第0話 「吸血鬼ハンターは夜に啼く」
月が綺麗だった。
蒼く美しく輝く月が心底綺麗で。
時刻は多分深夜をちょっと過ぎたぐらい。
黙っていれば体の芯まで侵されそうな静けさに満ちた夜だった。
そんな夜の下、男が一人いた。
彼は古ぼけた風車小屋の前で煙管を咥えている。世界を照らすのは大きな青い月の光と、目先で揺らめく煙草の火だけだった。
時折、風に吹かれて風車小屋の羽が、油の切れた耳障りな音を残して回っている。
昔は小麦を挽くために重宝されていたであろう村のランドマークは、最早墓標とそう意味を違えない。
感傷に浸っているのか、そうでないのか、男は時折風車小屋を見上げては物憂げに目元を細めていた。
聞くところによれば、この辺りの村はたった一匹の怪物に一夜にして喰われてしまったらしい。ただ、今現在の静けさに身を委ねていればそれが本当か嘘か、判断するのは難しかった。
しかしそういった悲劇が決して珍しくはない今の時代、一概に嘘と否定することもまた難しかった。
ほう、っと紫煙混じりの息が夜空に消えていく。
一際大きく、煙管の中で煙草の火が輝いたとき、静寂の夜に変化が訪れた。
静けさを砕き散らすように、月明かりの下で響き渡るのは狼の遠吠え。
二度三度、仲間に何かを知らせるかのように独特の鳴き声が木霊する。
その音を皮切りに男は立ち上がり、風車小屋の前に広がっていたなだらかな丘を登り始めた。
夜露に濡れた雑草を踏みしめて傾斜を上る。
遠吠えはいつしか、何かをせき立てるような鳴き声に変わり、男の方へ近づいてくる。
男はそんなことにはお構いなしに、ただ自然と、少しその辺りまで散歩しに行くような調子で足を進めていた。
やがて丘の上に見えていた満月に映り込む影が一つ。
陰はこちらに気づいているのかいないのか、肩で息をするように、ふらふらと丘の頂上付近に立っていた。
その様子を見て、男は機嫌良さそうに腰元に吊してあった剣を抜き放った。
剣は天に輝く蒼い月とは真逆の、黄金色の太陽のような刀身を持った不思議な剣だった。
狼の鳴き声がさらに近づく。丘の上に立っていた陰もそれに追われるように男のいる方へ駆け下りてきた。
中頃まで陰が駆け下りてきたとき、男は陰が足を引き摺っていることに気がついた。
そして陰の方も、丘の下で待ち受ける男に気がついていた。
「そこをどけぇ! ニンゲェン!」
陰は人ではなかった。耳まで裂けた大きな口を持つ蝙蝠の出来損ないのような化け物だった。強烈な獣の臭いと、腐臭を撒き散らし化け物は男に突進した。
化け物の背後からは二匹の大きな狼が唸り声を上げて、こちらに疾走している。
どうやら化け物はこの二匹の狼に追い立てられていたようだ。
清く正しく、化け物は狼にとってただの獲物でしかなかった。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっつっtぅtぅtぅt!!」
声にならない絶叫をはき出し、化け物は道を譲ろうとしない男に飛びかかった。
顔が人間ではない化け物は、両の手もまた人間ではなかった。蝙蝠のような黒い羽と、鋭い爪を宿した異形の腕をしていた。
掴みかかられただけで、大抵の人間は切り裂かれてしまう、そんな腕だった。
だが、化け物にとっての不幸は目の前の男が、その大抵の人間に分類されないことだった。
男の眼前に突き出された怪腕に剣閃が一筋。
黄金色の煌めきを残しながら、月の下に腕が舞う。
鮮血を牽いた両の腕が丘の草原に転がったとき、化け物は断末魔をあげることも出来ないまま、無様に倒れ込み、そして丘を転げ落ちていった。
後ろを追いかけていた二匹の狼が、嬉嬉として転がり落ちる化け物に食らいつき、その肉を引きちぎる。
「やめろ! やめてくれ! いだいいだいいだい!」
男をただの人間と侮り、殺そうとした化け物の姿はそこにはなかった。
強者に生を懇願する、普遍的な弱者がそこにいた。だが彼が幾ら泣きわめこうとも狼たちの食事が中断することはない。
狼たちはまず柔らかい内臓から生きたまま咀嚼し、新鮮味を保ったまま己の舌を潤していた。
黙ってその様子を見下ろす男の隣にいつの間にか少女が立っている。
足音一つたてず、肉薄と呼べるまで接近していた少女に男は特に驚いた様子もなく、極自然に声を掛けていた。
「イルミ、お疲れさん」
イルミと呼ばれた少女は男からの労いを受け取ってそっと瞳を細めた。
化け物が異形と呼べるなら、少女もまた異形だった。
まず瞳が紅い。細められた瞳は血のような深紅の色をしていた。
陶磁器のような、透き通った肌は白く、瞳との対比も相まってひどく病的に見える調子だった。さらに月明かりに映える白髪のような銀髪もその印象を加速させる。
「ううん、私はただ使い魔を使って翼人を追い立てただけ。何もしていないわ」
そうイルミは告げると、化け物を食らっていた二匹の狼に向かって細腕を伸ばした。
それだけの動作で荒々しく獲物を貪っていた狼は大人しくなり、やがて少女のもとに集う。
そして狼たちは特に抵抗するまでもなく、少女の陰に、月明かりで作られた陰に吸い込まれていった。
残されたのは剣を携えた男が一人と、銀髪の少女が一人。あとは物言わなくなった骸が一つだった。
「どうやら今回も外れ。ただの吸血鬼かぶれの翼人」
少女がそう告げると、男は何も言わず剣を鞘にしまって丘を下り始めた。殆ど骨になってしまった骸の脇を通り過ぎ、元来た道へ帰って行く。
少女もまた、特に何を語るでもなく、黙々と男の後をついて行った。
これは満月が厳かだった、とある一夜の話である。
とりあえずいけるところまでいきます。息抜きがてら頑張ります。