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「ん、む……。ふあ……」
カーテンのない窓からは朝日が燦々と降り注ぐ。彼にとってはそれが目覚まし代わりだった。無理矢理体を起こすと、少々のだるさを感じた。風邪を引いたのだろうか。布団を敷いて寝るべきだった、と後悔するがもうどうにもならない。
しかし初日から休むわけにもいかない。幸い、熱はないようだ(あくまで自己判断だが)。それが分かると彼は気合を入れて立ち上がり、眠い目を擦りながら玄関のダンボール箱へと向かった。
「えっと、フライパンは……」
愛姫は一番下の箱に調理器具が入っていることを思い出すと、不安定な姿勢で積まれているダンボール箱を器用に1つ1つ下ろしていく。
と、4つ目の箱を持ったときだった。
カサリ。
「?」
なんとも言えない音が聞こえた。紙の触れ合う音に似ていたが、それとはまた違った。
カサカサ。
もう一度聞こえた。
どうやら足元から聞こえてくるようだ。
「??」
怪しく思い、確認するのだがそこには何もない。
「おっと、時間がまずいな」
腕時計の針は7時20分を回ったところだった。
これから朝食を作って食べ、その後準備をするとなると遅刻ギリギリになりそうだ。急いでフライパンを取り出さないと――そう思って最後の箱を持ったときだった。
カサカサカサ……カササ……プチィッ!
「……ッ!!!!!」
日常的には味わえない感触が足の裏から全身へ伝わっていく。
足を後ろに引いた際に起きた、不慮の事故だった。
踏んでしまった。例の黒いアレを右の足で、素晴らしいタイミングで。
恐る恐る右足をどかしてみる。
それは潰れて、黒く照り輝いた。
「…」
数秒の沈黙。
「…あはは、冗談だろ」
頬を軽くつねってみる。当然のように痛みを感じた。
「ははははは……」
「ぅうんぎゃああああああ! ゴキ○リをふんだぁあ!」
愛姫は自分がアパートの二階に引っ越してきたことを忘れて、思いっきり叫んだ。さらに、持っていたダンボール箱を自らの足の上へ落下させ、ズドン! という大きな音とともに激痛でもう一度絶叫する。
勿論、こんな騒ぎをアパートの他の入居者が気付かないわけもない。
「ど、どうしたんですかっ!!」
開け放たれた玄関のドアの先には、眼鏡をかけた女性が立っていた。
愛姫は座り込んで、足の指をさすりながら彼女を見る。昨日挨拶をしにいったので、彼は名前を知っていた。
「いたたっ……。す、すいません、辺見さん。大丈夫ですので」
眼鏡の女性は昨日、辺見秋恵と名乗っていた。見た目的には歳は20代後半くらい、痩せていておどおどした感じである。
「本当に、大丈夫ですか?」
秋恵は、愛姫に何度もそう尋ねた。彼女はかなりの心配性のようである。
(心配しすぎだろ……。さすがにここまでしつこいとうるさくなってくるぞ)
5回ほどその質問を繰り返した秋恵は、愛姫が苛立っていることに気付いたのか、渋々といった様子で彼の自宅から去っていく。
幸い、その他の住人は気にかけていないようだった。愛姫は溜め息をつくと、秋恵が開けっ放しにしていったドアを閉めた。そして、引越しの際に梱包用に使った新聞紙でゴキ○リの死骸を処理し、やっとのことで手に入れたフライパンを片手に台所へと向かう。
「時間も押してるし、早くしないとな」
両親が食堂を経営していることもあり、彼は料理上手だ。慣れた手つきで手際よく調理していく。
あっという間に朝食は出来上がった。
ハムエッグ、サラダ、トースト、牛乳といたって普通の朝食だ。
本当ならばゆっくり味わいたいところだが、そんな余裕はない。
5分足らずで完食し、歯を磨き、制服を着る。
そして、カバンを持って玄関を出る。
腕時計は7時55分を指していた。8時10分までに登校すれば大丈夫らしいので、学校までゆっくり歩いても間に合うだろう。
愛姫はほっと胸を撫でおろす。
「やっほ、おはよ、凪くん!」
背後から、突然声をかけられた。
見れば、愛姫の転校先である凰華高校の制服を着た女の子が立っていた。
「なんだカナか……」
「なんだ、なんてひどいよー。ここは爽やかに挨拶しないと義妹の好感度がさがっちゃうよ」
カナと呼ばれた女の子はプクゥ、と頬をふくらませて言った。
自ら発言した通り、彼女は愛姫の義理の妹である。名前は愛姫可菜子、愛姫とは同い年だ。
愛姫の両親は双方とも再婚者で、愛姫は父親の子ども、可菜子は母親の子どもである。
わけあって、愛姫兄妹は両親を都会に置いたまま田舎に出てくることになった。
ちなみに、愛姫と可菜子はアパートの隣同士の部屋に住んでいる。当初は1つの部屋に2人で住むはずだったのだが、2人だけで一緒に生活するのが互いに恥ずかしく思えたのだ。(両親に相談したところ、家賃が想定していた半額以下であったためか、両親は2部屋にすることを快諾してくれた)
そんなこんなで今に至るわけだ。
「義妹の好感度……ねぇ? 俺は別に下がっても構わないが」
「もう、凪くんたら、そんな返事ばっかり。つまんないのー」
むくれた顔のまま、可菜子は階段を下りていく。
愛姫はそんな彼女のことをじっと見つめていた。
その行為に不自然な点はない。しかし、彼女が右足を地に着けるたびにカシャ、と軽い金属音が発せられる。
明るく振舞う少女の右足を見れば、金属製の鎧のような、重々しい雰囲気を放つ義足が付けられていた。
彼女に右足は存在しない。
それは残酷ながらも紛れもない事実だった。とある事件に巻き込まれた彼女は今から約10年前――7歳のときに足を失った。
きっとまだ心のどこかで悲しんでいるのだろうな、などと愛姫は思う。
「凪くーん、はやくはやくーっ!」
愛姫がボーッとしているうちに、可菜子は階段を下りきっていた。急かされた愛姫は、咄嗟に腕時計を見る。
「やばっ! カナ、急ぐぞ!」
既に時刻は8時を回っていた。愛姫は猛スピードで階段を駆け下り、可菜子を抜き去って走っていく。
「あっ、待ってー! 私速くは走れないんだからっ!」
たどたどしくもしっかりと足で地を蹴り、可菜子は後ろから彼を追う。あまりスピードは出ていないが、確かに彼女は自らの義足で駆けている。
カシャ、カシャ、カシャ、と規則正しく響く金属音は生き物のように愛姫の体内を跳ねる。
「――ッ」
何だか、愛姫は嬉しくなった。
かすかな笑い声と共に聞こえてくる温かい金属音には、可菜子の喜びが詰まっている気がした。
「やばい! マジで遅れるっ!」
半分照れ隠しをするように、彼はより一層スピードを上げて走っていった。




