第Ⅰ章 『風祈学院と無祈の影』 第1話 風祈学院へようこそ
目を開けたとき、俺は、風の匂いの中にいた。
高い空。白い雲。
視界の端を、色のついた線みたいなものがいくつも走っていく。
赤。青。黄色。
どれも目に刺さるくらい鮮やかで――なのに、なぜか懐かしい。
(ああ……また、だ)
胸のどこかが、ひどく静かに疼いた。
何度目かも分からない「初めての景色」。
ここがどこなのか、どうやって来たのか。
そんなことは、やっぱり何ひとつ思い出せない。
ただ俺は、
「……風が、見えるな」
ぽつりと、そう呟いていた。
色のついた線は、風じゃない。
祈りだ。
誰かの願い。
誰かの叫び。
誰かの、まだ言葉になってない「こうなったらいいな」が、
細長い線になって空を走っている。
俺の目には、それが全部、色付きの風みたいに見えていた。
「お、やっぱり新入生はここで固まりますね」
背中から、ゆるい声が飛んできた。
振り向くと、ちょっとくたびれた外套を羽織った男が、
石畳の道の上に立っていた。
ぱっと見は、どう見ても「若い」。
二十代前半くらいの童顔で、背も少し低め。
けれど、金縁の眼鏡の奥の目だけは、
何十年分もの「面倒ごと」を見てきたみたいに、やたら静かでよく周りを見ている。
「天霧勇くん、で合ってますね」
「……ああ。そう、らしい」
名前を呼ばれた瞬間、胸のどこかがひくりと反応した。
けれど、そこから先の記憶は、やっぱり霧の向こうだ。
「自己紹介がまだでした」
童顔の男は、外套の裾をひょいとつまんで軽く会釈する。
「風祈学院・学院長、兼・祈理学担当のリツです。よろしく」
「……学院長?」
思わず素で聞き返した。
「そこ、疑問符つけないでください。傷つきます」
「いや、だってどう見ても俺ら側にしか……」
「見た目の話はやめましょう。
中身だけはちゃんと年季入ってるんですよ、これでも」
童顔のくせに、ため息だけは妙におじさんくさい。
そのギャップが、逆に「年齢不詳」感を強めていた。
「で、どうです? “見え”ます?」
「……何が」
「世界の、線が」
言われるまでもなく、見えていた。
学院の門をくぐる風。
空に伸びる祈り。
地の底を這うような、重たい線。
全部、俺の視界には「色付きの風」として流れ込んでくる。
「……うるさいくらいだ」
正直に言うと、リツは満足そうに頷いた。
「よかった。じゃあやっぱり“当たり”ですね。
天霧勇くん、ようこそ風祈学院へ。
ここは“風祈”――風の祈りを扱う者たちの学院です」
「風の、祈り」
「祈りにはいろんな形があります。炎、水、土、雷、影、音……
その中で、風祈は“流れ”を扱うのが得意なんですよ」
リツは指を鳴らす。
ひゅ、と足元から風が立ち上がった。
その風に、俺には無数の細い線が絡みついて見える。
誰かの笑い声。
誰かの泣き声。
まだ言葉にすらなっていない、気配だけの祈りたち。
「風祈学院は、その“流れ”を読む場所です。
そして――」
リツは俺の目を覗き込むようにして言った。
「君は、他の誰よりも“流れが見える”子らしい」
「らしい、って」
「ボクが決めたんじゃないですからね。
上から、“そういう子が来るからよろしく”って」
上、という言い方に、少し違和感があった。
「上って、神様か?」
「近いです。遠くもあります。
……まあ、そのへんは入学してからのお楽しみってことで」
リツは、わざとらしく話題を切り替える。
「さ、ホームルームの時間に間に合わなくなります。
クラスメイトたち、もうとっくに講堂にいるはずですよ」
そう言って、俺の背中を軽く押した。
門の向こうには、石造りの校舎が並んでいる。
高台に建つ、風の通りが良さそうな学院。
その頭上を、また色付きの線がいくつも横切っていった。
(ここで……何をするんだっけな)
ぼんやり思いながら、俺は風祈学院の敷地へ足を踏み入れた。
◇
講堂は、思ったよりも賑やかだった。
ざわざわとした声。
興奮と不安の入り混じった空気。
ざっと見ただけでも、新入生は五十人以上いる。
その一人一人から、細くて頼りない祈りの線が伸びていた。
「……うわ、何ここ、人多っ」
入り口のところで立ち止まってしまった俺の耳に、
少し高めの声が飛び込んできた。
「おーい、新入り、邪魔。そこ通路」
振り向くと、そこにいたのは――
空の色を、そのまま溶かしたみたいな髪をした少女だった。
淡い青と白が混ざったツインテール。
腰には細身の槍、肩には小さな風鈴みたいな飾り。
ぱっちりした目で、じろりと俺を見上げる。
「何、固まってんの。
あんたも新入生?」
「ああ。天霧勇」
「名前は聞いてないよ。
あたしはルーファ=シエラ、風祈科一年。
よろしく、新入り」
いきなり肩をぽんと叩かれて、少しよろける。
その拍子に、彼女から伸びている祈りの線が、俺の視界に強く飛び込んできた。
まっすぐで、勢いがあって、でもどこか不安定な風。
(……うるさいけど、嫌な感じじゃないな)
「じーっ……」
シエラが、今度は俺の目を覗き込んでくる。
「何だよ」
「うん。やっぱ“見えてる顔”してる。
あんたも線読めるタイプでしょ?」
「線?」
「祈りの線。風の流れ。
それ見えてないと、ここでやってけないからね」
さらっと言う。
この学院では、俺のこの目は特別じゃないのかもしれない。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
「ほらほら、挨拶は後でね。席行こ、席」
シエラに引きずられるようにして、俺は講堂の中ほどの席に座らされた。
周りには、まだ見知らぬ同年代の顔が並んでいる。
大きな盾を背負った少年。
楽器ケースを抱えた少女。
髪の先が雷みたいに跳ねている、短髪の奴。
それぞれから伸びている祈りの線が、
まだ細くて頼りないながらも、確かにここに集まっていた。
「えー、それでは入学式を始めますー」
とん、と壇上を杖で叩く音がした。
見ると、そこにはさっきのリツが立っている。
「ようこそ、風祈学院へ。
これから皆さんには、“風の祈り”を学んでもらいます。
世界を支える線を、見て、触って、ときには修正して、
ときには守ってもらいます」
童顔の学院長の声に、講堂の空気がすっと静かになった。
「いいですか。
ここで学ぶのは、派手な“力の見せ方”でも、ただの戦い方でもありません。
“祈りと、どう付き合うか”です」
その言葉に、俺の胸の奥で、何かがかすかに反応した。
(祈りと、どう付き合うか……)
どこかで、似たようなことを言われた気がする。
白い部屋。
誰かの笑い声。
神様、と呼ばれた誰かの背中。
霧に塗りつぶされた記憶の断片が、
一瞬だけ、浮かんで、すぐに消える。
「――そして」
リツの言葉が、俺の意識を引き戻した。
「この空の上で、今もまだ“おかしな風”が吹き始めています。
祈りが集まるはずの場所に、祈りが届かない。
線が途中でちぎれ、どこにも繋がらない。
そんな“穴”が、世界じゅうにぽつぽつ増えている」
講堂のあちこちで、ざわっと小さなざわめきが起きた。
俺は――自分の手をぎゅっと握りしめていた。
もう、とっくに気づいていた。
さっきから俺の視界の端で、
色付きの線のあいだに、ぽっかりと空いた“無色の穴”が、
いくつも、静かに呼吸しているのを。
(あれが――“おかしな風”か)
俺だけが、はっきりと見えている、気がした。
「皆さんには、その“おかしな風”と向き合ってもらうことになります。
怖がってもいい。戸惑ってもいい。
でも、目をそらさないでください」
リツは、少しだけ笑った。
「大丈夫。ここには、
それに何度も向き合ってきた先輩たちと――」
ほんの一瞬だけ、空のどこかを見上げるようにして。
「……世界の上から見守っている、ひねくれた神様たちもいますから」
何のことかは分からない。
けれど、その言葉に、なぜか胸の奥が落ち着いた。
こうして、俺――天霧勇の、
風祈学院での日々が始まった。
風の匂いと、色付きの線と。
まだ名前も知らない“誰か”を守りたい、という、
説明のつかない衝動といっしょに。
そしてそれが、
世界の底で蠢く“無祈”との戦いに繋がっていくことを、
このときの俺はまだ知らなかった。




