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第六話 ナナシ、風になる



 朝の風は、まるで息をしているようだった。

 柔らかく、暖かく、頬をなでるたびに、

 ほんの少しだけ――笑うように鳴った。


 丘の上には、白い花。

 昨日まで嵐の中心にあったその場所は、

 今は世界のどこよりも静かだった。


 リツは風譜を開き、指でなぞる。

 昨日、ナナシが最後に残した波――

 その線の端に、ほんの小さな余白があった。

 まるで“まだ終わっていない”と告げるように。



一 声のない声


 風が、頬を撫でた。

 優しく、ためらうように。


「……先生?」

 リツが呼びかける。


 風が一度だけ旋回した。

 そして、わずかに音を立てた。

 ――タ、タ、ター。


 あの三音。

 “ただいま”の音だ。


「……やっぱり、いるんですね。」

 リツは微笑んだ。


 耳を澄ますと、

 風の中から、淡い声が返ってきた。


『おはよう、リツ。』


 懐かしい声。

 けれど今は、空気の振動としてしか存在しない。

 それでも、確かに“生きて”いた。


「先生……風になっても、まだ喋れるんですか。」


『喋ってるんじゃなくて、触れてるの。

 風は“手”の代わり。

 リツの髪を撫でると、言葉になるの。』


 リツの頬を風がなぞる。

 温かい。

 確かに、ナナシの手の感触がした。



二 神の部屋にて


 一方、白室β。

 シロは長い間、天を見つめていた。

 祈りの光が収まり、

 白室の天井に“風の軌跡”が描かれている。


「……ナナシ。」


 エフェリアがそっと報告する。

 「風層に、安定した意識波があります。

  “人間由来の神格”として定着しました。」


「つまり――“風の神”が生まれたってことか。」


「はい。ですが、神界登録には反応しません。

 あの子は、あくまで“人の祈り”の延長にいる。」


 シロは目を細めた。

 「……らしいな。神のふりをしない神様か。」



三 風の対話


 その夜、風が白室βに吹き込んだ。

 誰もいないはずの部屋の中央に、

 白い光が淡く揺らめく。


『久しぶり。』


 声が響いた。

 シロは少し笑って答えた。

 「おう。まさか風越しに会話できるとはな。」


『私、もう姿を持てないけど、

 風に乗って“想い”だけは届くんです。』


「……痛くはないか?」


『いいえ。

 風になるって、不思議。

 身体がないのに、あたたかい。

 世界中の声が聞こえるの。

 祈りも、笑いも、泣き声も。

 全部が“生きてる”音。』


 シロは、目を閉じた。

 「……お前は、もう俺の手の届かないところに行ったんだな。」


『そうかもしれない。でもね、

 神様。あなたの祈り、届いたよ。

 “心で抑えるしかない”って、あの言葉。

 ちゃんと、風が受け取った。』


 沈黙。

 風が静かに彼の肩を撫でた。

 その感触に、彼の頬を一筋の涙が伝う。


『神様、泣くの?』


「……初めてだ。

 神が人を祈ることを覚えた結果が、

 涙だったとはな。」


『それ、人の証だよ。』



四 風と記録


 リツは夜の丘で、風譜に新しい記号を書いていた。

 《風音ふうおん》――風が人の形を借りて喋るときの波形。


「先生、これ、記録してもいいですか。」


『もちろん。

 風はね、記録されることで生き続けるの。

 だから、書いて。

 “神様と風の会話”って。』


「……はい。」

 リツの手が動く。

 筆が紙を擦るたび、風が優しく頬を撫でる。


 「書けました。……でも、やっぱり寂しいですね。」


『寂しさは、風の形。

 その痛みがあるうちは、

 人はまだ祈れるの。』


 風が強く吹く。

 花が舞い、星が揺れた。


『リツ、お願い。

 次の祈りを探して。

 風が止まらないように。

 “願いの種”を見つけて、育ててあげて。』


 「……わかりました、先生。」



五 風の約束


 明け方、丘に朝日が昇る。

 リツは花の前で立ち止まり、両手を合わせた。


「先生、今日も測ります。

 風の音、祈りの温度、世界の心拍数。

 全部、記録します。」


 風が優しく笑った。


『いい子だね。……じゃあ、行っておいで。』


 風が彼の背を押す。

 その背中は、もう“弟子”ではなく“記録官”のそれだった。


 リツは丘を下り、

 空へ向かってひとつだけ言葉を残した。


「――先生、またね。」


 風が答える。


『またね、リツ。』


 白い花が揺れ、光が朝の中に溶けていく。



六 白室β、再び


 エフェリアが小さく微笑んだ。

 「神様、風の層が安定しました。

  ナナシの波形は、“生命活動”と似ています。」


「……生きてるんだよ。

 神でも人でもない“風”としてな。」


 シロは空を見上げた。

 「ありがとうな、ナナシ。

  人の願いは、ちゃんと届いた。」


 風が静かに流れる。

 白室βの花が、一輪だけそっと揺れた。



七 風の彼方


 その日から、風が変わった。

 どこの国でも、誰が祈っても、

 最後に必ず一度だけ“返る”ようになった。


 それを人々はこう呼んだ。


「風の返礼」


 ――それは、風の神・ナナシが

 世界に残した、最初で最後の奇跡だった。


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