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「――講和が難しい? それは……でも」
ネリムが不満げな表情を浮かべる。
だが、そう告げた近衛騎士団長の片腕を見れば、自然と言葉の矛も収まった。
「言いたいことは分かる。もはや消耗戦だ。このまま続ければたとえスティルビーツに勝利しても再び帝国の侵攻を許すことになるだろう。魔族側にも怪しい動きがあるという情報が入ってきている。それに私の腕もなくなっていることだしな」
自嘲気味に笑っているが、利き腕が飛ばされているのだ。もはや戦場に立つことはできないだろう。
騎士にとって誇りを欠けたも同義だ。
救いとしては戦場で失えたという誇りがあることくらいか。
「……」
これからは無傷なネリムが戦場に立たされる回数も増える。
だからこうして伝えにきている騎士団長の苦しい心も推し量るものがあったのだ。
「スティルビーツの戦力は疑いようがない。ヘトアが大陸屈指の実力を持っていることだけでなく、一兵一兵に至るまでが精強だ。完全な勝利は途方もなく難しいだろう」
「それでも勝たなければいけませんか」
「アムリヤ王国は負けすぎた。頭に血が上っている者も少なくない。軍部も、内政官も」
「でも、妥協や撤退だって必要のはずです」
「そうだな。大敗はしたが滅んではいない。このままではアムリヤ王国の名前が地図から消えることになる。上を討とうとしている奴らまでいるらしいからな」
それは暗にクーデターの可能性を示唆していた。
混乱を極める情勢に、ネリムはため息をついた。
(もう戦うのは疲れた。みんな同じ考えのはず。スティルビーツの人達だってそう。きっと、あのヘトアだって……)
それは希望的観測に過ぎない。
だが、たしかに戦場には疲労と困憊の空気が充満しているのだった。
しばらくしても停戦や講和が訪れることはなかった。
こうして戦場は佳境に入ることになる。
さらに帝国がスティルビーツ側で参戦することを発表した。
本来であれば、それを食い止めるのが本国の内政官の役割だった。
あるいは同盟国に援軍を要請することだってできたはずだ。
だが、不当に過大な請求権を主張していたためにいたずらに信用を損ねていたアムリヤ王国にはできない話であった。
これで兵の数でさえも上回られたことになる。
(欲をかいた結果がこれか)
ネリムは若いが、傭兵として幾度となく戦場を回ってきた。
その経験から来る勘が、アムリヤ王国が滅びゆく定めにあることを悟っていた。
亡き父と兄のため、そして今も生きている母と姉のために戦っていた。できれば存続させたい。
達観にも似た無念の思いばかりが胸中にあった。
――鐘の音が鳴る。
スティルビーツの侵攻が始まった。
対帝国戦線の補充のため、アムリヤ王国が人員を割いた直後を狙ってのことだった。
ネリムのすぐ横の野営地が大規模な魔法によって炎に包まれる。
悲鳴が少数だったのは戦場に疲れていたのもあるが、襲い来る魔法によって悲鳴を挙げる余地すらなかったからだ。
ネリムは応戦するために前線に向かう。
ここでやれることは一つだけだ。
(ヘトアを止める――! たとえ数分だけでも……それだけでも数百の兵の命が救われる!)
それは決意だった。
ネリムが命を投げうつのはこれが初めてだった。
いかなる戦場であれ、その実力があれば逃走は容易いことだったからだ。
だが、ヘトアが相手ではそうもいかない。
死を覚悟していた。
「――!」
ヘトアが眼前に立っている。
悪魔か神か。
気圧されながらもネリムに後悔はなかった。
「――ッ!」
「――」
二人の剣戟には誰も近寄れなかった。
ここにきて一段とネリムの腕が増している。
今まで仲間への気遣いに回していた分の力も遠慮なく発揮することができた。
あまつさえ、ネリムはあまり使うことのなかった魔法を戦いに織り交ぜた。
それらも相まって、この戦場で初めてヘトアの衣服に切れ跡が残る。
「――すごい。天才ってやつだ」 数拍して、それがヘトアの声であると分かった。
「……」
素直な喜びがあった。
だが、ヘトア以上にボロボロな自分がいる。
その屈辱もあった。
「私はヘトア・スティルビーツ。この戦場で名前を刻もう。あなたの名前は?」
ヘトアが覚えてくれるというのだ。
この戦場に名前が残るというのだ。
ならばネリムに答えない道理はなかった。
「ネリム」
たった数日でネリムはヘトアに尊敬の念を抱いていたのだ。
これで死んでも悔いはなかった。
「戦えて光栄だった、ネリム」
黄金色の髪がたなびく。
ヘトアの剣が掲げられる。
たった一振りの剣であったが、不思議とネリムの目には幾つもの残像が見えていた。
「次の命があるのなら――あなたと共に戦いたい、ヘトア」
それが遺言であることは誰の耳にも明らかだった。
ネリムの方こそ光栄だった。
最後の相手がヘトアであることは誉れとなるだろう。
――さようなら。
告別の言葉を胸に秘める。
しかし、諦めたわけではない。
最後の一瞬まで目を閉じることはない。
剣を構える。
到底防ぎきれない一撃を迎え撃つために。
――鮮やかな音。
それはスティルビーツに伝わる楽器であった。
ネリムが何度も聞いていた合図である。
ヘトアの一撃が止まった。
「どうやら終わりみたいね、ネリム」
楽しそうにヘトアが笑い、周囲を警戒しながら去って行った。
「スティルビーツの撤退……どうして」
幻聴であるのか。
消えゆくヘトアの姿を見てもなお信じられない。
ネリムは構える剣を納められなかった。
◇
帝国が滅ぼされた。
そのニュースはヘトアが下がってからもたらされた。
しかし、帝国が滅ぼされたとしてもスティルビーツが撤退する要因にはなり得ない。援軍が期待できずとも、優勢に進んでいたのだから侵攻を続けるべきであった。
それでも撤退を決めたのは、人族同士での戦いを辞めなければいけないと悟ったからである。
魔王の誕生である。
(あの濁流の元凶は魔族だった)
帝国が一夜にして滅ぼされたのも同様の魔法が原因であった。
アムリヤ王国とスティルビーツ王国の戦線で使われたのは実戦投入前の実験だったのだろう。
それが人族側の結論だ。
何にせよ。
まもなくして女神アステアの神託を受けて勇者が決まった。
(勇者ヘトア……私からしてみれば必然だ)
戦場では無類の活躍をみせた
窮地にあっても人を救ってみせた。
敵にさえ敬意を払ってみせた。
ネリムに異存はなかった。
だが、ひとつだけ。
勇者ヘトアが指名したパーティーのメンバーだった。
「……――なんで私を剣聖に指名したんだろう」
剣聖ネリム。
史上最高と、これから何代にも渡って讃えられる剣聖の誕生だった。




