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反骨のアパシー

作者: どくだみ

 北島栄太郎は正直、面食らっていた。その職場に漂う異臭は、それこそ鼻を摘みたくなるほどだったのである。まるで吐き気のするような臭い。その表現がぴったりと当てはまる。

「園長、何ですか、この臭い……」

 栄太郎は尋ねずにはいられなかった。

「これが施設臭ってやつさ。君も一月ほどすれば慣れるよ」

 だが、栄太郎にはその臭いは永遠に慣れそうにもないと感じたものであった。

 栄太郎は帰帆市に勤める地方公務員だが、この四月に異動の辞令が下りていた。この市立野菊園という知的障害者更生施設への転勤の辞令である。そこに足を踏み入れたところで、施設臭の洗礼を受けたところなのである。

「まあ、君には期待しているよ。福祉事務所で生活保護の現業員として輝かしい実績があるからな」

 原口園長は笑いながら、内線電話を握った。栄太郎はこの臭いが衣服にまで沁み込むのではないかと心配になった。それ以上に、この臭いの中で何食わぬ顔をしている園長が違う人種に見えた栄太郎であった。

 程なくして松田寮長という男が現れた。栄太郎の直属の上司にあたる人物である。小柄だが気さくな人物で、「ようこそ、ようこそ」などと愛想笑いを浮かべながら、栄太郎を配属された梅寮へ案内してくれた。

「この臭いはいつもするんですか?」

 すると松田寮長は笑いながら言った。

「これは涎と排泄物と消毒液の混ざり合った臭いだよ。多分、この施設が存在する限り、この臭いは取れないと思うね」

「はあ、そうなんですか。職員食堂でもこの臭いはするんですか?」

「施設内、どこでもするよ。あなたはずっと福祉事務所で綺麗な仕事をしてきたんだろうけど、ここは同じ福祉畑でもまったく異質だからね。排泄から入浴、食事に至るまで介助の仕事に慣れてもらわねばならない」

 そう言うと、松田寮長はツカツカと歩きながら梅寮の鍵を開けた。寮には鍵がかかって自由には出入りができないようになっていた。鍵が開くと、臭いは更に強烈なものになった。それはまさに悪臭だった。

 職員室で栄太郎は梅寮の概要について松田寮長から説明を受けることになる。

「この梅寮には合計で十八名の男性の知的障害者が生活しています。定員は二十名なんですが、二つのベッドは短期・一時利用に確保してあるんです。この梅寮は主に身体障害と重複している利用者がほとんどです。まあ、身体的にも重度の障害者が多い。在宅では生活困難な方たちです。年齢は若くて二十代、高齢の方で六十五になります。親御さんも高齢になってきていてね。帰宅もままならないのが現状です。まあ、利用者の名前や特徴はおいおい覚えてください」

「はあ、私は施設の勤務なんて初めてなんで、よろしくお願い致します」

「これから、辞令を持って前の職場に挨拶に行くんでしょう? その前に、昼食介助の時間なので、ちょっと見ていきますか?」

「はあ、よろしくお願い致します」

 松田寮長は梅寮の食堂に栄太郎を案内した。

 そこにいたのは、車椅子に乗った者、歩行機を脇に置いている者、奇声を発しながら一心不乱に食事に齧りついている者など、千差万別であった。数人の職員が食堂内を忙しく回りながら食事介助をしている。

「何なんですか、今日の食事は?」

 栄太郎は思わず尋ねた。尋ねざるを得なかったのだ。利用者のトレーに乗っているのはカレー皿でそこにご飯からおかずまで一緒くたに混ぜられていた。

「今日はサバの味噌煮です」

 職員の一人が答えてくれた。しかし、サバの味噌煮の原型は留めていない。それは刻まれているのだろうが、他のサラダと思しきおかずと混ぜられていたのだ。

 この施設に漂う悪臭と共に、その食事がえらく不味そうに栄太郎は感じた。

(食事と言うより、家畜の飼料みたいだな……)

 その飼料を利用者の口に運ぶ職員。そして自力で食べられる者は、貪るように口に運んでいた。

「まあ、大きい声じゃ言えないが、食事を混ぜるのは人権上、ちょっと問題あるんだよね」

 松田寮長が渋い顔をしながら言った。

「でも仕方ないんだ。嚥下に問題がある人も多いし、食べやすくする工夫もあるんだよね。それに一品一品食べさせるだけの、人手がないんだよ」

 それに対し、栄太郎は何も言えずにいた。

「ちょっと、寮内を回っていくか」

 松田寮長が先導して歩き出した。

 寮内はかなり汚れが目立っていた。各利用者は個室と二人部屋に別れていた。寮長の話では、これでも改修工事をしたのだという。

 栄太郎が驚いたのはトイレであった。大便器は剥き出しで扉がないのだ。間仕切りはあるが、扉は後から取り外した形跡がある。

「ああ、これね。車椅子の人をトイレに入れるのも苦労するし、事故防止の観点からも扉は取り外してあるんだよ。まあ、これも人権上は問題があるんだけどね。外部監査の時だけ取り付けるんだ」

 栄太郎は開いた口が塞がらなかった。

 軽く尿意を覚えていた栄太郎は、職員用のトイレで小用を足した。職員用のトイレは小奇麗に清掃も行き届いていた。そこで用を足すことに、栄太郎は少々の罪悪感を覚えていた。


 家に帰ると妻の律子と息子の健一が栄太郎を迎えてくれた。

「お疲れ様、新しい職場はどうだった?」

 律子は栄太郎から鞄を受け取ると、にこやかに笑った。

「いやぁ、カルチャーショックだったよ。まだこの日本にあんな施設があるなんて……」

「そう言えば、何か臭いわね」

 律子が顔をしかめる。

「施設の臭いだよ。それが衣服に染み付いているんだろう」

「どんなところなの?」

「一言で言えば、『人間家畜場』さ……。トイレには扉もない、食事はまるで家畜の飼料だ」

「そんなに凄いところなの?」

「ああ、今日は一、二時間いた程度だけど、これから先、あの施設で働くのかと思うとゲッソリするよ」

 栄太郎はジャケットを脱いだ。それに芳香剤を吹き付ける。

「パパ、遊ぼう」

 健一が栄太郎の足にへばりついた。

「パパ、臭い」

 栄太郎は思わず苦笑を漏らす。すぐにズボンも取り替えた。

「パパって困っている人を助ける仕事してるんだよね?」

 健一が嬉しそうに訪ねてきた。栄太郎は笑って健一の頭を撫でた。

「今日、友達にそのこと自慢してきたんだ」

「そっか……」

 栄太郎は飼料のような食事をスプーンで口に運びながら、介助をしていた職員の姿を思い出した。

「困っている人を助ける仕事ねぇ……」

 野菊園での仕事が、果たしてその範疇に入るかどうか疑問に思う栄太郎であった。

 健一は律子の連れ子であった。健一には栄太郎の血が流れていない。それでも栄太郎は本当の子どものように健一を可愛がり、健一もまた栄太郎を本当の父親だと思っている。「産みの親より育ての親」とよく言うが、それは父子の関係にも当てはまるらしい。

 栄太郎は以前に健一に買い与えてやった「仮面ライダー」の人形を手にした。それは今でも健一の宝となっている。栄太郎は「仮面ライダー」の人形を手にニコッと笑った。

「夕飯まで時間があるな。『仮面ライダー』ごっこでもするか?」

 健一が屈託のない笑顔を見せた。


 翌日。栄太郎は日勤だった。この野菊園では職員のほとんどは変則勤務となっている。早番、遅番、夜勤の三交代制だ。栄太郎はまだ見習い期間ということもあり、日勤だったのである。日中には栄太郎他、転勤者への職員研修も組まれていた。

 出勤すると、ちょうど朝食の下膳をしている時間帯であった。栄太郎は職員室で利用者の援助の概要についての資料に、ざっと目を通す。排泄が未自立でオムツを使用している者、歩行が困難で車椅子を使用している者、自閉的傾向が強く日課が崩れるとパニックを起こす者、利用者の障害特性は千差万別であった。

 そこへ松田寮長が出勤してきた。

「ああ、それね、ざっと目を通すくらいでいいよ。マニュアルはあくまでもマニュアルだから。まあ、実際には勤務の中で仕事を覚えてもらうからね。それより、日課表に目を通しておいて」

「はあ、これからの時間は……」

「食後の排泄介助だよ。トイレ誘導したり、オムツ交換をしたり……。こんなところでくつろいでないで、寮に入った、入った」

 松田寮長に促され、栄太郎は職員室から出た。そして、トイレの方へと向かう。トイレの周囲は特に悪臭がひどかった。

 扉の付いていないトイレに数名の利用者が座っていた。ポータブルトイレに座っている利用者もいる。便座の前には申し訳程度のカーテンが設置されてはいたが、それが閉じられることはない。利用者の排泄場面は丸見えだ。

(ここにはプライバシーの配慮がないのだろうか……?)

 そんなことを思いながら呆けていると、「オムツ交換の手伝い、お願いします」と栄太郎に声を掛ける者があった。寮の主任職員の田上であった。もう年配の職員なのだが、施設畑でのキャリアは長いそうだ。

 田上に続いて栄太郎がある居室に入った。ベッドの上で寝ている利用者。四肢は硬直し、腕や足に硬縮が見られる。

「稲田さんはあなたの担当だから、よくオムツ交換の仕方を覚えておいて」

 田上は栄太郎にそう言うと、稲田のズボンを一気に下げた。その下には厳重に巻かれたオムツカバーがあった。栄太郎は田上と協力してオムツカバーを外す。すると布オムツの下に紙オムツをしていた。更にその下には紙パッドが装着され、ペニスの周りには紙パッドが厳重に巻かれていた。

「これだけしないと、漏れるんだよ」

 田上が笑いながら言った。ペニスを包む紙パッドは尿を含んで重くなっていた。田上は手際よく紙パッドを交換する。

「これ、トイレの中のポリバケツに捨てておいて」

 尿をたっぷりと含んだ紙パッドが栄太郎の手に渡された。

「オムツ交換ができるようになれば、一人前の施設職員だよ。我々はどんなオムツの当て方が良いか、日夜研究しているんだ」

 田上は笑っていた。栄太郎は掌で紙パッドの重さを感じていた。

 栄太郎はそれを捨てようとトイレに向かい、ポリバケツの蓋を開けた。するとツンと鼻先を掠める悪臭が臭った。そこには詰め込まれた紙パッド、紙オムツがひしめきあっていたのである。便の臭いもする。栄太郎は思わず顔をしかめた。だが、これが現場の日常業務であると思うと、甘いことは言っていられなかった。栄太郎は紙パッドをポリバケツの中へ詰め込んだ。

 栄太郎は入念に手を洗った。尿の臭いが手にこびり付いているような錯覚に捉われたのだ。


 午前九時から研修は始まった。原口園長の挨拶から始まり、支援部長の浅田が野菊園の概要について説明する。

「えー、この市立野菊園は昭和四十五年に開園しまして、今では民間施設で受け手がないような、重度の知的障害者の拠点施設として機能しております。利用者の皆様には快適に生活していただけるよう常に人権問題に積極的に取り組み、施設の発展・改善に取り組んで参りました。とりわけノーマライゼーション、すなわち障害の有無に関わらず当たり前の生活が送れるよう、日夜努力しているところであります」

 栄太郎は昨日の食事場面を思い返していた。グチャグチャに混ぜられ、あたかも飼料のようになった食事である。それは浅田部長の言うノーマライゼーションの理念からは程遠いように思われた。

「えー、この施設では開園以来、三十年以上に亘って入所している利用者もございますが、当施設はあくまで通過施設として位置づけられております。つまりはここを退所し、次のしかるべき所に移って頂く。それは在宅かもしれないですし、グループホームかもしれない。あるいは他の民間施設ということも考えられるでしょう。ただ、現実を率直に申し上げますと、長期に亘って入所されている方がほとんどでございます」

(つまりは回転率が悪いということか……)

 栄太郎は心の中で呟いた。

 栄太郎は実はこの野菊園に煮え湯を飲まされたことがある。それはまだ、栄太郎が福祉事務所で生活保護の地区担当員をしていた時のことだ。

 浅原鉄男と浅原良太の親子をめぐる処遇で、この野菊園とトラブルになったのだ。浅原鉄男は障害判定こそ受けていないものの、知的障害とのボーダーであった。息子の良太は療育手帳B2の軽度の知的障害の判定を受けていた。母親はとっくの昔に死亡していた。そんな浅原親子の暮らしは生活保護に頼っているとは言え、日常的な支援が必要だった。だが、次第に鉄男の認知症が進み、鉄夫が精神病院に入院することになったのだ。そうなると良太一人で在宅生活を営むのは困難であった。そこで栄太郎は障害福祉課を通じて、良太の野菊園入所を打診した。しかし、返ってきた答えは「障害程度が軽いため、野菊園の入所対象ではない。野菊園は重度障害者のための施設だ」という答えだった。栄太郎はそれでも野菊園に食らいついた。

「短期や一時利用でもダメなんですか。今日、これからの生活が良太さんにはかかっているんですよ」

 しかし結局のところ、野菊園は受け入れをしてくれなかった。栄太郎は苦労して良太をひとまず精神病院に入院させたのだ。そこが良太にとって良い環境とは思えなかった。しかし、その他に方策がなかったのである。他の民間施設も満床であると断られていた。

 栄太郎には緊急性が高く、どこも引き受け手のない良太のようなケースこそ、公立である野菊園が引き受けるべきだと考えていた。しかし、野菊園は「重度障害者のための施設」という理念を譲らず、引き受けてはくれなかったのである。その野菊園の運営方針への疑問は、今でも栄太郎の心の中に燻っていた。

(重度の知的障害者か……)

 栄太郎は心の中で唸った。確かにその運営方針が理解できなくもない。だが、在宅で緊急事態が生じた時、それは重度も軽度も関係ないのだ。危機的状況に変わりはない。

(ふん、お高くとまってらぁ……)

 この時、既に栄太郎の心の中に野菊園への不信が生じていた。


 午前の研修が終わり、栄太郎は昼食の介助に入るよう、松田寮長から指示されていた。職員が調理場から配膳車を引き取り、それを寮の食堂で配膳するところから食事介助は始まる。

その日の昼食はハンバーグと煮びたしだった。栄太郎は配膳車から食事の盆を引き出すと、配膳の手伝いに入った。栄太郎は普通に配膳したつもりだった。

「ダメだよ。そのまま配膳しちゃ。勝手に食っちゃうだろ」

 田上が顔をしかめていた。田上は栄太郎の配膳した盆を引き揚げると、別のところに移し、キッチンバサミでハンバーグと煮びたしを刻み始めた。栄太郎はその様子を呆けた顔で眺めるしかなかった。そして、田上はカレー皿にご飯もハンバーグも煮びたしも、一緒くたに混ぜて稲田の前へ出した。

「どうしてこんなに一緒くたに混ぜるんですか?」

「刻むのは咀嚼能力に問題があるからさ。誤嚥事故は避けなきゃならんからね。混ぜるのは……、こうした方が利用者も食べやすいからだよ」

「でも、これじゃ家畜の飼料みたいですよ」

「何? 俺たちの仕事にケチをつけようって言うのか!」

「でも、これあんた、食えって言われて食えますか?」

「俺たちは三十年以上、これでやってきたんだ。これでいいんだ!」

 田上は困惑しながらも、語気を強めた。おそらく栄太郎の発言は彼のプライドを傷付けたのだろう。

「まあまあ、二人とも……」

 田上の怒鳴り声を聞きつけ、松田寮長がやってきた。

「これが施設のやり方なんだよ。伝統って言えばいいかな。ほら、『郷に入れば郷に従え』って言うでしょ」

 松田寮長は笑顔でそう言いながら、稲田の食事介助に回った。稲田は飼料のような飯をクチャクチャと音を立てながら食べていた。

 栄太郎はこの時、果たして稲田が「生きている」のか「生かされている」のか、正直なところわからなかった。少なくとも支援部長が研修で言っていた、ノーマライゼーションの理念からかけ離れた食事場面であると、栄太郎は思っていた。


 午後は特殊浴槽で入浴する利用者の研修だった。栄太郎が担当する稲田もそのメンバーに含まれていた。野菊園には特殊浴槽が一箇所しかなく、各寮から利用者が待機していた。

 そこでまた、栄太郎は愕然とした。職員たちは廊下で利用者の服を脱がせ始めたのだ。車椅子に乗っている利用者は次々に裸にされていく。そして、入浴の順番を待つのだ。

 それと同じような光景を、栄太郎は生活保護の地区担当員をしていた頃、眼にしたことがある。それは地方の病院に長期入院している受給者の主治医に病状を聞きに行ったときのことだ。その病院は一部屋に十人以上も詰め込み、風呂の時間になると、やはり患者を裸で車椅子に乗せ、待機させていた。その時、栄太郎はその病院が野戦病院のように思えたものである。

 それとまさに同じ光景が、目の前で繰り広げられていた。

(これを俺がやるってことは、俺もあの病院と同じことをするのか……)

 栄太郎の中に「罪」の意識が広がっていた。栄太郎には次の転勤まで、心のバランスを保てる自信が、この時ばかりはなさそうだと感じていた。


 栄太郎がこの野菊園に赴任して二週間が経とうとしていた。栄太郎はまだ野菊園の気風に馴染めずにいた。それでも、仕事はやるしかなかった。不本意ながら利用者の食事をグチャ混ぜにしたこともあった。特殊浴槽の前の廊下で利用者を裸にしたこともあった。

(申し訳ない……)

 そんな時は、いつも心の中で、そう呟いている栄太郎だった。

 ある職員は担当の利用者をえこひいきする様に可愛がり、また、ある職員は面白半分で利用者をからかいの対象としていた。そのいずれも栄太郎には馴染めなかった。

 横内という利用者がいる。自閉的傾向が強く、ちょっと小太りなのだ。その利用者は毎日、減量という目的で野菊園の外周を十周も走らされていた上に、スクワットや腹筋を五十回以上もやらされていた。そんなプログラムがまかり通ること自体、栄太郎には嫌悪すべきことであった。横内は必死に走り、スクワットや腹筋をする。確かな減量の根拠もなく、職員の偏った考えでプログラムが決められている気がしてならなかった。

 中島という若手職員が横内に「ちゃんと運動をしないとオヤツは……」と言うと、横内は「ありません」と答える。そんなやり取りを聞いているだけで嫌気が差す栄太郎であった。職員にも利用者にもその閉鎖的な社会での価値観が出来上がっていた。いわゆるホスピタリズムというやつである。それには永遠に慣れないような気が、栄太郎にはしていた。

 中島はよく利用者をからかっては遊んでいた。横内の担当なのだが、わざと日課を崩し、不安定にさせては喜んでいたのである。自閉的傾向が強い利用者は生活のパターンを崩されることを極端に嫌う。その日課をわざと崩してからかっているのである。

 栄太郎はそんな中島にいつも冷ややかな視線を送っていた。中島も敢えて栄太郎とは話をしようとはしなかった。

 他の職員にしてもそれぞれ利用者への接し方や支援の方法がバラバラだった。日課のマニュアルはあることはあるのだが、半分有名無実となっている。栄太郎には梅寮が組織として成り立っていないと思えたし、根拠のない仕事をしているようで常に不安であった。

 栄太郎は思う。本来、チームワークを発揮しなければならない職場であるが、「こんな奴らと組めるか」と。栄太郎の心の中はいつもやりきれない不満で一杯だった。


 野菊園には併設のグループホームがある。再整備の際に増設されたのだ。開園以来、長年この施設を利用し、障害程度の軽い利用者はグループホームで生活していた。

 栄太郎は通勤に自家用車を使用しているが、いつもホテル街を抜けて通勤している。栄太郎の住む、百日台の周辺は戦後、「青線地帯」であったため、その名残でラブホテルが乱立しているのだ。

 栄太郎が早番の仕事を終え、帰宅する際、そのホテル街で二人の人影を見かけた。その人影はラブホテルから出てきたところだった。

「あれは、中島さんと……、杉山さんだ」

 杉山加寿子はグループホームに在籍する軽度の知的障害者だ。その杉山が中島とラブホテルにいたことになる。

「何やってんだ、あいつ……」

 中島と杉山は腕を組みながら、駅の方へ向かって闊歩していた。栄太郎はその二人に気を取られながら、ハンドルを握っていたが、すぐ前方に目を戻した。


 その日、野菊園の管理棟は慌しかった。各寮の寮長やグループホームのホーム長、看護師が一同に会し、しかめ面をしていた。

 栄太郎は遅番で出勤し、出勤簿に印鑑を押す際、管理課の職員に尋ねた。

「何かあったんですか?」

「いや、グループホームの杉山加寿子さんの生理が遅れていて、検査したところ、妊娠が発覚したんだよ。杉山さんは何も喋らないし、相手は誰かってことで今朝から大変なんだよ」

「ふーん……」

 栄太郎はすぐに相手が中島であることを悟ったが、その場では何も言わなかった。

 午後三時過ぎ、栄太郎がオヤツの準備をしている時、松田寮長は浮かない顔で戻ってきた。

「寮長、ちょっとお話が……」

「ん?」

 栄太郎は配膳室の中に松田寮長を呼び込んだ。

「杉山さん、妊娠が発覚したらしいですね」

「うーむ。今朝から寮長たちが集められてね。園長なんかカンカンだよ。でも、相手がわからなくってねぇ……」

 松田寮長の顔は憔悴し切っていた。

「私、相手を知ってますよ」

「え、本当か?」

「中島さんですよ。うちの寮の……」

「何だって!」

 松田寮長は身体が宙に浮くぐらい驚愕した。

「実は見たんですよ。二人が百日台のラブホテルから出てくるところを……」

「うーむ。確かに中島はボランティア扱いで、よく杉山と外出しているな」

 どうやら、松田寮長にも思い当たる節があるようだ。

「わかった。すぐ園長に報告するから、北島さんも来てくれ」

 栄太郎は松田寮長に付き添われ、園長室へ行った。原口園長はしかめ面を崩さない。

「君は本当に見たんだな?」

 原口園長に尋ねられ、栄太郎は素直に「はい」と答えた。すると原口園長は「うーむ」と唸り、腕組みをしたまま考え込んでしまった。

 原口園長はしばし考え込んだ後、栄太郎に念押しをした。

「このことは余所に漏らさないようにな」

「何故ですか? これは記者会見ものでしょう」

「煙を立てたくないんだよ。君も公務員ならわかるだろう?」

 原口園長はさも煙たそうに言った。公務員の事なかれ主義は、今まで栄太郎も経験している。だからと言って、中島のしたことが許されるとも思えなかった。

「人の口に戸は立てられませんよ」

「それは脅しかね?」

「いずれ噂になります」

「まあ、中島君の処分については考えよう。まずは本人たちから事情を聴かなければな。松田寮長、今日は中島君、勤務しているかね」

「はい。早番で勤務しています」

「じゃあ早速、呼んでくれたまえ」

 程なくして中島がポケットに手を突っ込んで園長室にやってきた。

「何スか?」

「君は杉山加寿子と関係を持っていたそうだね。この北島君が君たちがラブホテルから出てくるところを目撃しているんだよ」

 原口園長は顔を曇らせながら、ズバリと尋ねた。

「はい。加寿子から関係を迫ってきたんです。まあ、俺は遊びッスけどね」

 中島は目を宙に泳がせながら、つまらなさそうに言った。

「仮にも援助する者と援助される者の関係じゃないか。遊びじゃ済まされないよ、これは。杉山さんはね、妊娠したんだよ」

「え、マジッスか?」

「冗談でこんなこと言えるわけないだろう。生理が遅れたんで念のため検査したんだ」

「あちゃー、参ったなぁ……」

 中島は特に悪びれた様子もなく、頭を掻いた。

「でも、援助者と利用者が関係を持っちゃいけないって法律はないですよね。そこの北島さんだって生活保護の受給者と結婚したってもっぱらの噂だし……」

 栄太郎の表情が険しくなった。確かに栄太郎の妻、律子はかつて栄太郎が担当していた生活保護の受給者だ。しかし、お互いに悩みながらも成就した恋愛だったのである。それを抜け抜けと「遊び」と言い放つ中島に怒りが込み上げてきた。

「私は遊びじゃなかった。本気だった。中島さんは杉山さんと結婚できるんですか?」

 栄太郎はたまらず吠えた。

「そんなの無理に決まってるじゃないッスか……」

「だったら私と一緒にしないでください」

 栄太郎はきっぱりとそう言うと、心の中で「破廉恥な奴」と中島を罵った。

「まあ、中島君には当分、謹慎してもらうようになると思うよ。堕胎はね、保険が利かないんだよ」

 原口園長はしかめ面をしながら、そう言った。それはこの事件を嫌悪しているのではなく、揉め事が厄介なだけのように栄太郎には思えた。

「何で俺が謹慎なんッスか?」

 中島は事態の重さがまったくわかっていないようだった。

「緘口令は敷くがね、こんなことがマスコミにでも知られてみなさい。大変なことになるよ。まあ、市役所の福祉総務室には一報入れとかないとな。今はセクハラにはうるさい時代だからな」

「はあ……。そうなんスか」

 栄太郎は尚も中島を睨み続けていた。


 市役所の福祉総務室の対応は早かった。すぐに中島に停職六ヶ月の辞令を出し、この不祥事に対し、記者発表までしたのである。

 その対応は原口園長も読めなかったようで、野菊園のセクハラ事件は新聞にも載ることとなった。栄太郎が驚いたのは、中島が依願退職を申し出なかったことだった。六ヶ月の停職とは停職の中でも最も長い期間となる。それは依願退職を暗に勧められているのと同じである。

(あの恥知らずめ……)

 栄太郎は憤慨していた。だがその理由は中島の態度だけではなかった。何と杉山の堕胎の費用の全額を、杉山本人に拠出させたのだ。それは杉山の障害年金が余っているからという安直な理由だった。

(狂ってるよ。この施設は狂ってる!)

 栄太郎はやり場のない怒りをどこにぶつけていいのかさえわからなかった。


 その日、栄太郎が家に帰ると、もう健一は寝ていた。妻の律子が屈託のない笑顔で迎えてくれる。遅番の仕事をこなして家に帰るのは、午後十時過ぎである。

「おかえりなさい……」

「ああ、ただいま……」

「だんだん栄太郎さんの顔がやつれていくように見えるわ」

「俺、そんな顔しているか?」

「以前、私の家を訪問してくれていた時の方が、何かこう、生気に溢れていたわ」

「そうか……」

 栄太郎は洗面所で部屋着に着替えた。施設臭の染み付いた衣類を早く洗濯機に放り込みたかった。そこで栄太郎は鏡に映る自分の顔を見た。かなりくたびれた顔をしている。仕事自体がハードというわけでは決してなかった。利用者のオムツ交換も慣れれば楽なものだ。だが、食事介助のたびに家畜の飼料のようにご飯とおかずを混ぜたり、他の職員の動向を気にしながら動いたりする自分が情けなかった。

(確かに、くたびれているな……)

 栄太郎は自分の顎を摩った。そして、「はあ」とため息を漏らす。ため息をつくたびに幸せは逃げていくと言うが、ため息を漏らさずにはいられなかった。

「何か、今のお仕事、辛そうね」

 律子が心配して寄り添ってきた。

「私は今の清掃の仕事、気に入っているんだけど、施設は栄太郎さんには向かないのかしら?」

「うん、向かないと思うよ。多分……、今のままじゃね」

「高橋係長さんに相談してみたら?」

「ああ、高橋係長か……」

 高橋係長は以前、栄太郎が生活保護の地区担当員をしていた時の保護係長で、栄太郎と律子の仲人でもある。生活保護の受給者であった律子親子と所帯を持つのにあたり、色々と助言をもらうなど世話になっていた。栄太郎に生活保護のイロハを教えてくれたのも高橋係長だった。栄太郎は高橋係長を自分の本当の親のように慕っていた。

「そうだな。今度、飲みにでも誘うかな……」

 高橋係長ならば、今、栄太郎が抱えている悩みを理解してくれるように思えた。


 その翌日。中島のセクハラ問題を受けて、緊急の寮会議が開かれることになった。

「今回の中島さんの一件については、誠に遺憾で、施設職員としてあるまじき行為であります。これから県の指導監査が入るので、皆さんも心を引き締めてもらいたい」

 会議の冒頭で、松田寮長がいささか険しい表情で述べた。

「確かに利用者の杉山さんにも落ち度はあります。だが利用者ということを忘れないでください。今回の監査では人権問題に焦点が当てられるそうです」

 松田寮長は苦虫を潰したような顔をしながら言った。

「じゃあ、トイレの扉も何とかしなきゃな。部屋にポータブルトイレを置いているのもまずいんじゃ」

 見田という職員がボソッと呟いた。

「あれは利用者の安全を確保するためにやっているんだ。扉は付けられないと思うがね」

 寮主任の田上が反論した。

(ああ、これだ。この施設のこの気質が嫌なんだ……)

 栄太郎は頭を抱えた。だが、茶番の会議は続いていく。

「まあ、監査対策としてトイレに扉は付けなきゃならんだろう。監査が終わればまた外せばいいんだ。ポータブルトイレも部屋からは一時撤収するんだ」

 松田寮長のその一言で、トイレについては議論が終わった。

「問題は我々職員の倫理の問題だ」

 松田寮長はそう言うが、とても世間の常識がまかり通る場所ではないことを、栄太郎は感じていた。

「倫理っていいますけど、我々は普通に、真面目にやっていますよ。中島さんが例外なんですよ」

 見田がつまらなさそうに言った。

「まあ、利用者の金銭出納簿などもちゃんとやっておく必要があるな。そういうところもチェックされるから」

 田上が憮然とした表情で言った。

「その通り。これから金銭出納簿を決裁に回すそうだ。各自、金銭出納簿は締めておくように頼むよ。まあ、わからないことがあったら、北島さんに聞きなさい。彼は以前、生活保護の仕事をしていたから、お金にはちょっとうるさいと思うよ」

 栄太郎は突然、松田寮長から振られ、困惑した表情を浮かべた。

(生活保護の金計算と、利用者の小遣いを一緒にするなよ……)

「それと、中島さんが停職になって、代わりに臨時任用職員で一寸(ちょっ)()さんという人が来る。県立ひめゆり園でも臨時職員をやっていた経験のある人だから安心してください。臨時職員に横内さんの担当を任せるのは酷だから、横内さんの担当は北島さんにやってもらいたいと思っています。そして、北島さんの今、担当している稲田さんを一寸木さんに渡す。そんな心積もりでいてください」

「私が横内さんの担当を?」

「よろしく頼みますよ」

 松田寮長はさらりと言って退けた。

「まあ、こういう事態だから当寮ではしばらく短期利用や一時利用を断るつもりですので、そのつもりで皆さんもご安心を」

「異議あり!」

 栄太郎は叫んだ。一同が栄太郎に注目する。

「私が横内さんの担当をするのは構いませんが、臨時職員が配置されるなら、短期利用や一時利用を積極的に受け入れるべきだと思います」

「短期や一時が入ってくると寮の中が掻き乱されるんだよ」

 田上が苛立ちを隠せずに言った。

「それに短期や一時が入ってくると職員の負担も増えるんだよ。いつも戦々恐々としているもんね」

 見田が田上をフォローするように言った。

「それに地域支援課の方も早急なニーズはないと言っているんだ」

 松田寮長は腕組みをしながら言った。

「それは違うと思います。ニーズは障害の重い軽いに関わりなく、掘り起こせばあると思います。それに職員が楽をしたいから一時や短期を受けないなんて、本当に公立施設ですか、ここは?」

「本当はあんただって、大変だと思っているんだろう?」

 田上が責めるように、栄太郎に言った。

「そりゃ、短期や一時が入ってくれば寮の中は乱れるし、職員も大変になる。でもここに入所している人たちは雨風がしのげて、三食に医療まで保証されている。だけど在宅では今、困っている人たちがいるんですよ。軽度の知的障害者の中にはホームレス同然の生活を送っている人もいます。私は福祉事務所でそんなケースを沢山見てきました。ニーズは掘り起こせばあるんです。そのニーズを発掘する努力もしないで早急なニーズがないと言うのは間違っていると思います」

 栄太郎は熱く語った。だが、周囲の視線は冷ややかだ。

「北島さん、ここは福祉事務所じゃないんだよ。施設なんだよ。そんな福祉事務所的な発想は捨てた方がいいと思うよ」

 松田寮長が喉を震わせるように言った。栄太郎は下唇を噛んだ。浅原良太の苦い経験を思い出していたのだ。

「それにね。公立施設の役割としては軽度の障害者は受け入れないもんなんだよ。それは園の運営方針でも決まっていることなんだ」

 松田寮長のその言葉に、栄太郎の心臓がドキンと脈打った。許されるならば、この施設を壊してしまいたい衝動に駆られる。

(こんな施設、なくなってしまった方が……)

 そんなことすら思う栄太郎であった。


 その週の金曜日。栄太郎は夜勤明けだった。長年事務仕事をこなしてきた栄太郎にとって、やはり変則勤務は正直なところきつかった。

 その日の晩。栄太郎と高橋係長は帰帆市役所近くの居酒屋で酒を酌み交わしていた。

「まったくやってらんないですよ。あの野菊園は……!」

 栄太郎はビールのジョッキをグイと飲み乾す。

「ふん、だろうな……。気持ちはわかるよ。浅原良太の一件もでも野菊園の方針がわかっていたじゃないか。あそこは福祉総務室の管轄だからなぁ。始末に終えないよ」

 高橋係長が苦虫を潰したような顔をしてビールを舐めた。

「生活保護の方が私には向いていたみたいです」

「今更、そんなことを言っても始まらん。辞令を貰ってしまったんだからな。でも福祉事務所での野菊園の評判は良くないぞ」

「職員も利用者もホスピタリズムの塊で、どうにもならんですね」

 栄太郎は怒りに震えながら、ビールのお替りを注文した。

「だろうな。確か、昭和四十五年の開園だったはずだな、野菊園は。再整備もされているはずだが、あそこ生え抜きの職員も多いからな。施設の意識も大して変わらんだろう」

「そうなんです。野菊園の開園以来、蔓延っている職員が幅を利かせているんですよ」

「俺に言わせりゃ、井の中の蛙だな」

 高橋係長が皮肉っぽい笑いをこぼす。栄太郎は店員の持ってきたビールをまたグイと煽った。

「実は福祉総務室の同期に聞いたんだが……、野菊園の民営化の話が持ち上がっているらしい」

 高橋係長の顔が神妙になる。栄太郎は「え?」と呟き、身を乗り出した。

「受け入れの社会福祉法人も愛向会でほぼ決まりらしいぞ。とんとん拍子に話が進めば、再来年の四月にでも民営化されそうだ」

「セクハラ事件もありましたからね。民営化のいい口実になるでしょう」

「ああ、あれね。新聞にも載っていたやつ。そう、あれで福祉総務室はカンカンなんだよ。市としても野菊園はお荷物らしい。早く民間に払い下げて、楽になりたいみたいだ」

 高橋係長もビールのお替りを注文する。

「民営化された方がいいですよ、あんなところ」

 栄太郎が残りのビールを飲み乾した。

「おいおい、ペースが速いんじゃないか? 酔っ払っちまうぞ」

「今日は酔いたい気分なんですよ。あーあ、福祉事務所に戻りたい!」

 栄太郎が冷酒を注文した。栄太郎は肴にはあまり箸を付けてなかった。

「うーん。生活福祉課も大変だぞ。一度廃止された母子加算は復活するし、てんてこ舞いだ」

「それでも、あの野菊園にいるよりマシですよ」

「怒れるってことは、アパシーにはなっていない証拠だな」

 高橋係長の言ったアパシーとは社会学・精神分析学で主に使われる用語で、無気力・無関心のことを指し、抑うつ状態を呈する場合も多い。栄太郎はこのままの状態が続けば、自分もアパシーになり兼ねないと思っていたところだった。

「もう、アパシー寸前ですよ」

「北島も俺に似て不器用だな。福祉事務所から野菊園に行った奴も多いが、みんな福祉事務所のことなんか忘れて、施設の色に染まりきっているぞ」

「私には無理そうです」

「だろうな……。だが北島、お前には守らなければならない家族がいるということを忘れるな」

「それが自分の防衛線ですよ」

 そう言って俯く栄太郎に、高橋係長は酒を注いでやった。


 中島の代わりに一寸木が来て、一週間ほどが経とうとしていた。一寸木は県立ひめゆり園という知的障害者更生施設で臨時職員をしていただけあり、野菊園に慣れるのも早いようだ。今日も黙々と家畜の飼料を作っている。

 昼食介助が終わり、歯磨きに移行しようという時だった。笹本というダウン氏症候群の利用者が歯磨きを頑なに拒否したのだ。

「何やってんだよー!」

 その罵声に栄太郎は洗面所の方を見た。すると、一寸木が笹本の髪の毛を掴み、無理矢理に洗面所の方へ引っ張っていくではないか。笹本は「あぎゃーっ!」という奇声を発し、顔をしかめていた。

「ちょっと、一寸木さん、何やっているんですか?」

 栄太郎は急いで洗面所に向かった。笹本は一寸木に髪を掴まれ、顔を歪ませていた。

「歯磨きをさせるんです」

 一寸木は悪びれずに言った。

「だって笹本さん嫌がっているじゃないですか。それに髪の毛を掴んで無理矢理っていうのはちょっとやり過ぎじゃないですか」

「甘いなぁ。甘っちょろいよ、あんた。このくらいしなきゃ、こいつらはわかんねえんだよ」

 一寸木は掴んだ笹本の髪を離そうとはせず、「おら、口を開けろ」と恫喝し、その口に無理矢理、歯ブラシを突っ込んだ。笹本は「うがーっ!」と叫び、歯ブラシから逃れようとする。

「おら、おとなしくしろ!」

 一寸木が恫喝する。

(これが臨時職員……)

 栄太郎は職員室に戻ると、一寸木の行動を松田寮長に報告した。

「知的障害者の口腔ケアは重要な課題なんだ。一寸木さんくらいの人もいないとねぇ」

 栄太郎は開いた口が塞がらなかった。

 だが、一寸木の行動はそれに留まらなかったのである。

 その日の夕方、栄太郎は利用者の生活記録を書き、少し残業をしていた。そして、帰り際でのことである。一寸木が配膳室から利用者用のジュースをごっそりと自分の鞄に詰めているところを目撃したのである。

「一寸木さん、何やってるんですか?」

 その栄太郎の声に一寸木の肩がビクッと跳ねた。

「それ、利用者用のジュースですよ」

「知ってるよ、そのくらい。こっちは大変な仕事をやっているんだ。このくらいのご褒美があってもいいだろう」

 一寸木は悪びれる様子もなく、自分の横領を正当化しようとしていた。

 すぐさま、栄太郎は園長室に向かった。そして一寸木の行動を報告したのである。

「そりゃ、まずいな」

 原口園長は顔をしかめながら、内線を取った。その時、園長室から一寸木が帰宅するところが見えた。栄太郎は走った。その一寸木の鞄には利用者のジュースが詰め込まれているはずだ。

「ちょっと、一寸木さん、園長がお呼びですよ」

 栄太郎が一寸木を連れて戻ると、園長室には松田寮長も来ていた。

「その鞄を開けてみたまえ」

 松田寮長が静かだが、凄みを利かせた声で言った。

 一寸木は震えていた。さすがに園長を前にして横領を暴かれるのはまずいと思ったのだろう。

「じゃあ、私が開けよう」

 原口園長が一寸木の鞄を開けた。すると、そこには三本ものペットボトルが詰め込まれていた。更に利用者の財布まで出てきたのである。

「これはどういうことかね? 一寸木君……」

 しかし、一寸木は答えることも出来なかった。

「松田寮長、梅寮は金庫に鍵も掛けていないのかね?」

「はっ、実際の利便性を考えますと……」

 松田寮長も原口園長に金銭管理の甘さを指摘され、しどろもどろになっていた。

「はあ、セクハラに続いては横領か……。災難続きだ」

 原口園長が頭を抱えた。松田寮長も一寸木も項垂れている。

「それだけじゃありませんよ。一寸木さんのやり方は『支援』じゃありません。人権問題が取りざたされている今、利用者の髪の毛を掴んでまで歯磨きをさせるのはねぇ」

 栄太郎が皮肉たっぷりに言った。


 その翌日。一寸木は何事もなかったかのように出勤した。栄太郎は唖然とした。

「すぐには代わりの臨時職員は見つからないんだよ。それに本人も反省しているし……」

 松田寮長はバツが悪そうに、栄太郎に漏らした。

「なるほど、セクハラ事件の後だけに、揉み消そうってわけですか。また監査が入りますものね。それにしても、一寸木さんも一寸木さんですよね。よく何事もなかったかのように出勤してきたもんだ。厚かましいにも程がありますね。中島さんも復職する時は、何食わぬ顔で来るんでしょうね」

 栄太郎の苦言に、松田寮長は顔をしかめた。それはさも面倒なことに巻き込まれたくないといった顔だった。

 一寸木は何事もなかったように振る舞い、マイペースに仕事をしていた。ただ、彼が夜勤明けになると、稲田が痣をつくっているのだ。それも一回や二回ではなかった。

 そのうち職員の間でも、一寸木が稲田に暴力を振るっているのではないかとの噂が広まった。オムツ交換の時に、一寸木が乱暴に稲田を扱い、「おら、オムツ交換してやっているのに、少しは協力しろ」と恫喝している場面が目撃されていたし、稲田の痣はその辺にぶつけて出来たような痣ではなかったのである。それはあたかも殴られたような痣だった。

「一寸木さんをこれ以上、雇うとそのうち事故や事件に繋がりますよ」

 栄太郎はそう松田寮長に進言した。しかし、松田寮長の返答は「彼にも生活があるし、雇用期間は契約で決まっているからなぁ」と気のない返事しか返ってこなかった。

 一寸木は稲田への暴力は否定していた。夜勤中でのことなので、現認者がいないのだ。だが、職員間での噂が広まるにつれ、稲田が痣を作ることは少なくなっていった。それでも一寸木は何食わぬ顔で出勤していた。

 栄太郎は別に元担当だからといって、稲田が可愛いわけでもなかった。ただ虐待のような人権侵害がまかり通る施設の気風が気に食わなかったのだ。そして、臭いものには蓋をする。

 栄太郎はもう、これ以上何を言っても無駄であることを悟った。それはアパシーの状態に近いものがあったかもしれない。

 そうこうしているうちに、六ヶ月が過ぎ、一寸木は雇用の契約期間が終了となった。そして中島が復職してきたのである。中島は「ご迷惑をお掛けしました」と菓子折りを持ってはきたが、悪びれた様子もなく、「遊ぶ女が減っちゃったよ」などと軽口を叩いていた。どうやら中島は、セクハラ事件を反省していないようである。そんな中島の態度を見ているだけで、栄太郎は反吐が出そうだった。無論、栄太郎は中島と会話することはなかった。


 その日の寮会議では利用者の支援プログラムの見直しが議題の中心となっていた。今日は栄太郎の担当する、横内の支援プログラムの見直しだった。

「横内さんに関しましては、体重の減少も見られるので、スクワットや腹筋、園周ジョギングを中止にしたいと思います」

 栄太郎は胸を張ってそう述べた。だが、すぐに異論を唱えたのは中島だった。

「横内さんの体重維持のためにも、今までのプログラムは必要ッスよ。それに自閉的傾向が強いから、プログラムを変えるのはいかがなものでしょうかねぇ」

「園周を十周も走らせる必要はないと思います。日中活動でも運動はしていますし……。それに自閉的傾向が強いからといって、日課を変更できないことはないでしょう。現在のプログラムは過酷すぎますよ。横内さんはもう、標準体重になっているんですよ」

 栄太郎は負けずに言い返した。

「でも、運動をやめたら、また太りますよ」

 中島が皮肉っぽく言った。

「その根拠は?」

「経験と勘です」

「それは根拠になりませんね。実際、これだけの運動プログラムをさせることは虐待に近いと思いますよ。それに、ケースファイルを見ると、以前は放浪癖があったようです」

「それは以前の話でしょう。今はないですよ」

「園周ジョギング中に所在不明になる可能性がゼロとは思えません。職員がついていない限りはね」

 栄太郎の瞳は真剣だった。松田寮長も「うーむ」と唸った。

 結局、担当の意見が尊重され、横内の運動プログラムは中止することとなった。栄太郎は初めて自分の意見が認められたような気がした。


 事件は栄太郎が夜勤入りの日の出勤直前に起こった。横内が所在不明になったのだ。それは、これから家を出ようとしていた栄太郎に知らせがあった。電話口で松田寮長は慌てていた。

「園周ジョギングをしている最中にいなくなったんだ」

「だって、ジョギングのプログラムはやめるって、先日の寮会議で決まったじゃないですか?」

「中島がやらせていたんだ」

 栄太郎の心の中に灼熱の炎のような怒りが込み上げてきた。

「じゃあ、何のための寮会議だったんですか? 会議は茶番ですか。まったくやってられませんよ!」

 そう言いながらも栄太郎は上着を掴んでいた。

(まったく組織じゃないな……)

 栄太郎は野菊園に向かう途中、そんなことを考えながら、ハンドルを握っていた。

 栄太郎が野菊園に到着すると、管理棟は物々しい雰囲気だった。松田寮長が浅田支援部長に呼びつけられていた。

「まだ横内さん、見つからないんですか?」

 浅田支援部長も松田寮長も渋い顔をする。

「中島さんも悪気があってやったことじゃないんだ」

 松田寮長が中島を弁護するように言った。

「しかし、この前の寮会議で決まりましたよね。ジョギングは中止するって……。私は支援計画にもちゃんと書きましたよ」

 栄太郎は熱く語った。すると松田寮長はバツの悪そうな顔をして、栄太郎を見やった。

「施設ってところは、そうそう変われるもんじゃないよ」

「人間家畜場……」

 栄太郎は唸るように呟いた。

「おいおい、それは言い過ぎじゃないか。人権問題に引っ掛かるぞ」

 浅田支援部長が苦虫を潰したような顔をして、栄太郎を睨んだ。

「実態はそうじゃないですか。利用者に個室は宛がわれていますがね。監査の時だけトイレに扉を付け、監査が終わればまた外す。飯だってあれじゃあ、家畜の飼料ですよ。グチャグチャに混ぜて……。人間家畜場ですよ。それに決められたことも守られないようじゃ、組織とは言えないですよ。まあ、今回の横内さんの所在不明は起こるべくして起こったようなものですね」

 浅田支援部長も松田寮長も唇を噛んでいた。

「まあ、取敢えず今は寮の職員で捜索に当たってもらっている。北島さんも出勤早々で悪いが、捜索に協力してくれたまえ」

 浅田支援部長がつまらなそうな顔をして言った。

「まあ、その辺をうろついていますよ」

 松田寮長は軽くそう言った。

「過去の記録を見ると、横内さんは遠方まで一人で行っていますよ。警察に捜索願を届けた方がよろしいのではないでしょうか?」

「それは君が決めることじゃないよ」

 浅田支援部長が栄太郎をジロリと睨んだ。

(何を言ってもダメだ。この人たちには……)

 栄太郎は職員室に向かい、荷物を置くと、早速、横内の捜索を始めた。

 車で野菊園の周辺を練り歩き、帰帆市内の横内が行きそうな場所をしらみつぶしに当たった。だが、有力な情報は何一つ、得られなかった。栄太郎はどこかで無銭飲食で引っ掛かると思っていたのだ。コンビニから地域の飲食店まで回った。だが、それも無駄足だった。

「やっぱり、警察に捜索願を出しましょう」

 捜索から戻った栄太郎は、浅田支援部長に進言した。だが、浅田支援部長の態度は煮え切らない。

「いや、ここのところ、不祥事続きだからね。一寸木君のことは内々で処理したが、今年は中島君のセクハラ事件があったばかりだからねぇ……」

 栄太郎はおもむろに電話を掴んだ。

「おい、どこに電話を掛けるんだ?」

「帰帆警察署と福祉事務所です。利用者の命が掛かっているんですよ。悠長にしている暇はありません」

「勝手なことをするんじゃない! 判断する時は私が判断する!」

 浅田支援部長が声を荒げた。そこへ原口園長がやってきた。

「どうだね、見つかったかね?」

「いえ、まだです」

「早く警察に連絡したまえ。もう夜になるぞ」

 結局は原口園長の鶴の一声で、警察へ捜索願を届けることになった。

「園長、障害福祉課と生活福祉課にも連絡した方がよろしいのではないでしょうか?」

 栄太郎は原口園長にその必要性を申し出た。

「ん、何故だ? 障害福祉課は理解できるが……」

「このまま行方がわからないとなれば、おそらく身元不明者としてどこかの病院に収容される可能性があります。そうした時、身元がわからなければ病院は生活保護の所管部署に連絡をするでしょう。そこで生活保護が決定すれば医療費は保険が利きません。十割生活保護負担となります。その後で身元がわかった時、生活保護法第63条の返還金の問題が生じます」

「身元がわかれば、国民健康保険での請求しなおしができるんじゃないのか?」

 浅田支援部長が横槍を入れた。

「実際はそんな生易しいものじゃありません。医療機関は一度入った収入の過誤調整は嫌うものです。場合によっては医師会を含めて問題となるでしょう」

「筋は筋だ。そうなった場合、病院には過誤調整をしてもらう。生活保護の返還金だって、横内さんは障害年金が余っているんだ。そこから拠出させればいいだろう」

「横内さんの所在不明は、明らかに園の落ち度なんですよ。それなのに安易に返還させるのはいかがなものかと思いますがね」

「まあ、それは君が心配することじゃないよ。無事に見つかってくれれば、いくらでも方策はある」

 栄太郎は肩を落とし、職員室へと引き揚げていった。そして、職員室にある電話の受話器を持ち上げた。

「夜分にすみません。生活福祉課の高橋係長がまだおりましたら、お願いします。こちらは野菊園の北島です」

 高橋係長はすぐに電話に出た。やはり残業をしていたのだ。

「すみません、残業中のところ……。実はうちの利用者が所在不明になったんです」

「ほう……」

 栄太郎はいきさつを簡単に説明し、身元不明の知的障害者が保護されたら、一報を入れてもらうよう、高橋係長にお願いをした。

 高橋係長は「わかった。北島の言う通りだよ」と言い、栄太郎の立場に同情してくれた。


 横内が所持不明となって二ヶ月が過ぎようとしていた。横内の保護者からは野菊園に相当クレームが入った。担当として栄太郎は苦い思いをしていた。

(外部からクレームを入れられるなんて、福祉事務所以来だな……)

 そんなことを思う栄太郎であった。

「北島さん、外線ですよ」

 配膳室で洗い物をしていた栄太郎に声がかかった。栄太郎はサッと手を拭くと、職員室に向かった。

 電話の主は高橋係長だった。

「おい、野菊園で探している横内さんらしき人が、隣の持立市で保護されているぞ」

「え?」

「始末が悪いことに精神病院に入院している。『持立太郎』という名前で生活保護も決定している。医療費の絡みでも大変なことになるぞ」

「ありがとうございます」

 取敢えずは横内が無事でいてくれて、ホッとした栄太郎であった。だが、栄太郎はすぐに医療費をめぐるトラブルが起こることを覚悟していた。だが、それは栄太郎の心配することではない。原口園長や浅田支援部長が心配すべきことであった。栄太郎はすぐさま、園長室に駆け込んだ。


 やはり医療費の問題ではその精神病院と揉めることとなった。病院側は既に医療費の請求をしていて、今更、国民健康保険には戻せないと難色を示してきたのだ。病院が福祉事務所に請求した金額は百万円以上にも上る。

「それはないでしょう。筋は筋ですよ。過誤調整をしてもらいますから」

 浅田支援部長の高圧的とも取れるその一言に、病院は猛烈に反発した。持立市の医師会を通じ、野菊園にクレームを入れてきたのだ。病院は過誤調整を行うならば、生活保護法の指定医療機関を廃止するとまで言い出した。もはや、野菊園と病院だけの問題ではなかった。当然のことながら、持立市の福祉事務所からも過誤調整が困難であるとのクレームが入っていた。栄太郎の心配した通りの筋書きとなったのだ。

 原口園長も浅田支援部長も頭を抱えていた。

「やはり、生活保護の返還金に応じるしかないか。百万円か……」

 そんな声が幹部職員たちの間で囁かれていた。


「園長を出せ! 園長を!」

 そう叫んで怒鳴り込んできたのは、横内の父親だった。

「息子が保護されていた間の返還金を、障害年金から出せとはどういうことだ。これは野菊園の落ち度なんだぞ!」

 横内の父親は烈火のごとく怒り、興奮していた。それを浅田支援部長が「まあまあ」となだめる。しかし、横内の父親の怒りは収まらない。

「お前じゃ話にならないんだよ。最高責任者の園長を出せ!」

「このことは寮の担当の北島さんが担当しているので……」

 浅田支援部長が内線を持ち上げようとした。だが、言われなくても栄太郎はすぐにやってきた。

「横内さんの一件は野菊園の不手際です。お父様のお怒りはごもっともです。そもそも中止したはずのジョギングの最中に横内さんは所在不明となりました。糾弾されるべきは当日の勤務者と、それを許したこの野菊園の体制でしょう」

「おう、あんたは話がわかるな」

 横内の父親は栄太郎を見て頷いた。

「野菊園がどうしても生活保護の返還金を、横内さんの障害年金から拠出させるというのであれば、『市長への手紙』を書くか、帰帆市役所の秘書課に直接行かれて苦情を訴えたほうがいいと思いますよ」

「北島さん、何てことを言うんだ。横内さんは自分から勝手にいなくなったんだぞ。全部、園の責任にされちゃあ、たまらんよ」

 浅田支援部長が栄太郎を睨んだ。だが、その顔は狼狽している。

「私が中止したジョギングのプログラムを陰でやらせていたんですよ。支援計画から逸脱した不当な支援が原因です。すべての責任は野菊園、いやそれを管轄する帰帆市にあります。それが行政組織というものです」

「わかった。じゃあ、市役所の秘書課に行けばいいんだな!」

 横内の父親は顔を紅潮させながら、上着を掴んだ。すぐにでも帰帆市役所に駆け込むつもりなのだろう。

「ちょっと、待ってください!」

 浅田支援部長のその言葉も、横内の父親には届かなかった。彼は急ぎ足で野菊縁を出て行った。

「はあー、何てことを焚き付けてくれたんだ……。君だって組織の一員だろう」

 浅田支援部長が頭を抱え、恨めしそうに栄太郎を見やった。

「身から出た錆ですよ。それにこの野菊園が組織とは到底思えませんね」

 栄太郎は浅田支援部長を一瞥すると、寮へと引き揚げていった。


 その晩。栄太郎は帰帆市役所近くの居酒屋で、高橋係長と酒を酌み交わしていた。

「今日の酒は美味いですよ」

 栄太郎が愉快そうに笑った。

「でも大丈夫か? 北島の居場所がますます悪くなるんじゃないか?」

 心配そうに高橋係長が栄太郎の顔を覗き込む。

「まあ、民営化までの辛抱ですね」

「その野菊園の民営化の話なんだが、どうやら時期が早まりそうなんだ。前回のセクハラに続き今回の一件だろう。聞くところによると、横領まであったっていう噂じゃないか。福祉総務室も早くお荷物を処分したいらしい」

 高橋係長がお猪口をグイと煽った。栄太郎が酒を注ぐ。

「おう、この立山、美味いな」

「で、いつ民営化になるんですか」

「来年度初旬には民営化するつもりらしい。愛向会もその心積もりでいるらしいよ。早ければ一、二ヶ月のうちに愛向会の職員を派遣する話も浮上している」

「園長以下、幹部職員は誰も民営化のことを口にしていませんよ」

「そりゃあ、話したら労働組合が黙っちゃいないだろう。こういうのはトップダウンで行われるんだよ」

「なるほど……」

「まあ、それでもそろそろ民営化の話を職員にしないとまずい時期だろうな」

 高橋係長が焼き鳥を咥えて、面白がるように言った。栄太郎も「くくっ」と笑う。

「それにしても、今日の福祉総務室は大変だったらしいぞ。秘書課に保護者が行ったんだって?」

「あれ、私が焚き付けたんですよ」

 今度は高橋係長が「くくっ」と笑った。

「それにしても、愛向会の職員が来て野菊園の中を見たらビックリするでしょうね」

「だろうなぁ。まあ、あんな使い勝手の悪い施設をいつまでも市で抱えていることはないよ。どうせ職員たちは自分たちの進退が気になっているだけだろう」

「そうでしょうね」

「北島は心配するなよ。俺が課長に話を付けて、生活福祉課に戻すからな」

「ありがとうございます」

 栄太郎が高橋係長に酒を注いだ。


 その日。野菊園の中はパニック状態となっていた。ついに原口園長から野菊園の民営化の話が職員たちに告げられたのだ。

 すぐに労働組合は立ち上がり、「民営化反対」と叫びながら労使交渉を行ったが、福祉総務室は「市の役割は終わった。重度障害者でも民間で受け入れてもらえる」と突っぱねたのだった。

「俺たちの身分、どうなるのかな?」

「なーに、公務員は簡単に首を切られないさ。どこかに異動になるだけだ」

 そんな会話がどこそこで聞こえるようになった。

 栄太郎は施設しか経験のない職員の使い道が果たしてあるのかどうか疑問だった。

 そんなやるせない雰囲気に包まれた野菊園に、愛向会の職員たちがやってきた。民営化前の視察である。愛向会の職員たちは野菊園の中を見て回った。

 梅寮に彼らが来たのは、丁度昼食の時間だった。原口園長と浅田支援部長に付き添われ、食堂に来たのだ。

「何だ、この飯は……!」

 それが愛向会の職員の第一声だった。そう、家畜の飼料のようにオカズもご飯も混ぜられた昼食を見たのである。

「愛向園でも今時、こんな食事と摂り方していませんよ。公立施設って遅れているんですねぇ」

「いや、咀嚼能力や食べ易さを考慮しているのであって……」

 浅田支援部長が言い訳がましく言いかけた。

「いや、これは人権侵害です」

 愛向会の職員はきっぱりと言い切った。

「こんな施設だからセクハラや行方不明が出るんですよ」

 愛向会の職員のその言葉に、原口園長も浅田支援部長も、ただただ頭を下げていた。

「あなたたちに期待していますよ。この臭い施設を何とかしてください」

 栄太郎はそっと愛向会の職員に耳打ちした。すると、愛向会の職員は黙って頷いた。

 稲田は家畜の飼料のような飯を、クチャクチャと口を鳴らしながら食べていた。


 家に帰って、栄太郎は妻の律子に、野菊園が民営化されることを伝えた。

「それって、良いことなの、悪いことなの?」

「少なくとも俺にはまともなことだと思うな。俺は高橋係長がまた生活福祉課に戻してくれるらしい」

「そうね、生活保護の仕事をしていた時の方が栄太郎さんらしかったような気がするわ」

 栄太郎は部屋着に着替えると、おもむろに冷蔵庫からビールを取り出し、プルトップを空けた。そしてグーッと一気に飲み乾すと、壁に立てかけてあったギターを手にした。エピフォン・カジノというエレキギターである。

「ここのところ、ギターも弾いていなかったな……」

「たまには健一に歌でも歌ってやってくださいな」

 健一が栄太郎のもとに寄ってきた。そして、「ねえ、歌って」とせがむ。

 栄太郎がギターを爪弾き始めた。エピフォン・カジノはボディが中空になっているため、アンプにつながなくてもある程度の音は出る。曲は「大きな古時計」である。

 栄太郎のギターに合わせ、健一が歌う。栄太郎も一緒になって歌った。律子は台所仕事をしながら、二人の歌を聞いている。ささやかな家庭での幸せなひとときだった。

 栄太郎は「大きな古時計」を歌いながら、梅寮にある古い時計を思い返していた。それは開園以来からあるという。民営化されてもその古時計は残るのだろうかと、ふと思う。

 長年、利用者を見守り続けてきた古時計が、野菊園の一番の功労者のように思える栄太郎であった。

(新しい風が……、吹き始めるかな)

 ギターの音色は澄んでいた。健一の歌声も栄太郎の心を満たしてくれる。台所仕事を終えた律子もやってきて一緒に歌う。こんな家族がいてよかったと思う栄太郎であった。

(明日からは愛向会の職員と施設の改革に乗り出すかな……)

 この時、栄太郎の心の中には一筋の光が見えていた。


(了)


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

これはあくまでフィクションです。どれも現実にありそうですけど・・・・・・。って、あるんです。

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