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第5話 ゼロライン実習へ



 朝の風が、いつもより冷たかった。


 風祈学院の門をくぐると、

 中庭の祈り板に、いつもと違う札が一枚貼られている。


【本日:一年戦線チーム 境界実習】

【集合場所:南塔裏 転送陣前】

【担当:学院長リツ/境界代表アスハ】


「……始まっちゃったな」


 思わずそう呟くと、横からシエラがひょこっと顔を出す。


「何その“処刑当日”みたいな顔。

 ゼロラインだよ? 境界だよ? ワクワクしない?」


「しない」


「ちょっとはしなさいよ!」


 シエラは、朝から元気だった。

 緊張していないわけじゃないのだろうが、それを上から塗りつぶしている感じだ。


「ヴァンたちは?」


「ここ」


 振り向くと、ヴァンがいつも通りの無表情で立っている。

 その隣で、ノノハが小さく手を振った。


「おはようございます〜。

 なんか、風がピリピリしてますね、今日」


「だな」


 少し離れた柱にもたれて、シュンが欠伸をかみ殺している。


「ゼロラインって聞くだけで、空気が変わるもんだな」


「おはようございます、一年戦線チーム」


 童顔の声が、後ろからした。


 振り向くと、リツ学院長が祈り板を両手に抱えて立っている。

 その後ろには、腕を組んだアスハさんの姿。


「揃ってますね。時間通り、優秀です」


「遅刻したら境界置いてきぼりとかありそうですし」


 シエラが冗談めかして言うと、リツはにこっと笑った。


「置いてきぼりにはしませんよ。

 連れて帰るまでが実習ですからね」


「……“連れて帰るまでが”って言い方、不安になるんですけど」


「気のせいですよ」


 気のせいにしていいのか、それ。



 南塔の裏手には、昨日まではなかった転送陣が描かれていた。


 円の中に、重なり合う祈り文字。

 その中心には、白と黒が溶け合ったような紋章が一つ。


「これが、境界通路への窓です」


 リツが膝を折り、紋章の縁を指でなぞる。


「第四祈路ができてから、学院とゼロラインを直接結ぶ道がいくつか増えました。

 これはそのうちの一つ」


「ゼロラインって――」


 ノノハが、おそるおそる尋ねる。


「そんなに、怖い場所なんですか?」


「怖いですよ?」


 あっさりと答えたのは、アスハさんだった。


「世界と世界のあいだの線だ。

 切り落とされた祈りも、行き場をなくした魂も、

 “ここじゃないどこか”に流されかけてる」


 その言い方は、実際に何度もそこに立った人のものだった。


「でも」


 リツが続ける。


「だからこそ、“繋ぎ換え”のできる場所でもあります。

 ゼロラインは、切るためだけの線ではない。

 君たちには、それもちゃんと見てほしい」


「今日やること、ざっくり言うとね〜」


 ユラ先生の声がしそうなところだが、今日は来ていない。

 代わりに、その役をアスハさんが引き受けた。


「一、境界の空気に慣れる。

 二、自分の祈りの線がどこまで伸びるか確かめる。

 三、“ここは越えちゃいけない”ってところを体で覚える」


「三つ目ですでに怖いんですけど」


 シエラが小声で漏らす。


「怖いときは、怖いってちゃんと言え」


 アスハさんが、ちらっとこちらを見る。


「ビビってるって言えないやつほど、余計なとこまで踏み込んで死にかける」


「……ビビってます。ちょっと」


「よろしい」


 短くそう言ってから、アスハさんは転送陣の中心に立った。


「じゃあ、行くぞ。一年戦線チーム。」



 転送陣が光り出すと同時に、足元の感覚がふっと抜けた。


 風が、上下の区別を失って渦を巻く。

 耳の奥で、遠い祈りと呻き声が混ざったようなざわめきが鳴る。


 視界が、白から黒へ、黒から灰へ、何度も塗り替えられ――

 やがて、ひとつの「線」に落ち着いた。


 細くも太くもない、灰色の一本線。

 その上に、俺たちは立っていた。


「……ここが」


 息が、少しだけ詰まる。


 左右を見ても、上下を見ても、空間がよく分からない。


 真っ白でも真っ黒でもない、濁った灰色。

 そこに、何本もの線が浮かんでは消えていく。


 遠くで、誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが諦める声がして――

 それらが全部、こちらには届ききらない。


 ここが、ゼロライン。


 世界と世界のあいだの境界線。


「うわぁ……」


 シエラが、素直な声を漏らした。


「気持ち悪いけど、ちょっときれい……?」


「分かる〜。

 でも、長く見てると酔いそうですね、これ」


 ノノハは胸に手を当てて、小さく息を整えている。


「足元、ふわふわしてる」


 ヴァンが、慎重に足を踏みしめる。


「でも、ちゃんと“線の上”にいる感じはする」


「シュンは?」


「……嫌いじゃないな」


 シュンは短く答えた。


「危ない匂いがする場所のほうが、集中できる」


「そういうのを素で言うな」


 アスハさんが呆れたように言いながらも、

 その目は俺たちの様子をじっと観察していた。


「勇」


「はい」


「線、どう見える」


 問われて、俺は視界を少しだけ濃くする。


 灰色の空間に、いくつもの色付きの線が走っていた。


 青い線。緑の線。黄の線。

 どれも途中でちぎれかけていて、端がほつれている。


 そのあいだを、無色の“穴”が漂っていた。


 昨日、祈装兵の中で見たものと同じ。

 ただ、ここにある穴は、もっと大きく、もっと深い。


 近づくだけで、足元がぐらつく。


「……無祈が、多すぎる」


 思わず息を飲む。


「でも、全部じゃない。

 線が、まだ向こう側に繋がってるところもある」


「そうだ」


 アスハさんが頷く。


「ゼロラインは、切れた線の“捨て場”じゃない。

 繋ぎ換えるための“途中”だ」


 足元の線を、靴のつま先で軽く叩く。


「ここで一回“零”にしてから、

 別の世界に繋ぐやり方もある」


「……怖いですね」


 自分でも、なぜそう言ったのか分からない。


 でも、口から出てしまった言葉は戻せない。


「何が」


「自分が“零”にされるって考えたら」


 思っていたより、その想像は簡単だった。


 名前も、祈りも、記憶も、役目も。

 全部いったん切られて、

 “部品として使いやすい形”にされてから繋ぎ直される。


「誰か一人を零にして、全部丸く収めるって話は――

 こっち側から見たら、楽でいいのかもしれませんけど」


 口の中がひどく乾く。


「それが、もう嫌なんだろ?」


 アスハさんの声には、苦い笑いが混じっていた。


「だから、お前らみたいな“まともなバカ”を育ててる」


「まともな……バカ?」


 シエラが首をかしげる。


「誰か一人を零にするより、

 みんなでちょっとずつ持ったほうがマシだって本気で思えるやつだ」


 アスハさんは、小さく肩をすくめた。


「世界を一人で背負う勇者より、

 世界の面倒を“そこそこ見てやる”やつが増えたほうが、まだマシだ」


 勇者、という単語に、また胸が少しざわつく。


 今度も、そのざわつきは深追いしない。

 ここで立ち止まると、ゼロラインの風に足を取られそうだった。



「さて」


 リツが、灰色の空間の中で祈り板を広げる。


「ここからは、実際に“自分の線”を確かめてもらいます」


 祈り板に、薄く色づいた線が五本浮かぶ。


「これは、君たち自身の祈りの線。

 学院での生活、これまでの願い、今の恐さと期待。

 それらが混ざった“今の君”の線です」


 それぞれ色が違っていた。


 シエラは、風の色に近い薄緑。

 ヴァンは、少し重たい青。

 ノノハは、柔らかい淡黄。

 シュンは、白く光る灰。

 俺の線は――薄い銀色だった。


「これを、ゼロラインに立てたまま、どこまで伸ばせるか。

 “無理せずに届く限界”を、今日は見つけてください」


「無理したら?」


 シュンが確認するように聞く。


「ミオ先生に怒られます」


 間髪入れずに、リツが答えた。


「それと、ボクとアスハにも怒られます」


「三重に怒られたくないですね〜」


 ノノハが苦笑する。


「じゃ、順番にいってみましょうか。

 まずは――」


「勇だ」


 アスハさんが、静かに言った。


「線読みからやらせろ。

 お前がどこまで伸ばせるかで、他の四人の目安も変わる」


「……りょ、了解です」


 変なところで噛んだ。


 足元の線が、少し震える。


「深呼吸」


 すぐそばで、ミオ先生の声がした……気がした。

 今日は一緒に来ていないはずなのに、

 保健室で何度も聞いたあの言葉が、自然と頭に浮かぶ。


 息を吸って、吐く。


 視界に映る線のうち、「自分の一本」だけに意識を絞る。


 薄い銀色の線が、足元からすっと伸びていた。


(ここから、どこまで――)


 力を入れすぎないように、そっと“前”に意識を向ける。


 線が、一歩分伸びる。

 足元の感覚は安定したまま。


 二歩分。

 三歩分。


 穴がひとつ、視界の右側をかすめる。

 近づくと、耳鳴りがした。


(ここは、駄目だ)


 その穴の方向には、線を伸ばさない。

 遠回りでもいいから、別の道を探す。


 灰色の空間の向こうに、薄く光る点が見えた。


 祈りの塊。

 誰かが「まだ諦めていない」場所。


 そこを目印に、線を伸ばしていく。


 五歩。

 十歩。


 頭の奥がじわじわと重くなる。

 それでも、足元の感覚はまだ崩れていない。


「……ここまで、かな」


 自分でそう言った瞬間、線がぴたりと止まった。


 それ以上伸ばそうとすると、

 足元の線が細くなっていくのが分かる。


(無理すると、自分のほうが削れる)


 昨日、保健室で言われたことが、やっと腑に落ちた気がした。


「リツ」


 アスハさんが、祈り板を覗き込む。


「どれくらいだ」


「ゼロラインから、五つ先の“世界の縁”までですね」


 リツは、少し目を丸くした。


「一年にしては、かなり伸びます」


「ここで“かなり”って言うの、やめてほしいんですけど」


 苦笑が漏れる。


「伸ばしすぎたら倒れる自信あります」


「自信は持たなくていいですよ」


 リツは微妙な励まし方をしてくる。


「大事なのは、“ここまで”を自分で言えたことです。

 それができる線読みは、そう多くない」


 アスハさんが、じっと俺の顔を見る。


「顔色は、まだマシだな」


「“まだ”ってつけないでください」


「限界ぎりぎりまで伸ばしてから倒れてたやつを知ってるからな」


 あからさまに誰かを思い出したような口ぶりだった。


「次、シエラ」


「はーい!」


 シエラは一歩前に出ると、

 自分の線――薄緑の線に意識を集中させた。


「……あ、なんか分かるかも」


 目を閉じたまま呟く。


「あたしの線、“進みたいほう”がはっきりしてる」


「お前らしいな」


 シュンが小さく笑う。


 シエラの線は、真っ直ぐ前へ伸びていった。

 途中で穴にぶつかるたびに、

 本人が「うわっ」と素直な声を上げて方向を変える。


「ここ嫌! ここも嫌! ここはまあギリギリ……

 あ、ここ、“誰かが待ってる”感じがする」


 シエラの線は、俺より少し手前で止まった。


 でも、その先の光は俺が見たものとは違う色をしていた。


「戦線向きだな」


 アスハさんが、ぽつりと呟く。


「自分で“嫌”って言えるやつは、境界で潰れにくい」



 ヴァンは、自分の線をゆっくりと、確かめるように伸ばした。


「……重くしすぎると、折れる」


 途中でそう言って、半歩引き戻す。


「ここまで。ここなら、支えられる」


 線は、俺たちより少し手前で止まった。

 でも、その太さは、俺たちのどれよりも安定していた。


「ノノハは〜……」


 ノノハの線は、ふわふわと揺れながら伸びていく。


「ここ、泣いてますね。

 ここは怒ってます。

 ここは……うん、歌ったら少しマシになりそう」


 途中で彼女が小さな旋律を口ずさむと、

 穴の縁がほんのわずか丸くなった。


「届かせようとしすぎないの、いいね」


 リツが感心したように言う。


「“今できるところだけ整える”って感じ」


「最後、シュン」


「……やるか」


 シュンの線は、最初、ほとんど動かなかった。


 じっと、穴の位置と、俺たちの線の位置を見ている。


 そして、一気に伸びた。


 勢いだけでなく、狙いがはっきりしている。

 危ない穴の手前で止まり、そのすぐ向こう側の光に向かって跳ねる。


「ここまで」


 短くそう言って止まった地点は、

 俺の少し手前、シエラとヴァンの中間あたり。


「無理に前に出るより、

 “ここから先を壊す”ほうが向いてる」


「自分で分かってるなら、いいさ」


 アスハさんが頷く。


「切り札は、前に出すぎると死ぬ」


「死にたくはないな」


 シュンはあっさりと言った。



「とりあえず――」


 リツが、祈り板の線を消す。


「ゼロラインでの“今の限界”は、だいたい分かりました」


「これ、また伸びたりするんですか?」


 ノノハが聞く。


「ええ。

 学院での経験が増えるほど、少しずつ伸びたり、

 太さが変わったり、逆に“ここまでは行かない”って決め直したり」


「決め直す?」


 俺が問い返すと、リツはにこっと笑った。


「前は平気だったのに、今は“ここまででいい”って思えるようになることもありますからね。

 それはそれで、成長です」


「……そういうのも、ありなんですね」


「ありです。大いにありです」


 リツは、やけに力を込めて言った。


 その横で、アスハさんがふっと笑う。


「前だけが“成長”じゃねぇよ。

 ちゃんと引き返せるようになるのも、大事だ」


 その言葉は、ゼロラインの冷たい風の中でも、妙にあたたかかった。



「さて」


 実習はここで終わり……には、ならなかった。


 空気が、少しだけ変わったからだ。


 灰色の空間の、遠く。

 今までより深い場所で、何かがゆっくりと蠢く気配がした。


 祈りの線がざわりと揺れ、

 穴のいくつかが、そちらに引き寄せられる。


「……リツ」


 アスハさんの声が、低くなる。


「分かってます」


 リツの顔から笑みが消えた。


「一年たち、動かないで」


 その言葉と同時に、足元の線がぎゅっと固まる。


「何ですか、あれ」


 遠くに見える“それ”から、目が離せなかった。


 穴とは違う。

 空間そのものが、裏返っているような黒。


 壊す、でもなく。

 消える、でもなく。


 “全部いらない”と、無感情に言い捨てているような、冷たい気配。


「……やっぱり、来やがったか」


 アスハさんが、忌々しそうに吐き捨てる。


「何ですか、あれ」


 もう一度聞いてしまう。


「無祈の向こう側。

 “祈らないこと”そのものを選んだ、でかい何かだ」


 言葉だけ聞いても、よく分からない。


 でも、寒気ははっきり分かった。


 世界そのものを“めんどくさい”と切り捨てるような、冷えた視線。


「今日の実習はここまでだ」


 リツが、はっきりと言う。


「これ以上は、君たちを連れては行けません」


「でも――」


 シエラが何か言いかける。


「“でも”って言ったら、怒るわよ」


 ミオ先生の声が、耳の奥でよみがえった。


 俺たちは、足元の線を踏みしめたまま、動かない。


 遠くの黒は、こちらを見ているような、見ていないような。

 そのくせ、“線なんかどうでもいい”と、静かに笑っている気がした。


(あれが――)


 世界を壊せるほどの何か、の予感だけが、

 喉の奥に引っかかったまま、うまく言葉にならなかった。



「戻るぞ」


 アスハさんが、俺たちの前に立つ。


「境界の向こうにいる連中とやり合うのは、

 お前らがもう少し“自分を守れるようになってからだ」」


 その背中は、ゼロラインの灰色の中で、はっきりとした線になっていた。


「さっき言ったこと、忘れるなよ」


 振り返らずに、言葉だけ置いていく。


「誰か一人が零になる前に、止めろ。

 自分が零になりかけてるって思ったら、ちゃんと呼べ」


 リツが転送陣の札を握り、

 薄い祈りの文字が足元に広がる。


「今日は“見るだけ”で十分。

 見て、怖いと思ったなら、それでいいです」


 視界が、再び白と黒のあいだを揺れた。


 ゼロラインの冷たい風が遠ざかっていく。



 学院の中庭に戻ったとき、

 足元の土の確かさに、思わず息を吐いた。


「……帰ってきた、って感じするね」


 シエラが、胸を押さえて笑う。


「ヴァン?」


「足元、固い。安心する」


 ヴァンは、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「ノノハは〜……歌いたい気分です」


「シュンは?」


「さっきの“向こう側”、そのうちぶん殴れるといいな」


「物騒だなぁ、もう」


 シエラが苦笑する。


 リツが、俺たちのほうを振り返った。


「今日見たものは、すぐに言葉にしなくていいです。

 そのかわり――忘れないこと。

 怖かったことも、嫌だったことも、そのまま覚えておいてください」


「それが、戦うときの“線引き”になるからな」


 アスハさんの言葉が、最後に重ねられる。


「お前らが、“あっち側”に引っ張られないためのな」


 胸の奥で、ゼロラインの冷たい風と、

 学院のあたたかい風が、微妙に混ざり合っていた。


 まだ、俺たちは一年だ。

 世界の端っこをちょっと覗いただけ。


 それでも――


(いつか、あの黒い“何か”と向き合う日が来るのかもしれない)


 そのときまでに、

 自分が自分でいられる線を、ちゃんと守れるようになっていなきゃいけない。


「勇」


 隣で、シエラが小さく肘でつついてくる。


「ビビってる?」


「ちょっとな」


「よろしい!」


 どこかで聞いた言い回しだ。


 俺は苦笑しながら、それでもはっきりと頷いた。


「ビビったまま、前に進む練習くらいは、しておこうと思う」


「うん、それでいいと思う!」


 風祈学院の風が、いつもより少しだけ強く吹き抜けた。


 ゼロラインの冷たさを、

 ほんの少しだけ、やわらげてくれるような気がした。

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