握る手
氷雨たちが吉之助の看病に九證寺を訪れたのは、事件から2日目の晩……つまり横井が氷雨の元を訪れた日の晩であった。寺の早打ち(※1)が吉之助の意識が回復したことを知らせに来たからである。
「奇跡じゃ…。」
僧や商人たちは口々に驚いていた。確かに最後の決め手になったのは、氷雨が処方した『逍遥恢己朱芍丹』の効果だった。しかし、飲まず食わずの身体では、いずれにせよ事件から3日目が峠だったので、まさに吉之助の克己心がギリギリの生還に繋がったと言えよう。とはいえ、精神が乗り越えても、肉体が生命活動を止めていてはこの結果にはならなかったはずだ。
(この1ヶ月、駆けずり回っていたことが命運を分けたのだろう。)
吉之助が助かったことは、基礎体力が向上していたことに起因すると氷雨は冷静に分析をした。しかし、意識を回復したとはいえ、衰弱し切っている吉之助は、口が利けなくなっていた。なんとか筆談をしようとしていたが、筆すら持てない状況だった。
「傷に障りますので、まだ休んでいてください。」
「ぅ…ぅ…。」
急く気持ちもわかったが、今は傷の回復が最優先だと諭す。それに、話せないこともまた不安だったのだろう。
「体力が戻れば、また自然と話せるようになりましょう。」
「ま、しばらくは重湯生活だけどね。」
氷雨たちがそういうと、吉之助は安堵したように目を閉じた。
五条橋の一件については、織田家の目付も取り調べに来ていた。しかし、吉之助がこの様子な上、水野、中根の両名も死亡しているので調査は進展していなかった。
各大名によって沙汰は多少異なってはいたが、この戦乱の時代であっても、非公式に刀を抜くことは治安を乱す行為として処罰の対象になる。しかし例え私闘であっても、名誉に基づく場合は黙認されるケースも多かったのである。今回の一件、発端は佐脇家の家名を汚すことだったので、情状酌量は大いにあり得るだろう。
幸いなことに証人も多い。
吉之助が意識を取り戻してから、商人や僧によって大方の事情は聞かされていたようだ。しかし、吉之助としては、水野たちを斬った手応えがなかったからいまだに信じられないのだろう。
「決死の覚悟というものは、時に肉体を凌駕するものでございます。きっと佐脇様の家名を守ろうとした意志が、戦経験のある水野様たちを上回ったのです。」
そういうものなのか、といった風に若い武士は天井を仰いでいた。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
五条橋の一件から5日——…。
横井の指定した日となった。横井の仲間になるせよ、ならないにせよ、しばらく戻ってこれない状況は想定しておくべきだ。そう思い氷雨たちは、再び吉之助の元を訪れる。氷雨は作り置きした生薬を医僧に託し、万が一の時のため抜糸の時期なども伝えた。
その間、部屋では鈴蘭が吉之助の晒しを変えてやっていた。片腕にも関わらず、足も器用に使い手慣れた様子で新しい晒しを巻き直す。
「…そんなジッと見られてるとやりづらいんだけど。」
吉之助の視線を感じ、ぶっきらぼうに鈴蘭が言った。それでも、吉之助は視線を外さない。諦めたように、鈴蘭が看病を続ける。
「アタシたち、今晩から野暮用でしばらく来れなくなるかもしれないから、ちゃんと坊さんの言うこと聞きなさいよ。じゃないと、早く治んないよ。」
少し困惑した表情をする吉之助に対して、鈴蘭は心配させまいと続ける。
「まぁ、ひょっとしたらすぐに戻ってこれるかもしれないしさ。」
横井の誘いに乗るのか、それとも断るのか、それは氷雨次第だが、面猿という目的がある以上、鈴蘭は氷雨が横井の誘いに乗る可能性はゼロではないと踏んでいた。そうなれば、横井たちの手伝いをするため、しばらく薬師稼業を行えず簡単には表の世界に戻れなくなる。一応万が一戦闘になった際の秘策も準備はしているが、荒事を避けるに越したことはなかった。
正直、氷雨も横井の目的を聞くまでは、結論を出すつもりがないらしい。
「はい、これで良し。」
そう言って軽くポンと吉之助の額を叩いた。
鈴蘭がそのまま、立ちあがろうとすると、ふいに吉之助がその小さな手を握ってきた。
「ちょ…。」
鈴蘭は驚いて、吉之助の方を振り返る。
吉之助の真剣な眼差しが、鈴蘭の瞳を捉えた。
(黙っていれば、可愛いものを…)
ふと鈴蘭は、団子屋での吉之助の言葉を思い出した。
頭を巡った言葉とこの状況で、鈴蘭は自分でも分かるくらい気恥ずかしくなっていた。
「…片付けらんないから、離してよ…。」
これまで鈴蘭は他人の悪意にしか晒されてこなかった。
(身体でも…心でも…、痛いのは嫌いだ。)
悪意に敏感なりすぎたあまり、いつしか自己防衛として他人からの感情に鈍感になる癖を身につけていた。氷雨と旅をするようになってからは、氷雨という花があれば自分が目立つことは決してない。悪意に晒されることは無くなった代わりに、他人にとって自分の存在価値は、路傍の石ほども無くなったと自覚した。
もちろん、鈴蘭はそんなことで氷雨に対する忠義が揺らぐことはない。しかし、その結果、鈴蘭の自己評価は奈落までに落ち、他者からの感情に対してますます鈍化していってしまった。そんな鈍感な鈴蘭でも、この吉之助という男が自分に向ける感情が、悪意ではないことが分かってしまったのである。
だからか鈴蘭は、この男の手を、簡単に振り解けなかった。
「なんでアタシなんか…。」
そう呟いた少女の、年相応の小さな手を、吉之助はさらに強く握りしめた。
吉之助は、佐脇家の次男坊として生まれて以来、何事も常に長男の次に置かれていた。
食事の順番も、与えられる服も、剣の稽古も、寺での勉学も、恐らくは、親からの愛情も——…。別にその境遇を恨んだことはなかったが、兄・吉左衛門を陽の光とするなら、自分は影だ。いつしか吉之助はそう思うようになっていた。兄が死んだ時も、両親はこの世の終わりかというほどに、悲嘆に暮れていた。
そして、吉之助が仕官することになった際、両親はまず佐脇の家名を守ることを厳として言い渡したのである。その時、自分は兄とは違い何も期待されていないことに気づいた。ただただ、佐脇の家名を守るための人間。いつしか吉之助は、周りの評価を気にして生きるようになっていた。
だからこそ横井たちに家名を汚された際、自分の存在意義を剥奪されたような気がしたのである。
そんな頃、氷雨と鈴蘭に出会った。
初めは、氷雨の美しさに目がいった。対してすぐそばに控える鈴蘭は、怪我した足を踏んでくるは、頭を叩いてくるは、本当に最悪な印象だった。
しかし、傍から見ていると、鈴蘭は常に氷雨の影に隠れる存在だった。
その姿が、どうにも他人に思えなかった。この少女も陽の光に隠れている自分と同じ側の人間だと思ったのである。ただでさえ目立たない小柄な体躯、さらに片輪者というハンディキャップを背負っている…。いや、むしろ自分よりも下かもしれないと心のどこかで見下していたくらいだ。しかし、時が経つにつれ、鈴蘭は自分とは全く違う生き物だと気づいた。
鈴蘭は一切周りの目を気にしない。
ひょっとしたら、自ら他人の目を遮断していたのかもしれないが、それでも鈴蘭は、常に自分を飾ることなく、口悪くとも自然体でおり、何よりも凛としていた。いつしか、吉之助の中で、鈴蘭に対しての評価が上がっていた。
そしてあの日。
団子を頬張り、微かに和らいだあの鈴蘭の表情を見て、この少女を愛おしく思ってしまったのである。
(今はその気持ちを言葉にすることができない。だがきっと体力を回復させて必ずこの娘に自分の気持ちを伝えよう。)
吉之助は、握る手をさらに強めた。
小さな手は握り返してくることもなかったが、最後まで振り解くこともなかった。
※1早打ち:急報を知らせる使者のこと。