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第二話 弟子、風を読む



 麦畑の上を、規則正しい波が走っていく。

 ただの風――のはずなのに、耳を澄ますと音階みたいな起伏がある。

 リツは石垣に腰を下ろし、革の帳面をひらいた。薄い紙の上に、短い線と点が並ぶ。彼が自作した「風譜ふうふ」だ。


「朝の南南東、二十拍子……昨日と同じ、いや、半拍だけ遅い」


 風は祈りを運ぶ。ナナシに学んだその仮説を、彼は気象と数式で貫こうとしていた。祈りを奇跡として語るのもいい。けれど、毎日触れられる術にしたい。誰もが、空に耳を澄ませば聞きとれるやり方で。


 丘の家から、軽い足音が降りてくる。

 ナナシが水差しを掲げて笑った。


「休むのも研究。喉は嘘をつかないよ」


「先生の名言、毎日増えていきます」


「書いておきなさい。いつか本になる」


 二人でぬるい水を分け合う。風がかすかに匂いを運ぶ――パン、藁、そして白い花の甘さ。

 リツは風譜に新しい記号を書き加えた。《□》――祈りの起点。村の広場、石碑の前。そこから吹き上がる時だけ、風は半拍遅れる。人が目を閉じる瞬間、呼気が世界に混ざるのだと彼は考えている。


「先生、今日の祈りは夕刻が強い。理由は行事……じゃなくて“記憶”です」


「記憶?」


「地震からちょうど一年。“忘れない”が風に乗る」


 ナナシは短く目を閉じた。「そうだね」と言い、静かに微笑む。その横顔に、リツは“記録官”の強さと、ひとりの人間の弱さを同時に見る。あの日、彼女は風の真ん中まで行って戻ってきた――戻ってきた、と人々は言うけれど、彼だけは知っている。ナナシは時々、風に身体を預けるみたいに遠くを見る。


「リツ、怖くなったらちゃんと怖がるんだよ」


「……まだ怖くないです。今は知りたいが勝ってます」


「なら、もう一歩」


 ナナシは机から薄い紙束を渡した。古びた譜面みたいなそれは、彼女が若い頃に書いた初期の記録だ。

 風の縫い目、光の継ぎ目、祈りの休符――比喩の連続は、理屈より遠いのに、驚くほど手触りが確かだった。


「言葉は地図。あなたの数式は羅針」


「ふたりで航海ですね」


「うん。船名は――“白室号”」


 二人で少しだけ笑う。その瞬間、広場の鐘が一打響き、南の空が揺れた。風譜の線が、紙の上で勝手に震えるみたいに見える。リツは息を呑んだ。


「……今の、聞こえました?」


「聞こえたよ。祈りの始まり」


 広場に集まった人々が、石碑の前で目を閉じ手を合わせる。誰の指示でもない。決まりでもない。ただ、ここで生きてきたから、自然にそうするのだ。

 風が一度止まり、次の瞬間、丘に向かって駆け上がってきた。リツは立ち上がり、両腕を広げる。胸元で、風が弦を弾くように震えた。


「周波、上がる――半拍、前倒し」


「今日の“お願い”は未来向き、かな」


「データもそう言ってます。後悔の波形じゃない」


 言葉にしながら、リツはふと視界の端に奇妙な揺らぎを見た。麦と麦の間、陽炎より淡いひとかげ。子どもの背丈ほど。

 目を凝らすと、そいつは風に髪をほどかれながら、こちらを見ていた。

 ――笑って、いる?


「先生、今、誰か」


「見えた?」


 ナナシの声は、驚きよりも確認だった。リツは頷く。

 ひとかげは、風の縫い目に指を差し入れて、糸を引くみたいに空気を細くした。丘の上に、一本の“道”ができる。風の道。

 次の瞬間、かげは草の間にほどけるように消えた。


「……記憶します」


 リツは震える手で線を引いた。風譜の中央に、初めての長い一本線。

 《風路ふうろ》――祈りが通る専用の細道。自然の乱流の外側で、意味だけが運ばれる帯域。


「見つけたね」


「先生は、前から?」


「気づいてはいた。でも、あなたの目で見つけるまで待ってた」


 短い沈黙。風がふっと弱まる。鐘の余韻だけが村を包む。

 リツは深く息を吐いた。胸の中心が、軽く痛む。怖さが遅れてやってくる。世界に触ってしまった恐怖――いや、世界に触れられてしまった実感。


「大丈夫?」


「はい……これは、怖いけど、進みたい怖さです」


「じゃあ、名前を付けよう。見つけた人の特権」


 リツは風譜を見つめ、ペン先を浮かせてから、ゆっくり書いた。


風路ふうろ――祈りが最短で届く、細い空気の道


 書き終えたとき、丘の上を一羽の鳥が横切った。翼が風路をかすめ、銀の鱗みたいな光が散った。

 ナナシが手で目を細める。


「この線、どこへ繋がると思う?」


「……白室β。神様の部屋。もしくは、その入口」


「たぶんね。けれど入口はひとつじゃない。人の数だけ、風路がある」


 リツは頷いた。胸の痛みは、いつのまにか熱に変わっている。

 彼は革袋から小さな木箱を取り出した。蓋を外すと、中には薄い金属板と弦。自作の“風笛”だ。風に当てると、一定の高さで震え、微細な拍の遅れを音にする。


「試していいですか」


「もちろん。風に失礼のない音で」


 リツは風路の端にそっと風笛をかざした。弦がふるえ、かすかな音が生まれる。

 ――タ、タ、ター。

 いつもの二十拍子じゃない。無理やり言葉にすれば、「ただいま」の三音に似ていた。


 喉が勝手に鳴る。ナナシが隣で息を呑む。

 風は、返事をしている。祈りが、返礼を覚えたのだ。


「……神様」


 名前を呼ぶには、まだ早い気がした。それでも、声は勝手にこぼれた。

 返ってくる音は、やはり三音――「おかえり」の形。


 ナナシが目尻を指でおさえ、笑う。「ほら、船は進んでる」

 リツは頷き、風譜にもう一つ記号を足した。《◎》――応答。祈りの往復。


「先生。祈りは片道じゃない。往復です」


「うん。だから、孤独になりすぎない」


 そのとき、麦の海の向こうで、子どもの笑い声がした。振り返ると、広場の端に、昼間の“ひとかげ”が立っている。今度ははっきり見えた。風の中の少女。

 彼女は口を動かした。声は届かない。けれど唇の形は、確かに読めた。


——またね


 風路がほどけ、少女は消えた。残ったのは白い花びら一枚と、少し遅れた夏の匂い。

 リツは花を拾い、風譜の間に挟んだ。


「先生。第3話の主人公、見つけました」


「そうだね」とナナシは言った。「風を聞く少女――ユラ。あなたの“最初の読者”かもしれない」


 夕暮れ。鐘が一度だけ鳴り、村の祈りが今日の終わりを告げる。

 リツは風笛を胸に抱え、風路の消えた空を見た。

 怖さはもうない。あるのは、帰ってくる三音の記憶。


 ――ただいま。

 ――おかえり。

 その往復が、この世界を明日へ運ぶ。


 彼は帳面を閉じ、静かに宣言する。

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