潜入
1559年(永禄2年)5月、尾張国清洲城下町。
青葉が鮮やかになり、本格的に夏の足音が聞こえてくる頃。
道ゆく男たちが、しばし自らの成すことも忘れて惚けていく。
男たちの視線の先には1人の薬売りが歩いていた。
別に薬売りなんて何の変哲もないのだが、この薬売りは女だてらに商売をしていたのだ。しかもただの女ではない。楚々として歩く佇まいからは得も言われぬ優美さを漂わせ、華奢な肢体の上には、誰もが目を惹く小さな顔が乗っている。
その肌は雪のように白く、
その頬には、夜桜の花びらのような薄紅色が彩りをさしている。
その瞳は、蒼蒼とした森の深奥を覗くような暗い濃紺で、
その淡い唇が微笑めば、10人が10人、息を呑む美しさに近づき難さを覚えるだろう。
背中の中心まで伸びた髪は、丁寧に結われており、
その色は夜の闇を吸い込んだかのような漆黒に染まっていた。
まさに”傾城の美女”と呼ぶに相応しい容姿をしていたのである。
「はぁ…天女様でも迷い込んだか?」
「お、おら、ちょっと声かけてみようかな…。」
「や、やめとけ。」
「こりゃ、浮気されても嫉妬すらせんやなぁ。」
男だけでなく、女ですら目を奪われたまま、この世にこんな美しい人間がいたのかと、感嘆のため息を漏らす。しかし、多くの者たちは薬売りの女にだけ注目し、その横にいる片輪の少女に気が付かない。
片輪の少女・鈴蘭は静かに嘆息する。
(人酔いしそう…。)
清洲の城下町は、4年前に織田信長が本拠地として以来、約1万人もの商人や職人たちが交易の拠点として集まり、尾張最大の商業の中心地に成長していた。
当時、清州の人口が約3万人と言われていたことを考えると、かなり賑わっていたことが伺えるだろう。
鈴蘭たちはつい先日まで、小さな村と山道の行き来くらいしかない生活をしていたので、余計に人の多さに圧倒されていた。
その上、鈴蘭の主人・氷雨は、どこを歩いていても人の目を奪い去る注目の的だ。良からぬ考えを持つ者が近づいてくる可能性も考慮し、一切気を抜くことができず、ちょっとばかし精神をすり減らしていたのである。
そんな氷雨たちは、人助けをしながら面猿という男の行方を追って諸国の旅を続けていた。面猿とはその名の通り、常に猿の面を被っていた男だという。
実のところ鈴蘭は面猿と直接の面識がないのだが、主人である氷雨と面猿の間には余人には計り知れない因縁があった。
もともと氷雨は、今川義元に召し抱えられていた伊賀三忍の一人・藤林保豊(後の藤林長門守)が、気まぐれに孤児を集めて結成した忍びの集団”七愚天”に属していた。しかし、保豊はいつしかその集団の管理を面猿という男に任せ、自分は今川家の下を辞したのである。
それからしばらくの時を経て、ある任務で”七愚天”抹殺の命が下った。
下知を下したのは、他でもない、藤林保豊だった。そこで保豊が用意したのが、伊賀でも特に密殺の腕がたつ「後隠」という暗殺部隊…。その中の一人が鈴蘭であり、当時は氷雨と敵対する立場だった。
鈴蘭は、幾度反芻したか分からない氷雨と出会った夜を思い出す。
そして、今はない、自分の左腕をそっと見つめた。
氷雨は、鈴蘭にとって返しきれない恩を受けた大切な存在なのである。
(この方の為に、アタシはアタシの命を使う。)
そう覚悟して尾張まで付き従ってきた。鈴蘭はふと、今回尾張に来た理由を思い出す。
「面猿は、尾張の大うつけに飼われている。」
それが義元公の娘、隆佳姫が氷雨に与えた最期の情報だった。隆佳姫…、今川家でも特殊な立ち位置の姫だったが、独自に氷雨を見出し厚遇しており、氷雨もまた珍しく気を許していた存在だったのである。氷雨を敬愛する鈴蘭にとっては、今回の情報源を思い出すと少し胸が締め付けられる想いであった。
鈴蘭はチラリと氷雨の横顔を見上げる。視線を感じてか、氷雨が鈴蘭の方を見つめ返し、微笑んだ。
「お鈴、少し休もうか。」
「はい、花乃様。」
薬売りは「花乃」…
そして側に付き従う少女が「お鈴」…
で今は通っている。
名を捨てた氷雨と鈴蘭が、”隠し名”としてよく使う名前であった。
五条川の畔りにある茶屋に腰掛け、茶をすすりながら、氷雨が店主の老婆と話を弾ませる。鈴蘭は、側に控えながら街並みや人の気配を抜け目なく覚えていく。こうしてゆるりと茶を飲んでいると一見平和そうに見えるが、行き交う人たちの中には織田家の目付たちが目を光らせながら歩いている。それは商業が活発な町でありながら、今が戦乱の世であることを否が応でも思いださせる風景だった。
「そう、三河からはるばる、人を探しに。探しているのは、どんな人だい?」
「はい。小柄な男なんですが、どこか頼もしさもある人でとにかく話し上手な人です。」
「ほれだけかい?」
「恥ずかしい話、昔、世話になった人なってはいたんですけど…名前も知らなくて。」
これは本当のことだった。
氷雨は面猿の名前はおろか、猿の面の下にある素顔も見たことがない。
「そりゃ、えらい探すの難儀しよるの。」
茶屋の老婆は少し哀れんだように空いた湯呑みに茶を注いでやる。氷雨は軽く頭を下げながら続けた。
「そうなんです。でも信長様にお仕えしていると風の噂で聞いたので、武家の方かと思いまして。」
「お武家さんかい? 近頃は戦が近いとかで、目付の人やお武家さんたちもよう来るがね。」
「まぁ…、戦が。」
氷雨にとってはすでに知っている情報だったが、軽く驚いて見せた。軽く情報収集を済ませ他愛ない話を続けていると、突然、男の叫び声が響いた。氷雨たちが目を向けると、何やら河原で4人の男たちが騒いでいる。
「それ以上しつこいと叩きっ斬るぞ!!」
「うぐっ…。」
どうやら、3人の武士が、まだ若い武士を取り囲んでいた。倒れている男は、激しく打ち据えられたのか、左足を押さえながらも、眼光鋭く3人の男たちを見据えている。
「な、何度でも言いまする!! 先ほどの発言、取り消し願いたい!!」
「この…小癪なッ!!」
もう我慢ならんと1人の男が刀を抜いた時、透き通った声が割って入った。
「お侍さん、そのあたりでご勘弁して差し上げては。」
「何を…。」
一斉に4人の男たちが声の主の方を見ると、その美貌に申し合わせたように全員の呼吸がハッと止まる。氷雨は、その中で優雅に降りてくる。ようやく時間を取り戻したかのように武士の1人が恫喝した。
「女子がしゃしゃり出てくる場ではないわ!!」
「十分承知してございます。しかし私はこの通り、薬師の端くれでして。目の前で怪我人がいては放って置けませぬ。」
よく見ると、騒ぎを聞きつけたのか周りに人だかりができていた。
「チッ…まぁいいわ。今日のところは勘弁してやる。」
「お、おい。いいのか?」
「目付に言いつけられても面倒でだろう。」
虚のような目をした男がそう言うと、他の2人の武士も習って歩き去っていった。
「待ってくださ……痛っ、いたたた!!」
なおも引き止めようとする若い武士の足を、鈴蘭が思いっきり踏んづけた。痛めた足を踏まれ、若い武士が激昂する。
「なぜ邪魔をするッ!!」
鈴蘭は、足の力を緩めた。
「だってあのまま引き留めてたら、アンタ死んでたよ。」
自分と同じ歳かそれよりも下の娘にタメ口を叩かれた若い武士は、さらに声を荒げようとしたが、肘から先のない鈴蘭の左腕を見て言葉を飲み込んだ。
その隙を見て、
「それよりもお侍さん、少し見せてくださいな。」
「お、おい、余計なことはするな!」
氷雨は聞く耳持たず、若い武士の袴をたくし上げる。
(この匂いは…。)
ずいと近づいた氷雨の小袖からは焚き染めた香がほのかに薫り、気色ばんでいた男の心を少し落ちつけたのである。氷雨が怪我の具合を確認すると、左の外腿が浅黒く変色し大きく腫れていた。どうやらかなり強く打ち付けられたらしい。
「骨にヒビが入っているかもしれない。お鈴。」
阿吽の呼吸で鈴蘭は、持ち運んでいた風呂敷から薬研(※1)と擂槌(※2)を取り出す。氷雨は、薬箱から桂皮、芍薬、大黄など7種類の生薬を取り出し、手際よく薬研で粉末していく。さらに粉末にした7種の生薬にごま油を足し、擂槌で混ぜ合わせていった。よく混ざり粘り気が出てきた頃合いをみて、氷雨はそれを和紙に塗る。そしてその和紙を患部へ当てたのだ。
これは「金創膏」と呼ばれるもので、いわゆる即席の湿布薬だ。この金創膏は、血行促進、消炎作用、鎮痛などの効果があり、打ち身や肩凝り以外にも、刀傷の治療としても実際に使われており、効き目があったとされる。
「太股では添え木の効果は薄い。ひとまず今日は、このまま安静にしていてください。」
「余計な真似を。…銭なら払わんぞ。」
バツが悪そうに男が言うと、鈴蘭が即座にその頭をひっぱたく。
「お、お前!」
「最近の若い侍は、お礼の言葉すら言えないの?」
薬師が、ましてやその付き添いの者が、まだ若いとはいえ武士の頭をひっぱたくなんてもっての他であったが、鈴蘭の正論と、謎の気迫に動揺して二の句がつげずにいた。どうやら、この若い武士は、根が真面目で優しい人物なのかもしれない。とはいえ、ここで余計こじれても面倒なので、氷雨がうまくなだめに入った。
「こら、お鈴。」
鈴蘭は、悪びれもせず、ひょいと男から離れる。
「今回は私が勝手に処置したものですから、お金は気になさらないでください。」
この発言に男は少し驚いた。いくら目の前に怪我人がいて捨て置けなかったとはいえ、さすがに何の対価も要求しないとなると、よほど銭に困らない生活を送っていると伺えたからだ。
「沈香(※3)といい、見たところ、ただの薬売りではなく、どこかのお抱えの薬師殿でござったか?」
「まぁ、そんなところです。今は違いますが。」
「…なるほど。それでは、信長様にお召し抱えいただこうということか。」
乱世の時代、医学に心得がある薬師は、特定の武将に召し抱えられることはあった。しかも意外と選択の自由もあったと言われている。現代風に言うと、いわゆる転職活動の一環、新規営業開拓といった感じに近い。この男も、氷雨たちの目的をそう解釈したのである。
「しかし、そうなると貴殿は問題ないにしろ…。」
そういって、男はジト目で鈴蘭を見やる。
「…何よ。」
「いいや、なぜこのような麗人が、こんな粗暴な女を付き従わせているのかと。」
「アンタと違って、花乃様は懐が深いのよ。」
「ほう、花乃殿と申すのか。」
「申し遅れました。私、花乃と申します。ここにいるのが、お鈴です。」
「拙者は、佐脇吉之助と申す。先ほどは無礼つかまつった。」
若い男なりの謝辞を受け止めてから、氷雨は続けた。
「して佐脇様。私たちは別に信長様にお召し抱えていただくために尾張へ来たのではございません。人を探しに来たのです。」
氷雨は自然な流れで、先ほど茶屋の老婆に話した話を吉之助にもする。
「…なるほど。つまり、銭はいらないから、代わりに人探しを手伝ってほしいと。」
吉之助は合点がいったように頷いたが、すぐに神妙な面持ちになる。
「しかし…。」
吉之助が何かを言いかける前に、氷雨はかぶせて言った。
「しかし佐脇様は、何やら問題をお抱えの様子。先ほどの諍いも何か原因があったのでしょう。私は薬師としてこれまでも、お侍さんにお力添えをしてまいりました。ある程度の知恵ならお貸しできるやもしれません。」
鈴蘭は上手いと思った。
状況的に考えて面猿が信長に仕えているというならば、立場は分からずとも侍である可能性が高い。となると、普段は清洲城により近い、侍屋敷の並ぶの二の丸内部にいるはずだ。平時は、移動の制限がない城下町とはいえ、素性の知れぬ者が侍町をうろついていては、このご時世、間者と疑われかねない。
そのために、この佐脇なる男を現地の手駒として使うのは理にかなっている。氷雨たちが今いる商業地区にも、武士が出向くことはあれど、面猿が果たしていつ出てくるかもわからない。
つまり、内部と並行して情報を集められればそれに越したことはない、ということだ。
それを承知した上で、氷雨は佐脇の怪我を治療してやることでごく自然な形で、若い男に無自覚の恩を着せたのである。さらに、何事か悩んでいる問題解決の手伝いまでも、引き受けようと申し出ているのだ。
これも事前に他国で武士に雇われていた実績があることを匂わせているので、より信頼されやすいだろう。
その上、氷雨にはこの美貌がある。
相手が男でも女でも、氷雨に面と向かって断れる人物は、そういない。
忍びにとって重要なのは、何も術技の巧みさだけではないのである。情報を引き出すためのコミュニケーション能力、これもある種の忍びの素質ともいうべき1つだった。
(アタシもまだまだ修行不足だな。)
氷雨は人が集まっていたこともあり、日を改めて話を聞くことを提案した。これもまたさりげなく、老婆の茶屋で落ち合う約束を取り付けていたのである。
(※1)薬研:生薬を粉末にする道具。腹筋ローラーみたいなもの(笑)。
(※2)擂槌:粉末にしたものを混ぜ合わせる道具。つまり、すり鉢。
(※3)沈香:男女ともに使われて上品な香の一種。当時は香を炊いて、着物に匂いをつけていた。