがとう。付き合ってくれて。私、とても楽しかったよ」


 伸ばされた手が静かにアルテの頬を撫でた。



01/



 雨が降っていた。昼なのに夜のように空は暗い。

 この世界では人々は皆夜を生きている。太陽の光が体に悪いから、皆夜に活動をしている。だから今この瞬間の陰鬱さを憂いているのは『  』と彼女だけだろう。

 寝台の中、『  』の背中に彼女——アリスは額をくっつけた。じんわりと熱を帯びた素肌同士が触れあい、互いの境界を曖昧にしていく。


「今日も外に出られないね。この世界は君がいたところのように、大自然の摂理というものが存在していない。だからこうして、時折、神の至らなさが顔を覗かせている。不出来で不格好な、私が望んでしまったあってはならない場所なんだ」


 『  』は振り返った。先ほどまで睦言をかわしていた彼女の目尻が濡れているのを見つけた。出会った頃は文字通り何でもできる神様のような人物だったのに、時を少しずつ刻む度に確実に弱くなっていっていると思った。でもその現状を『  』は嫌っていない。むしろ今ならば彼女のことを護ってやれるかもしれないという、身の程知らずの昂揚感すら覚えていた。『  』はそっとアリスを抱き寄せる。彼女はか細い「あっ」という声を残すだけで然したる抵抗をしなかった。


「ふふっ。君は本当に私の心の内がわかるんだね。文字通り遺伝子の一つに至るまで同じだからかな? 嬉しいよ。人に心を覗かれるのなんて死ぬほど気持ち悪かったのに、君にならいっそのこと全てをわかって貰いたいと思っている。不思議な感覚だ」


 胸板に額を擦り付けてくるアリスの頭を、『  』はそっと撫でた。自分と同じ物質、そして構成とは思えないくらい手触りの良い感触が指を這い回る。酷く背徳的な快楽は『  』の背筋を緊張させた。


「ねえ、ユウキ。産まれてくるこの子のために世界を作り直したいと言ったら君は何と言ってくれる?」


 縋るような目線。血のように赤い瞳は薄らと濡れている。目尻はもう乾いていたが、まだその中心は傷が癒えていないようだった。


「——多分許さないと思う」

 

 けれども思ったことを素直に口にしてしまうこのどうしようもない体は取り繕う暇さえ与えてはくれなかった。しまったと思ったときにはすでに口は動いたままで、声は、思いは相手に伝わってしまっている。


「……それはどうして?」


 か細い声だった。世界最強の筈なのに、少しでも揺さぶってしまえばたやすく折れてしまう百合の花のようだった。この星の全ての生き物が力を合わせても彼女一人には及ばないというのに、今この時だけは縋り付く男の次なる言葉に怯えていた。

『  』は自身の思いをもう少しだけ言葉にした。


「だってそうしたら世界を滅ぼした罪は君のものになる。一度目は事故だ。君は無罪というわけではないけれども、だからといってその罪を背負う必要はない。でも二回目を故意に起こしたら君は今度こそ世界の敵になる。それは許せない、許すことができない。俺は君に隠れて泣かれるのが一番嫌いだ。自分と同じ人間だからこそ、そんな女々しい君(自分)が許せないし、そんなことを決断させた自分(君)は許せないと思う」


 そっか、とアリスは言葉を漏らした。そして瞳を伏せたまま少しだけ膨らんできた自分の腹を撫でた。辛く苦しい、地獄のような世界でも生きていかなければならない子を思って彼女は表情を歪めた。

 そんなアリスを『  』はもう一度抱き寄せた。まだ産まれていない我が子ごと抱きしめた。


「君みたいな泣き虫が気に掛けることなどなにもない。君の障害は俺が全て排除してやる。だから君は黙って着いてきてくれればそれでいい」


 アリスは困ったように笑った。何それ、と。そして続ける。


「私よりも弱いくせに」


「少なくとも君ほど繊細じゃない。多分、世界を滅ぼしても君とこの子が生きていてくれたらケロっとしている自信はある」


 だろうね、とアリス。

 彼女は『  』の顔に自身のそれをぐいっ、と近づけた。


「なら絶対私よりも先に死なないでね。その為に人生一度きりの呪いを刻んであげたのだから。——ねえ、あなた。浮気したらただじゃおかないから」



02/



 ——あと夢の話なんだけどね、多分叶うよ、それ。だって君、中々男前だしね。まあ、バツイチ子持ちアラフォーの元ヤンママに言われても嬉しくないかもしれないけれど。じゃあ、明日もまたよろしくね。


 明日は来なかったけれど、夢は叶いましたよ。それにバツイチ子持ちアラフォー元ヤンレディース総長現ヘビースモーカーだとしても、割と嬉しかったです。


 そんなことを『  』はつらつらと考えていた。


 晴れていた。満月がとても綺麗だった。空気は澄み渡り、世界の隙間を埋めているのは虫の声だけ。


「お父さん! 見てみて!」


 夜だけに咲く不思議な花を腕一杯に抱えながら少女が平原を走り降りてくる。その後ろには遊びに付き合っていた二人の従者がゆったりとした足取りで続いていた。


「こんなにたくさん咲いていたの! これってお母さんのお薬になるんだよね! 帰ったらお母さんにあげるの!」


 邪気など全くない、屈託のない笑み。母親譲りの赤い瞳を輝かせながら、父親譲りの黒い髪を揺らしている。『  』は娘の——ユリの手を静かに取ると元来た道を辿り、屋敷を目指す。


「そうだな、それだけあればお母さんも喜ぶだろう。偉いな、ユリは」


 父親の素直な賞賛にユリは溢れんばかりの笑みを溢した。彼女は父の手を強く握りしめると、彼の大きな歩幅に合わせるよう嬉しげにステップを踏む。


「でもお母さんていつ病気が治るのかな。ユリが生まれてからずっと外に出ていないんだよね」


 笑みはそのままだったが、陰りは間違いなくあった。彼女の記憶の中には屋敷の中で静かに微笑んでいる母の姿しかない。外に出るときは畑仕事の手の空いた父か、母親に付き従っている二人の従者が共にいるだけ。母と手を繋いで夜空の下を歩いた記憶は一度も無い。


「治るさ、必ず。少しずつよくはなっているから」


 嘘だった。思ったことを直ぐに口にしていた男とは思えないほどに、自然と娘を騙すことができていた。快方など一切ない。アリスはユリを産んでからその力の全てを衰えさせていき、静かに残りの命をすり減らしていた。


「そっか。なら安心だね。私ね、いつかお父さんとお母さんと一緒に旅に行きたいの。ねえ知ってる? 本で読んだのだけれど、世界にはお城の壁で囲われた街があるんだって。魔の力で動く機械ばかり作っている街も、砂の中にある不思議な街も、お勉強ばかりしている人たちしかいない街もあるらしいの。しかもそこには大きな橋があって、その上にも人が住んでいるんだって。全部の街に家族みんなで遊びに行きたいな。あ、もちろん『  』と『  』さんも付いてきてね!」


 にこっ、と彼女は後ろを歩く従者を見た。どことなく母と似た面影を持つ二人は嬉しげに相貌を崩した。心優しい主人の娘が愛おしくして仕方がない。


「——ああ、いきたいな。多分ユリとアリスが一緒なら何処でだって楽しいものになるだろう」


 嘘だった。そんなときは永久に訪れることはない。

『  』はアリスから、妻から彼女の肉体に起こっていることを全て聞かされていた。そして決して明晰ではない頭脳で考えに考え抜いた結果、聡明すぎる妻の言葉を受け入れるしかなかった。


 ——私の体に合った「支配権」がユリの体に移っている。愚者たちが持っているものの上位キーと言えばわかるかしら。多分出産を契機にこの体が普通の人間に戻ったんだと思う。だとしたら私はもうこの世界で生きられない。魔の力は、夜を支配する悪魔の力は私の体を蝕んで最後は殺し尽くすと思うから。


 ——俺にくれた呪いを返せば治るか?


 ——だめ、そんなことをしたらあなたが死んでしまう。それに一度与えた呪いを返上することは不可能とルールで定められている。こればっかりは過去の太陽の時代に決められたコードだからもう書き換えることはできないわ。


 ——俺を残して死ぬのか?


 ——いいえ、ユリも残した。残すことができた。あなたは彼女と生きて。世界を滅ぼした大罪人としては温すぎる最期だけれども、私幸せだから。月並みで陳腐で大っ嫌いな言葉だったけれども、本当にあなたにあえてよかった。1000年近い孤独を満たしてくれたこと、感謝しているわ。


 ——ユリはどうなる?


 ——幸い、支配権は彼女の肉体を宿主として認めている。まあ、同一存在の子供だからあの子は私たちのクローンみたいなものだし心配は要らないと思う。ただ、もしかしたら愚者としての権能が発動するかも。しかも月並みな愚者なんて足下にも及ばない性能ね。魔の力の色は何色かしら? 私の瞳の色か、あなたの髪の色か、もしかしたらあの子だけの全く違う色を見せるかも。


 口調だけでもうアリスが運命に抗っていないことを理解してしまった。理解させられてしまった。あれだけ苛烈に生きていた人間と同一人物とは思えないほどに、弱り切った声音。ただそこに憂いや悲観は一切なく、何処かしら安堵と諦観だけが滲み出ている。

『  』はアリスを愛していたからこそ、それ以上は何も追求はしなかった。彼はアリスが求めている言葉を完璧に理解できるから、彼女の幸せのために口を開く。


「わかった。任せろ。彼女は俺が育てる。凡庸な父親がネックだが、最高の母親から生まれたんだ。絶対に幸せにしてみせるから」



03/



 やくそく、やぶらないでね。



04/



 瞬間、何かが動いた。それはアルテの瞳だった。彼は切断された肉体が縫合された十数秒後に活動を再開していた。自身が一度死に至ったことすら気がついていないのか、突き出した剣をもう一度ヘルドマンへと向けようとする。

 傷口は全て塞がり、出血も止まっているのに切断面があった箇所から太陽の力が吹き出ていた。黄金色の燐光が空気を、大地を、ヘルドマンの影を焼き尽くしていく。

 だが、相対するヘルドマンのその身は焼かれることはなかった。彼女は間違いなく至近距離で燐光を浴びているはずなのに、傷一つ付いていない。

 咄嗟に身を庇おうと構えていたはずなのに、その体勢は長続きしなかった。


「あるて?」

 

 理解しようのない現象に彼女は戸惑いの声を漏らす。アルテの燐光に灼かれた足下の花が風に煽られて二人の周囲を舞っていた。白い花弁が目に映る度、ヘルドマンの心は否応なしに締め付けられていく。


「——なんで、どうして」


 一歩、ヘルドマンが下がった。

 二歩、アルテが歩みを進めた。


 傷は完全に癒えていたとしても、五体をバラバラにされた衝撃はまだ残されている。痛みすらまだ全身を蝕んでいるだろう。

 なのにアルテは歩みを止めなかった。剣を構え、突き出し、ヘルドマンの胸に狙いを定める。

 

 だが——、


「やくそく、」


 熱に浮かされたような声色でアルテが呟いた。その瞬間、彼は黄金剣を手放していた。大地に剣が突き刺さり、その役目を終える。

 無手になった彼はもう三歩、ヘルドマンに歩み寄った。彼女はそこから後ろには一切動かない。


「だめだ、何か思い出せそうなのに何も思い出せない」


 最後の言葉はそれだけ。アルテは残された生身の左手をヘルドマンに向けた。反射的に彼女は目をつむり、体を強ばらせる。その昔、胸を灼かれた事を思い出していたから。


「でももっと早くこうしていなければならなかった気がする」


 手のひらが頭に触れた。ぞっとするほど指触りの良い、絹のような髪の毛だった。アルテはそのまま、二三度手のひらを動かす。ヘルドマンが撫でられていると理解するまでに、もう三四は手のひらが動いていた。


「よく頑張ったな、ユーリッヒ」


 疲れ切った表情でアルテがそう告げた。その時、ヘルドマンの世界は止まった。二人を包んでいた燐光が晴れ渡り、夜の静寂が世界に取り戻されていく。東の空には薄らと日の出を告げるピンク色の光があった。


「あう、うあ」


 何かを話そうとしたのだろう。自身の心を言葉にしようとしたのだろう。でも何も出てこない。出せるものはただ喘ぐような呟きのみ。

 それなのにヘルドマンの瞳は涙に溢れ、その美しい宝石をぼやけさせていた。彼女はそのまま平原に座り込み、まだ少しばかり残された白い花の中心で天を見上げる。


「うわあああああああああああああああああああああああああああああん!」


 子供の泣き声だった。絶対強者の愚者では決してあり得ない、幼い子供の声だった。

 見守っていたクリスとレイチェル、その二人が呆気にとられても彼女は泣き止もうとしない。


 理由は、わからない。


 なのに何故か酷く懐かしい感じがして。

 もう喪ってしまった何かを思い出したような気がして。

 

 ユーリッヒ・ヘルドマンは力の限り泣き続けた。



05/



「……おっと、黒の愚者が敷設した監視の結界が弱体化している。もしや彼女の封印が破られたのでしょうか」


 ジョン・ドゥはレストリアブールの教団跡地に建設された聖教会の臨時支部の中庭で天を見上げていた。彼は人の良さそうな顔つきを少しばかりの喜色に染めながら目を細める。


「封印の喪失が事実ならば、恐らく黄色の彼が動くでしょう。そうなれば赤の女王はいよいよもって神に返り咲かざるを得なくなる。一度人の身に堕ちた彼女がどれだけ焦ってくれるのか楽しみですね」


 彼は懐から小さな小箱を取り出す。それはいつか、聖遺物としてヘルドマンとマリアに見せた胎児のミイラ。彼はミイラを両の手で優しく包み込むと、南西の方角に目を向けた。


「アリアダストリス・A・ファンタジスタ。よもや負けはしないでしょうが、要らぬ情を挟むと取り返しの付かないことになると思いますよ」



06/



「あれだけ魔の力の歪みが凄すぎて、転移不可能だと思っていたのに急に飛べるようになるなんて何かあったのかしら」


 同じくレストリアブール。聖教会臨時支部の東の尖塔の頂点にティアナは立っていた。ノウレッジから告げられた通り、彼女は陸路をひたすら東に向かっていた。一度に転移できる距離は限られているので、休息を挟みながらの移動ではあったが化け物染みた移動速度は健在である。


「聖教会がここに乗り込んできてからというもの、恐らくは黒の愚者か。アレが張り巡らせた監視結界が邪魔だったのに、それが消えてなくなっている。転移先として選べるようになったのはそれが理由か。もしかしてもう、黒の愚者は赤の奴に負けたのかしら」


 ティアナがぼやいたとおり、実は転移が不可能な場所が幾つか存在している。それは愚者クラスの実力者が自身の魔の力を媒介にして展開した結界の内部だ。ティアナの魔の力が介入するには荷が重すぎるのか、ノウレッジを除く愚者の領域には昔から転移が不可能だった。それが今、黒の愚者の領域に上書きされていたレストリアブールが解放されたのである。考えられる理由は決して多くはない。

 黒の愚者が結界の維持ができないほど弱体化したのか、ここを自身の領域として識別できなくなったかのどちらかだ。


「ま、どうでもいいか。所詮は中継地。魔の力が再び溜まり次第、また東に飛ぶだけよ」


 彼女は尖塔の頂点で静かに腰を下ろす。朝焼けを前にした温かみの混じった風が頬を撫ぜる。赤らんでいく東の空を見ていると、勝手に死んでいった莫迦な眷属のことがどうしても思い浮かんでしまう。


 もうあいつのことなんてどうでもいいのに。


 口にした言葉は空虚で無意味だった。風に流され消えていった言葉ほど虚しいものはない。

 どうでもいいと割り切ることができないからこそ、ノウレッジの言葉に縋り付いて愚直に東を目指しているのだ。

 その先に何があるのか知ったことではないが、今の彼女にできるのはただそれだけ。


「……あら、この下に大きな魔の力を持った奴がいるわね。魔物ならば食らって回復にあてられるかも」


 いよいよ持って日が昇り始めたその時、ふとティアナは足下から強い魔の力を感じ取っていた。もしそれが捕らえられた魔物や、ヨルムンガンドのような地下に巣食う化け物ならば糧にして自身の力の強化にあてられると考えた。

 もともとそうやって力を溜めて、愚者クラスの力を手に入れてきたのだ。彼女は迷うことなく地下への転移を選択した。

 以前ならば不可能だった跳躍も、黒の愚者の監視結界が消滅した今となっては児戯に等しい奇跡。

 視界は一瞬で切り替わった。


「なんだ、ハズレか。悪いけどもう人間は吸血しないと決めているから。眷属はもういらないのよ」


 彼女の眼前には鉄の牢獄が出現していた。大罪人を拘束するために使われていたのか、個人に使用するには大げさすぎる術式が刻まれた檻だった。脱走の動きを見せれば対象を即死させかねない、凶悪極まりない呪い達がこれでもかと張り巡らされている。


「——あのいけ好かない西の怪物達とは違うようだな。小娘、お前に用も関心もない。さっさと去ね」


 ティアナが露骨に落胆を見せたのと同じように、檻の主も露骨に嫌悪感を滲ませていた。突如としてティアナが出現したというのに彼は一切の驚きを見せていない。ただ、そのぎらついた瞳でアイスブルーの少女を睨み付けていた。


「口の悪い犬ね。まだその檻から助けてくれとみっともなく許しを請う方が可愛げがあるわ。ま、去れというならその通りにしてあげるわ。もうここに用はないから」


 ティアナが踵を返す。彼女は無駄に魔の力を使ってしまった、と苛立ちを滲ませながら再び転移の術式を練り始めた。その後ろでは既にティアナに興味を失っている男が独り言を呟いていた。


「俺が求めるのはあの狂人との、友との再戦だけだ。我が最愛の強者を下して見せた実力、この身が朽ちる前に今一度相対したい」


 ぴたり、とティアナの動きが止まった。

 彼女は術式を張り巡らせたまま、肩越しに男を見た。

 アイスブルーの瞳と、エメラルドグリーンの瞳が初めて合った。


「あんた、狂人に何かされたの?」


 男はすぐには答えない。いや、問われていることにすらしばらくの間気がついていなかった。だが少女が未だ眼前にいることに数秒経ってから気がついて「ああ」と答えを返した。


「婚約者を殺された。ただそれだけだ」


 瞬間、檻の中にティアナが入り込んでいた。男は驚きを微塵も見せることなく、視線だけを隣になったティアナに向ける。


「妙な手品だな。そのような能力があれば、あの狂人の背後を容易に取れるか……。いや、アレは正真正銘の化け物だ。それすらも読み切った上で黄金色の斬撃を叩き込んでくるだろう。あの男はそういう奴だった」


 一人感心している男をまるっきり無視してティアナは再び問うた。思いっきり見下ろす形だったが男がそれで気を悪くする様子は全くなかった。


「その男の名、アルテよね」


 男は「是」と短く返す。ティアナは妙な共通点を妙な男と持ってしまったと、至極微妙な顔つきをして見せたが、すぐに男へと向き直った。


「ねえ、私もその男に大事な人を殺されたと言ったらあんたは何か思う?」


 男は「いや」と首を横に振った。

 本当にどうでもよかったのだろう。あまつさえ、男はティアナに背を向けようとした。

 だがティアナはそんな男に食い下がって見せた。


「——私は弱い。残念だけれどあの子の仇を討てるだけの力が無いの。だから力を貸して。……いえ、あなたがあの男を倒して。見たところ、あなたはアルテを下したいんでしょう? 私はあなたの闘争を決して邪魔しない。ここからだって出してあげる。だからあの男と戦って。あなたの都合でも構わないから、狂人を殺して」


 何処までも他人任せの、情けない懇願だった。けれどもティアナは本気だった。本気であの男を殺してくれるのならば、自身のたった一人の眷属を救えるのならば、彼女はいくらでも頭を下げることができた。


「不思議な娘だな。見たところ、俺よりもお前の方が強いだろうに。いや、違うな。お前、もう折れているのか。どれだけ異能で自身が狂人よりも優れていると理解していても、もう心が追いついていないのか。よくもそこまで摩耗しながらも生きていられるものだ」


 図星。

 ティアナは何も反論しなかった。しかしながら沈黙は雄弁に事実を語っている。彼女は血が流れるほど唇を噛みしめたまま、微動だにしない。

 男は納得したように頷いた。


「——お前の願いなぞどうでもいいがな、俺をここから出すという提案は魅力的だと素直に思った。できるのか?」


 ティアナが顔を上げる。男はいつの間にか立ち上がっていた。こんな薄暗い檻に放り込まれていたというのに、刃のように研ぎ澄まされた肉体は彼の研鑽の全てを教えてくれる。


「どこへなと連れて行ってあげるわよ。でもあんたの言うとおり私の心はもう凍てついていない。あんたの力添えはそれ以外にはできないわ」


「構わない。もとより俺だけの闘争だ。邪魔立てする者は誰であろうと許さん」


 ティアナは何も言わないままに男の腕を取った。手は取らなかった。それは、そればっかりはまだ僅かばかり残されている温もりがちらついた所為だ。この手のひらはまだ他人に許すことはできない。


「ところでお前、名は何という?」


 男が問う。ティアナは自身の名をぶっきらぼうに答えた。男は少しばかり間を置いてから口を開いた。


「俺はエリムだ。まだ仲間でも何でも無いが、俺をあの狂人の元へ連れて行ってくれるのならばその時は感謝しよう」


 最後の言葉が掻き消える。二人の姿が世界から隔離される。

 後に残されたのは静寂に満たされた地下牢獄だけだった。


 


でももうちょっとだけ続くんじゃ

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 一つのエンディング……? [一言] つまり、黒の愚者ユーリッヒ・ヘルドマンはルート次第でラスボスになる予定だったという事? で、ヘルドマンルートのエンディングの一部が本編でも展開された…
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