1
僕はリュックの中身を確認する。
スマホに水筒、それと読み掛けの文庫本。
台所のテーブルの上にメモ書きを置いた。
両親はまだ眠っている。
ふと気付いて台所の魚肉ソーセージを二本入れた。
足音を忍ばせて玄関のドアを出る。
ドアの鍵を閉めると、空を見上げた。美しい青空が広がる。それだけでも気分が良かった。
僕はリュックを背負うと駅に向かって歩き出した。
電車を乗り継ぐ。
運よく空いていた窓際の席に座り、文庫本を開く。時折車窓の景色に目をやる。
東京のビル群が通り過ぎ、郊外の景色が広がる。
赤や白の梅の花があちらこちらで咲いている。
時には群れて咲いている。
土手の雑草。通り過ぎる橋や川。小さな水門。森の中の鳥居や社。田んぼや畑。春浅い森や林の緑。
風景は次々に現れ、あっという間に流れ去って行く。
向こう側の窓には薄紫の山並みが見えて来た。そろそろ海が見える頃だ。
海が現れた。
青い空に青い海。
天気の良い日は本当に海が美しい。
僕は開いた文庫本を手に持ったまま、きらきらと輝く海を眺めた。
ごとごとと小さなディーゼル車に揺られる。
バスみたいな車両。
T町に着いた。
僕は車両を降りた。降りたのは僕一人だった。
駅員もいない。
ここは、ずっと無人駅なのだ。
時刻は10時過ぎ。
やはり遠いなと思った。
小さな白い駅舎はしゃれた感じにリフォームされていた。僕はその写真を撮る。
辺りは閑散としていた。
建物の間から輝く海が見えた。
懐かしい潮の匂いがした。
懐かしい様な寂しい様な気分を抱えて歩く。
数十メートル歩く頃には、何かが足に纏わり付いている気がする。
見えないそれは足元にじゃれ付く。
「よう。また来たのか?」
それは言う。
「また逢えた。また、お前に逢えた」
「お前は変わった。お前は成長した。もうあの頃の弱い子供じゃない」
「いや、お前は変わらない。あの頃のままだ。あの頃のやせっぽちのつまらない子供のままだ」
それは町の至る所から顔を出す。
そして僕に声を掛ける。
古い民家の軒下から。壊れて傾いた看板の陰から。白い花の隙間から。
ごつごつとした古い幹の向こうから。
僕は立ち止って水筒の水を飲む。
町から外れて森の中の小道を進む。
日当たりの良い叢にラッパ水仙が咲いていた。
その鮮やかな黄色をカメラに収める。
石作りの鳥居が見える。
これは一の鳥居。
そこで一礼をすると鳥居をくぐった。
空気がひんやりとする。
深い森の中の真っすぐな参道。
そのずっと先に小さな社が見える。
ようやく目的地に着いた。
どこかで鶯が鳴いている。
立ち止って木々を見上げ、その姿を探す。
二の鳥居。
そこでまた一礼をする。
目の前には古びた社があった。
それをじっと見る。たっぷりと1分間。
すごく静かだ。僕はしんとした空気の音を聴く。
大気が微かに重くなったと感じた。
賽銭箱に賽銭を入れる。
二礼二拍手
頭を下げてじっと祈る。
目を開けると一礼をし、鈴をからんからんと鳴らした。
振り向いた視線の先に一匹の小さな狐がいた。