仮面の魔女は、なぜ微笑みながら死んだ?
風が吹きすさぶ、夕暮れの荒野。二人の女が対峙している。
純白のローブをはためかせる聖女と、全身を黒衣で覆い仮面をかぶった魔女。
「私は、大聖堂所属の筆頭聖女グリナ。魔女フリバラよ、あなたは罪を償わねばならない」
グリナが水晶をはめ込んだ錫杖を握りしめる。青白く澄んだ輝きが水晶に燃え立つ。
「罪、とは?」
仮面の魔女のしわがれた声。
「十年前、あなたは当時の筆頭聖女だった――アーネさまと護衛の騎士を殺した。私はアーネさまを心から慕っていた者です」
「アーネ、か」
「まんまと逃げおおせたつもりでしょうが、ここまでです。おとなしく大聖堂まで出頭するなら命までは取りません。ただし、抵抗するなら容赦しません」
「……」
「一つだけ、聞くことがあります。あなたはなぜ、アーネさまを殺したのですか?」
「……成り行きだね」
「な、成り行きですって? ふざけないで!」
「そうとしかいいようがないねえ。さ、ぐずぐずいってないで、かかっておいで。そのつもりで来たんだろう?」
「なら、覚悟!」
グリナが錫杖を突き出す。水晶にたまっていた青白い輝きが、光球となって撃ち出される。
魔女は片手を軽くかかげる。その指先に、禍々しい濃紫色のかぎ爪を生成しつつ、光球を弾き飛ばす。
「威勢のわりに、その程度かな?」
「……よくも、私のお姉さまを!」
グリナが錫杖を振りかざし、さらに強力な光球を放つ。青白い輝きと濃紫色の輝きがぶつかり合い、衝撃波が荒野を駆け抜ける。
激しい戦いのさなか、グリナは不審に思う。
魔女の魔力はすさまじいものだが、急所は狙ってこない。まるで故意に外してでもいるかのように。そしてその勢いも徐々に弱まっていく。罠か、それとも……?
魔女の魔力は穢れた力。〝瘴気〟とも呼ばれる。強力だが、その代償として自らの身体を蝕むという。
調べたかぎりでは、魔女フリバラはまだ三十程度のはず。にもかかわらず、その声はしわがれ、黒衣から露出した腕は枯れ枝めいてこわばっている。
魔力の酷使のため、衰えているということか?
いや、理由などどうでもいい。今は仇を討つのみ。
もし、あの優しかったアーネが仇討ちに執着するグリナを見れば、決していい顔はしなかっただろうが……それでも、これだけはゆずれない。
グリナはありったけの魔力を、錫杖の水晶へと注ぎ込む。
「これで、終わりです!」
撃ち放つ。青白い奔流が瘴気の壁を破り、魔女がくぐもったうめき声とともに吹き飛ぶ。
グリナは肩で息しつつ、倒れた魔女の元へ。
その仮面が半ば割れ砕けている。仮面の影にかいま見える、焼けただれた顔。苦しみが刻まれたような深い皺。
グリナは見つめながら、どうしてか胸がざわつくのを感じた。
次の瞬間、魔女の身体から暴発するように炎が巻き起こる。魔女があっという間に焼け焦げていく。
ただ、グリナの目にははっきりと映っていた。魔女の口元に浮かぶ、その穏やかな微笑みが――。
◇◇◇
十年前。
大聖堂に併設された孤児院。その小さな中庭で、孤児たちがはしゃいでいる。
わんわん泣いている男の子もいる。騎士の真似事のチャンバラごっこをしていて転んでひざをすりむいたのだ。
「はぁー、元気なやつらだわー」
聖女アーネがぼやきつつ、男の子のそばへ駆け寄る。
「ほら、泣かない泣かない、治してあげるから」
アーネが手のひらを男の子のひざにかざす。青白く澄んだ輝きが生じ、すり傷がぬぐったように消える。
「あ、ありがと、アーネ姉ちゃん」
「ケガするほどに乱暴にやっちゃ駄目でしょ。次からはお代取っちゃうよ?」
「すごーい、魔法だー」
周りの子たちが、興味津々な顔つき。
「でも、院長先生には内緒ね。私が怒られちゃうから、これくらいでほいほい神聖な魔法使うなって……」
アーネは苦笑。自分にとって院長は魔物より怖い、などといっては失礼か。今の院長は少し前に新しく就いた元聖女で、悪い人ではないが規律に厳しい。
アーネはこの大聖堂でももっとも魔力に優れ、位が高いとされる筆頭聖女。
年齢的には若い方だが、その立場のために年配の役職者からも妙に気遣われる。アーネの方も気遣う。もともと人間関係は苦手な性格で、いよいよ気疲れする。
それで暇さえあれば、こっちの孤児院にやってきてしまう。
アーネ自身、ここで育ったこともあり、ここにいるのが一番気楽。孤児たちもみんなかわいいし……。
「アーネお姉さま」
振り向くと、華奢な少女が立っていた。グリナという名の、物静かだが目力の強い子だった。
「お時間よろしいですか? この前の続きを」
グリナは一冊の本を抱きしめている。以前アーネが貸した、魔法の入門書。
「うーんと、実はこれから用事があって。少しでもいい?」
「かまいません」
「なら、場所を変えよっか」
アーネとグリナは、大聖堂の裏庭へ移動。背の高い果樹が立ち並び、ここなら人目につかない。
「この前出しておいた宿題、覚えてる?」
「はい」
グリナはうなづき、右手の人差し指を立てる。
ぽっと青白い火が灯ると、それが燃え盛る炎となり、急激に伸び上がっていく。周りの果樹のてっぺんをはるかに追い越すほどに。
「……ご、合格、合格!」
アーネがあわてて手を振ると、グリナは青白い炎をしゅううっと縮めて消す。
末恐ろしい才能。膨大な魔力量だけでなく、それを操るすべもすでに身に着けている。
「グリナはすごいね。私なんかよりよっぽどすごい聖女になれそう」
「そうですか。ありがとうございます」
グリナの表情はほぼ変わらない。ただ、その唇の端がほんの少しゆるんだのが、アーネには見て取れた。
これでも一年前に来たころに比べれば、ずいぶんやわらかくなった。グリナは家族を魔物に殺されて孤児となり、この孤児院に引き取られた。最初は視線もあわせてくれなかったのだが。
アーネにはグリナの心情がよくわかった。アーネもグリナと同じ年のころ、同じ経験をしているから。
それであれこれ話しかけている中で、簡単な魔法を教えてみた。と、グリナは強い興味を持ち、それをきっかけにアーネにぽつぽつと言葉を返すようになった。本来、大聖堂には魔法を指導する専門の者がいるので、勝手に教えるのはよくないのだが。
「そろそろ、ちゃんとした魔法を教えてもらえませんか?」
「うーん、グリナは若いんだし、そんなに急がなくても……」
「私は、魔物をやっつけたいんです。誰かを治したりするだけでなく」
グリナの凛としたまなざし。
アーネは息をつき、グリナの小さな肩に手をやって見つめ返す。
「前にもいったけど、魔法は誰かを傷つけるものじゃない。たしかに魔物をやっつけるような魔法もあるけど、それはあくまで誰かを守るために使うべきなの。少なくとも、私たち聖女の魔法はね」
「……」
「相手をやっつけたいとか仕返ししたいとか、そういう負の思いばかりにとらわれていると、魔力が濁ってしまう。一度そうなると、澄んだ魔力を取り戻すのは難しい。まずは自分を律する訓練を積まないと……私のいうことを守って無茶しないって、約束できる?」
「……はい、約束します。アーネお姉さまは、私が唯一尊敬する人だから」
真顔で気恥ずかしいセリフを口にするグリナに、微苦笑するアーネ。
「ありがと。私だって修行中の身だから、偉そうなこといえないんだけど……」
「アーネさま、よろしいですか? 出発の準備が整いました」
振り向くと、白銀の鎧姿の優男――ヴァイルだった。
「あ、ごめんなさい」
「せっかく後輩の方にご指導しているところ、心苦しいのですが」
「えっと、ヴァイルさん、このことは院長先生には内緒で」
「承知しました。いつもながら、筆頭聖女さまは内緒が多いようですね?」
「お、お恥ずかしいかぎり」
赤面するアーネ。ヴァイルは端正な顔に甘やかな笑み。
ヴァイルは聖堂騎士団に属す騎士で、筆頭聖女であるアーネの護衛役。
剣の腕が立ち、由緒正しい伯爵家出身。ついでに女性に丁重に振る舞うので、大聖堂の聖女たちに人気。
「グリナ、ごめん。続きはまた今度ね。これから仕事があって」
「はい、またお願いします。お気をつけて……」
◇◇◇
馬車で大聖堂から出発して、二刻後。
古びた寺院の廃墟にたどりつく。半壊した石造りの建物を苔と蔦が覆いつくしている。
アーネはヴァイルら騎士たちに囲まれ、奥へ進む。
円形の闘技場めいた場所に入ると、巨大な石像が鎮座している。
魔竜の石像だった。
数百年前、当時の高名な聖女が、強大な力を持つ魔竜をここに封印したという。
石像の周りに楕円形の石――要石がいくつも配置され、それらを起点に青白い結界が展開し、石像を覆っている。
要石は、魔力を吸収する魔鉱石でできたもの。これに代々の筆頭聖女が定期的に魔力を注ぎ、結界を更新してきた。
アーネが要石に両手をかざし、意識を集中。要石にたまっている古い魔力を吸引し、抜く。
古い魔力が残っているところに新しい魔力を注ぐと、魔力が均等に混ざりきらず、結界の強度が落ちてしまうからだ。
どんっ、と要石のてっぺんから青白い輝きが噴き出す。きらきらと微粒子が舞い散りつつ、空中に溶け消えていく。
それを繰り返し、すべての要石が空になったとき。見守っていたヴァイルが声をかけてくる。
「アーネさま、少し休憩を取られては?」
「ありがとう。でも、ここからが大事なところです」
要石が魔力を失ったことで、魔竜を覆う結界も消失していた。早く魔力を注ぎ直し、結界を再構築しなければ。
魔竜には、結界と石化による二重の封印が施されているので、結界が消えただけですぐに魔竜が動き出すわけではない。とはいえ、やはりいい気分ではない。
「なら、せめてお飲み物だけでも」
ヴァイルが水筒とグラスを取り出し、琥珀色の液体を注ぐ。
「最近流行りの、魔蜜蜂の蜂蜜茶です。魔力回復の効果があるそうですよ」
「へえ? じゃ、いただきますね」
一口つけると、ほんのり甘い。のど越しもよく、こくこくと飲み干していく。
そうしながら、ちらっと視線を巡らせる。ヴァイルといっしょに来ている騎士たちが少し離れたところで、視線をそらしがちにしている。
どうも気を使ってくれているらしい……アーネとヴァイルがそういう仲なのだと。
ヴァイルはだれにでも親切だが、アーネにはその傾向がいくぶん強い。
アーネも気づかないではなかったが、聖女にとって男女のことはご法度。ヴァイルも露骨な態度を取ってくることはなかった。そういうさりげなさも奥手のアーネにとって好ましいものだったけど……。
小さく首を振る。大事な仕事の最中に何を考えているんだか、と。
「おいしかったです」
アーネは微笑してグラスを返すと、すぐに作業に戻る。
空になった要石に、魔力を注ごうとしたとき。
くらっと立ちくらみがした。踏みとどまろうとするが、急激に力が抜けていく。そのまま前のめりに倒れこんで――。
◇◇◇
どのくらい意識を失っていたのか。
アーネが再び目を開けたとき。
魔竜の石像の前に、ヴァイルと見知らぬ黒衣の女が立っていた。
黒衣の女は石像に向け、手のひらから濃紫色の輝きを放射している。
濃紫色の輝きは、穢れた魔力である〝瘴気〟。聖女が使う澄んだ魔力とは正反対の性質を持ち、それを扱う者のことを魔女と呼ぶ。
瘴気にさらされ、石像の表面にひびが入りはじめている。魔竜の石化を解こうとしている……?
アーネは混乱しつつ、地面から立ち上がろうとするが、手足に力が入らない。
なぜ? ヴァイルに渡された蜂蜜茶を飲んだせい? 眠り薬でも入っていた? しかし、ヴァイルがそんなことをするはずが……?
顔だけ振り向けてみると、後ろに騎士たちがばたばたと倒れている。騎士たちもアーネと同じ状態らしい。
無事なのはヴァイルだけ。なのに、ヴァイルは素知らぬ顔で、魔竜の石化が解かれていく様子をながめている。
信じがたいことだが、まさかヴァイルは自分を、自分たちを裏切ったのか……?
黒衣の女が、瘴気を石像に浴びせつつヴァイルに聞く。
「で、こんな何百年も前の老いた竜を蘇らせて、どうするつもり?」
「なに、ずっと閉じ込められたままなんてかわいそうだと思ってね。私は優しいんだ。君も知ってるだろ、フリバラ?」
黒衣の女――フリバラが、濡れ輝く黒い唇を吊って「ぷ」と嗤う。
「なにいってんだか。正直にいいなさい。いろいろ手伝ってあげてんだから」
「実は、ちょうどこの近くに私の実家があってね。この魔竜を招待したいんだ」
「実家? あんた、伯爵家の息子でしょ? 自分の伯爵家をつぶすってこと?」
「私は次男なんだ。実家の屋敷には両親と長男がいっしょに住んでいるが、全員死んだ場合、晴れて私が伯爵となれる。ついでに、暴れ回っている邪悪な魔竜を、私が退治する。すると、長男と婚約していた王家の第三王女も、英雄となった私に振り向く」
「ふーん、安っぽいけどわかりやすいわね。でも、そうなると私の立場はどうなるわけ?」
「君は……正室は無理だから、第一の側室かな」
「ねえ、あんた、最低っていわれない?」
「そういうのは、君だけさ」
ヴァイルがフリバラを抱き寄せ、あご先をつまみながら口づけ。手慣れた様子で。
アーネは全身から血の気が引き、気が遠くなるのを感じた。
なにもかもが陳腐で、汚らわしすぎる。悪夢にしたってひどすぎる。
つまり、この男がいうことやること、すべてが嘘だったわけだ。こんな男にいいようにもてあそばれていたのだ、自分は。
いっそこのまま気絶してしまえばいいのにと思ったが、できない。
聖女としての義務感だった。この悪党どもの悪だくみを、絶対に阻止しなくてはならない。というか、それにすがるしかなかった。でないと、本当に頭がおかしくなってしまいそうで……。
アーネは自分の首元に手をやる。首飾りの聖石。
筆頭聖女の証であり、自分を守護してくれるお守り。それを握りしめ、身体に回っている眠り薬の毒を浄化していく。
ばき、ばき、ばき……。
魔竜の表面の石化部分が割れはじめる。その断片が巨大な卵の殻めいてぼろぼろと剥がれ落ちていく。
そしてそこに、濃紫色の煙をまき散らしながら、漆黒の魔竜が現れる。その目が真紅に輝く。
「確認するが、この魔竜は、本当に君のいう通りに動くんだろうな?」
「私は魔女よ。人だろうが竜だろうが、呪いで脳みそ縛りつけて、いうこと聞かせられるの」
フリバラが、魔竜に向けた両手を開閉させる。と、魔竜が大口を開閉させる。両手を起こし、また下げる。と、魔竜が上体を起こし、頭を下げる。
ただ、魔竜は不機嫌そうにうなり声を発しているが。
「実に頼もしいね」
ヴァイルが満足げにうなづき、振り向いてくる。アーネと後ろの騎士たちを。
「では、手はじめに、そこに転がっている連中を魔竜に処理させよう。聖女は間抜けにも結界の更新に失敗し、魔竜を蘇らせてしまった。騎士たちは聖女を守って果敢に戦ったが、力及ばず全滅した。唯一生き残った私ヴァイルは悲嘆しつつも、暴走する魔竜を追う。そういう筋書きで行く」
「了解。じゃ、ブレスでまとめて焼き殺そうっと」
フリバラに操られ、魔竜が頭をもたげて大口を開く。口腔内に濃紫色の炎が燃え盛る。
「さ、させませんっ……!」
アーネが立ち上がる。
まだ眠り薬が抜けきっておらず、身体がふらつくが、騎士たちを見殺しにはできない。もうやれるだけやるしかない。
魔竜が、濃紫色のブレスをごうっと吐く。
アーネが両手を重ねて突き出し、魔力を集中。青白く輝く光の盾を展開。
ブレスが盾に激突する。アーネの両手にすさまじい圧力が。魔力を全開にし、なんとか押しとどめる。ただ、このままでは長くは持たない……。
と、魔竜のブレスの勢いが弱まりはじめる。
漆黒の巨体が小刻みに痙攣し、大口のはしからよだれをたらし、嘔吐でもしているかのようにブレスがとぎれとぎれになっていく。
アーネははっと気づく。この魔竜は復活したばかりで、病み上がりなのだ。とすれば、勝機があるかもしれない。ブレスがとぎれた隙を狙い、あの魔女を攻撃し、魔竜への操りの魔法さえ解除できれば……。
「ちょっと! あの女、寝てたんじゃないの!?」
フリバラが、ヴァイルに怒鳴る。
「薬の効果を打ち消したか。早いな」
「いいから、あんたも手伝いなさいってば! この魔竜って、もういい歳のじじいなのよ!」
「あまり手を汚したくはないが……しょうがないね」
ヴァイルが剣を抜き、魔竜のブレスを迂回しながら、アーネに近づいてくる。
「……く、くぅっ」
アーネは光の盾でブレスを防いだまま、身動きが取れない。
「アーネさま、さすがです。伝説の魔竜が相手でも、決して引かれない。ただ、少し頑張りすぎではないですか? 大丈夫、すぐ楽にしてあげますから」
横合いから、ヴァイルが一歩一歩迫ってくる。いつもの甘やかな笑みを浮かべつつ。
アーネの身体が、恐怖と嫌悪で震え出す。
なんなのだろう、この男は?
この期に及んで、どうしてそんな態度でそんな言葉を吐けるのか?
ゲスだの卑劣漢だのの域を超え、もはや人の皮をかぶった悪魔にしか見えない。
ヴァイルが剣を振りかざしたとき。
アーネはとっさに光の盾をずらし、向きを変える。ヴァイルの方へ。魔竜のブレスが弾かれ、ヴァイルを直撃。悲鳴。
アーネも無事ではすまない。光の盾に空隙ができ、そこから魔竜のブレスが流れ込んでくる。アーネの顔面があぶられ、焼ける。
それでもやめなかった。捨て身の不意打ち。
心も痛覚も、麻痺していた。両手に力を込める。光の盾で反射したブレスを、ヴァイルに浴びせ続ける。
濃紫色の炎の中で、ヴァイルが踊り狂う。
「や、やめろ! やめてくれ! 私が悪かっ……!」
アーネは冷徹に聞き流す。消えてほしかった。自分の目の前から。
どす黒い感情が、胸の奥底から湧き起こり、あふれかえっていた。そんな感情が自分にあったなんて信じられなかったが、それに完全に身をゆだねていた。
ヴァイルの叫びが途絶え、這いつくばり、身動き一つしなくなるまで。
「ヴァイル!?」
あわてふためくフリバラ。
その瞬間、魔竜がブレスを吐くのを止める。
フリバラの意識と魔力が乱れ、魔竜への操りがとぎれたのだ。
魔竜が真紅の目を輝かせ、猛然とフリバラに噛みつく。
「きゃっ、きゃああああっ……!」
フリバラがくわえ上げられ、地面に叩きつけられる。
壊れた人形のように転がる。首がおかしな方向に曲がっている。死んだ。
魔竜が、ずんずんと地響きとともにアーネに向かってくる。
アーネはがっくりとひざをつく。光の盾が消える。体力も魔力も尽きかけていた。抵抗の余地はない。
うなだれたアーネに、魔竜が大口を開け……静止した。
魔竜の目の真紅の輝きが消失する。
そして、漆黒の巨体がぼろぼろと崩れだす。まるで燃え尽きた炭のように。
数百年も石化していて劣化し、強引に復活させられ、さらにいきなり莫大な魔力を使ったことで、肉体が限界に達したのだ。
あっという間に姿形を失い、炭の山と化してしまう。
◇◇◇
「……」
アーネはぽかんとして座り込んでいた。
自分だけ、生き残ってしまった。
微風が吹き抜ける。顔の表面がひりひりと痛む。
そうだった。自分は、魔竜のブレスに焼かれたのだった。
応急の手当てだけでもしておかないと。治癒魔法を少し使うくらいの魔力なら、まだ残っている。
手のひらを自分の顔に向け、気づいた。治癒魔法がうまく発動できないことに。
手のひらが発しているのは、いつもの澄んだ青白い輝きではなく……濃紫色の輝きだった。
こんなことははじめてだった。
濁った魔力だった。そう、濁ったのだ。まるで魔女が使う瘴気のように。
これでは治癒魔法は、聖女の魔法は使えない。
これはなにかの間違いだ、一時的なことだ、気が動転しているせいだ……自分にいい聞かせながら、視線を泳がせる。
ヴァイルの死体。魔女フリバラの死体。
何とも思わなかった。虫けらの死骸にしか見えない。
頭では否定しようとしながら、心ではわかっていた。
自分は堕ちたのだ。澄んだ魔力にふさわしくない、聖女ではない何者かに。
聖女失格なのだと。
筆頭聖女が魔力を濁らせ、聖女としての魔法を使えなくなる。前代未聞の醜聞だろう。
なんていいわけすればいい?
裏切った嘘吐き男を殺したら、こうなりましたと?
大聖堂の聖女たち、護衛の騎士たち、後援の貴族たち、通ってくる信者たち、孤児院のみんな、グリナ……。
どんな表情をされるか。どんな目で見られるか。
怖かった。これまでの自分、自分への信頼、聖女としてずっと積み重ねてきたことのすべてが、粉々に砕け散ってしまう。
なんで自分がこんな目にあう?
悪いのは、嘘吐き男や性悪な魔女なのに。
そんな風に心底から思ってしまう自分が、醜くて浅ましくて、耐えがたかった。
逃げ出したい。だれにも会いたくない。
何もかも捨てて、一人っきりになりたい。
混乱し絶望し、自死も頭をかすめる中で、ふと思いつく。
……そうだ、自分は死んだことにして、逃げ出せばいいと。
ふらふらと、フリバラの死体へ。
血まみれの顔。魔竜にかまれて無残に砕け、原形をとどめていない。だれとも見分けがつかない。背格好は自分とほぼ同じ。
フリバラの黒衣を脱がせ、裸にする。自分も純白のローブを脱ぎ、その黒衣を着る。自分のローブをフリバラに着せる。そして、筆頭聖女の証である聖石の首飾りを外し、フリバラの折れた首にかける。
アーネは、憑かれたように作業を続けながら、思った。
この自分に偽装した死体を引きずって、ヴァイルの焼死体の隣に並べておけば、ますます自分のように見えることだろうと。
どす黒い感情がまた、ちろちろと熾火のように生じる。アーネはもう、そのことを自分自身に否定しなかった。
◇◇◇
そして、流浪の旅に出た。
焼けただれた顔は、仮面をかぶって隠した。どこかの聖女に治癒魔法をかけてもらえば治ったかもしれないが、そのままにした。アーネという存在を捨てるため、また自分への罰として。
魔力は濁ったままで、澄んで青白く輝くことは二度となかった。
ただ、生来の恵まれた魔力量は変わらなかった。ひたすら修行し、魔女の魔法を使えるようになり、辺境の地を巡って魔物を狩り続けた。
〝仮面の魔女〟として名が高まったが、アーネにとっては罪滅ぼしの行為にすぎなかった。
筆頭聖女だった自分が突然いなくなり、各地で魔物除けの結界が弱まった結果、魔物の数が増えていたのだ。
人里を避け、魔物を狩るだけの日々を送った。それでも、なお癒されることはなかった。
どれだけ月日が流れても、過去の光景が、悪夢となって執拗に繰り返される。夜の夢だけでなく、日常のさなかでも、唐突に頭の中によみがえってくる。そのたびにたちすくみ、悲鳴をあげ、泣いた。
やがて、大聖堂での噂が風の便りに届く。
あの事件の再調査が行われ、魔女フリバラが魔竜を復活させ、筆頭聖女アーネと騎士ヴァイルを殺害したという、〝真相〟が判明したこと。そして、逃亡したフリバラを討伐する追手が放たれたこと。
◇◇◇
大聖堂からの追っ手が、ついに目の前に現れた。
かつて自分を慕ってくれた少女――筆頭聖女となったグリナ。すっかり大人びて背も高くなっていたが、一目でわかった。
凜としたまなざし。そのグリナの目元がかすかに光る。
「……よくも、私のお姉さまを!」
お姉さま、か。
この子は、自分のことをいまだにそう呼んでくれるのか。そんな風に気をかけてくれていたのか。
たしかに、アーネを殺したのは、私だ。自己保身という、身勝手な理由で。
仮面をかぶっていてよかったと思う。そう思うことなどめったになかったが、今だけは。ただでさえひどい顔が、さらにひどくなっているだろうから。
迷わなかったといえば、嘘になる。
一瞬、強い衝動に駆られた。こんな仮面など脱ぎ捨てて、グリナと叫んで、なにもかも打ち明けて、抱きしめて……。
感情なんて、とっくに干からびたと思っていたのに。
だが、今さらおめおめとさらせるはずもない。
この焼けただれた顔を、濁りきった魔力を、薄汚れた心を。
今の自分は疲れ果てた一介の魔女にすぎない。
ただ、せめて……この子の中でだけは、〝アーネお姉さま〟のままでいたいと。
グリナの魔法。力強いが、まだ硬さがある。
かつての自分が持っていたような技巧はないが、それでいい。自分自身をまっすぐに信じる潔さがある。自分のような気弱さやもろさは感じない。グリナはきっと立派な大聖女になれるだろう。
グリナの放った渾身の一撃。
青白く輝く奔流に貫かれ、アーネは倒れ伏しながら、グリナのけげんな表情を見る。
聡い子だ。これ以上、面と向かっているべきではない。
この子に、自分と同じものを背負わせてはならない。
もう十分。思い残すことなど、何もない。これでやっと……あの夢を見ることもなくなる。
アーネは、残された魔力を振り絞る。
自ら巻き起こした炎に全身を包まれながら、ふと微笑がこぼれる。
まるで孤児院の中庭でみんなと笑い合っていた、あの頃みたいな――。