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そこは神都にある広大な一室。
スフィが預かっている執務室であり、若齢にしてはあらゆるものが揃っている。
椅子は意匠がこらされたもので、黒く気品のある卓上にも高価なマジックアイテムが備えられている。
そんなスフィは数人の信者に囲まれながら違和感を覚えていた。
「ウェイラ帝国の衛星国が侵攻された?」
スフィの問いに信者が頷く。
手元には資料があった。
「そのようです。ウェイラ帝国に食料が供給されていると報告がありました。ですが民間人の街を燃やし、略奪まで横行しているそうです」
通常であれば上層部にこのような報告はされない。
しかし、スフィは今回の戦争に関してロイターに権限を渡している。自分がやれることは戦争ではなく、民間の援助と保護であると知っているからだ。
そして、戦争の悲惨さは民間にも色濃く表れる。
「避難民はどうなっていますか?」
「周辺国に逃げていますが、軍の大規模徴収で備蓄する食料を考えると他国の人間を構っている余裕はないでしょう。相当の餓死者は避けられないかもしれません」
「教団の備蓄庫の開放をして炊き出しを行っても難しいのですか?」
食料は生命を維持するためにも欠かせないものだ。
それらを保存する真・アステア教の一部の蔵を開けられるほどの権限をスフィは持っていた。
だが、責任も当然スフィにある。
他の司祭質にはあまり良い顔はされないだろう。
それでも行動できるのはスフィにも信じるものがあるからだ。
だが、そこまでしても、信者の表情が晴れることはなかった。
「そもそも避難民は大した物資を持って出てこれる状況ではありません。こちらが滞りなく動けても全員に行き届かせることは難しいかと」
スフィが紙にペンを走らせて印を押す。
「出来る限りはやりましょう」
食糧庫を開放する旨が書かれている。たとえ敵国の人間であったとしても惨劇を避けようとしていた。
そんなスフィの下に伝令が届く。
「ソリア様から連絡が参りました!」
「なんと言っていましたか?」
「ソリア様が率いる騎士団が神聖共和国に引き上げるそうです! またスフィ様と会見したいと申し出ています!」
場が騒然とする。
ソリアは複合軍のまとめ役を担う存在感があった。それだけに無断で引き上げることは反旗を翻していると思われても仕方ない。
だが、スフィは至って冷静に頷いてみせた。
「わかりました。ですが、マジックアイテムでの連絡はできないのですか?」
「それが……極力、スフィ様とだけ連絡をしたいとのことで」
「私とだけ?」
マジックアイテムを介さない理由はひとつだ。
盗聴の可能性を避けている。
「話した感じですと、とても深刻そうでした。それからもう一点ご報告があります。これは噂の範疇ですが……その」
信者が言い淀む。
「構いません。仰ってください」
「はっ……どうやらソリア様が引き返す直前、ジード様と思しき方とお話をしていたそうです」
「きゅ……ジードさんと?」
昔からのくせで救世主と言いかけて止める。
「さらに、申し上げにくいのですが……ジード様はウェイラ帝国になびかれたという話も聞き及んでいます」
周囲が訝しむ。
スフィの周りにいるのは信者であり、全員が屈強な護衛でもある。それぞれ信心深さ故に世捨て人となった身の上を持っている。
ギルドのAランクや、女流剣術の師範代、中堅国家で将軍まで務めたことのある人間もいた。
誰もが騙し討ちを現実的に想像できる経験を持つ。
それだけにソリアの言動には不信感を抱かねばならなかった。
そのことはスフィも承知しているが、彼らとは反対にソリアに対して全幅の信頼を寄せている。
「わかりました。現在のソリア様はどこにいらっしゃいますか?」
「おそらく中央山脈の横を越えたあたりかと」
「でしたらかなり近いですね。予定を開けておきましょう」
それから伝令の信者は部屋から退出した。
スフィが机に突っ伏す。
「お疲れですね」
老齢の女性が声をかける。
彼女も信者であり、歳を感じさせない凄腕の剣士である。
教団の復興の際に尽力しており、スフィの護衛として幾度も戦っていた。
「ジードさんがウェイラ帝国に付かれたって話を何回も聞いているので……このままで大丈夫かなって……」
「スフィ様がお認めになった救世主なのでしょう。でしたら正しい方向に進まれるはずです」
「ならウェイラ帝国に付いた話が本当なら? 私がジード様を追いかけるのなら、真・アステア教を抜けなければいけませんよ?」
「それでよろしいのでは?」
「えっ!」
あっさりと肯定されて驚く。
老女は信者でありながら、スフィに背信行為を勧めているのだ。
驚かないわけがない。
「スフィ様が迷って困って疲れて……その果てにジード様がいたのなら、付いていけばよろしいではないですか」
「それは……」
スフィが言葉に困る。
立場に執着はない。
権力や名声だって言わずもがな。
しかし、アステアを裏切るには人生の大半を費やしすぎていた。
けれど、ジードへの恩を仇で返すことも想像できない。
(どうしよう……)
スフィが迷っていると、卓上のマジックアイテムが反応を示す。
頭よりも大きな水晶の形をしている。それが紫色の置き座布団の上で、緊急を示す赤色で光っていた。
即座にスフィが魔力を通す。
「どうかしましたか?」
スフィの問いかけに水晶の向こうで血塗れの男が答える。
見知った顔であった。
「『アステアの徒』です! この戦争の裏でロイターが糸を引いてました! ウェイラ帝国の中枢で洗脳の大規模魔法を――!」
「……っ!」
紙がひしゃげるような不快音が水晶から届く。
向こう側の水晶が転がっているのだろう。視点が空や地面を映す。
その間に男の顔は映っていなかった。あったのは顔だった肉塊だけであり、凄惨な遺体が転がっていた。
男の奥には無数の死体が並んでいる。
どれもスフィが遣わせた調査集団だった。
下手人は一人しか見えないが、どこかに連絡をしているようであった。
「――今すぐロイターの全権限を停止させると各地に伝令を送ってください。また神聖共和国の首脳や、教団が助力を求めた国々と組織に対して連絡をしてください」
「「わかりました」」
あまりにも早い決断であった。
ここに至るまでにロイターの不審な言動を調査集団が報告していたからだろう。
それは信者たちの動きが早かったことからも分かる。
スフィが机の引き出しからマジックアイテムを取り出す。こちらも同様に水晶の形をしている。
(どうか繋がって……!)
スフィが願うように魔力を込める。
水晶が光る。
繋がった先はリフであった。
『久しぶりじゃの、どうした?』
事実上の敵対関係であったが、リフは旧友に街中で出くわしたような態度だった。そこに安心を感じるが、スフィが伝わりやすく、できるだけ早い言葉を紡ぐ。
「この戦争の裏にはロイターと『アステアの徒』がいます」
「知っておる」
リフの言葉に衝撃を受ける。
スフィとて万能ではない証であった。
なぜ、もっと早く連絡しなかったのか。
なぜ、もっとコミュニケーションを取ろうとしなかったのか。
スフィとて怠っていたわけじゃない。
むしろ休みもなく、睡眠時間を多く削って働いていた。
それでも戦争は誰かに任せてしまっていたのだ。
外交は複合軍や神聖共和国、教団の周囲で固めていた。
まだ、本格的な戦争は始まっていないから。
まだ、リフは忙しいだろうから。
たった一瞬でリフの脳裏に後悔と懺悔が浮かぶが、即座に切り替えられた。
「教団の信者に呼びかけて複合軍や神聖共和国に進軍の停止を頼みました。できれば私達で――」
だが。
「勝手なことをしては困る」
ロイターが部屋に現れる。
それもスフィのすぐそばであり、肩に手を置いたほどに近い。
扉や、転移魔法からロイター直下の部隊も現れる。
『ロイター!』
「お久しぶりです、ギルドマスター。そしてさようなら」
水晶が砕かれる。
それからロイターがスフィの方を向いた。
「おまえは聖女なのだから、人族に害をなすようなやつと話すな」
乱暴な口調だ。
もはや猫を被る必要もないと考えている。
「今回の戦争の発端はあなたなのですか?」
「正確には『アステアの徒』だ」
「――人族に害をなしているのはあなたじゃないですか!」
スフィの怒声と共に信者が動き出す。
彼らの剣を抜く速度や状況を把握する能力に、仮に達人が相手でも不足はない。油断さえなかった。だが、たった一人の男の影がぶれる。
スフィの信者全員に対して、ロイター直下で動いたのは、たった一人だけであった。
それだけで信者全員が地面に倒れ伏した。
「……なっ」
スフィの声が小さく響く。
――一人、倒れた影が動く。
老いた女性であった。
「左腕を犠牲に致命傷を避けたか」
ロイターが冷静に分析する。
老女は皮一枚でぶら下がっている左腕を勢いのまま投げ捨てる。
それから剣を持ってスフィの下に向かう。
間に精鋭が立ちはだかった。
が、女性の狙いは別の方にあった。
息のある信者はもう一人いた。
「……てん……い」
スフィの目に入ったのは女性の首が飛ぶところであった。
次の瞬間には神聖共和国の外にいた。
遠くから騎馬と馬車の駆ける音がする。
直感的に気付く。それがソリアたち騎士団のものであると。
信者の行動は正しかった。
たとえ自分たちが死んでも、最優先事項は権限のあるスフィを生き残らせることであった。
女性の決死の陽動。稼げたのは一秒にも満たないが、十分であった。
肺を突かれながらも息のあったもう一人の信者。
魔法では常人を凌駕した著名な使い手であったが、超高難易度である転移の届く範囲は広くない。しかし、判断は最上であった。
今までの会話から場所を想定して、託した先は神聖共和国最強の騎士団。
この間、3秒と少し。
戦闘の経験が乏しいスフィに即座の理解は難しいだろう。
ただ親しい女性の死に様だけは脳裏に焼き付けられた。慣れていることとはいえ、感情が死んだわけではない。
今まで蓄積した疲労やストレスも相まって、堰を切ったようにスフィの頬に涙が伝う。




