第6話 火祈学院からの使者
ゼロライン実習の翌朝、
風祈学院の空は、やけに澄んで見えた。
昨日見た灰色の境界を思い出したせいか、
普通の空の青さと、雲の白さが妙にくっきりしている。
「……はぁ」
中庭のベンチに座って、思わずため息が漏れた。
体調は悪くない。頭痛もない。
ただ、胸の奥が少しだけ重い。
ゼロラインで見た、遠くの黒い“何か”。
あれの冷たさだけが、まだ喉のあたりに引っかかっている。
「勇〜!」
元気すぎる声が、その重さを上書きしてきた。
「いたいた。朝ごはんサボってどこ行ったかと思った!」
「サボってない。少し早く食べ終わっただけだ」
「それ、サボり予備軍って言うんだよ?」
シエラが隣にどかっと腰を下ろす。
槍を抱えるように持ったまま、足をぶらぶらさせている。
「どう? 昨日の“境界酔い”、残ってる?」
「酔ってたつもりはないんだけど」
「ゼロラインでへろへろになりかけてた人が何か言ってる〜」
からかうような声に、苦笑が漏れた。
たしかに、あの冷たい風の中で線を伸ばしたあと、
足元の感覚が薄くなりかけた瞬間はあった。
その手前で自分で止まったから倒れずに済んだだけだ。
「シエラは平気なのか」
「ん〜、ちょっと胸のあたりがざわざわするけど、
あたしは『うわ、嫌!』って言うタイミング早めだからね!」
「自分で言うな」
「大事なことだよ? 嫌なもんは嫌って言うの!」
その軽さに少し救われる。
「他のみんなは?」
「ヴァンは今、装備の点検してた。
ノノハは“境界の歌”って言って、なんか新しい曲作ってたよ。
シュンは……『あの黒いやつ、いつかぶん殴る』って、
すごい物騒なこと言いながら朝稽古してた」
「いつも通りだな」
「ね!」
シエラは満足そうに頷いた。
あいつらがいつも通りでいてくれると、
ゼロラインで見たあの冷たさも、少しだけ遠くなる。
◇
「一年戦線チーム〜、いたら保健室寄って〜」
中庭のほうから、のんびりした声が響いた。
振り向くと、ミオ先生が手を振っている。
「……呼ばれた」
「だね。行こ」
シエラが立ち上がる。
保健室は、学院の中庭に面した一番日の当たる場所にあった。
扉を開けると、いつもの柔らかい空気と、
乾いた薬草の香りが迎えてくれる。
「おはようございます〜」
ノノハが、すでにベッドの端に座っていた。
シュンは壁にもたれて腕を組み、ヴァンは窓際で外を見ている。
「全員揃ったわね」
ミオ先生が、にこっと笑った。
「はい、境界帰り一年戦線チームの簡易検査タイムです」
「検査って、昨日もしましたよね?」
俺が言うと、ミオ先生は首を横に振る。
「昨日は“倒れそうな子がいないか”を見るだけ。
今日は、“残ってるもの”を見る日」
「残ってるもの、ですか」
「怖さとか、変なざわざわとか。
そういうの、ゼロラインから連れて帰ってきてないかチェックするの」
言われてみれば、胸の重さはまさにそれだ。
「じゃあ、順番にいきましょう。
はい、勇くん、手」
ミオ先生が、椅子を引いて座るように促す。
言われたとおりに手を出すと、
指先を包むように、柔らかい風が流れた。
「……うん。線はちゃんと自分のところに戻ってきてる。
ただ、ちょっと“遠くを見ようとしすぎた”跡が残ってるわね」
「そんなこと、分かるんですか」
「保健室はね、そういうとこなの」
ミオ先生は、少しだけ誇らしげに笑う。
「大丈夫。これは日々の生活で上書きされるわ。
授業受けて、ごはん食べて、くだらない話して、ちゃんと寝る」
「くだらない話は、シエラが得意です」
「失礼な」
シエラが即座に突っ込んでくる。
「じゃあ勇くんは、“遠くを見過ぎない”を今日の目標に。
目の前の線だけ見る練習ね」
「……やってみます」
◇
全員の検査が終わったあと、
ミオ先生が少しだけ真面目な顔になった。
「で、本題」
「今の、前振りだったんですか」
「もちろん」
ミオ先生が、棚から一枚の祈り板を取り出す。
「風祈学院に、正式な通達が来ました」
板の表面に、きっちりした文字が流れる。
祈導局印。
各属性学院の印。
そして、その隣に、小さく風祈学院の紋章。
「“多属性合同戦線編成計画”」
ミオ先生が、そこだけゆっくり読み上げた。
「第四祈路の安定のため、
各属性学院から“代表戦線チーム”を一つずつ出して、
新しい“多属性戦線”を組むんだって」
「多属性……」
ノノハが小さくつぶやく。
「風祈学院の代表は、当然――」
「はい、一年戦線チームです」
ミオ先生は、さらっと言い切った。
「二年生や三年生は?」
「もちろん上の学年にも戦える子たちはいるけど、
“第四祈路の一番近くで動いてる”のは、
今は一年戦線チームだからね」
その言い方は、俺たちをちゃんと評価してくれている声だった。
「ただし、いい話ばかりじゃないわ」
ミオ先生の瞳が、少しだけ細くなる。
「この計画、祈導局がかなり深く絡んでる」
祈導局――
祈装兵を作り、祈りの効率だけを見て線を詰め込もうとする連中。
「だから風祈側からも、ちゃんと“窓口”を送り込む。
それが、君たち一年戦線チーム」
「つまり、祈導局の変なやり方をその場で止めろ、ってことですか」
俺が言うと、ミオ先生は苦笑した。
「そんな格好いいものじゃないけどね。
でも、“変だな”と思ったらすぐに戻って来られる人たちじゃないと、
多属性戦線はすぐに壊れるわ」
「戻る勇気ってやつだな」
シュンが小さく頷く。
「でもさ」
シエラが手を挙げた。
「他の属性の人たちって、どんな感じなんだろ。
火祈学院とか、水祈学院とか」
「それはね――」
ミオ先生が、意味ありげに笑う。
「今日、学院にひとつ目の“代表チーム”が来ます」
「え、もう?」
「行動早いのよ、火祈学院は。
だから最初の顔合わせ、頑張ってきてね」
「えっ、えっ、今日!?」
シエラが、急にそわそわし始めた。
「ちょっと待って、服とか髪とか!」
「お前、戦う前より顔合わせのほうが緊張してないか」
「だって他属性だよ? 初顔合わせだよ?
変な印象持たれたくないじゃん!」
シエラの慌てぶりに、保健室が少しだけ明るくなる。
「勇くん」
ミオ先生が、最後に俺を見る。
「さっき言った“遠くを見過ぎない”って話、覚えてる?」
「はい」
「他の属性の人と一緒に動くときも、同じ。
“全部分かろうとしない”こと。
まずは、“目の前の線”だけ見て、そこから繋いでいけばいい」
「……分かりました」
全部を一度に理解しようとするほど、ゼロラインの冷たさが近づく気がする。
そう思えば、この助言はすとんと胸に落ちた。
◇
昼前、風祈学院の正門前が、いつもより人で賑わっていた。
先生たち数人と、上級生たちが並んでいる。
「来たよ」
シエラが、隣でぐっと息を飲む。
遠くの空が、かすかに赤くゆらめいた。
炎と熱を含んだ風が、一瞬だけ学院の上を撫でる。
それは、怒っているわけでも、威圧しているわけでもなく、
自分の存在をまっすぐに主張する熱だった。
次の瞬間、正門前の空間に、炎の紋章がひとつ浮かぶ。
そこから五つの影が、順番に歩み出てきた。
「火祈学院代表戦線チーム――参上、ってやつだな」
先頭の少年が、少しだけ芝居がかった声で言った。
赤い髪を後ろで束ね、
炎の紋章が刻まれた祈り装束をまとっている。
「俺は焔道レイカ。火祈学院一年戦線チームの隊長だ。
よろしく頼む、風祈の“線読み”さん」
いきなりこっちを見てきたので、思わず目を瞬いた。
「……なんで俺のことを」
「話くらい、聞いてるさ」
レイカは、にっと笑う。
「ゼロラインまで行って帰ってきた線読みがいるってな。
火祈の連中の間でも噂になってる」
「噂、ですか」
「悪い噂じゃない。期待込みだ」
それがかえって落ち着かない。
「紹介する」
レイカが、後ろの四人を順番に手で示した。
「でかい槌持ってるのが、タケル。
見ての通り、殴り担当だ」
「火の打撃は、叩いてなんぼ」
タケルと呼ばれた少年が、重そうな槌を担ぎ上げる。
筋肉質だが、目つきは穏やかだった。
「こっちは、サラ」
次に前に出たのは、炎色の髪を二つ結びにした少女だった。
「遠くから焼く専門。
でも、料理も上手いから、怒らせるとごはん抜きになるぞ」
「変な紹介しないでよ」
サラが頬をふくらませる。
「サラ・ミナトです。よろしく。
焦げたらあたしのせいだと思ってください」
「いや、焦がさないでください」
「善処します」
「次、ユウゴ」
青みがかった黒髪の少年が、軽く会釈する。
「火祈のくせに冷静担当。
温度と炎の流れ管理してくれる頭脳枠だ」
「焔道、言い方雑いぞ」
ユウゴがため息をつく。
「火は、勢いだけじゃすぐ燃え尽きる。
そのへんの調整を任されてる、ユウゴ・カンナです。よろしく」
「最後、ミレイ」
レイカの声が少しだけ柔らかくなる。
前に出てきたのは、小柄な少女だった。
髪は淡い茶色で、火祈の装束を少し大きめに着ている。
「あ、あの……ミレイ・ホノ。
炎の中で、燃えすぎないようにする祈りを、少しだけ……」
「こいつは“火の中の避難路”作るのがうまい。
焦げる前に逃げ道作ってくれる」
レイカの説明に、ミレイが慌てて首を振る。
「そ、そんなにすごくないよ……!」
「すごいよ。俺が保証する」
その言い方は、隊長としての信頼がこもっていた。
◇
「風祈学院代表、一年戦線チームだ」
今度は、リツが俺たちのほうを見た。
「勇くん、紹介を」
「え、俺ですか」
「線読みは、“繋ぎ役”だからね」
ごく自然に言われてしまった。
仕方なく、俺は一歩前に出た。
「風祈学院一年戦線チーム、天霧勇です。
線を見て、マシな道を探すのが、いちおうの役目です」
「“マシな道”って表現、好きだな」
レイカが笑う。
「完全勝利より、マシな生還ってか」
「……そんな感じです」
「気が合いそうだ」
レイカの目が、少しだけ楽しそうに光った。
「残りの四人は?」
「突破役のルーファ=シエラ。
盾と支点のヴァン・グラッド。
支援と調律のノノハ・フィル。
切り札担当のシュン・カザミ」
名前を呼ぶと、それぞれ一歩ずつ前に出る。
「シエラです! 槍と前のめり担当です!」
「ヴァン・グラッド。
倒れにくい壁を目指してる」
「ノノハ・フィルです〜。
風をそろえたり、歌ったりします〜」
「シュン・カザミ。
雷鳴は、必要なときにだけ落とす」
火祈の五人が、それぞれ興味深そうに俺たちを見ている。
「なんかさ」
シエラが小声で言った。
「こっちもこっちでだいぶ濃いけど、向こうも十分濃くない?」
「人のこと言えない」
シュンが小さく笑う。
◇
「さて」
全員の紹介が終わったところで、
アスハさんが前に出た。
「今日のところは顔合わせだけだ」
境界代表の声が、空気を引き締める。
「火祈と風祈が一緒に動くのは、今までも何度かあった。
だが、“多属性戦線”として並ぶのは初めてだ」
「祈導局の奴らが、また余計なこと考えてるからな」
カガリ先生が、露骨に眉をひそめる。
「効率だの何だの言って、
また誰か一人を部品にするような案を出してきかねん」
「今回は、その芽をつぶすための“合同戦線”でもあります」
リツが続ける。
「火祈学院の代表戦線チームと、風祈学院一年戦線チーム。
君たちはしばらく、一緒に動いてもらいます」
「一緒に、って具体的には?」
ユウゴが、冷静に尋ねる。
「まずは、祈装兵の暴走が多い地区の調査から。
その先に、ゼロライン周辺での共同任務も想定しています」
「ゼロラインも、か」
レイカが、わずかに目を細める。
「そこに行って帰ってきた風祈の一年がいるなら、心強いな」
その視線がまた、俺のほうへ向く。
期待されているのは分かる。
その重さに、少しだけ肩がこわばる。
(全部に応えようとすると、また遠くを見過ぎる)
さっきミオ先生に言われたことを、思い出す。
(目の前の線から、だ)
「できる範囲で、やります」
そう答えると、レイカはにっと笑った。
「そういう返事、嫌いじゃない」
◇
顔合わせが終わり、
火祈の連中が学院内の客間に案内されていったあと。
「勇」
誰かに呼ばれて振り向くと、
柱の影からユラ先生が手を振っていた。
「さっきの紹介、よかったよ〜」
「聞いてたんですか」
「聞いてた聞いてた。
“マシな道を探す”って、自分で言えたの偉い」
ユラ先生は、いたずらっぽく笑いながらも、目は真面目だった。
「これから、たぶんね。
“世界をどうするか”みたいな話が、ちょこちょこ顔を出すと思うの」
「世界を、ですか。」
「でも、勇の役目はそこじゃない」
ユラ先生は、俺の額を指で軽く弾いた。
「勇の仕事は、“今ここ”でマシな線を探すこと。
世界全部を一人でなんとかしようとするのは、
前の時代で終わりにしたはずだからね」
“前の時代”が何を指しているのか、詳しくは分からない。
けれど、“一人で何とかしようとするやり方はもうやらない”という言葉だけは、
はっきりと胸に残った。
「……分かりました」
「よろしい!」
またその言い方だ。
「じゃ、午後からは火祈との合同訓練ね〜。
シエラ、張り切りすぎて転ばないように見といてあげて」
「俺の役目、そういうところにもあるんですか」
「あるある。線読みは、戦線の保護者だからね〜」
保護者というには若すぎるし、責任は重すぎる。
けれど、そう言われると、
少しだけ背筋が伸びるのも事実だった。
◇
その日の夕方。
学院のずっと上――白室βのソファの上で。
「……うん、よくやってるね、勇」
白い部屋の主――転生神シロは、
祈りの線を通して地上の様子を眺めていた。
風祈学院の中庭。
火祈学院の客間。
境界で揺れているゼロライン。
その全部を、少し離れた場所から見守るように。
「思ったより、“遠くを見すぎない”のが上手い」
白いソファに、すとんと身体を沈める。
「前の君は、どうしても全部見ようとしちゃってたからね」
誰にも聞こえない独り言。
祈核殿の奥では、ルカダスが新しい世界図を更新している。
独立統祈領域では、別の線がまた一本引かれたところだ。
「火祈が動き出した、ってことは――」
シロは、視線を少し上に向ける。
白室βの天井越しに、
ゼロラインのさらに向こう側で蠢く黒い“何か”の気配がある。
祈りもしない。
諦めもしない。
ただ、世界そのものを面倒くさがっているような、冷たい穴。
「君たちが、あれと正面からぶつかる日が来るんだろうな」
声には、不安よりも、どこか信頼の色が混じっていた。
「そのときまで、ちゃんと“マシなほう”を選べるように。
天霧勇としての今を、ちゃんと積み重ねておいてね」
シロは、口元に小さな笑みを浮かべる。
「君が、自分の過去を自分の言葉で受け止められるその瞬間まで、
ぼくは上から線を見ているよ」
もちろん、その中身が明かされるのは、
物語の、もっとずっと後の話だ。
今はまだ、風祈学院の一年戦線チームと、
火祈学院の代表戦線チームが顔を合わせたばかり。
多属性戦線と、ゼロラインの向こう側の“何か”との戦いは、
ここから、ゆっくりと始まろうとしていた。




