第11話 それぞれの朝と、遠くで揺れる影
目が覚めたとき、まず最初に自分の腕を動かしてみた。
(……ちゃんと動くな)
昨日の疲れが、骨の奥にまで沈んでいる。
でも、動けないほどじゃない。
窓の外では、いつもの朝の風が学院の塔を撫でていた。
あの工房とは違う、素直に吹き抜ける風だ。
顔を洗って制服に袖を通す。
鏡越しに自分の顔を見ると、目の下にうっすらと疲れの影があった。
「……まあ、このくらいなら“頑張った勲章”ってことでいいか」
誰に聞かせるでもなく呟いて、部屋を出る。
◇
食堂は、いつもより少しざわざわしていた。
昨日の任務の噂が、早くも広まっているのだろう。
一年戦線チームが姿を見せるたび、あちこちの席で視線が動く。
「おはよ、勇」
シエラが先に来ていて、手を振った。
その向かいにはヴァン、隣にはノノハとシュン。
いつものメンバーが、いつもの席に揃っている。
トレーを持って近づくと、シュンがにやりと笑った。
「生きてたか、“めんどうブレイカー”」
「誰がそんなあだ名つけた」
「レイカ」
ノノハが即答した。
「昨日の帰りに、“あいつさ、無祈から見たら完全にめんどうな奴だよな〜”ってケラケラ笑ってました〜」
「褒められてるのか、貶されてるのか分からないな」
「半分ずつくらいなんじゃない?」
シエラが笑う。
「少なくとも、“真っ先に狙われる側”ではあると思うけど」
「それ慰めになってる?」
「なってないね」
そんな会話をしていると、後ろから声をかけられた。
「一年戦線」
振り向くと、二年の上級生が立っていた。
どこか気まずそうな顔をしている。
「昨日の件、聞いた。……助かった」
「え?」
「俺の実家、あの工房の祈祷塔の近くなんだ」
ぽつりと、それだけ。
「昨日、連絡板で“暴走鎮圧”って見てさ。
誰が行ったのかまでは知らなかったけど……お前らだったんだってな」
「たまたまです」
思わずそう返す。
「俺たちじゃなくても、誰かが行ってましたよ」
「それでも、だよ」
上級生は、少しだけ目を伏せた。
「“まだ祈れるようにしてくれた”ことには変わりない。
ありがとな」
それだけ言って、足早に去っていった。
トレーの上のパンが、急に重くなった気がした。
「……そういう顔、するんだ」
シエラが、じっとこちらを見ている。
「どんな顔だよ」
「“お礼を正面から受け取るの苦手です”って顔」
「図星つくな」
思わず頭を掻いた。
「でも、嫌じゃないでしょ?」
「……まあ」
否定できなかった。
◇
朝食のあと、一度教室に集められた。
黒板の前には、ユラ先生とリツ、それからミオ先生。
教師三人がそろうのは、かなり珍しい。
「えー、まずはー」
ユラ先生が、いつもの調子で手を叩いた。
「昨日、ちゃんと生きて帰ってきてくれてありがと〜。
これが何より大事です。拍手〜」
半分強制的に、教室の中で拍手が起こる。
「で、次に大事なのは、“何が起こったかちゃんと共有すること”です」
ユラ先生は、すぐ真面目な顔に戻った。
「一年戦線だけじゃなく、クラス全員が知っておくべきこともある。
だから今日は、昨日の任務をもとにした“無祈講義・初級編”です」
「講義名が軽いです〜」
ノノハが小声で突っ込む。
「いいの。“怖い名前”にすると、逆に変な期待で見ちゃう人も出るからね」
ユラ先生は肩をすくめた。
「リツ〜、説明お願い」
「はい」
リツが祈り板を掲げると、黒板の上に工房の図と、
昨日見た黒い円の未完成な線が浮かび上がった。
「昨日、天霧くんたちが対処した工房を中心に、
同じ時間帯に“小規模な祈りの乱れ”が起きていました」
ざわ、と教室の空気が揺れる。
「全部が無祈化したわけではありません。
ですが、“広がろうとしていた”傾向は見られます」
「つまり、工房だけが狙われてたわけじゃないってことですか」
ユウゴが真剣な顔で問う。
「そうですね。
“あちこちを少しずつ揺らして、その中で特に崩れかけた場所を押し倒す”
そんなやり方に見えます」
「卑怯だな」
誰かがぽつりと呟いた。
「“ちゃんと勝負してから壊す”んじゃなくて、
“勝負にならないところを狙う”感じ」
「卑怯だけど、効率的でもある」
ミオ先生が言う。
「だからこそ、こちら側にできることは――」
「“揺れてる場所に、先に気づくこと”だね〜」
ユラ先生が、チョークで黒板を軽く叩いた。
「天霧くん」
「はい」
「昨日、“ここからここまで”って線を決めたとき、
何を基準にした?」
教室中の視線が集まる。
少し考えてから、言葉を選んだ。
「……上手く言えませんけど。
“今ならまだ間に合う”って思った場所と、
“もう完全に飲まれてしまってる”場所の境目、でしょうか」
「その境目、具体的には?」
「祈りの“色”がまだ残ってるかどうかです。
黒に引きずられてはいるけど、
完全に“何もしない”に変わっていない線」
工房で見た札の欠片。
胸板のあたりに微かに残っていた祈り。
「あそこまで飲み込まれると、
今の僕じゃ引き戻せないな、ってところは手を出さないようにしました」
「そこを“ちゃんと分けた”のが、今回いちばん良かったところだよ」
ミオ先生が、静かに言った。
「全部助けようとして、全部中途半端にしてたら、
あの工房まるごと無祈に食われてた」
「……でも、全部助けたかったって気持ちも、ある」
「それはあっていいよ」
ミオ先生は柔らかく笑った。
「それがないなら、戦線向きじゃない。
ただ、それと“どこまでできるか”を分けて考えられるかどうかは、別の話」
「“助けたい”と、“助けられる”を分ける、か」
シエラが小さく復唱した。
「難しいね」
「難しいから、時間をかけて身につけるものです」
リツが言葉を継ぐ。
「だから、天霧くん一人に押しつけるつもりはありません。
これから他属性との合同戦線が本格的に始まります。
線を読む人、祈装を組む人、歌う人、守る人、壊す人。
それぞれの“ここからここまで”が重なって、ようやく一つの戦いになります」
「……それ、ちょっと楽しみかも」
ノノハが、目をきらきらさせた。
「他の学院の歌も聞けるってことですよね〜」
「そこか」
シュンが苦笑する。
「でもまあ、俺も他の雷祈の術式、見てみたいな」
「私は、炎祈の子たちと、もう一回ちゃんと戦ってみたい」
シエラが拳を握る。
その横顔は、昨日工房で祈装兵を受け止めていたときと同じくらい、真剣だった。
◇
その日の午後、
訓練場の一角で、風祈一年戦線と火祈の面々が再び顔を合わせた。
「お、思ったより元気そうだな、風祈」
レイカが両手を腰に当てて笑う。
「寝込んでたら、山ほど煽りに来てやろうと思ってたのに」
「朝食ちゃんと食べられたくらいには元気です」
そう返すと、レイカは満足そうに頷いた。
「よし、それなら追加訓練だ」
「ですよね〜」
ノノハが肩を落とす。
「今度は何ですか」
「昨日の工房で、一番厄介だったのは何だった?」
カガリ先生が問う。
「……足場、ですかね」
ヴァンが即答した。
「床にこぼれた黒の上で踏ん張ろうとすると、
踏んだ瞬間に足場が消えたみたいになって」
「そうか」
カガリ先生が、にやりと笑う。
「じゃあ今日のテーマは“足場が信用できない場所での戦い方”だ」
「嫌なテーマだな!」
シュンが叫んだが、容赦はない。
訓練場の地面に、カガリ先生とレイカたちが次々と印を刻んでいく。
そこだけ、風の流れが不自然に弱くなる。
熱も、すっと逃げていく。
無祈そのものではないけれど、
似た条件を人工的に作る訓練だ。
「まずは風祈だけでやってみろ」
カガリ先生が腕を組む。
「“信用できない足場”を前提に、どう動くか考えろ」
「……信用してる仲間のほうに足を出す、とか」
シエラがぼそっと言った。
「足場より、人間を信用したほうがまだマシって意味で」
「お、いいなそれ」
レイカが楽しそうに笑う。
「じゃあ試してみようぜ、“人間足場作戦”」
「名前が雑だ」
そうぼやきつつ、
俺たちは再び、訓練場の中央へと歩み出した。
黒い札を追い返したあとの、
“楽じゃない訓練”が始まる。
世界の端っこで揺れている無祈に届くのは、
こういう地味で、めんどうで、それでもやめない一歩なのだろう。
◇
――そのころ。
風祈学院から、いくつかの山と川を越えた先。
静かな祈り街の一角。
古い水祈の祈祷塔の裏手にある、小さな井戸のほとりで、
ひとりの少女が桶を洗っていた。
「……ん?」
井戸の水面に、黒い“濁り”が一瞬だけ走る。
少女――水祈学院の制服を着たその子は、
眉をひそめて水面を覗き込んだ。
「なに、これ」
水に混ざった黒は、すぐに形を失って消えていく。
ただ、消える前に、
どこかで聞いたことのあるような声が、水底から微かにした。
『祈るの、やめちゃいなよ』
少女は、きゅっと桶を握りしめた。
その瞳には、風祈の一年戦線がまだ知らない、
別の「めんどう」と戦ってきた強さが宿っていた。
「……やだよ」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく答える。
「だって、あたしが祈るのやめたら、
あの人、また笑えなくなっちゃうもん」
黒い濁りは、それ以上何も言わず、
井戸の底へと沈んでいった。
風と、水と、炎と。
世界のあちこちで、“めんどうでも祈り続ける奴ら”が、
少しずつ増えていく。
無祈の影が本格的に形を持つときまで、
まだ少し、時間が残されている――その猶予を、
俺たちはこのとき、訓練場のど真ん中で必死に使っていた。




