第12話 仮想決闘会はじまります
風祈学院の朝は、いつも風の音から始まる。
けれど、その日はいつもよりざわざわしていた。
「見た? 掲示板!」
「やっぱり今年もやるんだって!」
「一年戦線、全員出場だってよ!」
廊下のあちこちから、浮き足立った声が聞こえてくる。
祈りの風が、ちょっとだけ早足で駆け抜けていくみたいだった。
「……何事?」
教室に入ろうとしたところで、俺は思わず立ち止まる。
教室前の掲示板の前に、人だかりができている。
その中心から、ノノハが勢いよく手を振ってきた。
「勇く〜ん! 来ましたね、主役!」
「え、何、俺なんかした?」
「まだ何もしてないから、これからしてもらうんですよ!」
ノノハは、ぴょん、と一歩前に出て、
掲示板の紙をぺしぺし叩いた。
そこには大きくこう書かれている。
【一年戦線・仮想決闘会 開催のお知らせ】
「……仮想決闘会?」
「はい! 簡単に言うと――」
「一年戦線の、模擬戦トーナメントだ」
後ろから、落ち着いた声がした。
振り向くと、ヴァンが腕を組んで立っている。
その隣には、目を輝かせたシュンの姿もあった。
「祈装と祈りの使い方の確認。
実戦前の連携テスト。
それから、一年の“見せ場”だな」
「“見せ場”が一番大事そうに聞こえるんだけど」
「実際大事だろ?」
シュンが、にやっと笑う。
「ここで目立てば、来年以降の任務にも有利かもだし。
なにより――」
シュンは視線を横に滑らせた。
そこには、掲示板をじっと見つめているシエラの横顔があった。
「“あいつには負けたくねぇ”って相手と、
正面からやり合えるんだぜ?」
たしかに、それは少し、胸がざわつく響きだった。
◇
「っと、組み合わせ……どれどれ……」
ノノハが身を乗り出して、紙に書かれた名前を読み上げていく。
「えーと、第一試合が――
《ヴァン vs シュン》!」
「いきなりそこなんだな」
ヴァンが、小さく肩をすくめる。
シュンは、逆に嬉しそうに口角を上げた。
「いいじゃん。守りが固いやつとぶつかるの、分かりやすくて好きだわ」
「手加減はしないぞ」
「望むところ!」
早くも火花が散っている。
「第二試合は……《ノノハ vs 一年戦線候補の子たち》っと。
これは、歌祈りの応用戦なんですね〜。楽しそう」
「楽しそうって、自分のことだろ、それ」
シエラが、若干呆れた声で突っ込む。
ノノハは笑ってごまかし、すぐ三つ目の項目を指差した。
「で、気になる第三試合が――
《天霧 勇 vs シエラ》」
「……は?」
思わず、間抜けな声が出た。
「ちょっ――待って」
「お?」
同時に振り向いた俺とシエラの視線が、空中でぶつかる。
シエラが紙を引きはがさんばかりの勢いで近づき、
文字をにらみつけた。
「……ほんとに書いてる」
「偽物じゃないよな?」
「こんな手の込んだ悪戯するやつ、学院にいませんよ。
内容、理にかなってますし」
いつの間にか背後に来ていたミオ先生が、ひょいと紙をつまみ上げた。
「一年戦線の“軸同士”を、今のうちにぶつけておく。
祈りの質と、相性の最終確認。
ゼロラインや現場に出る前に済ませたいことです」
「“軸”って、誰と誰のことです?」
シュンが訊ねる。
「決まってるでしょ」
ミオ先生は、あっさりと答えた。
「線を選ぶ天霧と、
その線の先で風を殴りに行くシエラですよ」
心臓が、一拍分跳ねた気がした。
シエラが小さく舌打ちする。
「……なんか、先生にそう言われると腹立つ」
「褒めてるんですけどね?」
「言いかたってもんがあるでしょ」
そう言いながらも、シエラの頬は少し赤い。
俺も、自分の胸がどう動いているのか、
少しよく分からなくなっていた。
◇
仮想決闘会の開催は、三日後に決まった。
そのあいだ一年戦線は、それぞれのやり方で準備を進めた。
ヴァンは、祈装防壁の細かい調整を何度も繰り返し、
シュンは足場の縦移動をひたすら練習し、
ノノハは「場の空気を整える歌」のレパートリーを増やしていた。
俺はというと――
「仮想決闘会用の稽古だってな。
どうせお前、シエラとの戦い方に悩んでるだろ?」
放課後、訓練場でカガリ先生に捕まっていた。
「なんで分かるんですか」
「顔に書いてある」
即答された。
「シエラの突撃、真正面から受け止められるやつなんて、
上級生でもそう多くねぇからな」
「先生は受け止められるんですよね?」
「俺は殴る側だ」
自慢げに言うことじゃない。
「で、どうするよ。
あいつの真正面からの一撃、
避ける? 受ける? 流す?」
問われて、俺は少しだけ考え込んだ。
シエラの祈りは、真っ直ぐだ。
風の祈装も、剣の軌道も、全部。
だからこそ、少しでも判断を誤ると、そのまままとめて持っていかれる。
「……できれば、全部やりたいです」
「欲張りだな」
カガリ先生が口元を歪める。
「最初の突撃は、避ける。
避けきれないぶんは、受ける。
それでも残ったぶんを、流す」
「随分贅沢な選択肢だな」
「でも、あいつの全力を“ただ避ける”だけなのは、
何か違う気がするんです」
言葉にしながら、胸の奥が少しずつ整っていく。
「どうせぶつかるなら。
あいつの“全部本気で来い”って祈りに、
ちゃんと付き合いたい」
カガリ先生の目が、そこで初めて楽しそうな色を帯びた。
「……いいねぇ」
祈装剣の柄を、軽く叩く。
「よし、じゃあ、その贅沢な願い叶えてやるよ」
カガリ先生は野生動物のような笑みを浮かべると、
俺の前に立った。
「まずは、俺の一撃、避けるとこからだな」
「え」
「全力で行くから、死ぬ気で避けろ」
「いや死ぬと困るんですけど!?」
「細けぇことは気にすんな!」
――そのあとしばらく、
訓練場には俺の情けない悲鳴と、
カガリ先生の豪快な笑い声が響き続けることになる。
◇
仮想決闘会当日。
学院中庭の一角は、見慣れた石畳ではなく、
淡い光で組まれた立体の足場へと姿を変えていた。
大小の足場が折り重なり、
風の通り道が縦横無尽に走る、即席の立体戦場。
「おお〜……すご……」
観客席に座ったノノハが、純粋に目を輝かせる。
その隣で、ヴァンとシュンがストレッチをしながら戦場を見下ろす。
「結構高低差あるな」
「楽しくなってきた」
教師席には、ユラ先生とミオ先生。
リツも童顔のまま腕を組んで、慎重に祈りの流れを見ている。
「結界の調整は?」
「問題ありません。致命的な衝突は全部吸ってくれます」
「じゃあ、あとは本人たち次第か〜」
ユラ先生が伸びをしながら、にやっと笑った。
「泣いても笑っても、これは“遊びじゃない遊び”だね」
◇
第一試合。
《ヴァン vs シュン》
開始の合図と同時に、シュンが風を蹴って飛び出した。
祈装靴に絡んだ風が、彼の身体を軽く持ち上げる。
縦横無尽に足場を渡り歩き、そのたびに残像のような風の軌跡が光る。
一方のヴァンは、最初の一歩を踏みしめるまでが遅かった。
だが、その一歩は重かった。
足元に祈りが染み込み、足場そのものがわずかに色を変える。
守りの線が、少しずつ積み上がっていくような感覚。
速さ vs 積み重ね。
祈りと祈りがぶつかるたび、結界が低く鳴った。
結果だけ言えば、互いの祈りがぶつかったところで結界が光り、
引き分けに近い形で終了した。
でも、観客の空気は十分あったまった。
◇
第二試合。
《ノノハ vs 一年戦線候補チーム》
「え〜、ではこれから〜、
“みんなで楽しく練習した結果が出るといいな戦”を始めたいと思います〜!」
ノノハの張りのある声が、戦場と観客席を一度に包む。
歌祈りの響きが場の空気を柔らかくし、
候補チームの緊張を少しずつ解いていく。
祈りはぶつかり合うだけじゃなく、
重なり合うこともできる。
それを観客に見せる、いい中休みの試合だった。
◇
そして――
「第三試合、《天霧 勇 vs シエラ》。
準備してください」
ミオ先生の声が、中庭によく通る。
観客席のざわめきが、一瞬だけ沈む。
代わりに、期待と好奇心が混ざった視線が、
戦場の中央に集まっていた。
「勇くん、がんばってくださいね〜!」
ノノハが手を振る。
「負けんなよ、線読み!」
シュンが叫ぶ。
「どっちが勝っても、俺は嬉しいけどな」
ヴァンが、少しだけ笑う。
それら全部を背中で受けながら、俺は戦場に足を踏み入れた。
正面、対角線上。
シエラもまた、足場を踏みしめてこちらを見ている。
風が、彼女の髪を揺らした。
「準備はいいか?」
ユラ先生が、二人の間に立って問いかける。
「いつでも」
「とっくに」
答えは、ほぼ同時だった。
「うん、いいねぇ」
ユラ先生は満足げに頷き、一歩下がる。
「では――
仮想決闘会・第三試合、“天霧 勇 vs シエラ”」
祈りの風が、一瞬だけ静止する。
「開始!」
◇
風が、ぶつかった。
正面から、真正面に。
シエラの踏み込みは、知ってるはずなのに、
目で追った瞬間にはもう間合いの内側に入り込んでいた。
(速っ――)
考えるより先に、体が動く。
さっき頭の中で何度もなぞった線を、そのまま足元に引く。
まずは一発目――「避ける」線。
足場の端をかすめるように、風を踏む。
シエラの祈装剣が、さっきまで俺の胸があった空間を裂いた。
風圧だけで肌がひりつく。
「避けた!」
観客席から誰かの声。
けど、当然シエラがそれで止まるわけがない。
「そこッ!」
すぐさま二撃目が追いかけてくる。
さっきよりも低い位置から跳ね上げる軌道。
今度は――
足元に描いてあった二本目の線に、踵を乗せる。
祈りを「受ける」ための線。
両腕に祈装を巡らせ、
剣ごと受け止める形でシエラの一撃を受けた。
骨に響く衝撃。
膝がわずかにきしむ。
「っ……!」
押し込まれながらも、踏みとどまる。
真正面からぶつかった瞬間、
シエラの目が、ぐっと近くなった。
「……なに、それ」
押し合いながら、低く呟く。
「最初の一発、ちゃんと避けたと思ったら。
次は正面で受け止めるとかさ」
「贅沢にいきたいって、先生に言われたから」
「意味わかんない」
そう言いつつ、口元には少しだけ笑みが浮かんでいた。
(三発目が来る)
シエラは、二発でやめない。
押し込んだ力を、そのまま次の踏み込みに変えてくる。
受け止めていた祈装剣の重みが、一瞬ふっと抜けた。
(来る)
シエラが、剣を軸にして身体をひねる気配。
力を抜いて跳ね上がり、頭上から振り下ろすつもりだ。
だから――
三本目の線に、踵を滑らせる。
「流す」線。
受けていた力を、そのまま横へとずらす。
シエラの剣筋を、真上に跳ね上げさせるように、
自分の身体をわずかに回転させた。
「っ――!」
シエラのバランスが、ほんの少しだけ崩れる。
剣先が空を切る。
風祈の祈りが、足場の上で散らばった。
そこに――俺の風を差し込む。
「シエラ!」
呼びかけと同時に、祈装を前に突き出す。
結界が、ぴん、と音を立てた。
俺の祈装の先端と、
シエラの喉元の間に、薄い光の膜が走る。
致命傷になる手前で、全部の衝撃が吸い込まれた。
ふたり分の風が、はじかれて高く舞い上がる。
観客席が、どっとざわめいた。
「勇が先に“届いた”……?」
「いやでも、さっきの押し合い、完全にシエラのほうが……」
そんな声が耳の端に飛び込んでくる。
目の前には、ほんの少しだけ息を乱したシエラ。
喉元ギリギリのところで止まった光の膜が、
きらきらと揺れていた。
「……ずる」
「え?」
「避けて、受けて、流して。
あたしの突撃、三回も味わっといてからの、それはずる」
「それを言うなら、最初から全力で踏み込んできたほうがずるいと思うけど」
「そっちは性格の問題」
何の自覚もない顔で言い切るんじゃない、人のことを。
「そこまで!」
ユラ先生の声が、風を切って飛んできた。
同時に、足元の戦場がふっと色を変える。
仮想戦場を構築していた祈装の線が、ゆっくりとほどけていった。
「《天霧 勇 vs シエラ》、
ここでいったん中断としま〜す」
「“中断”?」
思わず聞き返す。
「これ以上やると、結界のほうが先に悲鳴あげそうだからね。
あれ以上の本気は、実戦でおやり」
ユラ先生は、ふたりの間に歩み出ると、
楽しそうに俺たちの肩をぽん、と叩いた。
「結果だけで言うなら“先に届いたのは勇”。
でも“最初から届かせる気で踏み込んでたのはシエラ”。
だからこの勝負は――」
わざと少しだけ間を置く。
「一年戦線に、ちゃんと“ふたり軸”ができました、ってことでいいんじゃない?」
観客席から、自然と拍手が起こった。
教師席のほうでは、リツが祈り板を見下ろしながら小さく頷いている。
ミオ先生は何かをメモしていた。
……見られてる。
◇
仮想決闘会は、そのあとも続いた。
他の一年戦の試合。
候補組同士の祈装戦。
ノノハの歌祈りを使った簡単な協力戦。
どれも学院らしく、賑やかで真剣で、どこか不器用だった。
夕方、全試合が終わるころには、
中庭には程よい疲労感と、妙な高揚だけが残っていた。
その夜、寮の屋上でシエラと並んで風に当たりながら、
俺は「怖さ」と「楽しさ」が同居している不思議な感覚を、
ようやく少しだけ言葉にできた気がした。
――そして翌日。
◇
その日、風祈学院の空はやけに騒がしかった。
雲が荒れているとか、風が強いとかじゃない。
もっとこう――心の中身だけが、風に乗って飛び回っているみたいな、落ち着かなさ。
「……なんか、うるさいな」
屋上への階段を上りながら、思わず呟く。
風の祈りは、だいたい素直だ。
楽しいときは軽くて、悲しいときは重くて、
怒ってるときは尖ってる。
で――今日の風祈学院の風は。
(ごちゃごちゃしてる……)
浮かんでは沈んで、絡まって、ほどけて、またぶつかる。
そんな祈りが、校舎のあちこちから上がってきていた。
理由は、すぐに分かる。
「聞いた? 昨日の仮想決闘会」
「やばかったよね、一年戦線」
「勇とシエラ、あれもうさ、なんていうかさ……」
廊下のそこかしこで、そんな声が飛び交っていたからだ。
「……“なんていうかさ”って何だろうな」
聞こえないふりをしつつ教室に入ると、
ノノハが机に突っ伏しながらこちらに手を振ってくる。
「勇くん〜〜。人気者はつらいですね〜」
「何もしてないんだけど?」
「昨日、あんな派手にしておいて〜?
“何もしてない”はさすがにないですよ?」
ノノハは、にやにやと笑う。
「一年の女子の間で、今“勇とシエラはそういう感じなのか”会議が開催されてますからね〜」
「そんな会議いらないでしょ」
「必要なんですよ、心の平和のために」
心の平和。
それはたしかに、この学院ではけっこう大事なものだ。
祈りは、心の平和が乱れるとすぐに顔を出すから。
「……あれ、シエラは?」
教室を見回して問いかけると、
ヴァンが顎で窓のほうを指した。
「さっきまでいたんだがな。どこ行ったんだろうな」
「朝からどっか連れてかれてたよ」
シュンが、机に足を乗せたまま言う。
「保健室のほうで、女子たちの“事情聴取”やってたっぽい」
「事情聴取って」
「“どういう関係なんですか?”ってやつ」
おそらく、その一言で察する人間は多いだろう。
俺は頭を抱えた。
◇
午前中の授業は、妙に落ち着きがなかった。
みんなちゃんとノートを取っているし、
先生の話も、それなりには聞いている。
けれど、
(祈りが、じっとしてない……)
机の上で指をいじる子。
教科書の端に、誰かの名前を小さく書いては消す子。
窓の外を見ながら、頬杖をついている子。
その全部から、微妙に似た色の風が立ち上っていた。
不安。
期待。
嫉妬。
諦め。
それから、まだ名前のない気持ち。
全部まとめて「こじらせ」と呼びたくなるような祈りだ。
◇
昼休み。
俺たちは、いつものように中庭の隅で弁当を広げていた。
風の通りが良くて、
人の通りは少ない、ちょうどいい場所。
「ふ〜……疲れました……」
ノノハが、箸を持ったままテーブルに突っ伏した。
「何もしてないのに?」
「心が忙しかったんですよ!」
彼女は顔を上げて、真剣な表情になる。
「今日だけで、“勇くんってシエラちゃんと本当にそういう?”って聞かれた回数、
指で数えるのやめましたからね!」
「なんでノノハが全部受けてるの」
「一番話しかけやすいからですって」
それは、たしかにそうかもしれない。
「で、なんて答えてるんだ?」
ヴァンが笑いながら聞く。
「“本人たちもよく分かってませんよ〜”って」
「正解だな」
「正解なのか?」
俺は箸を止めた。
シエラは、黙々と弁当を食べている。
耳だけ、ほんの少し赤い。
シュンは、そんな様子を見てニヤニヤしていた。
「まぁでもさ。
こういうの、放っておくとそのうち祈りに乗るんだよな〜」
「どういう意味?」
シエラが訝しげに眉をひそめる。
「誰かのこと考えすぎて、
“いなくなれば楽なのに”とか
“あの人の世界から自分以外消えればいいのに”とか」
シュンが、さらっと言った。
「そういうの、全部祈りの材料になる」
「物騒な例えから入るのやめてくれる?」
ノノハが顔をしかめる。
「でも、分かりやすいだろ」
シュンは肩をすくめた。
「祈りってのはさ、
“叶ったらいいな”の方向だけじゃなくて、
“叶っちゃったらまずいな”の方向にも滑るから」
俺は、思わず周りの風を探った。
さっきからざわついている感情の風。
その中に、たしかに「黒まではいかないけれど、灰色がかったやつ」が混ざっている。
嫉妬。
不満。
不安。
そして――誰か一人だけをぐっと見つめる視線。
その向き先は、必ずしも俺やシエラではない。
別のクラス、別の相手。
でも、似た色だ。
「……やな感じ」
ぽつりと漏らした瞬間だった。
中庭の端から、ばちっ、と小さな音がした。
◇
見れば、木陰のベンチのあたりで、
風がひときわ強く渦を巻いている。
ベンチには、同じクラスの子が二人座っていた。
一人は、おとなしくて目立たないタイプの女子――千紗。
もう一人は、その友達のリオ。
千紗の膝の上には、手作りらしい弁当箱。
その向かいには、上級生の男子が立っていた。
いつも、風祈の校庭で走り回っている人――
名前はたしか、ハル先輩。
彼の姿が見えた瞬間、
千紗の祈りの色が、ぐっと濃くなった。
(……あ)
遅かった。
「ご、ごめんなさいっ!」
千紗が勢いよく立ち上がる。
弁当箱がベンチから落ちそうになって、リオが慌てて支えた。
「そんな、謝ることないって。
俺、ちゃんと嬉しかったよ」
ハル先輩は、困ったように笑っていた。
「でも、その……っ」
「千紗」
「千紗ちゃん」
二人の声が、奇妙に重なる。
千紗の祈りが、さらに揺れた。
好きな人に弁当を渡した。
でも、その人は、千紗の“気持ち”までは受け取ってくれなかった。
「嬉しい」と言ってくれたのは、たぶん本心だ。
けれど、その先には進んでくれない。
そのうえ――
(リオ、先輩のこと好きなんだ……)
やっかいな真実が、千紗の心に引っかかっている。
友達と、好きな人と。
両方に、“ちゃんとした笑顔”を向けたい。
でも、そのどちらも、今は上手くできない。
そんなぐちゃぐちゃが、
ぜんぶ祈りに流れ込んでいく。
風が、渦を巻く。
中庭の空気が、きしんだ。
「まずい」
俺は席を立った。
「勇?」
「ちょっと行ってくる」
そう言いながら、渦の中心に向かって走る。
ヴァンとシュンも、少し距離を置きながらついてくる。
後ろでノノハが、そっと息を吸い込む音がした。
◇
「千紗!」
呼びかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。
振り返った顔は、泣き出しそうなほど強ばっている。
「やだ……」
唇が、小刻みに震えていた。
「やだやだやだ……こんなの……っ」
祈りが、形を取り始める。
「いなくなればいい」の形でもなく、
「全部終わればいい」の形でもない。
もっと小さくて、もっと厄介な――
「“見えなければいい”か」
思わず口から漏れた。
目の前の現実。
友達の気持ち。
自分の気持ち。
先輩の曖昧な笑顔。
それら全部を見たくなくて、
心のどこかで「見えなくなればいい」と思ってしまった。
その祈りが、風を使って中庭の景色を歪ませている。
木々の輪郭が滲む。
ベンチが遠くなったり近くなったりする。
人の顔が、霧の向こうみたいに見えなくなる。
千紗自身の視界も、きっと同じように歪んでいるはずだ。
「千紗ちゃん!」
リオが彼女の肩を掴もうとした瞬間、
風の膜がその手をはじいた。
「っ……!」
リオの表情が苦しそうに歪む。
その顔を見て、千紗の祈りがまた揺れる。
「ごめっ……」
謝ろうとして、言葉が形にならない。
謝りたい相手が多すぎて、
どこからどう謝ればいいのか分からない。
その混乱が、さらに風をかき乱す。
◇
(線を、決めろ)
胸の奥で、自分に言い聞かせる。
全部を同時に救えるほど、俺の祈りは大きくない。
でも――
「千紗」
俺は、彼女と風の渦のあいだに入り込んだ。
足元の石畳に、線を一本引く。
「まず、“見える”ところからでいい」
千紗が、わずかに顔を上げる。
「見えなくなってるのは、“全部”じゃない」
風の膜を、指先で探る。
濃く濁っている部分と、
まだ透明なまま残っている部分。
その境目を、そっとなぞる。
「――ここから、ここまで」
俺は、風の渦の外縁に線を描いた。
祈りが、じり、と逆らう。
「ここより“外”は――」
そこでいったん言葉を切り、はっきり告げる。
「ちゃんと、見えるようにする」
その一言と同時に、線に祈りを流し込む。
ぱきん、と透明な殻が割れるような感覚。
千紗の周りを包んでいた風の膜の外側が、
すっと薄くなっていく。
歪んでいた木々の輪郭が戻り、
揺れていたベンチが定位置に収まる。
ハル先輩の姿。
リオの顔。
周りで心配そうに見ているクラスメイトたち。
“ここより外”のものたちが、千紗の視界に戻ってきた。
「……っ」
千紗の瞳が、大きく見開かれる。
「千紗ちゃん!」
リオが、もう一度手を伸ばす。
今度は、風の膜に弾かれなかった。
細い指が、ちゃんと千紗の肩に触れる。
「大丈夫? 苦しくない?」
「……リオ」
千紗の喉から、かすれた声が漏れた。
その瞬間――渦の中心、いちばん濃く濁っていた部分が、
ほんの少しだけほどける。
◇
「“中”は、自分で決めるんだ」
俺は、足元の線を見下ろしながら言った。
「今は、“外”だけでいい。
リオの顔と、先輩の顔と、周りで心配してるやつらの顔」
そして、胸の奥がひりつくのを感じながら続ける。
「“自分がどうしたいか”ってところは――
今、ここで決めなくていい」
千紗の祈りが、少しだけ揺れた。
「見たくないって思った自分の気持ちとか。
友達の気持ちとぶつかりそうで怖い気持ちとか」
言いながら、自分にも言い聞かせているような気がした。
「それはきっと、“外”がちゃんと見えてからじゃないと、
選べない」
千紗は、きゅっと唇を噛んだ。
それから、ぽつりと言う。
「……リオの顔は、ちゃんと見たい」
その言葉に、風が、少しだけ柔らかく揺れた。
◇
「ノノハ」
振り向かずに呼ぶと、すぐ返事が返ってきた。
「はい〜!」
「場の空気、頼めるか」
「任されました〜!」
ノノハはすっと立ち上がり、
中庭全体に届くように、静かに息を吸い込んだ。
「じゃあみなさん〜、
ちょっとだけ“落ち着くための歌”をお届けしますね〜」
やわらかな歌声が、中庭に広がる。
さっきまでざわついていた祈りの風が、
少しずつ落ち着いていく。
千紗の周りを渦巻いていた風も、
ノノハの歌に引かれるように弱まっていった。
やがて――渦は完全にほどける。
そこに残ったのは、泣きそうな顔で立ち尽くす千紗と、
その肩を支えるリオと、
困ったように頭を掻くハル先輩だけだった。
◇
「――なるほど。
これが“恋と祈りのこじれ方”の、学院内版ってやつか」
いつの間にか近くまで来ていたユラ先生が、
そう言ってため息をついた。
すぐ後ろにはミオ先生もいて、
千紗たち三人にそっと近づいていく。
「千紗さん、少し保健室に行きましょうか。
リオさんとハルくんも、一緒に来てください」
「す、すみません……」
千紗がかすれた声で頭を下げる。
「謝るのは、あとでゆっくりでいいですよ」
ミオ先生は、柔らかく笑った。
「まずは、今どう苦しかったか、ちゃんとお話しましょう」
三人は先生たちと一緒に中庭を後にした。
残された中庭には、気まずさと安堵と、
「見てはいけないものを見てしまった気分」と、
いろんな感情が入り混じった空気だけが残る。
◇
「……やっぱ、恋ってこじれると厄介だな」
シュンが頭をがしがし掻きながら言った。
「人のこと言えんのか、お前」
ヴァンが呆れたように返す。
ノノハは、どっと疲れたようにベンチに座り込んだ。
「ふ〜……心の仕事、しました……」
「ありがとな」
俺は、さっき引いた線を見下ろしながら言った。
“外”は、ちゃんと見えるようにした。
でも、“中”――千紗自身の気持ちのほうは、
これからゆっくり向き合っていくしかない。
(恋と祈りは、よく似てる)
ゼロラインでアスハに言われた言葉が、
少しだけ違う形で胸に響いた。
誰かを強く想うこと。
それが、力にもなれば、歪みの種にもなること。
そして、その歪み方次第では――
学院の中でさえ、簡単に“事件”になること。
それを、今日ははっきりと見せつけられた。
◇
その日の放課後。
俺たちはミオ先生に呼び出され、
「恋と祈り」の関係について、もう少し深い話を聞くことになる。
そして夜、寮の屋上で、
シエラと並んで風に当たりながら交わした会話が――
この“こじれた祈り”の先にあるものを、
ほんの少しだけ教えてくれるの




