第99話 「アルテ死す」
もう嫌だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
黒い槍がこちらのこめかみを抉ったその瞬間、感情の堰がぶっ壊れてしまった。
ねえ、なんで! なんで二人は殺しあわなければいけないの! どうして私たちは互いに刃を向けてしまうの!!? 教えてよ! ねえ、なんでぇ!!
たぶん、アルテミスの体のままならみっともなく泣き喚いて鼻水と涎をまき散らして大地を転げ回っていただろう。まだ両の足でしっかりと立てているのは間違いなく呪いのお陰だ。基本的に糞役に立たないスキルだけれども、今だけは体面を保つという意味では本当に役に立ってくれている。
まあ死んだら体面とかどうでもいいと思うんだけどね!
さて、と息を一つ。
状況を整理すればするほどそれが最悪であることは嫌というほど思い知らされる。取り敢えず逃げようとした初手はあっさりと突破され、普段使用していないはずの黒い剣による斬撃はいなすので精一杯。剣の技に精通していないヘルドマンではあるが、純粋な筋力とその速度だけでたやすく俺の経験値を上回ってきているとか完全にクソゲー。
射程がとんでもなく長く、数も威力も卓越している黒い槍なんて言わずもがな。一発食らえば即死確定で、隙を見て黄金剣を叩き込んでも翼一つでガードされるというマゾゲーっぷりだ。
ああ、このまま降参したい……。
けれどもそんな情けない懇願は呪いに封じられてできない。いや、敗北の意を示すことは出来るのだろうが、そんなことをすれば消化不良で激怒したヘルドマンにぶち殺されるのがオチである。俺に残された道はヘルドマンを満足させつつ、何とか五体満足で切り抜けることだけである。これはほぼ不可能であるという点を除けば完璧なプランニングだ。
しかしながらそれしか道がないのならば、覚悟を決めて突き進むしかないのもまた事実。最後は腹を括って前へと踏み込むしか光明はない。
足に力を込める。
今度は前へ。
相対する黒の愚者様は絶対強者であるのに油断なく迎撃態勢を整えていた。少しばかり重心を落としたどのような局面でも対応が出来る必勝の構え。
「これならば!」
数多の槍が地面から吹き上がってきた。咄嗟に剣を足下に構えたからこそ、半殺し程度で済んだ。幾つか肉が抉られてしまったが、串刺しだけは阻止した形だ。抉られた身も呪いから得られた回復力でカバーできる範囲ではある。
しかも槍に打ち上げられた場所がよい。丁度体重移動だけでヘルドマンに跳びかかることの出来る位置だ。
これを逃す道理など有るはずもなく、遮二無二に剣を振り下ろした。
ただこれでカタがつくのならば彼女は愚者を名乗ってはいないだろう。先ほどの再現のように、黄金の刃は黒い翼膜に防がれていた。
「——素晴らしいですね、アルテ。一つ一つ本当に気を抜くことが出来ない。恐らく人類種で私をここまで手こずらせる相手は存在しないでしょう」
お褒めに預かりどーも。嫌みか貴様。ごめんなさい嘘です。舐めた口をきいて本当にすんません。だから殺さないで、僕は悪い人類じゃないよ。
とか何とか莫迦なことを考える間もなく、黒い剣が無造作に突き出される。ギリギリ着地して足が地面についていたのが良かった。身を大きく反らして刺突を回避。お返しと言わんばかりに黄金剣であちらの刀身をかち上げた、と見せかけて狙いは肘。滑り込ませるように腕を伸ばして、切っ先でヘルドマンの肘を切りつける。
——なのに。
どうじで火花がぢるのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!
切れ味だけは素晴らしい筈の黄金剣が弾かれた。理由なんて最早語るまでもない。ヘルドマンの肘が超硬質の何か——影に覆われてガードされたのだ。武器に使って良し、鎧として防御に使って良しの最強の権能である。
もう本当の本当にゲームとして成り立たないレベルで糞ゲーである。
ただ、収穫がなかったわけではない。
無意識のうちに込めていた太陽の力は通っていたようで、彼女の腕からはやや遅れて煙が噴き上がっていた。
「——まさかあの一瞬で防御を貫通するほどの太陽の毒を流して見せたのですか。とんでもない戦闘勘ですね。こればっかりは私はあなたに適わない」
もうほんとに止めろ。嫌みが過ぎてイジメみたいになってんぞ。まじ巫山戯んなし。
けれども太陽の力が通ったという事実は余りにも大きい。これだけ無敵を誇っているヘルドマン様だが、弱点自体は依然として残されていることがはっきりとしたからだ。
「ですがこれは如何でしょう? 私、あなたの戦闘記録は一通り嗜んでいるんですよ。そしてその結果、こんな結論に達しました」
ちょっと待って、それってあなたが私に強請ったアルテミスとして活動しているときの報告書の事ですよね。あの馬鹿でかい蛇とか記載されているやつ。ずっこくない? 世界の絶対強者のくせにずるくない? 強い奴が弱い奴の弱点を研究するなよな。
「いでよ、アラクネー。私の可愛い大蜘蛛よ」
可愛くない! 台詞でもうわかる! それは絶対に可愛い生き物ではない! だって普通の可愛い生き物は地響きを起こしたりしないし、馬鹿でかいかぎ爪のついた八本の足なんて持っていない!
「あなた、こういう大きな生き物、苦手ですよね?」
多分全人類が苦手だと思うんですけれど(名推理) 俺じゃなくてもこんなの相手にしたら無事じゃ済まないと思うんですけれど!
あとそんな弱い者イジメが楽しい、っていう笑みを止めて! マジで怖いから!
「私の二つ名はブラック・ウィドウ。さて、女郎蜘蛛の脚をたんと召し上がれ?」
瞬間、全ての脚が俺に向かって振り下ろされた。もう恥も外聞もなくその場から転げるように逃げ回る。本体は地中かはてまたヘルドマンの影に収納されたままで確認できないが、脚から想像するに最早怪獣レベルの大蜘蛛が召喚されているようだ。試しに脚の一本に対して剣を振るってみたら金属音一つ残してあっさりと弾かれてしまった。
「あはははははははは!! グランディアではあなたと同サイズに縮小したのが間違いでした! あなたのような卓越した技能を持つ人にはシンプルな質量で挽き潰すのが良策というのは本当なんですね!」
誰だよそんな酷いことを教えた奴。もしかしてノウレッジか!? あのコウモリ優男、あとで絶対にしばく。生きていたらマジで腹パンの一つでも噛ましてやりたい。いや本当に生きていられればね。
「ほらほら、逃げ回っているだけじゃ私は倒せませんよ!」
うーん、これは非常に不味い。いや、最初から不味いのだけれども、こればっかりは現時点で打開のしようが無い。悔しいがヘルドマンの言う通り質量ばっかりは覆しようがないからだ。というか広域攻撃は行わないという約束だった筈なのだけれども、これってルール違反スレスレではないのだろうか。そっちがその気ならば俺だってやっちゃうんだからね。
そう、ドーピングだ!
「? それは一体……」
ヘルドマンの声が訝しみの色を帯びる。懐から俺が取り出したるのはイルミちゃんが以前くれた、自分の血を精製した特注品だ。彼女の血を口にするのはどこか背徳的で変態チックだが、今ばっかりは格好つけた事も言っていられない。四の五の言わずに俺はそれを口に含んだ。
「!?」
……ぶっちゃけた話をすると、想像の数倍美味かった。いや、人の血なんて口にしたことがないからそれなりに覚悟して挑んだのだけれども、こう、何というか血の味ではないもっと別の何かの味がした。しかも体内に入り込んだその瞬間に馬鹿らしくなるほどの魔の力が全身を駆け巡っていくのを感じる。
勢いのまま剣を振るえば、巨大な脚の一本をすっぱりと切断することが出来た。
——すげー。さすがにイルミちゃんが劇薬と言うだけあるわ。
「なるほど、イルミの魔の力を取り込んだのですね。ますますあなたは侮れない! そんな馬鹿げた魔の力を取り込めば普通、肉体が砕け散ってもおかしくないというのに! 何処まで私を喜ばせてくれるんですか!」
え? そんなにヤバいのこれ? 飲んだら体がバラバラになるのは最早ドーピングではなくてただの自殺じゃん。イルミちゃん、劇薬にも限度があると思うよ、ぼかあ。ヘルドマンさん、割と引いちゃってるし。
でもこの威力がありがたいことには変わりない。恐らく魔の力で筋力やその他諸々が一時的に強化されているのだろう。
二本目の脚に斬りかかっても結果は上々。真ん中よりやや下部で結合を失った脚は、切り倒された巨木の如く大地に倒れ伏した。
「ふむ、ただ大きいだけならば対応のしようはあるというわけですか。あなたもまた、日々強くなっているのですね」
いや、しみじみと言わんとって。もしそう思うんならばこのあたりでそろそろ手打ちにしない? もう十分剣をかわし合ったと思うけれども。マジで次かその次あたりで死にそうな気がするし。
「あなたに出し惜しみは良くないということがわかりました。広域殲滅攻撃を除いた、私の全てを持って相対しなければならないようです。では狂人よ、お覚悟を」
きん、と空気の張り詰めた音がする。
いや、実際に音がした。それはヘルドマンの周囲に展開されていた黒い影から。俺を追いかけ回していた脚たちは影に融けていき彼女のもとに集まっていく。そして螺旋を描きながら彼女の周囲に渦巻いていった。
『数多の可能性のある虚数の海よ。私に災厄の力を与えたまえ。影は光、光は影。赤い太陽ある限り、大地に広がるは無限の黒。我が名はユーリッヒ・ヘルドマン。全て影の申し子なり』
へ? 何そのキマり気味の詠唱みたいなの? この世界で魔の力の行使には別にそんなのいらないよね?
でもわかるよ、わかる。絶対にこれはあかんやつよね。大抵、無詠唱で色々してた奴がそんなことをしだしたら、とんでもないことが起こるもん。
「——逃げて! アルテ! それはだめ! 黒の愚者は自己暗示を掛けているの! 術者は自己暗示によって一時的に魔の力の行使を強化することができる! この人はそれを詠唱というかたちで実現している!」
クリスに押さえ込まれつつも、様子を見守ってくれていたイルミが大声で叫んでいた。滅多に見せることのない焦りという表情付きで。なるほど、彼女もまたエンディミオンでいろいろ学んできたからこういう事態に詳しいのね。
なら俺の予想は当たっていたわけだ。あははははははは。
「狂人、アルテ。あなたが生き残ってくれることを期待しますね」
ヘルドマンが手のひらを大地に向ける。するとそれと同時、彼女を中心に何かしらの円陣が描かれ始めた。さっぱりと意味のわからない文様ではあったが、魔方陣に類するものであることは窺い知ることができる。
『覆え、彼の全てを』
しかも魔方陣は拡大を続け、俺の足下を優に超えて広がった。逃げだそうにも展開が早すぎて間に合わない。もう為す術がなくなった俺は術の中心にいるヘルドマンに向かって突進した。
『穿て』
ただ、その判断は遅かった。
足下の魔方陣が突如として槍に変化した。回避は間に合わない。右腕の義手と生身の接合部が穿たれ、黄金剣を手にしたまま義手が飛ばされる。僥倖だったのは跳ばされた腕を左腕で掴み取ることができたこと。これにより、武器を失うという最悪の状態は回避することができた。
再び、魔方陣の上に着地する。着地してしまう。するとまたノータイムで槍が吹きだし、今度はこちらの脇腹を抉っていった。
まさかこれは——、
「黒い槍を打ち出す。残念ながらこの技は私の認識したものにしか作用できないものでした。前回はその弱点を突かれ、視界を塞がれあなたに敗北しましたよね。だから造ったんです。自動で陣の内側にいる者を貫く槍を」
ヘルドマンは続ける。
「『黒槍女郎蜘蛛地獄』、あなたが動きを見せる度に絡め取られ食い破られていく死の結界ですよ、これは」
確かに動きを見せていない今現在、槍が打ち出される気配はない。不格好に機械の左腕を握りしめ、呼吸すら止めて周囲の状況を観察する。魔方陣の半径は凡そ50メートル強。抜け出すまでに十数度は槍に貫かれるであろう広さ。彼女が俺に対するメタゲームとして創造したのも頷ける、えげつない結界だ。
しかも最悪なことにこの結界——
ぽたり。
「っ!」
こめかみからの流血が大地に触れた瞬間、死ぬほど嫌な予感がした。半歩だけ体をずらして、首の一部が抉り取られる激痛を全力で耐えきって即死を免れる。水滴一つに反応して槍が出てくるとか、余りに感度良すぎませんかヘルドマンさんや。というかイルミちゃんの血がなければ回復が追いつかずに今ので多分死んでいた。
「やはりお前はとんでもないな」
自然と口をついて出てくる悪態混じりの賞賛。いや、これでも本音の十分の一も表現しきれていない。もう言葉にするのも莫迦らしいくらい様々な感情が胸の奥に渦巻いている。
本当にこの世界は理不尽なことばかりだ。少しでも気を抜けば死が明確な形となって襲いかかってくる。
首と脇腹から血が溢れる。
もう槍が吹き出すのを待つことはない。
二本イルミからもらった血を口にする。
視覚が、聴覚が、嗅覚が、触覚が、そして筋力と反射神経が極限まで強化され、次々と死を叩き込んでくる槍よりも一歩先に体を動かしてくれる。
ヘルドマンとの距離が近づく。
黒い死の魔法陣の中心では彼女が優雅に佇んでいた。
「——そうですか、それだけの疾さを手に入れても尚、逃げるのではなくあなたは立ち向かってくるのですね。なら私もそれに応じましょう。『 』」
ヘルドマンが何かを呟いた。俺には理解することのできない不可解な言葉。おそらく次の術式を生み出すためのトリガー。それがひとたび発動されれば、殆ど残されていない希望が完全に潰えることになる。
ならば俺が出来ることはただ一つ。
そうなる前にただただ前へと歩を進めるだけだ。
「来なさい! アルテ!」
彼我の距離が縮まる。彼女の足下からもう何本目かもわからない黒槍が射出された。
悪寒が走る。アレはかわすだけでは死たり得ると本能が警鐘を鳴らす。
『私を盾に!』
左腕で握りしめられていた義手が声を上げた。宙で黄金剣を抜き取り、義手には申し訳ないがそれを黒槍に蹴り込む。
此度の手合わせ、殆ど仕込みは出来なかった。前回のような小細工を弄する余裕などなかった。けれどもたった一つだけ、しかもクリスが騎竜での移動中に授けてくれた手の内がある。
——お前の肩を持つわけではないから勘違いするなよ。勢い余ってヘルドマン様が力加減を見誤ったときの保険だ。
義手と槍がぶつかる。槍の先が幾多もの小枝に分かれて全方位に鋭利な刺突を展開する。先端の刺突を回避したとしても、枝分かれした刃に切り刻まれるという極悪極まりない攻撃。
それを義手から生じた障壁が紙一重で防ぎきっていた。眼前に広がる黒い刃達は障壁を這い回るように小枝を増やし続けている。
「——!! 成る程クリスの声で練られた絶対障壁! 一度きりの秘技ですが、首の皮一枚繋がったようですね!」
たぶん、ここいらが潮時なのだろう。ヘルドマンの必殺の技を何とか防ぐことが出来た今、ここで降参して身を守るのが上策だ。
けれども何故か楽しげに瞳を輝かす彼女を見ていたらもう少しだけ付き合いたくなった。
これ以上の隠し手はない。次に枝分かれする槍を穿たれれば間違いなく俺は回避できないだろう。大体即死か、良くても四肢を失うのが目に見えている。
それなのに体は止まらない。
障壁を足がかりに宙へ飛び上がった。こちらを見上げるヘルドマンと再び目が合う。
やはり赤色の綺麗な瞳はきらきらと輝いていた。
素直に可愛らしいな、とも思った。
こんなにも喜んでくれるのならばもう少しだけ頑張ってみようという気分になる。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!」
ヘルドマンが再び魔の力を行使する。槍の先端が影から伸びてくるのが視界の隅に映った。でも俺はもうそちらを見ていない。視線を向けるのは彼女の赤い瞳にだけ。片腕で剣を握りしめ、上段から突き出す。
ヘルドマンの術がなった。槍が打ち出される。滞空している故に回避は最早不可能。ヘルドマンが上手にやってくれる事を信じてただただ前を目指す。
——腹のど真ん中に槍が突き刺さった。凄まじい衝撃とともに後方へ吹き飛ばされそうになる。けれどもようやっと地に触れた足に、死ぬ気で力を込めてその場に踏みとどまる。
槍が貫通した。噴き出した血がヘルドマンに降りかかる。
否、彼女もまた障壁を展開して太陽の力を防いでいた。無色透明の壁が赤く染まっていく。
それぞれの距離、ほぼゼロ。
「ほんとうに、とまらないんですね」
体の中で槍が蠢いた。何の前触れかは理解している。でももう止められない。震える手で黄金剣を突き出した。だがそれよりも先に、体内で何かが爆ぜる。
残念なことに。
コンマ数秒間に合わなかったみたいである。
01/
誰も何も一言も話さなかった。
世界に存在する音はアルテの肉体の切断面から吹き出す血の音のみ。
相対するヘルドマンはともかく、見守るクリス、レイチェル、そしてイルミの誰もが口を開くことが出来ていなかった。
そう。
黒い槍にズタズタに切り裂かれたアルテは出来の悪い案山子のように宙に浮いていたのである。枝分かれした槍の先端に首から上部、胴体、左腕、両足がぶら下がっている。まさに五体四散、痛々しい死体が生み出されていた。
「あ、あるて?」
絶望にも似た冷たさを持った沈黙を破ったのはやはりと言うべきかイルミだった。彼女は目を見開いたまま、瞬きを一切することなくふらふらと物言わなくなったアルテに近づいていく。
イルミとレイチェルを押しとどめていたはずのクリスですら自身の職務を忘れて呆然と眼前の光景を見つめるだけだった。
一歩、また一歩と足を進める度に、アルテの切り刻まれた肉片が鮮やかに見える。滴る血のむせ返るような鉄臭さが鼻につき、イルミは息を呑んだ。
「——死んじゃったの?」
応える者は誰もいない。代わりにアルテの首が槍から滑り落ちそうになった。びくりと肩を振るわしたイルミは何度か視線をあちこちに滑らせて、
そのまま意識を手放して崩れ落ちた。
02/
冬だった。
肉まんの美味い、冬だった。ついでにコンビニのカウンターに並べれられる安物のおでんも、叩き売りされている意味不明な味のカップ焼きそばも、油が回りきって妙な匂いのするホットスナックも全てが美味く感じられる冬だった。
「有田君はさ、夢とかやってみたいことないの?」
店長がレジスターの集金をしながらそんなことを聞いた。銀行員もかくやと言わんばかりの凄まじい手つきで紙幣がカウントされていく。その隣で廃棄時刻を回ったホットスナックを回収しながら『 』は答えた。
「美人な子と結婚して、可愛い子供と暮らすのが夢ですかね」
適当だった。心も思想も気合いも込められていない、社交辞令以上のものはなにもない気の抜けた返事だった。それでも店長は「そうか」と呟きながらやや嬉しそうに笑みを溢す。
『 』は訝しんだ。連勤が過ぎて店長が壊れたと思った。
店長は数え終わった紙幣を丁寧にレジスターの底へ隠すと、つらつらと言葉を並べた。
「君ってさ、結構変な子だと思うんだよ。前陳も品出しもレジ袋の補充も言いつけられたら必ず欠かさずするでしょ。普通、面倒くさがってどこかでサボるんだよ。僕がそうだったし、今もそうかもしれない。特に君みたいなアルバイトだと手を抜こうが何しようが時給は変わらないしね。……かといって今はやりの指示待ち人間というわけでもないんだ。僕は何も言っていないのに、新製品を目線の高さに移動させたり、発売日順に雑誌を並べたり、自分が良いと思ったことをする積極性もある。この間のハロウィンのポップとかびっくりするくらい絵が上手かったしね。意外な才能だよ。まあ、何だろう、器用ていうのかな。そつなくいろんな事ができるけれども、それぞれのクオリティが高い感じ」
いよいよもって話が見えなかった。いつの間にかホットスナックを弄っていたトングが止まっているが、店長はそれを咎めない。
「小さな事だけれども、そんな些細なことから僕は君がとても変で、——そしてすごい子だと思うんだよ。多分世界を変えるような発明や事件を起こす人間て君みたいな子なんじゃないかな」
まるで意味がわからなかった。ただ少しばかり真面目に働いて、少しばかり人より自分のやりたいことを優先していたら大人物認定されていた。本当に意味がわからなかった。
「意味がわかりません」
思っていたことが口に出ていた。昔からこうだった。なまじ感情の揺らぎが激しいものだから、所謂腹芸ができない。感じたこと、思ったこと、考えたことがノンストップで口から飛び出してくる。この悪癖が原因でトラブルになったことは一度や二度ではない。若干二十年そこそこの人生でこれなのだから、これから先の人生のことを思えばまだまだそれらを積み重ねていくのだろう。
店長は、怒らなかった。
「まあ、何さ。カリスマとでもいうのかな。色々と理屈立てて語ってみたけれど一言で言い表したらそんな感じ。僕は君にいつからか不思議な得体の知れなさを感じていると言うことさ。君自体は割と地味だけれど。でもそれもまた良い味なのかもね」
店長がレジスターの鍵を閉めた。それにやや遅れて『 』もホットスナックが並べられている保温ケースのガラス戸を閉じる。手にはしなびたフライドチキンが乗せられたバットがあった。
「有田君、もう今日は上がって良いよ。君のシフトは少し前に終わってるしね。引き継ぎの子はまだ裏でドリンクの補充をしているけれど、これくらいのお客さんの量なら僕一人で十分さ」
ひらひらと店長が手を振った。『 』は頭を一つ下げると大人しくバックヤードに下がった。共用ロッカーに制服を仕舞い込み、壁際に立てかけておいたリュックサックに肩を通す。勤怠管理用パソコンに従業員コードを打ち込むと画面に「お疲れ様でした」と無機質な文字が表示された。
「おっと、そうだ。これ持って行きなよ」
自動ドアの前に立ち、冬の町へ踏み出そうとした刹那、後ろから何かを投げられる。慌てて受け取ってみれば、店のシールテープが貼られた缶コーヒーだった。
食品を投げて寄越した張本人の店長がにへら、と笑った。
「さっきは失礼なことを言ってしまったから、それのお詫び。あの話はね、君みたいな不思議な子が極普通の当たり前の夢を持っていて嬉しくなって思わずしてしまったんだ」
そうですか、と返したような気がした。またもや適当な返事。でも当然のように店長は気を悪くしない。
店長はこれが最後だと締めくくる。
「あと夢の話なんだけどね、多分適うよ、それ。だって君、中々男前だしね。まあ、バツイチ子持ちアラフォーの元ヤンママに言われても嬉しくないかもしれないけれど。じゃあ、明日もまたよろしくね」
会話はそこまで。もう一度頭を下げた『 』は今度こそガラス戸の向こう側に体を移した。
冬の風が身を撫でていく。体中に纏わり付いていた美味しい匂いが消えていく。
そして——、
いつの間にか世界が繁華街から広大な平原へと切り替わり、湿った土の匂いと、満月に照らされた無限の夜の香りがした。
眼前にいた恐ろしいほどに綺麗な女が相貌を崩していた。
何が起こったのか理解するよりも先に、女が口を開いた。
——少しは思い出してくれた?
本当に殺すとかこの女。