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1-1

「ん、む……。ふあ……」

 カーテンのない窓からは朝日が燦々と降り注ぐ。彼にとってはそれが目覚まし代わりだった。無理矢理体を起こすと、少々のだるさを感じた。風邪を引いたのだろうか。布団を敷いて寝るべきだった、と後悔するがもうどうにもならない。

 しかし初日から休むわけにもいかない。幸い、熱はないようだ(あくまで自己判断だが)。それが分かると彼は気合を入れて立ち上がり、眠い目を(こす)りながら玄関のダンボール箱へと向かった。

「えっと、フライパンは……」

 愛姫は一番下の箱に調理器具が入っていることを思い出すと、不安定な姿勢で積まれているダンボール箱を器用に1つ1つ下ろしていく。

 と、4つ目の箱を持ったときだった。

 カサリ。

「?」

 なんとも言えない音が聞こえた。紙の触れ合う音に似ていたが、それとはまた違った。

 カサカサ。

 もう一度聞こえた。

 どうやら足元から聞こえてくるようだ。

「??」

 怪しく思い、確認するのだがそこには何もない。

「おっと、時間がまずいな」

 腕時計の針は7時20分を回ったところだった。

 これから朝食を作って食べ、その後準備をするとなると遅刻ギリギリになりそうだ。急いでフライパンを取り出さないと――そう思って最後の箱を持ったときだった。

 

 カサカサカサ……カササ……プチィッ!


「……ッ!!!!!」

 日常的には味わえない感触が足の裏から全身へ伝わっていく。

 足を後ろに引いた際に起きた、不慮の事故だった。

 踏んでしまった。例の黒いアレを右の足で、素晴らしいタイミングで。

 恐る恐る右足をどかしてみる。

 それは潰れて、黒く照り輝いた。

「…」

 数秒の沈黙。

「…あはは、冗談だろ」

 頬を軽くつねってみる。当然のように痛みを感じた。

「ははははは……」


「ぅうんぎゃああああああ! ゴキ○リをふんだぁあ!」


 愛姫は自分がアパートの二階に引っ越してきたことを忘れて、思いっきり叫んだ。さらに、持っていたダンボール箱を自らの足の上へ落下させ、ズドン! という大きな音とともに激痛でもう一度絶叫する。

 勿論、こんな騒ぎをアパートの他の入居者が気付かないわけもない。


「ど、どうしたんですかっ!!」


 開け放たれた玄関のドアの先には、眼鏡をかけた女性が立っていた。

 愛姫は座り込んで、足の指をさすりながら彼女を見る。昨日挨拶をしにいったので、彼は名前を知っていた。

「いたたっ……。す、すいません、辺見さん。大丈夫ですので」

 眼鏡の女性は昨日、辺見(へんみ)秋恵(あきえ)と名乗っていた。見た目的には歳は20代後半くらい、痩せていておどおどした感じである。

「本当に、大丈夫ですか?」

 秋恵は、愛姫に何度もそう尋ねた。彼女はかなりの心配性のようである。

(心配しすぎだろ……。さすがにここまでしつこいとうるさくなってくるぞ)

 5回ほどその質問を繰り返した秋恵は、愛姫が苛立っていることに気付いたのか、渋々といった様子で彼の自宅から去っていく。

 幸い、その他の住人は気にかけていないようだった。愛姫は溜め息をつくと、秋恵が開けっ放しにしていったドアを閉めた。そして、引越しの際に梱包用に使った新聞紙でゴキ○リの死骸を処理し、やっとのことで手に入れたフライパンを片手に台所へと向かう。

「時間も押してるし、早くしないとな」

 両親が食堂を経営していることもあり、彼は料理上手だ。慣れた手つきで手際よく調理していく。

 あっという間に朝食は出来上がった。

 ハムエッグ、サラダ、トースト、牛乳といたって普通の朝食だ。

 本当ならばゆっくり味わいたいところだが、そんな余裕はない。

 5分足らずで完食し、歯を磨き、制服を着る。

 そして、カバンを持って玄関を出る。

 腕時計は7時55分を指していた。8時10分までに登校すれば大丈夫らしいので、学校までゆっくり歩いても間に合うだろう。

 愛姫はほっと胸を撫でおろす。

「やっほ、おはよ、凪くん!」

 背後から、突然声をかけられた。

 見れば、愛姫の転校先である凰華高校の制服を着た女の子が立っていた。

「なんだカナか……」

「なんだ、なんてひどいよー。ここは爽やかに挨拶しないと義妹の好感度がさがっちゃうよ」

 カナと呼ばれた女の子はプクゥ、と頬をふくらませて言った。

 自ら発言した通り、彼女は愛姫の義理の妹である。名前は愛姫(まなひめ)可菜子(かなこ)、愛姫とは同い年だ。

 愛姫の両親は双方とも再婚者で、愛姫は父親の子ども、可菜子は母親の子どもである。

 わけあって、愛姫兄妹は両親を都会に置いたまま田舎に出てくることになった。

 ちなみに、愛姫と可菜子はアパートの隣同士の部屋に住んでいる。当初は1つの部屋に2人で住むはずだったのだが、2人だけで一緒に生活するのが互いに恥ずかしく思えたのだ。(両親に相談したところ、家賃が想定していた半額以下であったためか、両親は2部屋にすることを快諾してくれた)

 そんなこんなで今に至るわけだ。

「義妹の好感度……ねぇ? 俺は別に下がっても構わないが」

「もう、凪くんたら、そんな返事ばっかり。つまんないのー」

 むくれた顔のまま、可菜子は階段を下りていく。

 愛姫はそんな彼女のことをじっと見つめていた。

 その行為に不自然な点はない。しかし、彼女が右足を地に着けるたびにカシャ、と軽い金属音が発せられる。

 明るく振舞う少女の右足を見れば、金属製の鎧のような、重々しい雰囲気を放つ義足が付けられていた。


 彼女に右足は存在しない。


 それは残酷ながらも紛れもない事実だった。とある事件に巻き込まれた彼女は今から約10年前――7歳のときに足を失った。

 きっとまだ心のどこかで悲しんでいるのだろうな、などと愛姫は思う。

「凪くーん、はやくはやくーっ!」

 愛姫がボーッとしているうちに、可菜子は階段を下りきっていた。急かされた愛姫は、咄嗟に腕時計を見る。

「やばっ! カナ、急ぐぞ!」

 既に時刻は8時を回っていた。愛姫は猛スピードで階段を駆け下り、可菜子を抜き去って走っていく。

「あっ、待ってー! 私速くは走れないんだからっ!」

 たどたどしくもしっかりと足で地を蹴り、可菜子は後ろから彼を追う。あまりスピードは出ていないが、確かに彼女は自らの義足(みぎあし)で駆けている。

 カシャ、カシャ、カシャ、と規則正しく響く金属音は生き物のように愛姫の体内を跳ねる。

「――ッ」

 何だか、愛姫は嬉しくなった。

 かすかな笑い声と共に聞こえてくる温かい金属音には、可菜子の喜びが詰まっている気がした。

「やばい! マジで遅れるっ!」

 半分照れ隠しをするように、彼はより一層スピードを上げて走っていった。

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