平和なひととき
世界には平和が訪れていた。
それが仮初であること、嵐の前の静けさであることを、一部の人間は知っている。そして、一部の人間は全体に警戒するよう促していた。
それは無意識化の刷り込みであるが、不安を煽らないための策だった。
たとえば、ニュースには必ずといっていいほど戦争にまつわる話があったし、街単位での避難訓練もされていた。けれど、決して人々が疲弊を強いられることはなかった。
そんな平和はウェイラ帝国でも同様だった。
長らく戦火の中心に立ち、あるいは巻き込まれ、常になにかと戦っていた強国も一息ついている。
大きな時代の流れを俯瞰して見れば、ジードが帝王に即位したことを契機にしている。内乱の発生数が大きく下がったのは、そういった要因もあるだろう。
ルイナは当初の不安として、「恩賞を狙う軍閥が、この平和に不満とくすぶりを抱いて暴れ出すのでは」と危惧していた。
しかし、それは杞憂に帰した。
まず、ウェイラ帝国は過剰といえる軍事費を賄えた。
ウェイラ帝国は多くの国々が属して、面していることもあり、交通の要所が至る所に存在する。
通行税や関税である。元々試行されていたが、見逃す機会が極端に減った。スパイや軍事活動、盗賊による略奪の対策に追われる人員の削減が効いていた。
密輸を防ぎ、魔物による拠点の破壊活動による審査の延期など、多くの悩みの種は消えることになる。
さらに余剰の人員はそういった貿易商の護衛として実戦経験を積むことも可能で、ギルドや傭兵集団から嫌な目をされることもあるが、仕事の分業化も幅広い分野で可能になった。
また、大陸全土の平和もウェイラ帝国の安定化に一役買っていた。
ウェイラ帝国は属する国々の役割を決めている。食料、工業、経済など。
必要があれば援助し、必要があれば保護する。
そういった取り組みをしていたが、恒久の戦争で他国の諜報による妨害などが発生しており、本来の素質を減らすことに繋がっていた。
だが、ウェイラ帝国は安定を得た。
これにより、本来の素質を最大限にまで引き延ばすことが可能になった。
守るだけに限れば、水面下で行われている、ウェイラ帝国に対する各国の諜報機関の活動は困難を極めた。
むろん、ウェイラ帝国に継続して属すること好まない国も存在した。
自国の文化や歴史を重んじ、独立を果たそうと考える国だ。それらと同化することが難しいと思えば、彼らの独立を認めた。以前ならば武力による弾圧も行使していただろうが、ウェイラ帝国はそれ以上に消耗と非難を避けた。
なにより、帝王と妃の会話が大きかった。
『彼らの独立を認めるべきかな、帝王よ』
『そっちの方が人を傷つけないならいいんじゃない?』
これにより方針が決定付けられた。
独立のためなら支援も行った。警戒心から、受け入れられることは稀であった。
しかし、結果的に独立した国々よりも、属することを選んだ国の方が発展した。
大陸に平和は訪れたが、それだけに水面下での戦いは繰り広げられている。
ウェイラ帝国という後ろ盾をなくした以上、独立した国では内部による派閥戦争まで行われた。
それは権力や名声を欲した人々だけでなく、各国の思惑も絡んで暗躍している。人死にも多く出た。
また一部はウェイラ帝国に再合併を求めた。
そういった結果を見て、他の国々も独立を叫ぶことはなくなった。
ウェイラ帝国が暗躍した情報は一切ないが、こうした結果になることもまたルイナの計画のひとつだと言われている。
結局のところ、力がなければ生き残れない。世界の仕組み自体は変わっていなかった。
しかし、悪意ばかりが政に充満しているわけではない。
気候などの環境によって発展を阻害されるような国もあったが、ウェイラ帝国の援助で得意分野に厚い投資が許された。
軍事教練の場所として活用され、あるいは好き人のための観光場所としても使われる。通行路の安定化によって、特産物が運び出されることで経済に潤いがもたらされる。そういった恩恵もあった。
軍事的外交とまで呼ばれるほど好戦的で、内政には不向きと思われていたルイナ・ウェイラの才覚が大陸に再び知らされることになる。
しかし、表向きは彼女ではなく、新たに即位したジードの功績となっていた。それほどにルイナの手腕は大きく変わっていたし、配偶者を立たせる上手もあった。
◆
黄金色の砂粒。
見ているだけで焼けそうな橙色の太陽。
潮が引いた、美しい海。
俺の隣には、太陽に負けない色鮮やかな赤色の髪を持つ女性がいる。ここは彼女――ルイナ・ウェイラが気に入っている場所のひとつだ。今は貸し切りにして、ごくわずかな人数だけで滞在している。
「ジード、口を開けろ」
ルイナはデッキチェアに腰掛けながら俺を見ていた。
隣のテーブルには盛り付けられた果物が並んでいる。それをフォークで取って、俺の口元まで運ぶ。
「あ、あーん」
こんな定番の甘いやり取りをさせられるとは。
つい動揺が走るが、とりあえずルイナの指示に従う。
甘い汁と歯ごたえのある果肉が口の中を満たす。
「どうだ、美味しいか?」
「うん。美味しいよ」
「そうか、よかった」
実際に美味しい。
ルイナは実際に食べたわけでもないのに、自分のことのように喜ぶ素振りを見せる。
不意にルイナの目が好奇心をかき立てられたように揺れた。
「間抜けな顔をしているぞ?」
「そ、そう?」
「ああ。私が『あーん』なんてするキャラではないと思ったんじゃないか?」
安易な否定と虚言は毒になる。
特にこの気高い美女の前では。
「実を言うと……まあ、うん」
おそらく、動揺がそのまま顔に出ていたのだろう。
自然と暮らしていた時の張り詰めた緊張は段々と緩いでいる。今みたいに無表情が崩れてしまうことが最近は多々あった。
「だろうな。しかし、この顔はいざという時に引き締まるから私は好きだよ。だから甘えたくなるし、触れ合いたくなる」
言いながら、ルイナが俺の頬を撫でた。
くすぐったくて、心が柔く綻ぶ感覚になる。
なんの気なしに視線が下を向くと、煽情的身体が薄着のみを身にまとっている。
先頃まで泳いでいたため、互いに水着だ。
元々、俺は育ちから泳げなかったが、ここに来て練習をした。
まぁ、苦手が克服された程度だけど、隣の島まで泳げるくらいにはなったから個人的には満足だ。
ルイナからは「さすがの身体能力だな」と褒められた。
「そろそろ冷えるから、なにか着ないと」
言いながら、デッキに掛けてあった上着をルイナに被せた。
ルイナは腕に通さず肩にかけたままだ。颯爽としたスタイルで、気丈なルイナに似合っていた。
なにか言いたげなルイナが俺の腹部に触れる。
「ど、どうした?」
「固いな」
「あ、ありがとう」
とりあえず感謝はしたが、これは褒められているのだろうか。
「クエナから聞いたことがある。毒を食べても効かないと。風邪も引かないのか?」
「風邪も引いたことがないな。前にシーラが苦しそうにしているのを見て、初めて知ったくらいだよ」
「ふふ、この強さが私のものだと思うと心地が良いな」
ルイナが恍惚な笑みを浮かべる。
妖艶な雰囲気もあって、結構やばい……。
「そ、そそ、そうなるな」
返事をするだけで精いっぱいだった。
きっと顔が真っ赤になっているだろう。原因は太陽に照らされているからだと誤解してくれないだろうか。
そうすれば俺の羞恥心も緩和されて助かる。
しかし、残念ながらすべてお見通しだろうな。
そっとルイナが顔を近づける。
唇の先が触れそうになり、ジャリっという砂を踏み込む音が背後から聞こえた。
「あのー、飲み物を持ってきましたよ、ゴシュジンサマ」
明らかに敵意剥き出しの声がかかる。
クエナ・ウェイラ。
ルイナの妹で、同じく赤い髪に整った顔をしている。
やや露出の多いビーチ仕様のメイド服を着ている。
ルイナの趣味だが、なんともこの上ない素晴らしさか。
手には飲み物をのせたトレーを持っていた。
「ああ、ご苦労さま。そこに置いておいてくれ。邪魔が入ったが続きをしようじゃないか、ジード」
「邪魔ってなによ、邪魔って! あんたが飲み物を持って来いって……というか、このハネムーンとやらに付いて来いって言ったんでしょうが!」
クエナの怒りに呼応して赤い髪が逆立った。
まるで百獣の王を彷彿とさせる。
「仕方ないだろう。貸し切りとはいえ、ここには人族最大国家の帝王と妃がいるんだ。護衛もメイドも必要だ。そして、そのふたつを兼任できる者を連れてくるのは当然だろう。まあ、おまえはどちらも中途半端だがな」
「中途半端ぁ!? 新婚旅行だから、記念だから人が我慢してやっているのに……!」
クエナが強く拳を握っている。ルイナの言葉が降りかかる度、その拳から炎が噴き出していた。
俺の内心は焦りでいっぱいだが、ルイナはどこ吹く風だ。
「おいおい、自分の不出来を棚に上げるなよ。そもそも私と帝王の愛の巣(王城)に住まわせてやってるんだぞ。居候が文句を垂れるんじゃない」
「くっ、言わせておけば……! 護衛を怒らせたらどうなるか教えてあげるわよ!」
クエナの手から爆炎が起こる。
盛り上がってきたところで、俺のお腹から〝ぐ~〟っとご飯の催促が来た。
二人の視線が俺に集まる。
照れながら、お腹をさする。
「ごめんごめん。なんか良い匂いがしててさ」
そう言われて、ルイナが鼻を微かに動かす。
「たしかに。そう言われてみれば……」
「噂をすれば来たわよ」
「ごはんできたよー!」
砂浜を駆けながら、大きな乳房が弾力を帯びて上下に揺れている。
魅力的なプロポーションに顔も美しい。
やはり彼女――シーラもビーチ仕様のメイド服を着用していた。
なんとも素晴らしいことか。
もはや芸術の領域だ。
両頬に痛みが走る。
「どこを見ているんだ?」
「なにを見ているのかしら?」
「す、すむぁまへん(すみません)」
俺が謝ると、再び鋭い視線が交差した。
「おいおい、私はハネムーン中だから叱る権利があるんだぞ。おまえにはあるのか?」
「はぁっ? あるに決まってるでしょ」
「ふむ。私からすれば使える方のメイドは良いのだ。天真爛漫な性格に実力。最高じゃないか。城に上げるだけの価値がある。それに引き換え使えない方はグチグチと文句を言うだけか?」
ルイナの『使える方のメイド』はシーラのことだ。視線がそちらに向いている。
反対に『使えない方のメイド』はクエナのことだ。視線がそちらにすら向いていない。
「よし決めた。あんたとタイマンする。今ここで」
クエナの額に血管が浮き出ている。
さすがに我慢の限界が来たようだ。
直接的な戦闘力はクエナの方が高いので、さすがのルイナも冷や汗をかいている。記念の新婚旅行だから、いつもより過剰な言い合いでも許されると思ったのだろう。
「ん、ごはん」
小さくも不意を突く声。
思いがけず現れた気配に驚き、クエナの憤りが霧散する。
ユイだ。
こちらも素晴らしい衣装を着てらっしゃるが、今クエナとルイナに睨まれたら殺される気がするので黙っておく。視線も落としておこう。
「おーおー、ユイもおなかが空いたか。よし、帰るとしようか」
ルイナが立ち上がって別荘のほうに足を運ぶ。
その途中でクエナが持っているトレーの上の飲み物を取って、口を付ける。
「ご苦労さま」
「イライラする……」
「せっかく運んでくれたから飲んだんじゃないか」
「わかってるけど! なんか上から目線だしっ」
「実際に上だからな」
クエナは燃えるような髪によく似合う、怒りの面持ちを湛えていた。
そうしてルイナがそのまま別荘のほうに向かう。
ユイやシーラも同伴していた。
クエナだけは俺の方に寄る。
「私ずっとメイドなんてイヤだからね?」
俺の顔を覗くようにして、クエナが首を傾げてきた。すごく綺麗な顔をしているから、ひとつひとつの何気ない所作に魅力を感じてしまう。
「言いすぎだな、ルイナ。後で俺から言っておくよ」
「そこは別にいいって。あんた達の邪魔をしたのは私だから、意地悪をしたくなったんでしょ」
「そう……なのか?」
クエナとルイナの関係は俺でも不思議だ。
きっと目に見えない繋がりで分かり合っているのだろう。
思えば、ルイナは人を扱うことに長けている。
クエナのメイド方面の実力を伸ばしたいのなら――本人の意向も大事だけど――わざわざシーラを引き合いにして挑発する必要はない。
俺が意図を汲み取れずにいると、クエナがもじもじと髪に触れながら身体を捻らせる。
「私が言いたいのは……その。ルイナに先を越されたけど……さ」
そこで、俺は彼女の真意を感じ取った。
俺にとっては当たり前すぎて、口にすらしていなかった。
そうか。
彼女にとって、それは口にして欲しいことなのだ。
「ああ、必ず結婚しよう」
メイドではなく、結婚相手として一緒にいたい。
そういうことなのだ。
「そうやって正面からしっかり言われるとこっちが恥ずかしいっての!」
ぷりぷりとクエナが頬を膨らませる。
言いづらそうにしていたことを、俺があっさり踏み抜いたことで照れているようだった。声を荒げたのは照れ隠しのためだろう。
「気を抜いたらいけないと思ってさ」
「ま、ルイナとの新婚旅行は大変そうだから、そこは許してあげる」
「た、大変ってわけでは……」
内心ルイナにビビっているのを見抜かれていた。
クエナに誤魔化すことはできない。ルイナとは違った勘がある。
「それにジード、たまに別の場所を見ているような感じがするし」
「そうか?」
俺はこの新婚旅行を楽しんでいる。
そんなつもりはなかった。
だが、クエナが言うのなら、きっとそうなのだろう。
「きっとルイナもちょっと苛立ってるわよ。もっと集中した方がいい」
「ああ、わかった」
あまりルイナの機嫌を損ねたくはない。
なにをされるか、わからないからな。あの手この手で新婚旅行に集中させられるだろう。そうならないためにも、余計なことに気を取られないようにしないとな。
そんな風に考えながらも、クエナの忠告は俺だけじゃなくて、やっぱりルイナにも気を遣ったものだと思った。
この二人の関係はよくわからない。




